遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『蓮如物語』  五木寛之  角川文庫

2023-12-22 10:51:15 | 五木寛之
 読み始めて、1998年4月に本書を原作とするアニメーション映画『蓮如物語』が公開されていたことを初めて知った。
 平成7年(1995)11月に単行本が刊行され、平成9年(1997)11月に文庫化されている。
 「文庫版へのあとがき」の冒頭に、「これは少年少女たちのために書かれた空想的な物語りです」と述べ、「蓮如上人という、若い世代にはあまりなじみのない人物に、子供たちが人間的な親しみと興味をもつ糸口にでもなれば、というのが作者の願いでした」と続けて記す(p222)。五木寛之さんが児童小説を書いていることも本書を手に取って初めて知ったことである。

 著者による『蓮如 -聖俗具有の人間像-』(岩波新書、1994年9月第4刷)をかなり前に読んだのだが、その時点でもこの『蓮如物語』は知らなかった。
 『蓮如物語』は児童小説として書かれたが、この小説、子供でなく大人でも十分に読むに耐える内容である。

 『蓮如』は作家の視点から客観的にとらえた蓮如の人間像を分析的に論述しているので、蓮如上人を知る上で知識情報源として有益である。しかし、読んで感動するという次元にリンクしていくものではなかった。
 一方、こちらの物語は、あとがきに記されている通り、「大事なことや、むずかしい問題、くわしい時代背景などは、ほとんど書かれていません」(p222)とある通り、蓮如についての詳しい知識情報は捨象して、蓮如が浄土真宗の中興の祖となるにいたる基軸部分に焦点を絞り込んでいる。そこに著者の想像力・創作力を傾けて蓮如という人を浮き彫りにしようとしている。

 『蓮如』を部分的に読み返してみると、「彼が生まれたとき、蓮如の父はまだ二十歳の若さでした。・・・従って正式の妻も持てませんでした。彼は身近な女性と非公式に親しくなります。そして蓮如が生まれました」(p26)、「実の母が祝福されないいやしき『日陰の』身であったこと」(p27)という記述がある。読書時点では、この箇所をさらりと読み通して『蓮如』を通読していたようだ。今、改めて再読してみようかと思っている。
 『蓮如物語』では、児童期の蓮如の名を布袋、布袋丸として登場させ、6歳の布袋丸を寺に残して、12月28日に実母は本願寺をひっそりと去って行く。
 去る前に母が布袋丸に、親鸞さまの寺・本願寺に生まれた寺の子であること、親鸞さまの教えを学び、それを伝えることが母の願いであること、を語り聞かす。「いいわね。親鸞さまについておゆき、そして、一生かけてお念仏を世間に広めるのですよ」(p96)と己の思いを託すのだ。
 この物語ではこの親子の会話が根底に据えられている。この『物語』では、ここまでで全体の半ば近くを占める。つまり、それだけの重みを潜ませた原点と言える。

 当時は、親鸞の御廟がある本願寺とはいえ、単なる貧しい一つの寺に過ぎない状態だったことが描かれている。布袋は17歳で、青蓮院で得度して正式にお坊さんになる。このこと自体が当時の本願寺の位置づけを象徴しているともいえよう。

 蓮如が26歳の頃に、父存如が第七代法主(ホッス)となる。蓮如が父の死後、叔父にあたる加賀の如乗(ニョジョウ)の力添えもあり、第八代法主となるのは四十を過ぎ、43歳の時である。それまで、妻帯している蓮如には勉学と忍耐の歳月が続く。その状況をこの物語は簡潔に描写していく。
 法主となった以降、蓮如が精力的に親鸞聖人の教えを説き歩く状況が物語られる。それは一方で、比叡山からの軋轢、衝突を生み出すことにもなる。蓮如が近江の各地を転々とし、吉崎で布教活動を行う。だが、吉崎が賑わうにつれ問題が新たに発生する。その後、京都の山科に本願寺が建立される。大坂での布教と蓮如82歳での寺の建立までの経緯も物語られる。
 読者は、この物語で蓮如上人その人と浄土真宗中興の祖となられるまでの大凡の経緯を理解できることになる。
 
 この物語は、「鹿の子の絵像」「八十五歳の旅立ち」と続く章て終わる。これらの章を読み、6歳の時に布袋丸が母と生き別れることになる経緯と共振していき、涙せずにはいられなくなった。布袋丸時代の幼馴染みであるシズとの思わぬ再会という状況を著者が設定している点は実に巧みだと感じた。
 
 この物語で、一つおもしろいと思った場面がある。布袋丸の母は、本願寺からひっそりと去る前に、無理算段をして金子を作り、6歳の布袋丸の絵を竜栄と称する絵師に一生のかたみとして描いてもらう。竜栄が布袋丸の面構えを見て独り言のように言うことがある。「もし道をあやまれば、将来天下に大乱をひきおこす阿修羅になるかもしれん。また時とところをうれば、世の万民にしたわれる救世の大菩薩となるとも感じられる。そなた、大変なお子をもたれたのう」(p53)という箇所である。『源氏物語』桐壺の巻で、桐壺帝が皇子(後の光源氏)を鴻臚館に遣わし、高麗人に観相してもらう場面がある。この場面がアナロジーとして取り入れられているように感じたからだ。

 感動的な場面の一つは、鴨川の河原に捨てられた病気の老人が野良犬に襲われているところに蓮如が行き合わせる場面が織り込まれている。蓮如はこの老人を看取ることになるのだが、その時が、蓮如にとり母の言葉を思い出し、念仏と信心について覚醒する瞬間となる。自然で巧みな描写の進展だと思う。
 著者は続けて、「お念仏とは自分の口でとなえるものだとばかり思っていたのだが、じつは目に見えぬ大きな力によってとなえさせられているということに気づいたのである」(p150)と物語っている。

 最後に、著者が描く蓮如の人物描写の一側面をご紹介しておこう。
「蓮如はもともと幼いときから人見知りをしないところがあって、だれとでもすぐにうちとけて友達になってしまう。
 ざっくばらんな人柄が、相手に安心感をあたえるらしい。
 ほんとうは蓮如はさびしいのだった。生みの母がいなくなってからは、毎晩さびしく、悲しくて夜も眠れぬ日がつづいていたのである。
 そんな蓮如のさびしさが、ほかの人たちに対する人なつっこさとなってあらわれたのかもしれない」(p123)と。

 この「空想的な物語」の中に、逆に『蓮如』を読んだときよりも、蓮如その人を身近に感じてしまった。蓮如の実の母自身の思いと母への蓮如自身の思いを根底に据えている著者の構想が読者を惹きつけていくのではなかろうか。
 児童小説ではあるが、大人こそまず読むとよい物語だと思った。

 ご一読ありがとうございます。

補遺
ご生誕600年記念 蓮如さん -ご生涯と伝説-  :「本願寺文化興隆財団」
やしょめ/倍賞千恵子   YouTube
蓮如上人とはどんな方?『御文章』に書かれてあることとは?  YouTube

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『折れない言葉 Ⅱ』   毎日新聞出版
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『親鸞』上・下     講談社
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『折れない言葉 Ⅱ』  五木寛之  毎日新聞出版

2023-09-10 22:32:29 | 五木寛之
 8月半ばに『折れない言葉』を読み、その読後印象を記した。このエッセイ集の第二弾が出ているのを知り読んでみた。『サンデー毎日』(2015年5月~2023年1月)に連載されたものをまとめて、今年(2023年)の2月に、新書サイズの単行本として刊行された。

 形式は第1作と同様に、見開きの2ページで、エッセイの一文がまとめられている。冒頭に「折れそうになる心を支えてくれる言葉」を掲げ、それに続けて著者の考えや思いがエッセイとして記されている。知っている名言や章句もあれば、全く知らなかった人の言葉もあり、バラエティに富んでいて、また少し視野が広がった思いがする。

 「まえがき」の次のパラグラフが、この手の本の本質を語っている。
「ギリシャ、ローマの古典にも、CMのコピーにも、どうでもいい歌謡曲の文句にも、折れそうになる心を支えてくれる言葉はある。同時にくだらない格言、名言も多い。しかし、その言葉を生かすも殺すも、たぶん受け取る私たちの側の姿勢にかかっているのではないだろうか。」(p3)
 取り上げられた言葉とその言葉について考える著者のエッセイ。著者の視点を参考にして、己に有益なものがいくつかでも得られれば読む意味は十分にある。私にとっては、今まで知らずにいた言葉、役立ちそうな「折れない言葉」をかなりゲットできた。また、知らなかった事柄を知る機会にもなった。
 たたえば、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」というのは知っていたが、第1章に出てくる「危ない橋も一度は渡れ」(p18-19)という言葉は知らなかった。この章に出てくる、「昔からカマキリのメスは交尾を終えたあと、オスを食い殺すと言われている」(p30)ということも初めて知った。ほう、そうか・・・・、という感じ。ソクラテスの「人生の目的は魂の世話をすることだ」(第2章、p72-73)も本書で知った。著者が、そこに、「私はもう一つ考えることがある。それは『人生の目的は体の世話をすることだ』ということだ」(p73)を付け加えている。これは人生百年時代を反映していておもしろい。第5章では、「人のふり見てわがふり直せ ことわざ」を取り上げている。だが、ここの本文ではこの言葉からの連想なのだろうが、「うぬぼれ鏡」を題材にしたエッセイに終始している。「うぬぼれ鏡」という言葉自体、私は初めてここで出くわした。こんな調子でいろいろ楽しめた。

 この第2集は、次の5章で構成されている。各章に少し付記する。
第1章 やるしかないか
 「漠然とした不安は立ち止まらないことで払拭される 羽生善治」が取り上げてある。(p22,23) 著者は、末尾に「金縛りに遭って自失するより、まず動くことを推める。立ち止まらない。実戦に裏づけられた現代の至言といえるだろう」と記す。章題はここに由来すると受けとめた。孫子から3つの章句が取り上げられ、なるほどと思う問題提起を著者がしている。「転石苔を生ぜず ことわざ」では、著者は「私はこれまでずっと反対の意味に解釈していたのである」と記し、この諺の意味を語る。エッセイ文には触れられていないが、調べてみると、もとはイギリスのことわざのようだ。

第2章 どうする、どうする
 最初の言葉が、「どうする、どうする」で、これは明治の若者たちのかけ声だという。知らなかった。明治30年代に「どうする連」という若者、学生の生態が注目を集めたとか。末尾で著者は「時代は変わり、世代は変わっても、『どうする、どうする』の声は消えない」と断じている(p57)
 「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い ことわざ」に対して、現在の世界情勢に触れ、坊主と袈裟の区別、冷静な対処の必要性を説く。
 現代の日本社会に警鐘を発する言葉が多く取りあげられている。多々考えさせられる。 たとえば、「逃げるが勝ち ことわざ」に対するエッセイの末文は、「しかし、逃亡の道を持たない島国の民はどうすればいいのか。『逃げるが勝ち』は、大陸の論理かもしれないと、あらためて思う」(p61)と。

第3章 悲しい時には悲しい歌を
 この章の最後に、「寂しい音楽からも力はもらえる 田中宏和」に続くエッセイの最後で少年時代の外地での難民生活体験に触れる。その時から「『悲しい時には悲しい歌を』というのが、私のモットーとなった」(p147)と記す。章題はここに由来するようだ。
 「歌は世につれ 世は歌につれ ことわざ」に続くエッセイでは、童謡「里の秋」の背景が語られている。この童謡は知っていたが、その背景を初めて知った。歌詞の三番、四番は改作されているが、元は戦時色をおびた歌詞だったのだ。元の歌詞が紹介されている。この名歌はまさに「歌は世につれ」の通り、歌詞が改作されていたのだ。
 「喪失と悲嘆の記憶力が力となる 島薗進」に続くエッセイの中で、著者は次のパラグラフを記している。戦後史を通覧していく上で、重要な観察視点であると思う。
「しかし、1970年あたりを節目にして、望郷とナショナリズムの色をたたえた悲哀の感情が、次第に変化していく。数々の大災害と地方の喪失は、幻想の悲しみをリアルに乗り越えはじめたのだ」(p143)

第4章 何歳になっても進歩する
 冒頭の言葉は「私もまだ成長し続けています 天野篤」であり、これに続くエッセイの見出しに「人は何歳になっても進歩する」が使われている。章題はここに由来する。
 二女優の言葉が取り上げられている。「やっぱり好奇心。それがなくなったらやめたほうがいい 奈良岡朋子」「ちょっとだけ無理をする 八千草薫」この二人の名前を読み、イメージが浮かばない世代が増えているかもしれない・・・・。
 「還暦以後が人生の後半だ 帯津良一」に続くエッセイは「人生の黄金期は後半にあり」という見出しを付している。著者はこのエッセイの末尾を「私たちを力づけてくれる言葉もまた、医学の重要な技法なのだ」の一文で締めくくる。
 「朝起きて調子いいから医者に行く 小坂安雄」という『シルバー川柳8』の冒頭に載るという句も取り上げられていて、楽しい。

第5章 それでも扉を叩く
 本書の最後は「開カレツルニ 叩クトハ」という柳宗悦が晩年に書いた『心偈(ココロウタ)』の一つで締めくくられている。この言葉に付されたエッセイは、なぜ柳宗悦この偈を詠んだかを簡潔に著者が読み解いている。イエスの言葉、「叩けよ、さらば開かれん」を踏まえた柳宗悦の対比思考と、イエスの言葉の解釈を深める思考プロセスを論じる。その上で仏教の立場から簡潔に考え方をまとめている。この柳宗悦の言葉を理解するのに大変役だった。なるほどと思う。心偈が章題と呼応している。
 「陰徳あれば必ず陽報あり 淮南子」を、著者はエッセイの中で、「<陰徳あればまれに陽報あり>とすればなんとなく穏やかな気分でいられるのではあるまいか」(p197) と記しているのもうなずける。
 「君子豹変す ことわざ」についても、その本来の意味と使われ方の変容を簡潔に説明してくれている。そこには著者が本来の用法ではない使用体験例も織り交ぜて語っていて、興味深い。

 最後に、その言葉に付されたエッセイを読まないと、ストンとは腑に落ちない言葉を幾つか列挙しておこう。この言葉だけを読み、エッセイの内容が類推できるなら、たぶん貴方は相当に論理的思考力とひらめき力に優れている方でしょう。私はエッセイを読み、なるほどと・・・・。
   衰えていく、とうことは有利な変化である   椎名誠
   認知症は終末期における適応の一様態と見なすことも可能である  大井玄
   お坊さんは「ありがとう」とは言いません   中村元
   質屋へ向かう足は躓く   不肖・自作 ⇒ 著者五木寛之の言葉
   かぶってましたか?    泉鏡花
   人生は散文ではない    鎌田東二
   人間のこそばいところは変わらへんのや    桂枝雀

 エッセイは読みやすい文で記されている。そこに今回も読ませどころとして煌めくフレーズが盛り込まれている。エッセイの冒頭の言葉の意味の理解を深めるのに役立っている。貴方にとって役立つ折れない言葉を見つけていただきたい。

 ご一読ありがとうございます。

補遺
倍賞千恵子「里の秋」  YouTube

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『折れない言葉』  五木寛之  毎日新聞出版

2023-08-16 12:26:47 | 五木寛之
 かなり前の新聞広告でこの本のタイトルが目に止まった。その後も幾度か新聞広告で見ている。著者名を見て読んでみることにした。
 冒頭の「まえがきにかえて」にこんなフレーズが記されている。「心が折れそうになった時もある」「励ましの言葉」「心と体に効く」「大きな支えとなった言葉」。ここからタイトルの表現ができあがったのではないかと思う。
 本書は『サンデー毎日』(2015年4月~2022年1月)に「ボケない名言」と題して連載されたようだ。2022年3月に単行本が刊行された。新書版サイズより少し幅広の大きさのハードカバー本。単行本化にあたっての改題は成功だと感じる。

 「この一冊の本のなかには、私が実際に日々生きているなかで、大きな支えとなった言葉を自由に選んで感想を述べてみた」(p2)と記している。つまり、「大きな支えになった言葉」をお題にしたエッセイ集である。お題の言葉に対して、見開き2ページでまとめられたエッセイなので、読者としては読みやすい。ちょっとした時間で読み切れるというのメリットがある。ペラペラと開いてみて、気になった「励ましの言葉」の見開きページから読み始めるのもありだろう。
 本書は5章立てにして、テーマ分類した構成になっている。それぞれの章の最初と最後に取り上げられた「折れない言葉」を参考にご紹介する。
    第1章 明日を信じる
       今日できることを、明日に持ちこしてはいけない。 
                     ベンジャミン・フランクリン
       口笛を吹きながら夜を往け  コリン・ウィルソン

    第2章 青年と老年
       転ばぬ先の杖  ことわざ
       人は慣れると手ですべきことを足でするようになる  蓮如

    第3章 淋しくて仕方のない日には
       淋しい時には 淋しがるより仕方ない  倉田百三
       見るべき程のことは見つ   平知盛

    第4章 変化に追いつけない時に
       国破れて山河在り  杜甫
       深淵をのぞきこむとき 深淵もまたこちらをみつめる ニーチェ

    第5章 見知らぬ街で
       孤独は山になく、街にある   三木 清
       自分の経験しない事は、つまり不可解なのである  正宗白鳥

 著者が選んだ言葉に対して、著者は賛意を記す、一捻りした解釈を記す、思い出や体験を主体に記す、距離を置く考えを記す、対立に近い考えを記す、など、著者自身の思い、が綴られている。「歎異抄渾沌として明け易き 齋藤愼爾」を取り上げて、「この句の解釈は、私にはできない」(p139)と感想を記すものまである。尚、続けて「ただ、『歎異抄渾沌として明け易き』と声に出してつぶやく時、なにか大きなものを手でさわったような気がする・これを『俳偈』とでもよぶべきだろうか」の一文で締めくくっているのだが。
 「古代中国の思想家もいる。当代の人気アスリートのインタヴューでの感想もある。外国人の言葉もあり、日常的なことわざのたぐいもある」と「まえがきにかえて」に記されている通り、ここに選ばれた言葉は幅広い。
 たとえば、羽生結弦が語ったという「努力はむくわれない」を選んでいる。そのエッセイの中では、それに続く「しかし努力には意味がある」(p21) という発言も紹介している。
 私にとっては、知らない「折れない言葉」が多かった。そういう意味でも、興味深く通読した。通読してみて「前書きにかえて」の前半部に、読み返してみて少し矛盾がある表現と感じる箇所があった。まあいいか・・・・。私の主観かもしれないし、本文を読むのに影響はないので。
 読者として、欲をいえば、巻末に、ここに選ばれた言葉の索引を付けて欲しかった。本書に立ち戻るのには、その方が便利だから。

 さて、このエッセイ集、選ばれた「折れない言葉」そのものを「悩み多き人生の道連れ」として役立てることができるけれど、著者のエッセイそのものの中に、その言葉の鏡としてとらえられる箇所がある。それが読者にとり考える糧になる。併せて役立てるのが勿論プラスだろう。

 エッセイの中に、著者の実体験を通した思いの表明でキラリと光る、示唆深い箇所が沢山ある。そこから少し引用しておこう。他にもいろいろあるが・・・・。
 敢えてそれがどのページに記されているかは表記さない。本書を読みながら、ああ、ここかと見つけていただきたい。私にとっては、キラリと示唆深いが、そのエッセイを読んだ貴方がどう受けとめられるかは別だから。出会いを楽しんでいただければ・・・。

*「明日できることは、明日やろう」と、明日を信じて、私は今日まで生きてきたような気がする。

*五十歩百歩という考え方は、世界を平面的に視る立場だ。これが上下の階段となると、とてもそんなことは言っていられない、・・・・五十歩百歩は、慎重に受けとめるべきだ。

*「努力してもむくわれないのが世の中と決めているから、努力に結果を求めない。やりたいからやっているのだ、好きでやるのだ、と覚悟して生きてきた。これでは駄目だろうか。

*真実は必ずしも一つではない。いくつかの事実が重なり合って現実となる。・・・・
 「おまかせ」しない姿勢もまた大事にしたいと思うのだ。

*ブツダも、イエスも、矛盾した言動や行動を数多く残している。しかし、矛盾と対立は運動エネルギーの原点である。反撥と結合のなかから歴史は作られてきた。自己を信じることと、自分を疑うことの狭間に私たちは生きているのだ。 

*人は論理によって動かされるだけではない。・・・人の心を動かすのは感情のともなった条理である。

*蓮如の経説は、親鸞の思想の実践編である。世の中には理論ではそうでも、現実には通用しないことが多い。そこをどう通り抜けていくかが人間の器量というものだろう。

*表現というのは、伝えたいことを伝えるための行為だ。親鸞も道元も、どこかゴツゴツした直截な物言いが共通している。鎌倉新仏教の力強さはそこにあるのかもしれない。

*拡散のスピードが速ければ速いほど、事実は稀薄になっていく。 

*私たちは、どんな人でも二つの相反する気持ちを心に抱いているものだ。 
 人間は薬だけでなく、毒によっても生かされている存在なのだ。

*私は思春期に敗戦を迎えたせいか、世の中そんなにうまくいくものではない、という固定観念を抱いて生きてきた。
 踏んだり蹴ったりというのが、この世のならわしだと今でも思っている。 

*ことわざが通用するのは、その時代のあり方による。ことわざも永遠の真理ではない。 <時機相応>という発想が必要なのだ。   

*要するに人は己の欲することを選ぶのだ。その理由づけとして名言や諺を持ち出すのだろう。
 反対の言葉があればこそ、諺は長く生き続けるのだろう。 

*スキャンダルは、人間の魂の深淵だ。暗い亀裂の底に、見てはならないものがうごめいている。
 スキャンダルにも前年比がある。少しずつ濃度をあげていくことを読者は求める。

*人びととまじわり行動するなかで、私たちは自分が他の仲間とちがう独立した個性であることを知らされる。・・・それを感じるときに主体的な個人が見えてくる。

*人は励ますことによって励まされ、励まされてまた励ます力を得る。 

*人間は自分の思い出の持ち方次第で、現在を一層光にみちたものにすることも出来れば、恐ろしく暗い影のなかに包んでしまうことも出来る。

*自他の相剋のなかに人は生きるのだ。 

 己にとっての「折れない言葉」と出会うために、このエッセイを手に取るところから始めるのも良いきっかけになるかもしれない。

 ご一読ありがとうございます。

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『百の旅千の旅』 五木寛之  小学館

2023-01-30 12:45:54 | 五木寛之
 題に惹かれて手に取った。著者のエッセイ集である。目次を見ると、「蓮如からみた親鸞」「長谷川等伯の原風景」「『千所千泊』と『百寺巡礼』」という題のエッセイが含まれている。それで更に読んでみる気になった。2004年1月に単行本が刊行されている。
 ネット検索してみると、このエッセイ集は未だ文庫化はされていないようだ。

 著者の小説と縁ができたのは、『親鸞』(上・下)を読んでから。読んだのは遅くなるが、『親鸞』(上・下)は2010年に刊行されている。著者の親鸞シリーズを読んでいたので、「蓮如からみた親鸞」という題に関心を抱いた。長谷川等伯については、他の作家の等伯に関わる小説を読んでいたこと、『百寺巡礼』シリーズは文庫を買い揃えていること、そこからの関心による。

 さて、このエッセイ集、「ぼくはこんな旅をしてきた」という前文から始まり、「第1部 日常の旅」と「第2部 思索の旅」の2部構成になっている。著者は「日刊ゲンダイ」に四半世紀以上にわたり「流されゆく日々」という連載を続けてきたそうだ。第1部はその連載からの抜粋だという。1996年~2003年の期間中に連載されたエッセイからの抽出。第2部は、語り下ろしによるエッセイ。著者は、「あとがき」に「エディターを前にしての、『語り下ろし』の文章をそえたのはライブ感覚のなかに生きた感情のゆらぎが感じられることを意図したからだ。構成者の感覚とのコラボレーションがおもしろかった」と記している。語り下ろしがその後どのようにして本書に載る文として結実したのかは知らないが、読みやすいエッセイとなっている。

 各エッセイの読後印象について触れていこう。併せて、*を付けて文を引用する。

第1部 日常の旅
<わが「移動図書館」の記>
 著者は少年時代、通学の往復に歩きながら本を読んだ経験を語る。1996年の時点では旅行の車中で読書をするという。東京から盛岡に行く車中の読書がエッセイになっている。著者流読書法が具体的に記されていておもしろい。特にエッセイの末尾文にエッ!
*語り部は騙部(かたりべ)であるというのが、年来のぼくの立場だ。作家はだますためにウソをつく。だからそのウソは評論家のように巧みに見えてはならないのである。p27

<日常感覚と歴史感覚>
 日常感覚と歴史感覚のそれぞれにだまされた著者の体験が題材。その根っ子に少年時代に国がつぶれる体験があると記す。1997年のこのエッセイの末尾に「そしていま、ふたたび無気味な余震を体が感じはじめているのだが」(p35)の一節がある。著者はこの時何を予感しはじめたのだろう・・・・。

<カルナーの明け暮れ>
 「なぜ涙と笑い、悲しみと歓びとを、両方とも人間的なものだと自然に受け止められないのだろうか」(p36)という問題提起から始まるエッセイ。ため息の出る日々のふりかえりから、仏教の基本思想にある中国語訳<慈悲>の<悲>について考えを深めていく。<カルナー>の訳が<悲>だという。「思わず知らず心と体の奥底よりもれてくるため息のような感情」(p40)を表現した言葉だとか。<カルナー>を受けとめ直す材料になる。

<あと十年という感覚>
 1997年時点で、著者は「あと十年という感覚」を感じている事実を語る。それでふと、思った。著者の年齢を意識していなかったことを。奥書を見ると、1932年9月の生まれ。つまり、今年(2023年)満91歳を迎えられることになる。このエッセイは65歳の頃の執筆。「65歳あたりからは、少しずつ自分の残り時間がリアリティーをおびて感じられるようになってくるらしい」(p50)と記す。その上で、著者は「少しずつ勇気が湧いてくる」ことと、「大河の一滴」という感覚を語っていく。著者はこの2023年現在、何を思っているのだろうか。

<日本人とフット・ギア>
 靴を語るエッセイ。著者の靴へのこだわりがわかる。靴に対する国による考え方の違いを論じている。フット・ギアという言葉をこのエッセイで初めて知った。「靴という道具」という意味らしい。靴から眺めた文化論が展開されていく。彼我の相違を論じていておもしろい。夏目漱石の言った<猿真似>への思いに回帰しているように受けとめた。
*もし、体型が十分だったとしても、精神がアジア人である以上、イタリアの服はその着手を裏切らずにはおかない。ファッションが文化であるとすれば、当然、ものの考え方、感じかた、すべてが服と人間のあいだにかかわりあうからである。p67

<蓮如から見た親鸞>
 「蓮如と親鸞のちがいのひとつに、寺に生まれたかどうかという問題がある」(p72)という一文から始まる。こういう視点から考えたことがなかった。結局、この一文をキーにして、親鸞は貴族的な家系を出自とすることと、流罪にされた親鸞の怒りとの関係をベースに論じていく。この読み解き方が興味深い。「ここで親鸞は少しの迷いもなく、上皇・天皇と同じ目線で向き合っている」(p81)という著者の着眼点は、考える糧として記憶しておきたいと思う。
*ぼくはもともと「記録よりも記憶」という立場である。表現されたものはかならずなんらかの目的をもつものなのだ。編集・制作者がいかに客観性を重んじ、中立の立場を保とうとしても、表現はすでに創作の世界に踏みこんでいる。主観を極力おさえることは可能であったとしても、主観をまじえない創作物などつくられる意味がない。 p76

<老いはつねに無残である>
 著者は身体的、日常的なことに関する実感として<老いはつねに無残である>と持論を展開している。その上で、「そのマイナスに比例するようなプラスを見つけ出す道はないものだろうか」と問いかける。ある婦人との視点の違いよる会話のズレがおもしろい。
 著者は妄想だ言いながら、21世紀という時代は<宗教ルネサンス>の時代と予想する。
*来たるべき宗教の目的とは何か。それは「人生には意味がある」ことを、人びとにはっきりと指し示すことではないだろうか。 p92

<長谷川等伯の原風景>
 等伯の『松林図屏風』の原イメージをさぐるために、能登半島の海岸線ぞいを歩いた体験を語るエッセイだ。そして、等伯の『松林図』の構図そのものの心象風景となる原風景を目の前で見たと記す。一度、見てみたいな、と思う。
 羽咋には日蓮宗の本山「能登滝谷・妙成寺」があり、その寺に等伯作『涅槃図』が蔵されていることを紹介している。普段でも拝観できるのだろうか・・・・。

<英語とPCの時代に>
 英語が日常生活に強引に入り込んで来ている状況を体験例で語りながら、英語を使うことの二つの様相を切り出して見せる。そして、「どのように使おうと、相互理解の具として英語を世界に流通させることは、言語における帝国主義としか言いようがない」と論じている。この点、共感する側面がある。英語とPCを語り、「きたるべき超格差社会」に警鐘を発しているエッセイ。
 このエッセイに、著者は「『五木』はれっきとした戸籍上の本名であって筆名ではない」(p108)と記す。知らなかった。「早大中退」という経歴が世に流布している点についても、その経緯と晴れて「早大中退」となったエピソードを併せて記している。この経緯がおもしろい。著者はインターネットから得られる情報の質について、自己の経歴の扱われ方を例にしつつ「そのなかには少なからず不正確で、事実とちがう情報も含まれているのだ」(p113)と警鐘を発している。これはネット情報を利用していて痛感するとことでもある。このエッセイでも最後は少し、宗教問題を取り上げている。
*本当のことは、人間とナマで接してこそ見えてくる。 p113

<身近な生死を考える>
 生死についてのキリスト教文化における二元論的思考、人間がもつ自己確認の行為、ふっと死を感じる瞬間に心が萎えるということ・・・・が生死を考える話材になっている。
 読者にとっては、考える材料になる。

<ちらっとニューヨーク>
 題名の通り、ニューヨークの一面を体感した著者の雑感。実際の体験をしないと、そういうものかという理解と感想に留まる。

<演歌は21世紀こそおもしろい>
 「社会諷刺、世相戯評のバックボーンが一本通っていないと、やはり『演歌』という言葉は、いまひとつしっくりこない」(p157)と考える著者の演歌論が展開されている。
*批評がほとんどない、というのは、そのジャンルが停滞している現状を示す。 p162
*イメージは、ものが変わればたちまちにして変わるものなのだ。 p169
*広く深い日本人の歌謡世界は、すべて<演歌・歌謡曲>の世界に流れ込んでいるというのが、一貫したぼくの考えかただ。 p173
*システムの根には、「魂」がある。・・・根のない花はない。「才」はかならず「魂」を核として成立する。 p175

<寺と日本人のこころ>
 2002年4月に、寺に関係する催しにずいぶん参加したという事実を踏まえて、日本人のこころの原風景といえる景観は、いまや寺や神社にしか残されていないのではないかと語っている。
 裏返せば、日本全国で日本的景色の喪失が進んでいることへの問題意識といえる。

<「千所千泊」と「百寺巡礼」>
 「千所千泊」と「百寺巡礼」という2つの計画がどういう経緯で生まれたか、その背景について書かれたエッセイ。「百寺巡礼」は文庫本を購入しているのでその背景が分かって興味深い。
 「百寺巡礼」は、2023年現在時点で、文庫本でシリーズとして10巻にまとめられて刊行されている。「千所千泊」の方は知らなかったので、ネット検索してみると、「みみずくの夜メール」というシリーズのエッセイ集として作品化されているようである。

第2部 思索の旅
<限りある命のなかで>
 著者71歳のときの語り下ろしである。老いていくことは苦痛でもあるが、「老いていくことのなかで、若いときには見えなかったものが見えてくる」(p204)と言う。21世紀になり、「大人の知恵と、経験と、寛容の精神が求められるようになってきつつある感じがしてきた」(p205)と語る。20年前のこの発言、まさに世界も日本も、今、その状況下にあるのではないかと思う。
*われわれが生きてゆく時代相をよく見ることも大切なことだ。 p206
*医学の常識は、きょうの常識であって、明日の非常識かもしれない。
 もっともっと自分の体が発する声なき声に、素直に耳を傾ける必要があるのではないか。 p209-210
*少しでも長く生きて、この時代の変転を眺めてみたいのだ。 p212

<「寛容」ということ>
 「セファルディの音楽」の広がりの背景、一神教世界における「宗教の衝突」、日本人の宗教的曖昧さをまず語る。そして、「曖昧さとして否定されてきたシンクレティシズム(神仏習合)や多神教的な寛容の精神こそ」(p220)が、現在の世界の情勢にもっとも有効な思想ではないかと論じている。そのために「日本人の曖昧さのなかに流れているものを、きちんと思想化していくことが必要」(p223)と語る。著者はそこに寛容の精神の存在を読み取っている。さらに、免疫システムが「寛容」の働きをもつ側面にも着目する。 「寛容」が21世紀の社会を動かすキーワードだと論じる。
 現状はまさにその「寛容」が欠落した状況に陥っていると痛感する。
*日本人の宗教的曖昧さは、私は、むしろそれぞれの宗派の背後にある絶対者というか、宇宙の根源の光というか、そういうものを大事にすることの結果なのだと思う。p219

<趣味を通じて自分に出会う>
 21世紀は「個」の確立の時代だと冒頭で語り、「個人として人間らしくこころ豊かに生きるにはどうすればいいかを模索する時代だ」(p232)と言い換えている。情報化時代であるが、自分の直感を磨けと説く。そして、趣味をもてと語り、著者自身の趣味についてふれていく。さらに、自分は雑芸を通しての表現者だとしての自分に出会ったと語る。
*趣味は何かと聞かれれば、自分の心身の働きを正確に知ること。それを探索すること。それをコントロールすること。これが本当は、私のいちばんの趣味だと思っている。p242
<旅人として>
 直感を大事にするには、「あちこち歩き回ることが必要だ」(p244)と語り、それが「旅」であると言う。著者自身の「旅」のモチーフが年々変化してきた事実を語る。「千所千泊」は日本的原風景-その風土とそこに住むひとたちのこころーを求めてという。著者は己を「デラシネ」(根無し草)と位置づけている。
*国家というものが民草に対していかに酷い仕打ちをするシステムであるかということを若いときに思い知らされた者は、国家のいうことを額面通りに受け取るほどお気楽にはなれない。  p247
*旅というのは空間の旅だけでなく、時間の旅、歳月の旅であることは言うまでもない。 p249
*ひとつのことを長く続けていくのは、時間を超えて生きていくことにつながっていく、という考え方が私の基本にある。できるだけ長く持続するということもまた、ひとつの旅のありかたではないか。  p250
*「続けること」それ自体に「時を超えていく」という意味があるような気がしてならない。 p250

 <趣味を通じて自分に出会う>の末節に、「最近、私のつれあいが趣味ではじめた絵が、だんだん本格的になって、いまでは完全に画家とよんでいい域にまで達してしまった」という一文が含まれる。本書の装画は「五木玲子」と記されている。「私のつれあい」つまり著者の配偶者だろう。

 著者五木寛之を知り学ぶうえで役立つエッセイ集だと思う。

 ご一読ありがとうございます。

補遺
【旅の記憶】五木寛之さん  :「たびよみ」
あたまのサプリ みみずくの夜メールⅢ  :「幻冬舎」
五木寛之 著者プロフィール :「新潮社」
五木寛之 受賞作家の群像 :「直木賞のすべて」
五木寛之 兵庫ゆかりの作家 :「ネットミュージアム兵庫文学館」
五木寛之  :ウィキペディア
五木玲子 リトグラフ ダリア :「日経アート」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

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その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

こちらもお読みいただけるとうれしいです。
ブログ「遊心逍遙記」に載せた読後印象記です。
『親鸞』上・下      講談社
『親鸞 激動篇』上・下  講談社
『親鸞 完結篇』上・下  講談社
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