読み始めて、1998年4月に本書を原作とするアニメーション映画『蓮如物語』が公開されていたことを初めて知った。
平成7年(1995)11月に単行本が刊行され、平成9年(1997)11月に文庫化されている。
「文庫版へのあとがき」の冒頭に、「これは少年少女たちのために書かれた空想的な物語りです」と述べ、「蓮如上人という、若い世代にはあまりなじみのない人物に、子供たちが人間的な親しみと興味をもつ糸口にでもなれば、というのが作者の願いでした」と続けて記す(p222)。五木寛之さんが児童小説を書いていることも本書を手に取って初めて知ったことである。
著者による『蓮如 -聖俗具有の人間像-』(岩波新書、1994年9月第4刷)をかなり前に読んだのだが、その時点でもこの『蓮如物語』は知らなかった。
『蓮如物語』は児童小説として書かれたが、この小説、子供でなく大人でも十分に読むに耐える内容である。
『蓮如』は作家の視点から客観的にとらえた蓮如の人間像を分析的に論述しているので、蓮如上人を知る上で知識情報源として有益である。しかし、読んで感動するという次元にリンクしていくものではなかった。
一方、こちらの物語は、あとがきに記されている通り、「大事なことや、むずかしい問題、くわしい時代背景などは、ほとんど書かれていません」(p222)とある通り、蓮如についての詳しい知識情報は捨象して、蓮如が浄土真宗の中興の祖となるにいたる基軸部分に焦点を絞り込んでいる。そこに著者の想像力・創作力を傾けて蓮如という人を浮き彫りにしようとしている。
『蓮如』を部分的に読み返してみると、「彼が生まれたとき、蓮如の父はまだ二十歳の若さでした。・・・従って正式の妻も持てませんでした。彼は身近な女性と非公式に親しくなります。そして蓮如が生まれました」(p26)、「実の母が祝福されないいやしき『日陰の』身であったこと」(p27)という記述がある。読書時点では、この箇所をさらりと読み通して『蓮如』を通読していたようだ。今、改めて再読してみようかと思っている。
『蓮如物語』では、児童期の蓮如の名を布袋、布袋丸として登場させ、6歳の布袋丸を寺に残して、12月28日に実母は本願寺をひっそりと去って行く。
去る前に母が布袋丸に、親鸞さまの寺・本願寺に生まれた寺の子であること、親鸞さまの教えを学び、それを伝えることが母の願いであること、を語り聞かす。「いいわね。親鸞さまについておゆき、そして、一生かけてお念仏を世間に広めるのですよ」(p96)と己の思いを託すのだ。
この物語ではこの親子の会話が根底に据えられている。この『物語』では、ここまでで全体の半ば近くを占める。つまり、それだけの重みを潜ませた原点と言える。
当時は、親鸞の御廟がある本願寺とはいえ、単なる貧しい一つの寺に過ぎない状態だったことが描かれている。布袋は17歳で、青蓮院で得度して正式にお坊さんになる。このこと自体が当時の本願寺の位置づけを象徴しているともいえよう。
蓮如が26歳の頃に、父存如が第七代法主(ホッス)となる。蓮如が父の死後、叔父にあたる加賀の如乗(ニョジョウ)の力添えもあり、第八代法主となるのは四十を過ぎ、43歳の時である。それまで、妻帯している蓮如には勉学と忍耐の歳月が続く。その状況をこの物語は簡潔に描写していく。
法主となった以降、蓮如が精力的に親鸞聖人の教えを説き歩く状況が物語られる。それは一方で、比叡山からの軋轢、衝突を生み出すことにもなる。蓮如が近江の各地を転々とし、吉崎で布教活動を行う。だが、吉崎が賑わうにつれ問題が新たに発生する。その後、京都の山科に本願寺が建立される。大坂での布教と蓮如82歳での寺の建立までの経緯も物語られる。
読者は、この物語で蓮如上人その人と浄土真宗中興の祖となられるまでの大凡の経緯を理解できることになる。
この物語は、「鹿の子の絵像」「八十五歳の旅立ち」と続く章て終わる。これらの章を読み、6歳の時に布袋丸が母と生き別れることになる経緯と共振していき、涙せずにはいられなくなった。布袋丸時代の幼馴染みであるシズとの思わぬ再会という状況を著者が設定している点は実に巧みだと感じた。
この物語で、一つおもしろいと思った場面がある。布袋丸の母は、本願寺からひっそりと去る前に、無理算段をして金子を作り、6歳の布袋丸の絵を竜栄と称する絵師に一生のかたみとして描いてもらう。竜栄が布袋丸の面構えを見て独り言のように言うことがある。「もし道をあやまれば、将来天下に大乱をひきおこす阿修羅になるかもしれん。また時とところをうれば、世の万民にしたわれる救世の大菩薩となるとも感じられる。そなた、大変なお子をもたれたのう」(p53)という箇所である。『源氏物語』桐壺の巻で、桐壺帝が皇子(後の光源氏)を鴻臚館に遣わし、高麗人に観相してもらう場面がある。この場面がアナロジーとして取り入れられているように感じたからだ。
感動的な場面の一つは、鴨川の河原に捨てられた病気の老人が野良犬に襲われているところに蓮如が行き合わせる場面が織り込まれている。蓮如はこの老人を看取ることになるのだが、その時が、蓮如にとり母の言葉を思い出し、念仏と信心について覚醒する瞬間となる。自然で巧みな描写の進展だと思う。
著者は続けて、「お念仏とは自分の口でとなえるものだとばかり思っていたのだが、じつは目に見えぬ大きな力によってとなえさせられているということに気づいたのである」(p150)と物語っている。
最後に、著者が描く蓮如の人物描写の一側面をご紹介しておこう。
「蓮如はもともと幼いときから人見知りをしないところがあって、だれとでもすぐにうちとけて友達になってしまう。
ざっくばらんな人柄が、相手に安心感をあたえるらしい。
ほんとうは蓮如はさびしいのだった。生みの母がいなくなってからは、毎晩さびしく、悲しくて夜も眠れぬ日がつづいていたのである。
そんな蓮如のさびしさが、ほかの人たちに対する人なつっこさとなってあらわれたのかもしれない」(p123)と。
この「空想的な物語」の中に、逆に『蓮如』を読んだときよりも、蓮如その人を身近に感じてしまった。蓮如の実の母自身の思いと母への蓮如自身の思いを根底に据えている著者の構想が読者を惹きつけていくのではなかろうか。
児童小説ではあるが、大人こそまず読むとよい物語だと思った。
ご一読ありがとうございます。
補遺
ご生誕600年記念 蓮如さん -ご生涯と伝説- :「本願寺文化興隆財団」
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蓮如上人とはどんな方?『御文章』に書かれてあることとは? YouTube
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『折れない言葉 Ⅱ』 毎日新聞出版
『折れない言葉』 毎日新聞出版
『百の旅千の旅』 小学館
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『親鸞』上・下 講談社
『親鸞 激動篇』上・下 講談社
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「文庫版へのあとがき」の冒頭に、「これは少年少女たちのために書かれた空想的な物語りです」と述べ、「蓮如上人という、若い世代にはあまりなじみのない人物に、子供たちが人間的な親しみと興味をもつ糸口にでもなれば、というのが作者の願いでした」と続けて記す(p222)。五木寛之さんが児童小説を書いていることも本書を手に取って初めて知ったことである。
著者による『蓮如 -聖俗具有の人間像-』(岩波新書、1994年9月第4刷)をかなり前に読んだのだが、その時点でもこの『蓮如物語』は知らなかった。
『蓮如物語』は児童小説として書かれたが、この小説、子供でなく大人でも十分に読むに耐える内容である。
『蓮如』は作家の視点から客観的にとらえた蓮如の人間像を分析的に論述しているので、蓮如上人を知る上で知識情報源として有益である。しかし、読んで感動するという次元にリンクしていくものではなかった。
一方、こちらの物語は、あとがきに記されている通り、「大事なことや、むずかしい問題、くわしい時代背景などは、ほとんど書かれていません」(p222)とある通り、蓮如についての詳しい知識情報は捨象して、蓮如が浄土真宗の中興の祖となるにいたる基軸部分に焦点を絞り込んでいる。そこに著者の想像力・創作力を傾けて蓮如という人を浮き彫りにしようとしている。
『蓮如』を部分的に読み返してみると、「彼が生まれたとき、蓮如の父はまだ二十歳の若さでした。・・・従って正式の妻も持てませんでした。彼は身近な女性と非公式に親しくなります。そして蓮如が生まれました」(p26)、「実の母が祝福されないいやしき『日陰の』身であったこと」(p27)という記述がある。読書時点では、この箇所をさらりと読み通して『蓮如』を通読していたようだ。今、改めて再読してみようかと思っている。
『蓮如物語』では、児童期の蓮如の名を布袋、布袋丸として登場させ、6歳の布袋丸を寺に残して、12月28日に実母は本願寺をひっそりと去って行く。
去る前に母が布袋丸に、親鸞さまの寺・本願寺に生まれた寺の子であること、親鸞さまの教えを学び、それを伝えることが母の願いであること、を語り聞かす。「いいわね。親鸞さまについておゆき、そして、一生かけてお念仏を世間に広めるのですよ」(p96)と己の思いを託すのだ。
この物語ではこの親子の会話が根底に据えられている。この『物語』では、ここまでで全体の半ば近くを占める。つまり、それだけの重みを潜ませた原点と言える。
当時は、親鸞の御廟がある本願寺とはいえ、単なる貧しい一つの寺に過ぎない状態だったことが描かれている。布袋は17歳で、青蓮院で得度して正式にお坊さんになる。このこと自体が当時の本願寺の位置づけを象徴しているともいえよう。
蓮如が26歳の頃に、父存如が第七代法主(ホッス)となる。蓮如が父の死後、叔父にあたる加賀の如乗(ニョジョウ)の力添えもあり、第八代法主となるのは四十を過ぎ、43歳の時である。それまで、妻帯している蓮如には勉学と忍耐の歳月が続く。その状況をこの物語は簡潔に描写していく。
法主となった以降、蓮如が精力的に親鸞聖人の教えを説き歩く状況が物語られる。それは一方で、比叡山からの軋轢、衝突を生み出すことにもなる。蓮如が近江の各地を転々とし、吉崎で布教活動を行う。だが、吉崎が賑わうにつれ問題が新たに発生する。その後、京都の山科に本願寺が建立される。大坂での布教と蓮如82歳での寺の建立までの経緯も物語られる。
読者は、この物語で蓮如上人その人と浄土真宗中興の祖となられるまでの大凡の経緯を理解できることになる。
この物語は、「鹿の子の絵像」「八十五歳の旅立ち」と続く章て終わる。これらの章を読み、6歳の時に布袋丸が母と生き別れることになる経緯と共振していき、涙せずにはいられなくなった。布袋丸時代の幼馴染みであるシズとの思わぬ再会という状況を著者が設定している点は実に巧みだと感じた。
この物語で、一つおもしろいと思った場面がある。布袋丸の母は、本願寺からひっそりと去る前に、無理算段をして金子を作り、6歳の布袋丸の絵を竜栄と称する絵師に一生のかたみとして描いてもらう。竜栄が布袋丸の面構えを見て独り言のように言うことがある。「もし道をあやまれば、将来天下に大乱をひきおこす阿修羅になるかもしれん。また時とところをうれば、世の万民にしたわれる救世の大菩薩となるとも感じられる。そなた、大変なお子をもたれたのう」(p53)という箇所である。『源氏物語』桐壺の巻で、桐壺帝が皇子(後の光源氏)を鴻臚館に遣わし、高麗人に観相してもらう場面がある。この場面がアナロジーとして取り入れられているように感じたからだ。
感動的な場面の一つは、鴨川の河原に捨てられた病気の老人が野良犬に襲われているところに蓮如が行き合わせる場面が織り込まれている。蓮如はこの老人を看取ることになるのだが、その時が、蓮如にとり母の言葉を思い出し、念仏と信心について覚醒する瞬間となる。自然で巧みな描写の進展だと思う。
著者は続けて、「お念仏とは自分の口でとなえるものだとばかり思っていたのだが、じつは目に見えぬ大きな力によってとなえさせられているということに気づいたのである」(p150)と物語っている。
最後に、著者が描く蓮如の人物描写の一側面をご紹介しておこう。
「蓮如はもともと幼いときから人見知りをしないところがあって、だれとでもすぐにうちとけて友達になってしまう。
ざっくばらんな人柄が、相手に安心感をあたえるらしい。
ほんとうは蓮如はさびしいのだった。生みの母がいなくなってからは、毎晩さびしく、悲しくて夜も眠れぬ日がつづいていたのである。
そんな蓮如のさびしさが、ほかの人たちに対する人なつっこさとなってあらわれたのかもしれない」(p123)と。
この「空想的な物語」の中に、逆に『蓮如』を読んだときよりも、蓮如その人を身近に感じてしまった。蓮如の実の母自身の思いと母への蓮如自身の思いを根底に据えている著者の構想が読者を惹きつけていくのではなかろうか。
児童小説ではあるが、大人こそまず読むとよい物語だと思った。
ご一読ありがとうございます。
補遺
ご生誕600年記念 蓮如さん -ご生涯と伝説- :「本願寺文化興隆財団」
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蓮如上人とはどんな方?『御文章』に書かれてあることとは? YouTube
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その点、ご寛恕ください。)
こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『折れない言葉 Ⅱ』 毎日新聞出版
『折れない言葉』 毎日新聞出版
『百の旅千の旅』 小学館
ブログ「遊心逍遙記」に載せた読後印象記です。
『親鸞』上・下 講談社
『親鸞 激動篇』上・下 講談社
『親鸞 完結篇』上・下 講談社