本所しぐれ町という町名は存在しなかった。文庫本末尾に、「対談 藤沢文学の原風景」という著者と藤田昌司さんとの対談録が併載されている。その中で著者は「最初から場所はその辺を考えていたのですが、名前にはてこずりました」と語っている。「しぐれ町」って、すっと惹きつけられるうまいネーミングだと思う。
本書は短編12編が収録され、短編連作集。本所しぐれ町の表通りの表店と通りを外れた裏店に住む町民の喜怒哀楽、悲喜こもごもの日常生活状況に焦点があてられていく。一つの町域に住み、日ごろから互いのことがわかっている人々の普段の生活の諸局面が織り交ぜられて、しぐれ町の情景が浮かびあがっていく。全体のトーンとしては、哀感という印象が強く残る。
本作は「波」に連載された後、昭和62年(1987)3月に単行本が刊行され、平成2年(1990)9月の文庫化された。
対談の中で著者は本作について次のように語っている。
「時代小説のいろいろな拵えからちょっと気持ちが離れて、なるべく普通の世の中で起こり得ることを書いてみたかったのです」(p312)
「あまり悪辣な人間を書くのが嫌になりました。若いときにはそうでもなかったのですが、やはり年をとりますと、なるべくあくどい人間を見たくない、そういう感じが今度の作品には、だいぶ反映していると思います」(p315)
「そういう弱さがあるからこそ、人間はいとおしくていいのではないでしょうか。みんな清く正しくでは、これは困りものです」(p315)
「今でもそういう子供は案外いそうな気がして、そのまま突きはなすのはかわいそうな気がします。ですから、さっき言いましたように、いろんな意味でこの小説には、年齢的なものかなり反映されています」(p316) 付記:ここでの子供とは<おきち>をさす。
ここでいう「普通の世の中に起こり得ること」という表現は、江戸時代の本所の町民の物語でありながら、どこの町でもあり得ることであり、形を変えて同様事象の問題が現代社会の庶民の日常生活にも再起しているのではないかととらえることもできるということだと思う。
以下、本書に収録された短編のご紹介と読後印象をごく簡単にまとめてみたい。
< 鼬(イタチ)の道 >
三丁目の菊田屋新蔵の弟がふいに上方から戻ってくる。兄嫁の心理と兄が弟の半次に抱く心理の葛藤が描かれる。そこに人別の届や金銭問題が絡んでいく。
「鼬の道切り」という言葉が最後に出てくる。新蔵の本音を感じ取れる。
< 猫 >
二丁目の小間物屋紅屋の息子、栄之助の浮気。怒った女房が実家に帰っているのに、眼をつけていたおもんという女に手を出す。おもんの飼う猫・たまを栄之助が利用する。新たな浮気の始まりの一コマを描く。男の馬鹿さがこっけいである。
< 朧夜 >
古手問屋萬屋の隠居佐兵衛は「福助」で酒を飲み過ぎた帰路の途中道端で眠ってしまう。「福助」の女中おときが帰路に佐兵衛を見つけて介抱したことがきっかけで、おときは佐兵衛の隠居所に出入りするように。萬屋の主人亀次郎・おくに夫妻の心配と佐兵衛の心境が描きこまれる。立場の違いでお金の意味づけが大きく変わる。
< ふたたび猫 >
ひとの妾であるおもんに紅屋の栄之助が知り合って三月ほどたち、浮気が一歩深まった時点の栄之助の身辺状況話。栄之助と猫のたまとの関わり具合が変化を示す。栄之助がどうなって行くか。栄之助の心境を想像するとおもしろい。
< 日盛り >
同い齢十の新吉と長太、一つ年上のおいとたちの身辺話。子供心がよくわかる。
本所近辺で夜盗が横行しているという世相と長太の家の家庭内問題に焦点が移っていく。どこにでもありそうな日常生活の断片が切り出されている。
< 秋 >
ささいなことで夫婦喧嘩をした翌朝、政右衛門が早朝の散歩に出かける。政右衛門の視点から、しぐれ町の現状を見つめて考える様子が描き込まれる。油を商う佐野屋の帳場にいた政右衛門は、裏店に住むおきちという娘が種油を買いに来たので直に応対するエピソードや、政右衛門は幼ななじみだったおふさにふと会いたくなる思いと実行話が織り込まれていく。夫婦喧嘩をしながらも、このまま行くのが己の人生という点に落ち着くところが現実的である。その現実感は共感を生み出す。
< 約束 >
おきちの父親熊平は酒飲みだった。その父親が借金を抱えて死んだ。十歳のおきちには、与吉とおけいという弟と妹がいる。己が親の借金のけじめをつけると気丈にも判断しそのための行動をとる。借金の約束をおきちが己の身で償う顛末譚。
気丈にふるまうおきちが最後に見せる「やっと十の子供にもどった」瞬間に哀感をいだかざるを得ない。
< 春の雲 >
桶芳の住み込み奉公人千吉十五歳が藪入りの日の一日をどのように過ごすかから始まる。桶芳に臨時の職人左之助が来たことがきたことから、一膳めし屋・亀屋で働くおつぎちゃんにからむ展開となる。千吉がおつぎに寄せるほのかな思いの揺らめきと行動がいじらしい。千吉が一歩ステップアップするところを楽しめる。
< みたび猫 >
紅屋の若旦那栄之助が再々登場。おもんとの浮気の続き話。
この「猫」の登場について、著者は上記の対談の中で、おもしろいことを語っている。引用する。本書の短編は当初「波」に「非常に自由な形の連載」として載り、これは著者の初経験となったという。「どういう話にしようかは、毎回苦しんだわけです。どうにも考えつかないときには、『ふたたび猫』とか『みたび猫』とかいうように、前の話を持ってきてまたいじってみたり。最初からのプロットは何もなかったんですよ」「次のプロットが思いつかないときに、ちょっと一服しようと、緩衝剤みたいな意味もかなりありました」(p314)と。
この裏話を読むと、この「猫」シリーズの登場をなるほどと思う。
< 乳房 >
裏店に住むおさよと信助という若い夫婦の物語。めずらしく仕事が早く終わって、おさよが帰宅し、夫と同じ裏店の後家のおせんとの浮気の現場を目撃する。裸足で家を飛び出したおさよのそれからの心中の葛藤と行動が綴られていく。動揺するおさよに、言葉巧みに与次郎がすり寄ってくる。後に与次郎は女衒を本職とするらしいと人伝に知る。
亭主に裏切られたショック、女心の変転が鮮やかに描きこまれていく。
< おしまいの猫 >
栄之助の嫁が紅屋に戻ってきて、二人目が出来たとわかる頃、栄之助がやっと家業に身を入れ出す。己なりに商い品の内容も変えていこうと構想する。そんな最中に、おもんの旦那に浮気がばれる羽目に・・・・。おもんの旦那はけじめの条件を出す。
「いやとは言わせませんぜ、若旦那」というエンディングは因果応報のオチになる。
さて、栄之助どうする? 読者に物語の続きをを考えさせる終わり方がおもしろい。
< 秋色しぐれ町 >
秋色に染まるしぐれ町の中だけでも、様々な人生模様が営まれていることを点描する小品。政右衛門は油商仲間の会合の後で、おきちが料理茶屋菊本で働くようになったことを知る。草履問屋山口屋を狙う泥棒と探索する島七たち。山口屋夫婦の内輪揉め。一膳めしの亀屋寅太の妹おまつを孕ませたのは誰かの相手探しの顛末譚。櫛引き職人重助とおはつのことなど。悲喜こもごもの日常が続いている。そこに生きている証があるというように・・・・。
どこにでもありそうな、喜怒哀楽に突き動かされている人間模様が淡々と描き出されている。そこに哀感が漂っていると感じる。
ご一読ありがとうございます。
こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『天保悪党伝』 角川文庫
『早春 その他』 文春文庫
『秘太刀馬の骨』 文春文庫
『花のあと』 文春文庫
『夜消える』 文春文庫
『日暮れ竹河岸』 文春文庫
「遊心逍遙記」に掲載した<藤沢周平>作品の読後印象記一覧 最終版
2022年12月現在 12冊
本書は短編12編が収録され、短編連作集。本所しぐれ町の表通りの表店と通りを外れた裏店に住む町民の喜怒哀楽、悲喜こもごもの日常生活状況に焦点があてられていく。一つの町域に住み、日ごろから互いのことがわかっている人々の普段の生活の諸局面が織り交ぜられて、しぐれ町の情景が浮かびあがっていく。全体のトーンとしては、哀感という印象が強く残る。
本作は「波」に連載された後、昭和62年(1987)3月に単行本が刊行され、平成2年(1990)9月の文庫化された。
対談の中で著者は本作について次のように語っている。
「時代小説のいろいろな拵えからちょっと気持ちが離れて、なるべく普通の世の中で起こり得ることを書いてみたかったのです」(p312)
「あまり悪辣な人間を書くのが嫌になりました。若いときにはそうでもなかったのですが、やはり年をとりますと、なるべくあくどい人間を見たくない、そういう感じが今度の作品には、だいぶ反映していると思います」(p315)
「そういう弱さがあるからこそ、人間はいとおしくていいのではないでしょうか。みんな清く正しくでは、これは困りものです」(p315)
「今でもそういう子供は案外いそうな気がして、そのまま突きはなすのはかわいそうな気がします。ですから、さっき言いましたように、いろんな意味でこの小説には、年齢的なものかなり反映されています」(p316) 付記:ここでの子供とは<おきち>をさす。
ここでいう「普通の世の中に起こり得ること」という表現は、江戸時代の本所の町民の物語でありながら、どこの町でもあり得ることであり、形を変えて同様事象の問題が現代社会の庶民の日常生活にも再起しているのではないかととらえることもできるということだと思う。
以下、本書に収録された短編のご紹介と読後印象をごく簡単にまとめてみたい。
< 鼬(イタチ)の道 >
三丁目の菊田屋新蔵の弟がふいに上方から戻ってくる。兄嫁の心理と兄が弟の半次に抱く心理の葛藤が描かれる。そこに人別の届や金銭問題が絡んでいく。
「鼬の道切り」という言葉が最後に出てくる。新蔵の本音を感じ取れる。
< 猫 >
二丁目の小間物屋紅屋の息子、栄之助の浮気。怒った女房が実家に帰っているのに、眼をつけていたおもんという女に手を出す。おもんの飼う猫・たまを栄之助が利用する。新たな浮気の始まりの一コマを描く。男の馬鹿さがこっけいである。
< 朧夜 >
古手問屋萬屋の隠居佐兵衛は「福助」で酒を飲み過ぎた帰路の途中道端で眠ってしまう。「福助」の女中おときが帰路に佐兵衛を見つけて介抱したことがきっかけで、おときは佐兵衛の隠居所に出入りするように。萬屋の主人亀次郎・おくに夫妻の心配と佐兵衛の心境が描きこまれる。立場の違いでお金の意味づけが大きく変わる。
< ふたたび猫 >
ひとの妾であるおもんに紅屋の栄之助が知り合って三月ほどたち、浮気が一歩深まった時点の栄之助の身辺状況話。栄之助と猫のたまとの関わり具合が変化を示す。栄之助がどうなって行くか。栄之助の心境を想像するとおもしろい。
< 日盛り >
同い齢十の新吉と長太、一つ年上のおいとたちの身辺話。子供心がよくわかる。
本所近辺で夜盗が横行しているという世相と長太の家の家庭内問題に焦点が移っていく。どこにでもありそうな日常生活の断片が切り出されている。
< 秋 >
ささいなことで夫婦喧嘩をした翌朝、政右衛門が早朝の散歩に出かける。政右衛門の視点から、しぐれ町の現状を見つめて考える様子が描き込まれる。油を商う佐野屋の帳場にいた政右衛門は、裏店に住むおきちという娘が種油を買いに来たので直に応対するエピソードや、政右衛門は幼ななじみだったおふさにふと会いたくなる思いと実行話が織り込まれていく。夫婦喧嘩をしながらも、このまま行くのが己の人生という点に落ち着くところが現実的である。その現実感は共感を生み出す。
< 約束 >
おきちの父親熊平は酒飲みだった。その父親が借金を抱えて死んだ。十歳のおきちには、与吉とおけいという弟と妹がいる。己が親の借金のけじめをつけると気丈にも判断しそのための行動をとる。借金の約束をおきちが己の身で償う顛末譚。
気丈にふるまうおきちが最後に見せる「やっと十の子供にもどった」瞬間に哀感をいだかざるを得ない。
< 春の雲 >
桶芳の住み込み奉公人千吉十五歳が藪入りの日の一日をどのように過ごすかから始まる。桶芳に臨時の職人左之助が来たことがきたことから、一膳めし屋・亀屋で働くおつぎちゃんにからむ展開となる。千吉がおつぎに寄せるほのかな思いの揺らめきと行動がいじらしい。千吉が一歩ステップアップするところを楽しめる。
< みたび猫 >
紅屋の若旦那栄之助が再々登場。おもんとの浮気の続き話。
この「猫」の登場について、著者は上記の対談の中で、おもしろいことを語っている。引用する。本書の短編は当初「波」に「非常に自由な形の連載」として載り、これは著者の初経験となったという。「どういう話にしようかは、毎回苦しんだわけです。どうにも考えつかないときには、『ふたたび猫』とか『みたび猫』とかいうように、前の話を持ってきてまたいじってみたり。最初からのプロットは何もなかったんですよ」「次のプロットが思いつかないときに、ちょっと一服しようと、緩衝剤みたいな意味もかなりありました」(p314)と。
この裏話を読むと、この「猫」シリーズの登場をなるほどと思う。
< 乳房 >
裏店に住むおさよと信助という若い夫婦の物語。めずらしく仕事が早く終わって、おさよが帰宅し、夫と同じ裏店の後家のおせんとの浮気の現場を目撃する。裸足で家を飛び出したおさよのそれからの心中の葛藤と行動が綴られていく。動揺するおさよに、言葉巧みに与次郎がすり寄ってくる。後に与次郎は女衒を本職とするらしいと人伝に知る。
亭主に裏切られたショック、女心の変転が鮮やかに描きこまれていく。
< おしまいの猫 >
栄之助の嫁が紅屋に戻ってきて、二人目が出来たとわかる頃、栄之助がやっと家業に身を入れ出す。己なりに商い品の内容も変えていこうと構想する。そんな最中に、おもんの旦那に浮気がばれる羽目に・・・・。おもんの旦那はけじめの条件を出す。
「いやとは言わせませんぜ、若旦那」というエンディングは因果応報のオチになる。
さて、栄之助どうする? 読者に物語の続きをを考えさせる終わり方がおもしろい。
< 秋色しぐれ町 >
秋色に染まるしぐれ町の中だけでも、様々な人生模様が営まれていることを点描する小品。政右衛門は油商仲間の会合の後で、おきちが料理茶屋菊本で働くようになったことを知る。草履問屋山口屋を狙う泥棒と探索する島七たち。山口屋夫婦の内輪揉め。一膳めしの亀屋寅太の妹おまつを孕ませたのは誰かの相手探しの顛末譚。櫛引き職人重助とおはつのことなど。悲喜こもごもの日常が続いている。そこに生きている証があるというように・・・・。
どこにでもありそうな、喜怒哀楽に突き動かされている人間模様が淡々と描き出されている。そこに哀感が漂っていると感じる。
ご一読ありがとうございます。
こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『天保悪党伝』 角川文庫
『早春 その他』 文春文庫
『秘太刀馬の骨』 文春文庫
『花のあと』 文春文庫
『夜消える』 文春文庫
『日暮れ竹河岸』 文春文庫
「遊心逍遙記」に掲載した<藤沢周平>作品の読後印象記一覧 最終版
2022年12月現在 12冊