寬喜4年(1232)正月19日の朝、明恵上人は栂尾高山寺内の禅堂院で亡くなった。御年六十。禅堂院は明恵上人の修学の場であり住房でもあった。序はこの朝の描写から始まる。 本書は、明恵上人に37年仕え、一日も離れず身のまわりの世話をした従者イサが目にし、記憶する明恵上人を回想するという形で綴られた伝記風小説である。書き下ろし作品として、2023年1月に単行本が刊行された。
内表紙の次のページに
あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月
という歌が載っている。
さらに「弟子たちは皆それぞれ好きな師のお歌があるのだが、わたしはなんといってもこの歌につきる」(p154) という一文のつづきにこの歌が載る。わたしとはイサのことである。「あかあかや明恵」という本書のタイトルはこの歌に由来する。
明恵に37年仕えたイサと称される従者は著者のフィクションなのだろう。だが、明恵に身近に仕えた人々が常に誰かいたことは事実だと思う。上人の臨終まで仕えたイサという従者を設定することで、明恵の生涯を一貫して第三者が回想するストーリーを描くことができたのだと思う。
この小説を読み、明恵の生き様を端的に表現する言葉は「阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)」だと思った。明恵は己の住房に日々の心得を列挙した紙を貼り、その冒頭にこの言葉を記したという。この言葉の意味についてイサが師に尋ねた時に、著者は次の様に明恵に語らせている。
「『あるべき様』とはな、イサ。自分にとってのあるべき様、あるべき姿ということだ。つまり、自分のあるべき生き方、どうあるべきかを自身で深く考え、日々それを自覚して生活するという意味なのだ」(p115)
「言っておくが、けっして『あるがまま』とか『ありのまま』という意味ではない。自分の地のまま、野放図に勝手気ままにすればいい、などと勘違いしてはならぬぞイサ」(p116)
「自分のあるべき様を知ることは、自分自身が恥じるべきことは何か、を知ることでもある。恥を知る。恥じぬように生きる。人に褒められ認められるより、その方が実はむずかしい。師はよくそうおっしゃった」(p117)と。
この「阿留辺幾夜宇和」と表裏一体をなし、イサが繰り返し師から口癖のように聞いた言葉として、「仏法修行は、気穢(けきたな)き心あるまじきなり」(p118)が回想されている。明恵が確信していたことだそうである。つまり、「私は後世助かろうと考える者ではない。ただ、現世でまず、あるべき様であろうとする者だ」(p118)
この小説を読んで思ったのは、明恵が生涯己はただの修行僧であるということに撤しようとした人だということ。ストーリーの中に、当時の諸宗派の寺々が現世利益と立身出世の欲で堕落していた実態が織り込まれている。明恵は神護寺復興に邁進する文覚上人に請われ、華厳教学の教導のために、神護寺に入るのだが、神護寺内の俗化を嫌い飛び出し、文覚上人に請われて戻るということをくり返している。明恵は常に寺の堕落した実態と一線を画そうとした。「高山寺は釈尊の時代の修行者の集団生活の場僧伽(そうぎゃ)で、自分はその一員」(p122)と自己規定した生き様だったようだ。
第一章は、23歳の明恵が紀州の白上峰の庵で、夏に己の右の耳を切り落とすという衝撃的な行動にでた場面から始まって行く。その半年前にイサが8歳の時、イサはこの庵の前に捨てられた。それ以来イサは明恵のもとで仕え始める。半年後の夏にこの事件に直面する。イサは必死に明恵の世話をし、明恵に仕える意志を強めていく。明恵はイサに文字を教え始める。
このストーリー、明恵の人生の期間軸を一部前後させながら、イサの回想が進展していく。
明恵上人が見た夢の記録を『夢記』として残した事実は以前から知っていた。この小説の特徴の一つとして興味深いことは、明恵のみた夢と明恵の人生の変転との関わりがかなり色濃く織り込まれながら、イサの回想が進んで行くところにある。お陰で明恵が書き遺した『夢記』を読んでみたくなってきた。
この小説を読んで、断片的にしか知らなかった明恵上人の遍歴を大凡ながら理解できた。峻烈な修行僧としての自覚と実践の姿に一歩近づけるイメージを抱けたと思う。
学んだことをいくつかご紹介してみよう。
・9歳で初めて神護寺に上る。
・16歳で叔父の上覚房について出家得度。東大寺の戒壇院で具足戒を受け正式の僧に
東大寺で倶舎論、仁和寺で華厳教学を学ぶ
鳥羽天皇から神護寺に奉納された一切経の聖教類を読み耽る
・18歳で上覚房から真言修法の最初の十八道を伝授される。『遺教経』に出会う。
・19歳で勧修寺の理明房興然から密教の金剛界の伝授を受ける。
仏眼仏母如来を自分の本尊とし、毎日二時、仏眼法を修し始める。
これが明恵上人の若き時代の修行遍歴である。
また明恵は2回、天竺へ渡ろうと計画したことがあるという。この経緯もおもしろい。
神護寺の別院で栂尾にあった十無尽院という小堂を明恵らが修行の場とする。後鳥羽上皇に願い出て、寺名を「高山寺」と名付けた。「日出て先ず高山を照らす」釈尊が悟りを開いて初めて説いた華厳の教えをこう譬えるそうである。そして、朝廷から正式に「日出先照高山之寺」の勅額が下されたという。本書で寺名の由来を初めて知った。
いくつか興味深い箇所がある。一つは、承元4年(1210)の夏、明恵が建仁寺に栄西和尚を訪ねた場面が描かれている。このとき、栄西和尚が茶を明恵に伝えたそうだ。栄西は明恵に『喫茶養生記』の草稿を贈ったという。栄西から得た茶の種をイサが栂尾山で栽培する苦労も描かれる。栂尾茶の始まりである。
おもしろいのは、明恵が「栂尾の上人と尊敬されても自分はただの修行僧。終生そう撤していた」(p122)という生き様に対して、「栄西和尚はその対極にあるようで、その実、根っこの部分の信念を貫く生きざまはおなじなのかもしれない」(p122)とイサに回想させている点である。
禅思想は、既に奈良時代に入っていて、禅院が存在したということも本書で知った。
もう一つは、明恵上人が法然上人に対する反論書を記したという事実だけは知っていたが、その経緯は知らなかった。建暦2年正月に法然上人がなくなった。その秋9月に、明恵上人は宜秋門院から法然著『選択本願念仏集』一巻をいただいたという。そして、それを読むや邪見の書と怒り、『摧邪輪(ざいじゃりん)』を反論書として2ヵ月ほどかけて記した。さらに『摧邪輪荘厳記』を著したという。本書にその要点が簡略に述べられている。だが、その反論の内容を一歩踏み込んで知りたくなってきた。
後鳥羽上皇の引き起こした承久の乱の余波として、高山寺のある栂尾山に敗残兵が落ちのびてくる。その際の明恵上人の対応がこの小説での最後の山場になっていく。最終的に明恵上人が北条泰時と対峙することになる。こういう状況が歴史の一コマとしてあったということを想像もしていなかった。明恵の生き様を感じる読ませどころとなっている。
北条泰時が執権職を継いだ後、高山寺に丹波の大荘園一ヶ所を栂尾に寄進する申し出をしたという。明恵上人は直ちにこれを峻拒されたそうだ。明恵上人のスタンスを彷彿と感じさせるエピソードだ。
本書末尾の終わり方が実によい。そう感じた。
最後に、本書から印象に残る文を引用してご紹介しておきたい。
*イサ、自分の心で考えよ。自分の心を深く知れ。
気持や感情といううわべのものにふりまわされるのではなく、自分の心の奥底にひっそりと、だが確かに存在するものはなんなのか、いや、そもそも心とはなんなのか。自分にとっての真実はなんなのか。それを考えよ。
それがわかってくれば、自分がなんのために生きているのか、おのずと見えてくる。迷いがなくなる。それゆえの苦しみが消える。心がすべてを決める。 p96-97
*やがて「喫茶去(きっさこ)」ということばも知った。唐代の禅僧のことばで「まあ茶でも飲んでのんびりなさい」という意味だと皆は解したが、実は「茶を飲んで、頭がすっきりしてから出直せ」、つまり「ぼやぼやするな、しゃきっとせい」という叱咤なのだ。 p128
*もろともにあはれと思へ山桜 花よりほかに知る人もなし 行尊大僧正
モロトモニアハレトヲボセワ佛ヨ キミヨリホカニシル人モナシ 明恵上人 p149
*西行法師は花の歌人、明恵さまは月の歌人だ、と禅上房さんはいうのだ。 p152
*師は出家者にとって草花を愛しすぎるのは妄執につながり、修行の妨げだと、あえて封じておられたのではないか。寝食を忘れるほどのめり込んでいた歌を自ら禁じたのと同じなのではないか。
それでも花を見つけて心奪われ、時を忘れて見入ってしまう、そんな自身に煩悩を断ち切れぬ弱さを思い知らされ、愕然とする。そんなことのくり返しではなかったか。道心のないわたしにすれば、そういう明恵さまの人間くさい葛藤が好きだったのだが。 p153
*月が心を映す鏡などというのは、違うとおっしゃるのだ。真に心が澄んでいれば、月に託す必要はない。月の風情などかりそめにすぎない。ただ方便だとおっしゃる。心を澄ますためには、厚い雲に覆われて月が見えない闇夜のほうがいいとまでおっしゃるのだ。 p154
*ひとは死ぬ。だが、死んでも他者の心の中で生きつづけることができる。生者と思いを共有することができる。 p227
*今は仏の教えも本来の仏の教えではなく、俗世間の法も本来の法ではない。見るにつけ聞くにつけ、そればかり気にかかるが、しかし、それに心を留めて悩むのは執着であり、すべきことではない。それゆえ、今が死ぬのによい時である。死ぬことは、今日が終われば明日へ続くのと違いはなく、ひとつづきなのだ。 p233
ご一読ありがとうございます。
補遺
栂尾山 高山寺 公式ホームページ
国宝 明恵上人樹上坐禅像
明恵上人歌集 :「e國寶」
仏遺教経(現代語訳) :「洞松寺住職ブログ」
高山寺の仏眼仏母像(国宝) :「京都国立博物館」
仏眼仏母 :ウィキペディア
宝山寺仏眼仏母尊像 :「生駒市デジタルミュージアム」
仏眼法 :「国文学研究資料館」
摧邪輪 :ウィキペディア
摧邪輪 :「Web版 新纂 浄土宗大辞典」
摧邪輪荘厳記 :「Web版 新纂 浄土宗大辞典」
重要文化財 明恵上人夢記 :「e國寶」
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「遊心逍遙記」に掲載した<梓澤 要>作品の読後印象記一覧 最終版
2022年12月現在 7冊
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あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月
という歌が載っている。
さらに「弟子たちは皆それぞれ好きな師のお歌があるのだが、わたしはなんといってもこの歌につきる」(p154) という一文のつづきにこの歌が載る。わたしとはイサのことである。「あかあかや明恵」という本書のタイトルはこの歌に由来する。
明恵に37年仕えたイサと称される従者は著者のフィクションなのだろう。だが、明恵に身近に仕えた人々が常に誰かいたことは事実だと思う。上人の臨終まで仕えたイサという従者を設定することで、明恵の生涯を一貫して第三者が回想するストーリーを描くことができたのだと思う。
この小説を読み、明恵の生き様を端的に表現する言葉は「阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)」だと思った。明恵は己の住房に日々の心得を列挙した紙を貼り、その冒頭にこの言葉を記したという。この言葉の意味についてイサが師に尋ねた時に、著者は次の様に明恵に語らせている。
「『あるべき様』とはな、イサ。自分にとってのあるべき様、あるべき姿ということだ。つまり、自分のあるべき生き方、どうあるべきかを自身で深く考え、日々それを自覚して生活するという意味なのだ」(p115)
「言っておくが、けっして『あるがまま』とか『ありのまま』という意味ではない。自分の地のまま、野放図に勝手気ままにすればいい、などと勘違いしてはならぬぞイサ」(p116)
「自分のあるべき様を知ることは、自分自身が恥じるべきことは何か、を知ることでもある。恥を知る。恥じぬように生きる。人に褒められ認められるより、その方が実はむずかしい。師はよくそうおっしゃった」(p117)と。
この「阿留辺幾夜宇和」と表裏一体をなし、イサが繰り返し師から口癖のように聞いた言葉として、「仏法修行は、気穢(けきたな)き心あるまじきなり」(p118)が回想されている。明恵が確信していたことだそうである。つまり、「私は後世助かろうと考える者ではない。ただ、現世でまず、あるべき様であろうとする者だ」(p118)
この小説を読んで思ったのは、明恵が生涯己はただの修行僧であるということに撤しようとした人だということ。ストーリーの中に、当時の諸宗派の寺々が現世利益と立身出世の欲で堕落していた実態が織り込まれている。明恵は神護寺復興に邁進する文覚上人に請われ、華厳教学の教導のために、神護寺に入るのだが、神護寺内の俗化を嫌い飛び出し、文覚上人に請われて戻るということをくり返している。明恵は常に寺の堕落した実態と一線を画そうとした。「高山寺は釈尊の時代の修行者の集団生活の場僧伽(そうぎゃ)で、自分はその一員」(p122)と自己規定した生き様だったようだ。
第一章は、23歳の明恵が紀州の白上峰の庵で、夏に己の右の耳を切り落とすという衝撃的な行動にでた場面から始まって行く。その半年前にイサが8歳の時、イサはこの庵の前に捨てられた。それ以来イサは明恵のもとで仕え始める。半年後の夏にこの事件に直面する。イサは必死に明恵の世話をし、明恵に仕える意志を強めていく。明恵はイサに文字を教え始める。
このストーリー、明恵の人生の期間軸を一部前後させながら、イサの回想が進展していく。
明恵上人が見た夢の記録を『夢記』として残した事実は以前から知っていた。この小説の特徴の一つとして興味深いことは、明恵のみた夢と明恵の人生の変転との関わりがかなり色濃く織り込まれながら、イサの回想が進んで行くところにある。お陰で明恵が書き遺した『夢記』を読んでみたくなってきた。
この小説を読んで、断片的にしか知らなかった明恵上人の遍歴を大凡ながら理解できた。峻烈な修行僧としての自覚と実践の姿に一歩近づけるイメージを抱けたと思う。
学んだことをいくつかご紹介してみよう。
・9歳で初めて神護寺に上る。
・16歳で叔父の上覚房について出家得度。東大寺の戒壇院で具足戒を受け正式の僧に
東大寺で倶舎論、仁和寺で華厳教学を学ぶ
鳥羽天皇から神護寺に奉納された一切経の聖教類を読み耽る
・18歳で上覚房から真言修法の最初の十八道を伝授される。『遺教経』に出会う。
・19歳で勧修寺の理明房興然から密教の金剛界の伝授を受ける。
仏眼仏母如来を自分の本尊とし、毎日二時、仏眼法を修し始める。
これが明恵上人の若き時代の修行遍歴である。
また明恵は2回、天竺へ渡ろうと計画したことがあるという。この経緯もおもしろい。
神護寺の別院で栂尾にあった十無尽院という小堂を明恵らが修行の場とする。後鳥羽上皇に願い出て、寺名を「高山寺」と名付けた。「日出て先ず高山を照らす」釈尊が悟りを開いて初めて説いた華厳の教えをこう譬えるそうである。そして、朝廷から正式に「日出先照高山之寺」の勅額が下されたという。本書で寺名の由来を初めて知った。
いくつか興味深い箇所がある。一つは、承元4年(1210)の夏、明恵が建仁寺に栄西和尚を訪ねた場面が描かれている。このとき、栄西和尚が茶を明恵に伝えたそうだ。栄西は明恵に『喫茶養生記』の草稿を贈ったという。栄西から得た茶の種をイサが栂尾山で栽培する苦労も描かれる。栂尾茶の始まりである。
おもしろいのは、明恵が「栂尾の上人と尊敬されても自分はただの修行僧。終生そう撤していた」(p122)という生き様に対して、「栄西和尚はその対極にあるようで、その実、根っこの部分の信念を貫く生きざまはおなじなのかもしれない」(p122)とイサに回想させている点である。
禅思想は、既に奈良時代に入っていて、禅院が存在したということも本書で知った。
もう一つは、明恵上人が法然上人に対する反論書を記したという事実だけは知っていたが、その経緯は知らなかった。建暦2年正月に法然上人がなくなった。その秋9月に、明恵上人は宜秋門院から法然著『選択本願念仏集』一巻をいただいたという。そして、それを読むや邪見の書と怒り、『摧邪輪(ざいじゃりん)』を反論書として2ヵ月ほどかけて記した。さらに『摧邪輪荘厳記』を著したという。本書にその要点が簡略に述べられている。だが、その反論の内容を一歩踏み込んで知りたくなってきた。
後鳥羽上皇の引き起こした承久の乱の余波として、高山寺のある栂尾山に敗残兵が落ちのびてくる。その際の明恵上人の対応がこの小説での最後の山場になっていく。最終的に明恵上人が北条泰時と対峙することになる。こういう状況が歴史の一コマとしてあったということを想像もしていなかった。明恵の生き様を感じる読ませどころとなっている。
北条泰時が執権職を継いだ後、高山寺に丹波の大荘園一ヶ所を栂尾に寄進する申し出をしたという。明恵上人は直ちにこれを峻拒されたそうだ。明恵上人のスタンスを彷彿と感じさせるエピソードだ。
本書末尾の終わり方が実によい。そう感じた。
最後に、本書から印象に残る文を引用してご紹介しておきたい。
*イサ、自分の心で考えよ。自分の心を深く知れ。
気持や感情といううわべのものにふりまわされるのではなく、自分の心の奥底にひっそりと、だが確かに存在するものはなんなのか、いや、そもそも心とはなんなのか。自分にとっての真実はなんなのか。それを考えよ。
それがわかってくれば、自分がなんのために生きているのか、おのずと見えてくる。迷いがなくなる。それゆえの苦しみが消える。心がすべてを決める。 p96-97
*やがて「喫茶去(きっさこ)」ということばも知った。唐代の禅僧のことばで「まあ茶でも飲んでのんびりなさい」という意味だと皆は解したが、実は「茶を飲んで、頭がすっきりしてから出直せ」、つまり「ぼやぼやするな、しゃきっとせい」という叱咤なのだ。 p128
*もろともにあはれと思へ山桜 花よりほかに知る人もなし 行尊大僧正
モロトモニアハレトヲボセワ佛ヨ キミヨリホカニシル人モナシ 明恵上人 p149
*西行法師は花の歌人、明恵さまは月の歌人だ、と禅上房さんはいうのだ。 p152
*師は出家者にとって草花を愛しすぎるのは妄執につながり、修行の妨げだと、あえて封じておられたのではないか。寝食を忘れるほどのめり込んでいた歌を自ら禁じたのと同じなのではないか。
それでも花を見つけて心奪われ、時を忘れて見入ってしまう、そんな自身に煩悩を断ち切れぬ弱さを思い知らされ、愕然とする。そんなことのくり返しではなかったか。道心のないわたしにすれば、そういう明恵さまの人間くさい葛藤が好きだったのだが。 p153
*月が心を映す鏡などというのは、違うとおっしゃるのだ。真に心が澄んでいれば、月に託す必要はない。月の風情などかりそめにすぎない。ただ方便だとおっしゃる。心を澄ますためには、厚い雲に覆われて月が見えない闇夜のほうがいいとまでおっしゃるのだ。 p154
*ひとは死ぬ。だが、死んでも他者の心の中で生きつづけることができる。生者と思いを共有することができる。 p227
*今は仏の教えも本来の仏の教えではなく、俗世間の法も本来の法ではない。見るにつけ聞くにつけ、そればかり気にかかるが、しかし、それに心を留めて悩むのは執着であり、すべきことではない。それゆえ、今が死ぬのによい時である。死ぬことは、今日が終われば明日へ続くのと違いはなく、ひとつづきなのだ。 p233
ご一読ありがとうございます。
補遺
栂尾山 高山寺 公式ホームページ
国宝 明恵上人樹上坐禅像
明恵上人歌集 :「e國寶」
仏遺教経(現代語訳) :「洞松寺住職ブログ」
高山寺の仏眼仏母像(国宝) :「京都国立博物館」
仏眼仏母 :ウィキペディア
宝山寺仏眼仏母尊像 :「生駒市デジタルミュージアム」
仏眼法 :「国文学研究資料館」
摧邪輪 :ウィキペディア
摧邪輪 :「Web版 新纂 浄土宗大辞典」
摧邪輪荘厳記 :「Web版 新纂 浄土宗大辞典」
重要文化財 明恵上人夢記 :「e國寶」
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