スピリチュアリズムに出会い
生き方が180度かわりました
シルバーバーチの霊訓を人生の指針としています
されど若し希望と恐怖が、
等しく事を調停するのであれば、
私の性質(こころ)は恐怖より希望を選ぶ。
ミルトンは苦手だが、こうした小さな珠玉を数多く発見する。
この一節はまさしくスピリチュアリストとして私がいちばん患者に授けてやらねばならないものだ。
すなわち希望である。
希望こそ環境に打ち克ち、無用の罪責感と死後への恐怖を取り除き、憤満と挫折感を和らげてくれる。
無知と迷信に代って、正しい知識と理解に基いた未来への希望があなたを救う。
私は患者からいろいろと教えられる。
心とからだの病に苦しむ男女に毎日のように接するということは、私にとって計り知れない価値ある体験である。
患者が病院を訪れる時、病気を治してくれる―少なくとも症状を和らげてくれる薬または治療を期待する。
その心理は私のような心霊治療家を訪れる時でも同じである。
病気そのものが少しでも良くなることを期待する。
つまり痛みが和らぎ、苦しい症状が何とか耐えしのげる程度になってくれることだけを期待する。
これは多分に、それまでの病院通いの体験から生まれる心理だと思われる。
一時しのぎでもいいからラクになりたいという心理である。
なぜその程度のことしか期待しないだろうか。
なぜ逞(たくま)しい健康を要求しないのだろうか。
健康であるということは地上の生命として自然な状態にあるということである。
そうでない状態はみな不自然なのである。
そして、他の多くの不自然なものと同様に、不健康状態は法則からの逸脱を意味する。
宇宙はきわめて単純な法則によって営まれている。
その法則から逸脱すると、そこに不幸と病が生じる。
だから病気も苦悩も神が授けるのではない。
人間の誤った生き方の産物なのである。
ところが人間は余りに多くの病苦を見慣れてしまったために、われわれはそれを人間生活につきものの、ごく当たり前で正常なことのように錯覚している。
赤ん坊を見るがよい。
健康でしあわせな生活を送る上で必要な能力と機能を十分に具えて生まれてくる。
それを誕生の瞬間から、いや、厳密に言えば胎内にいる時からすでに生理的にその正常な機能が歪められていることがある。
サリドマイド児がそのもっとも恐ろしい例だ。世界中で問題となったのも当然と言ってよい大変な問題である。
が、その他にも、あまり問題にされていない恐ろしい不自然な行為が横行している。
母乳で育てることを拒否する母親の出現がその一つである。
体形が崩れるとか、面倒だからとか、いろいろと理屈を言う。
理屈は一応筋が通るかに思えるが、そのもとを正せば、みな母親のエゴイズムから発したことばかりだ。
が、百歩譲ってそれを一応許すとしよう。
すると赤ん坊は本来は子牛が飲むべきミルクで育てられることになる。
その乳牛が食べる牧草には殺虫剤が使われている。
もしかしたら放射性物質によって汚染されているかもしれない。
あるいは乳牛には各種のホルモン剤や病気予防のための薬品類が多量に投与されていることだろう。
人間の赤ん坊がそのいちばん大切な時期を、そうした環境のもとで搾られたミルクによって育てられることの危険性を、その母親たちはどこまで認識しているのだろうか。
赤ん坊だけではない。
その後の離乳期から大人になるまでの食世活も恐ろしいほど不自然となり品質が低下している。
肉類は何年も前に冷凍されたものが解凍され、着色され、化学的添加物で加工され、見た目には新鮮で赤身が多そうに見え、しかも柔らかそうである。
その肉のもとになる食肉牛も恐らく不自然な環境で飼育されているに違いない。
薬と化学的添加物によって不健康に肥(ふと)らされているに相違ない。
そんなものを食して、果たしてあなたの身体にもそれらの不自然な物質が入らないと言えるだろうか。
小麦粉も、栄養よりもパンの製造の便利さを優先させて、徹底的に精白され漂白される。
天然の栄養は完全に取り除かれてしまっている。(最近では無精白粉も多く使用されている―訳者)
食料品は着色料、香料、その他の化学的添加物を使用し、乾燥冷凍などもする。
二十世紀の人類は、愚かにも、自分の胃袋に入れる食料よりも、車にいれる燃料の品質向上のほうに一生けんめいである。
頑健であるのが人間として自然であり、それを成就し維持するためには自然な食事を摂取しなければならない。
それに新鮮な空気と適度の運動と日光がいる。
さらに常に身体を清潔に保つ必要がある。
が、もう一つ大切なことは、なるべく健康のことを考えないことである。
あまり健康に気を配りすぎるのも、これまた病気を招く原因になりかねない。
あまり健康状態を口にしないほうがよい。
少々の不調や不快は気にせず、そのうちよくなると思うことである。
類は類を生む。
健康と幸せを心に思えば健康で幸せになる。
不幸と病気を思えば、みじめになり病気になる。
悪感情と悲観的な念は似たような感情を次々と生み出す。憎しみ、怒り、嫉妬、悪意、どん欲、仕返しの念は次から次へと子を生む。
その子の名前は悲劇であったり、不機嫌であったり病気であったり悲観主義であったり失敗であったり落胆であったりする。
からだの健康は心の健康と同じく生きる姿一つで変化する。
医学も、いずれは治療医学から予防医学へと進むであろうことは間違いない。
身体を治療するのではなくて、心の姿勢を正すことが医者の役目になるであろう。
健全なる精神―常に明るく積極的で楽天的な考え方をする心は、健全なるからだを作る。
本当の医者は教師でなければならない。
健康を保つ秘訣を教えてあげるのである。
病気になった身体を治すのではなく、病気にならないように指導することである。
今や知識は十分にある。
無数の人生の指導書があり医学的知識がある。
不足しているのは、それを実生活に応用する決意だ。
それをまず私はまず子供の世代に要求したい。
子供たちに死にまつわる愚かなタブーと病的思念と悪感情を持たせないようにしよう。
憎しみや敵意、妬み、偏狭の心を捨てさせよう。
じめじめした考えを捨てて進取的かつ楽天的に物事を考え、同時に自然法則の存在を忘れず、いかなる形にせよ〝不調和〟と言うものに拒否反応を示す人間に育てよう。
また健康で幸せであることこそ人間として当然の遺産であることを自覚した人間に育てよう。
そして各家庭に次の言葉を飾って、それを家族全員が心に刻みこむように心がけよう。
「神の如く汝もまた幸いなり」
私は学生時代のことはよく憶えていない。
もちろん学校へは通ったのだが、何だか当時のことが夢のような、あるいは何かの本で読んだ物語のような、他人事に思えてならない。
もちろん当時もAとかBとかの評価はあったが、最終的には大学進学ということが教師たちの〝目標〟だった。
要するに受験である。
学科の中では国語(英語)が得意だった。
国語の入試問題はいつも出典が決まっていて、私の時はミルトンの『失楽園』とシェークスピアの『あらし』だった。
私はもともとシェークスピアは好きだったが、ミルトンは苦手で、意味のわからないところが多かった。
でも入試ではスラスラと暗誦できて、今でも屋根裏部屋には国語だけは抜群の成績でパスした賞状が残っている。
そのためには私もミルトンを必死になって暗記したものである。
今でもその中からところどころの文章がふっと口をついて出てくることがある。
学生時代の勉強が無駄でなかったことを証明するために一、二節紹介してみよう。
人の心は、今おかれたその場で、
それみずから地獄を天国となし、
天国を地獄となす。
これは女性患者を治療した際に浮かんだ一節である。
その人は腰のあたりに激痛を覚える。
一か月入院してX線をはじめとする徹底的な診察を受けたが、どこにも異常は見当らなかった。
が痛みは本ものである。
本当に痛いのであるが、原因は精神的なものだったのである。
この方はお子さんにも恵まれ、経済的にも困っていない。
本人も「うちは決してお金持ちではありませんが、要るだけのお金はあります」と述べているほどである。
なのに一体何が不満なのか。
それは、家事に追われ、家に縛りつけられていることが不満なのである。
本当は外に出て働きたい。
大勢の人と触れ合いたい。
が、ご主人がそれを許してくれない。
「家を守るのが女の仕事だ」―そう言われて仕方なく買物と料理と掃除と洗濯と育児の毎日を送っている。
その欲求不満が痛みを惹き起こしているのだった。
私のところへ来て治療を受けると、その時は完全とまではいかないが殆んど痛みらしい痛みを感じないまでになる。
が帰宅して二日もするとまた痛みがぶり返す。
ミルトンが言うように彼女の心が〝それみずから天国を地獄となし〟ているのだった。
こうしたケースは決して珍しくない。
少なく見ても訪れる人の半数が、自分の置かれた環境に対する不平不満からどこかに痛みを覚えている。
それを助長するのが取越苦労と罪悪感である。
既成宗教のほとんどが罪と罰の恐ろしさを説いている。
善い行いは報われ、悪いことをすると神が罰を与えると説き、その原理に基いて善と悪の基準をこしらえている。
ところが実際にはその掟に背いた者が必ずしも不幸になっていない。
中にはむしろのびのびと生き甲斐ある人生を送っている者がいる。
そこで宗教家は因果応報は死後に精算されるのだという言い逃れをする。
教義に忠実に従っておれば死後に永遠の生命を授かり、背いた者は永遠の天罰を受けると説く。
英国ではこれが子供時代に教え込まれる。
公立小学校の教科書には聖者や祈祷書からのそれに関する引用が盛り込まれている。
「ですから、皆さんも良い行いをしましょう。
そうすれば死んだ時に天国に召されます。
もし悪いことをしたら罰として地獄へ送られ、永遠の苦しみを受けることになるのです」という結論になる。
むろん生長するにつれて理性的判断力が出てくる。
もっとあか抜けした哲学に触れるチャンスもある。
死後について、永遠の生命について、あるいは因果律について、その真相に目覚める人もいる。
が大半の人は心の奥に子供時代に吹き込まれた永遠の罰に対する恐怖と罪の意識と、それはどうしても避けられないのだという観念が巣くっているのである。
家庭の主婦がもしも自分の生涯の仕事は家事だと思い、夫に尽くすことだと思い、それ以外のことをすることは悪であると思い込んでいるとしたら、その観念はやがて心理学でいう罪責複合(無意識の罪責感)を生む。
これは魂を蝕む恐ろしい観念である。
みずからの心に地獄をこしらえる。
それがまず心の病を生み、それが身体の病気へと発展していく。
その病気の種類は数え切れないほどである。
患者を一、二度治療して何の変化も見られない時は、私はその人の置かれた環境について質問してみる。
すると挫折感、不満のタネ、憤満、取越苦労、罪悪感、等々が浮かび上がってくる。
これだ、と私は睨む。
本当の治療はこれらの心理的要因を取り除くことにある。
つまりその患者にとって本当に必要なのは人生哲学であり、霊的真理の理解なのだ。
そこで私は霊の世界の話を持ち出す。
そういう世界、そういう真理があることを指摘したあと、その世界の存在を明らかにしてくれた先覚者、書物、道標を紹介する。
患者は人生に希望の灯を見出す。
その灯が迷信を生んだ他愛ないタブーや罪の意識を駆逐していく。
日常的な例では、自分自身には厳寒の厳しさをもって律しても、他人には温かい寛容と忍耐心をもって臨む。
その選択の瞬間に神の啓示のチャンスがある。
因果律は絶対に変えられない。
歪げることも出来ない。
無視することも出来ない。
このことをしっかりと認識し、自分の道義心に照らして精いっぱい努力し、困難を神の試練と受け止め、ここぞという神の啓示の瞬間には、たとえ金銭上には得策でなくても、道義的に正しい道を選ぶことである。
生まれた土地、時代、遺伝的特質、人種―こうしたワク組の中で、あなたにも自由意思が与えられているのである。
この観点から言うと、リンカーンの例の有名なゲティスバーグ演説は間違っている。
全部は無用だから問題の箇所だけを引用しよう。
「八十七年前われらが建国の父たちは、自由の理念の中に育まれ人間はみな生まれながらにして平等であることを旗印とした新しき国家を、この大陸に建設したのである。」
政治理念としては極めて健全である。が前提が間違っている。
人間は生まれながらにしてみな平等ではないからだ。
霊的進化の程度において、われわれは一人一人みな違う。
見た目には似通っていても、一人は霊的意識も発達し思想的にも大人であるが、もう一人は動物的で未熟で霊的に子供であるという場合もある。
二人はそれぞれの程度に応じた勉強のためにこの世に来た。
一人はもうすぐ宇宙学校の大学課程へ進めるところまで来ているが、もう一人は地上という幼稚園でさえまだ手におえないだだっ子かも知れない。
二人は断じて生まれつき平等ではないのである。
また一人は五体満足で、もう一人は何らかの障害を生まれつき背負っていることだってある。
一方は音楽の天才で、他方は音痴ということもあり得る。
絵を画かせると一方は素晴らしいものを描くが、他方はまっすぐな線すら描けないかもしれない。
一方はオーケストラの一員になり、他方はオモチャのドラムもまともに叩けないかも知れない。
一人は霊的な仕事に携わり、他方は徹底した俗人として生きるかも知れない。
英国の歴史家フルードは「人間は生れつき不平等である。
従って、あたかも平等であるが如く扱おうとしても無駄である」とはっきり断言している。
その通りなのだ。
完全な平等など絶対あり得ない。
生まれついた環境が違い、遺伝因子が異なり、霊的進化の到達度に差がある。
多分リンカーンが平等だと言ったのは、権利の行使において平等の機会を持っているという意味で言ったのだろう。
だが、これとて現実とは違う。
生まれつき原始人的性格と才能しか恵まれていない人間と、知的にも霊的にも発達した人間とでは、おのずから携わる仕事は違ってくる。
一方は場で働くことになり、本人も別にイヤとも思わないかも知れない。
他方は地上体験の最後の仕上げのための奉仕の生涯を送り、一国の命運を左右するほどの神の啓示に浴するかもしれない。
二人のどこに平等があろうか。
人間は決して生まれつき平等ではない。
かつてもそうだったし、今でもそうである。
それを、無理してあくまで平等であるとの前提のもとに事を進めると、いわゆる悪平等となり、人類全体の程度を最低線まで下げることにもなりかねない。
人間は生まれつき平等ではない。
また機会も均等ではない。
となると、一体あとに残るものは何か。
すでに述べたように、われわれはこの地上に自分の意志による選択のもとにやって来た。
このことをしかと認識していただきたい。
一度だけではない。
すでに何度もこの世を経験している。
その目的は、その時その時の進化の程度に応じて最も適切と判断した環境に生を享けている。
そこで必要な体験を得るためである。
地上の人間には二つの大きなハンディキャップがある。
一つは無明または無知、要するに真理を悟れずにいることである。
この世に来るのはその悟りに向けて必要な体験を積むためである。
無明から解説するまではそのハンディキャップによる障害は避けられない。
もう一つは肉体的制約である。
頑健で元気いっぱいの身体を持って生まれる人もおれば、生まれつき虚弱児だったり、奇形児だったり、障害児だったりする。
肌色も違えば背丈も違う。
その身体をコンピューターのような素晴らしい頭脳が操る場合もあれば、精神薄弱児だったりする。
が、そうした様々な条件下において、自分は自分なりに最善を尽くすこと―霊的に、知的に、そして身体的に自分に具わったものを最大限に活用すること。
それが地上に生を享けたそもそもの目的であり、そこに地上生活の意義がある。
全ての人間は、その点においてのみ平等と言える。
なぜなら、それ以外に地上生活の目的も意義もないからだ。
あなたの人生の長さ―寿命―は、あなたが地上へ再生する時点においてすでにわかっている。
教育と同じで、学校を選んだ時点で、その学校の入学と卒業の時期があらかじめ定まっている。
もしも寿命が来ないうちに切り上げたら、その分の埋めあわせにもう一度戻って来ないといけない。
教育のたとえで言えば、健康か何かの理由で長期欠席したとしよう。
学ばねばならないことがたくさん残っている。
そのままでは卒業させてもらえない。
そこで欠席した分だけ期間を改めて学校へ通わなければならない。
自殺するのに勇気はいらない。
自殺は実は臆病者の取る手段である。
挫けず生き通すことこそ勇気がいるのである。
しかも自殺は何の解決にもならない。
霊界へ戻ってみると、地上でやることにしていた仕事が残っていることを知る。
多分あなたが選んだコースは少しあなたには負担が大きすぎたのかも知れない。
が、それをあなたが自分で選んだのである。
選んだ以上、あくまでやり通すべきだった。
あなたはそれから逃避した。
そのままでは霊的進化は達成されない。
達成するには残してきた仕事をやり遂げねばならない。
といって肉体はすでに無い。
埋葬されて腐敗したかも知れないし焼却されたかも知れない。
あなたは指導霊と相談する。
その結果もうあと二、三年で必要な体験が得られると判断する。
そこでこんどは夭折(若くして亡くなる)する運命のコースを選ぶ。
これで死が罰でもなく、また全てを解決するものでもないことがおわかりであろう。
もう一つ次元の違う世界へ行くだけの話である。
学校を卒業して大人の世界へ入る。
その卒業式のようなもので、あなたもいずれは死という卒業式を迎えて、より大きな人生へと進まねばならない。
今の例でもわかるように、ほんの短い地上生活しか必要でないスピリットがいる。
それは、今の例のように完全に終了しなかった人生を完成するための場合もあれば、
すでにかなり霊的進化を達成し、地上での勉強をあまり必要としないケースもある。
特に高級霊が幼児のうちに他界するというケースが多い。
そういう運命を選んだ子供にあなたも会ったことがあるはずである。
幼いうちからしっかりしており、しかも美しさと上品さが輝いて見える。
だから、幼い子供を失った親は決して悲しむことはない。
そういう子は純粋さ故に、大人が大人であるが故に持つ数々の不純さを避けていると思われるふしもある。
事実、死後地上と交信する上で子供の方が大人より有利なのである。
その子の死を悲しみ嘆くことは、その子にとってもあなた自身にとっても、何の益にもならない。
涙を拭って自分にこう言って聞かせることだ―わが子はいつも身近にいてくれている、と。
きっとあなたの来るのを待っているはずである。
『ピーターパン』の著者ジェームズ・バリーが「死ぬということは素晴らしい冒険である」と述べているが、まさにその通りだ。
どんな楽しいことが待っているかわからないからである。
妊娠中の母親はいろいろと考える。
必ずしも食べ物のことばかりではない。
もっとも、食べることに関しては異常になるようだ。
私の妻などは真夜中に起きてフライを山ほど揚げる。
そしてイザ食べる段階になって気分が悪くなり、せっかく揚げたものを全部捨ててしまうといったことを何回かやった。
お腹に子供がいると母親はその子に夢を託し、いろいろと将来を思う。
が予定日が近づくと考えが変わってくる。
男の子でもいい。
女の子でもいい。
目は青でも茶色でもいい。
背は高くても低くてもいい。
色は白くても黒くてもいい。
どうか五体満足の子であってほしいと思うようになるものだ。
その願いが必ずしも叶えられるとは限らないようだ。
不具の子(障害をもった子)が生まれることが現実にあるからだ。
この事実をどう受け止めるべきか。
親はまず罪の意識にとらわれる。
何がいけなかっただろうか。
自分たち親に何か欠陥があるのだろうか。
こうした意識を生涯抱き続けている親がいる。
そしてその生涯は聞くも涙の物語となる。
悔恨と過剰な罪の意識がそうさせるのである。
生命の誕生は実に驚異と言うべき現象である。
私がそれを〝驚異〟という時、私の心にあるのは,よくも五体満足で次々と生まれてくるものだという感慨である。
が中に五体満足でない子供がいる。
次に紹介するのはその不幸な例である。
数年前、知人の家に女の子が生まれた。
二人目の子である。
最初は男の子で、頑健そのものだった。
女の子も五体は満足で、青い目のブロンドだったが、脳に欠陥があった。
出産の途中でほんのわずかな時間だったが酸素が不足し、それが原因で脳細胞の一部が死んだのである。
どうも反応の仕方がおかしいと気づいた親は小児科へ連れていった。
小児科医は徹底した診察と検査を行い、さらに脳の専門家の意見も聞いた上で次のような気の毒な診断を下した。
この子は身体的には正常に成育するが知能的にはこれ以上発達せず、恐らく植物人間としての生涯を余儀なくされるであろうと。
親にとってこれほど惨(むご)い話があるだろうか。
その夫婦はその子を連れて私のところへ来た。
さっそく霊的な診察に入ったが、とたんに私は「この子を大事にしなさい」と口走った。
無意識のうちに出た言葉だったが、私には指導霊が言わせたものであることは分っていた。
続けて私はこう言った。
「この子に愛情を注ぎなさい。
存分に注いでやりなさい。
心霊治療も定期的に受けさせてやって下さい。
どの程度よくなるかは今の段階では言えませんが、知能を持った子になります。
大切に、愛情をもって育てなさい」その子は名前をサラという。
今では六歳になった。
障害児施設に通っているが、愉快で愛らしい子である。
その後もう一人の健康な男児を出産した母親は、三人のうちでサラがいちばん愛情を覚えるようですと語った。
母と娘の間に普通以上の縁が出来あがっているのである。
おそらくサラはまともな成人にはなれないであろう。
が、サラはサラなりに一個の立派な人格の持主なのだ。
もっとも、ここまで来るまでには、その子が深刻な悩みのタネとなった時期があった。
サラが四歳を迎えるころには母親は心身ともに疲労の極にあった。
痛々しいほど痩せ細り、、食事がまともにノドを通らない。
確実に病身になりつつあった。
医者の診断ではどこにも異常はなかった。
ありとあらゆるテストと検査をしてもらったが、すべてマイナスの反応だった。
が、ついに入院のやむなきに至った。
その段階で初めて私はご主人から奥さんの窮状を知らされた。
依頼を受けて私はすぐさま病院へかけつけた。
見ると痛々しいほど痩せて、気味悪ささえ感じるほどほどだった。
まだ三十代であったが、見た目にはまさしく老婆だった。
が私の心霊治療を受けてから急速に快方に向かい一週間後には退院し、一か月後にはすっかり元気で明るくなり、食事も進み、体重も増えてきた。
ここにもう一つの人生がある。
まだその全ては分らない。
これからどうなるか分らない。
が、そういう子にも、その子なりの人生があるのだ。
意義ある人生が。
不具の子、障害を持った子にも例外なく完全なる霊が宿っている。
ただ、宿った身体が不完全だったにすぎない。
その子は、そういう不完全な身体に宿った人生を自ら選んだのである。
自らこしらえた牢獄といえるかも知れない。
そういう人生でないと得られない教訓があるのだ。
またその両親を始めとして兄弟、姉妹、その他その子と縁のある人々にとっては、そういう子との接触が必要だったのかもしれない。
あるいは、高級霊がさらにいっそうの進化のために敢えて障害者としての人生という過酷な試練の道を選んだのかもしれない。
いずれにせよ、すべてに目的がある。
時としてそれがわれわれ人間には分らないことがある。
が、それでも全ての人生にそれなりの意義があるのだ。
あなたがこの世で送る人生は、あなた自身が自分の教育にとって必要とみて選んだのである。
仲間のアドバイスや援助はあっても、最終的には自分で選んだのである。
従って責任はすべて自分にある。
苦難に直面したり病気になったり大損害を被ったりした人は私にこんなことを言う。
「私はなぜこんな目に遭うのでしょうか。
私はまじめに生きて来たつもりです。
人を傷つけるようなことは何一つした覚えはありません。
なのに、なぜこんな苦しい目に遭わねばならないのでしょう」と。
実はその苦しみがあなたにとっての教育なのである。
溶鉱炉で焼かれる刀はそれを好まないかもしれない。
が、そうやって鍛えられてはじめて立派な刀となるのである。
苦しみ悩んではじめて霊的に成長し、苦難を乗り越えるだけの力が身につくのである。
不平を言う人とは対照的に、苦しみを神の試練と受けとめて感謝する人もいる。
苦難こそ自分を鍛えるのだと心得て、そうした試練を受けられるようになった自分をむしろ誇りに思うのである。
要するに地上生活は勉強なのだ。
人生が提供するさまざまな難問を処理していくその道程においてどれだけのものを身につけるか。
それがあなたの霊的成長の程度を決定づけるのであり、さらにどれだけ高度なものに適応できるかの尺度ともなるのである。
人間にはある限られた範囲内での自由意思が許されている。
が、この自由意思と宿命については、とんでもない説が行われている。
まず一方には東洋の神秘主義者が主張する徹底した宿命論がある。
人生はすでに〝書かれてしまっている〟―つまり人の一生はその一挙手一投足に至るまで宿命的に決まっており、どうあがこうと、なるようにしかならないのだと観念して、乞食同然の生活に甘んじる。
もう一方の極端な説は何ものをも信じない不可知論者の説で、何でも〝自分〟というものを優先させ、他人を顧みず、人を押しのけていく連中である。
物事の価値をすべて物質的にとらえ「これでいいんだよ、きみ」とうそぶく。
両者とも真理をとらえそこねている。
まず宿命について考えてみよう。
あなたは白人か黒人か、それともアジアの黄色人種であるかは知らないが、いずれにせよ、その現実は変えようにも変えられない。
両親の系統の遺伝的特質も少しずつ受けついでいる。
これもどうしようもない。
また、あなたはこの二十世紀に生を享けた。
できることなら十六世紀に、西洋のどこかの王室の子として生まれたかったと思うかも知れない。
が、それもどうしようもない。
そうした条件のもとであなたは今という一つの時期にこの世に生を享けている。
寿命の長さも定まっている。
どんな人生を送るか、その大よその型も定まっている。
また苦難の中身―病気をするとか、とんでもない女(男)と結婚するとか、金銭上のトラブル、孤独、薬物中毒、アルコール中毒、浮気―こうしたこともみな、あらかじめわかっている。
あなたがいよいよ母体に入って子宮内の受精卵に宿った時、それまでのスピリットとしての記憶がほぼ完全に拭い去られる。
ただし地上生活中のある時期にかならず霊的自我に目覚める瞬間というのがある。
これもわかっている。
そうした総合的な鋳型の中にあっても、なおあなたには自由意思がある。
宇宙は因果律という絶対的な自然法則によって支配されている。
従って自由意思はあっても、その因果律の支配からは逃れることはできない。
水仙の球根を植えれば春には水仙の花が咲く。
決してひまわりやチューリップは咲かない。
自分の指を刃物で切れば血が出る。
それもどうしようもない自然法則である。
科学も哲学も生命そのものも、この因果律という基本原理の上に成り立っている。
それが地上生活を支配するのである。
大切な行為にはかならず反応がある。
あなたの行為、態度、言葉、こうしたものはいわば池に投げ入れた石のようなもので、それ相当の波紋を生じる。
さきに私は地上に生まれるに際して霊的記憶が拭い消されると言ったが、実際はわずかながら潜在意識の中に残っているものである。
それが地上生活中のどこかで、ふと顔をのぞかせることがある。
その程度は人によって異るし、霊的進化の程度にもよる。
たとえばひどい痛みに苦しんでいるとする。
かりに骨関節炎だとしよう。
これが医学では不治とされている。
さんざん苦しんだ挙句に、ある心霊治療を知って奇蹟的に治った。
嬉しい。
涙が出る。
感謝の念が湧く。
実はその時こそあなたが真の自我に目覚めた時である。
この機に、その感謝とよろこびの気持でもって自分に奇蹟をもたらしてくれた力は一体何なのか、人間はどのように出来あがっているのか、信仰とは、幸福とは、といったことを一心に学べば、その時こそあなたにとって神の啓示の時なのである。
こうした体験はそうやたらにあるものではないが、もっとよくある例としては、仕事の上で右と左のどっちを取るかに迷っている時が考えられる。
道義的には右をとるべきだが、そうすると金銭上は大損をする。
左を取れば確実に儲かるが、それは人間として二度と立ち戻れない道義的大罪を犯すことになる。
といった場合もあろう。
神の啓示に耳を傾けるか否かの決定的瞬間がそこにある。