ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

親爺のこと(2) 東北人

2008-05-06 13:21:01 | ぶんやんち
父と息子という私的な関係を一般化していうことには多少の躊躇を感じるが、息子というものは父親のことをよく知っているようで、ほとんど何も知らないのに等しい。とくに内面的な事柄になると、まったくと言っていいほど分からない。正直にいって、まともに考えたこともない。とくにわたしの場合は、親爺は東北人で口数が少なく、数時間二人だけで過ごしても、ほとんど会話らしい会話が成り立たなかったように思う。それは、子どもの時だけでなく、成人してからもおなじことであった。わたしが知っている親爺の生き方や考え方はほとんどお袋のフィルターを通してであった、と思う。しかも、そのお袋にしても、何でも明解にしなければ落ち着かない性格であり、明白になったことは必ず口に出して話すのに、親爺のことになると、非常に断片的で、口ごもるところがあった。広島の呉で生まれ、小学生時代を台湾で過ごし、大阪で成人したお袋は、親爺にいろいろ聞きたかったことがあるったに違いないのに、少し遠慮があったのかも知れない。と言うよりも、親爺の方が自分の生い立ちということになると口ごもり、聞けない雰囲気を持っていたように思う。
親爺の人生ではっきりしていることは、22歳のとき、日本レスキューミッション吉岡伝道館で、1930年10月3日に、山崎亨治牧師から洗礼を受けたということである。何時、どういう動機で、教会に行き始めたのかということになると、はっきりしない。この日本レスキューミッションという団体は英国系の宣教団体で、日本では娼婦解放運動等、福祉活動に熱心で、後に分裂し、大阪に移転したグループは日本聖公会に、その他は東北地方に残り日本ホーリネス教団に加盟した。親爺は、その時どういう立場に立ったのかは明らかではないが、そのような状況の中で、受洗後2年の1932年11月に満州に渡っている。
親爺の生家は宮城県の黒川郡にあり、かなり大きな農家で庭には蔵も建っていた。母親に言わせると「苗字帯刀」を許されていた」ということで、地方の「名家」で、親戚には教育関係者が多く、小学校の校長を務めた国語学者もいたようである。
3人の兄と3人の姉との末っ子で、両親からも兄や姉たちからも「ともんちゃん」と呼ばれて可愛がられたらしいが、子どもの頃から病弱であったらしく、農業には向いていないと言われていた。それでも、村の小学校を出て、宮城県立の黒川農学校(現在の県立黒川高校)に入学している。おそらく、自宅から通える学校らしい学校はそこしかなかったのであろう。しかし、その農学校も2年で修了している(14歳)。卒業生名簿に親爺の名前はない。なぜ卒業しなかったのか理由は分からない。おそらく健康上の理由であったものと思われるが、そのために教師から、今でいう「いじめ」にあい、登校拒否が原因であったのかも知れない。
それから、約10年間、履歴の上ではブランクで、そのうちの数年は近くの町に出て警察署で雑務などをを手伝っていたようである。今で言う、アルバイトないしはフリーターである。その時に正義の番人の裏側をいやと言うほど見せられ、社会の矛盾を感じたらしい。
親爺にとって、故郷で過ごして24年間は決してハッピーではなかったようである。親爺がときどき話していたことのひとつに、そしてそれがキリスト教入信のひとつの動機にもなったと思われるが、村の生活における葬式と死後の埋葬のことがある。ここでの死は、汚れたもの、恐ろしいもの、忌み嫌うべきことであったという。もちろん、宗教学的な議論としてではなく、親爺の主観的な感覚である。親爺は、「ここでは死にたくない」と思っていたらしい。もっと、「美しい死に方がある」のではないか、言い替えると「もっと美しい生き方がある」はずだ、というのが宗教探求の動機であったのかも知れない。
ともかく、キリスト者になってから、文屋知之助の人生は変わった。病弱で引きこもりの田舎の青年が満州へ飛び出していった。

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