遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『ちゃんちゃら』   朝井まかて   講談社文庫

2025-01-08 18:27:29 | 朝井まかて
 主人公の名は「ちゃら」。江戸・千駄木町にある「植辰」の辰蔵親方のもとで修行する庭師。なぜ「ちゃら」という奇妙な名前なのか。
 それは、辰蔵との出会いにある。ちゃらは浮浪児だった。辰蔵の目の前で茶店の握り飯を掠め取り、逃げ、神社の楠の天辺に上って飯にかぶりついていたら、辰蔵が追いかけてきた。「庭師の仕事はな、空仕事ってぇ呼ばれるんだ」と辰蔵が声をかけた。そして、「おめぇ、空仕事をしてみろ」と言われた。それがきっかけである。辰蔵に「ちゃんちゃら可笑しいや」という啖呵を切ったことから、「ちゃら」と呼ばれることに。本書のタイトルはこの啖呵に由来するようだ。
 ちゃらが辰蔵の弟子となり、植辰に入ってから10年になる時点から、このストーリーが始まる。
 読了後の第一印象は、爽快さが余韻となる短編連作風の長編時代小説である。

 本書は、2010年9月に単行本が刊行され、2012年12月に文庫化されている。

 「石を組んで木を植えるんだ。木に登って枝を抜いたり、葉を刈ったりもする。空に近い場所で働くから、庭師の仕事は空仕事だ」(p8)という辰蔵親方の言で、庭師のことを「空仕事」というのを初めて知った。

 本作の構想は楽しめる。序章が「緑摘み」、終章が「空仕事」。その間が5章編成になっている。序章は、植辰で「小川町のご隠居」と呼ぶ元北町奉行所の凄腕与力・是沢与右衛門宅の庭での仕事場面から始まる。この導入では辰蔵の人柄やちゃらのプロフィールがあきらかになる。さらに、与右衛門が辰蔵に問い掛ける形で各章の底流で蠢いていく一つの流れへのキーフレーズが織り込まれる。「そなた、嵯峨流正法なるものを存じおるか。・・・・ 作庭だ・・・・・・ 嵯峨流をな、復興した文人がおるらしい・・・・」(p14)
 辰蔵は、20年ほど前に、植辰二代目の父の元で修行した後、他流仕込みとして、京に赴き修行した時代があった。辰蔵は嵯峨流という名門一派が京にあったということを知っていたが、嵯峨流正法のことは知らなかった。

 序章に続く5章は、
   第1章 千両の庭 / 第2章 南蛮好みの庭 / 第3章 古里の庭
   第4章 祈りの庭 / 第5章 名残の庭

 これらの見出しから想像できるように、異なるスタイルの作庭が基本テーマとして各章に組み込まれていく。これが作庭という観点でなかなか興味深い。
 それとパラレルに、底流となる蠢きが要所要所に現れる。嵯峨流正法を復興した文人の企みが植辰一家に苦難を及ぼす諸事象を発生させて行く。植辰一家が苦難に遭遇する要因となる。勿論、その原因は、徐々に明らかになっていく。お楽しみに。

 辰蔵の指導の元でちゃらが作庭に取り組むのだが、作庭はいわばチーム仕事でもある。さらに周辺で仕事を支える人もいる。ここで辰蔵以外の主な登場人物をあげておこう。

福助  :頭だけが異様に大きい小男。池泉や流れなどの水読みに秀でた庭師。
     辰蔵が京で他流仕込みの修行中に一緒だった仲間。江戸に来て植辰に居付く
玄林  :髭面の偉丈夫。石組の腕に優れる庭師。入手した石の置き場を山に持ち、塒は
     駒込にあるが、5年前に植辰に出入りしたのを契機に、植辰に寝泊まりする日
     が多い.1年の半分は石探しで諸国を歩き、江戸を留守にする。
百合  :辰蔵の一人娘。他流仕込みで京に赴いた辰蔵が京で所帯を持ち生まれた子。
     母は辰蔵が江戸に戻る前に死亡。百合が植辰一家の家計・賄いを担っている。
五郎太 :ちゃらより2歳年上だが、弟弟子。2年も経たぬ内に実家に戻る。実家が柴惣
     と称する船宿。結局、船頭になる。百合に思いを秘めている。

 各章を簡略にご紹介し、読後印象も付記する。

< 第1章 千両の庭 >
 日本橋石町新道にある大店、薬種商瑞賢堂の角兵衛からの作庭注文。角兵衛は、恥掻く、義理欠く、礼を欠くの三かくの旦那として悪評がある。蔵一つを潰した跡地を含めた70坪ほどに、千両の庭を、梅雨入りまでに仕上げてほしいという注文。角兵衛は千両を費やした庭との評判をとりたい狙いなのだ。庭は北庭となる。お留都という娘が居るが目病みを患い、視力がほとんどないことを知る。ちゃんはお留都に優しい作庭を試みる。一方、角兵衛は嵯峨流正法の門人と偽って、作庭に横やりを入れることに・・・・・。

< 第2章 南蛮好みの庭 >
 根岸にある料理屋琉亭の500坪に近い平庭を、施主である女将の希望で南蛮好みの庭にすることを依頼される。女将は縁担ぎが甚だしく、植辰が依頼を受けるまでに名だたる庭師が幾人もこの庭の仕事を降りていた。庭がほぼ完成した段階で、一人の道服姿の男が「女将には私から指図する」と述べ、ちゃらに直接に思わぬ注文を付ける。庭の主木である羅漢槙を龍に刻めという・・・・・。ちゃらは龍を刻む。
 嵯峨流正法を復興した文人が、辰蔵の前に姿を現した。女将は辰蔵に家元の白楊様だと告げる。辰蔵と白龍の対峙が始まる。波乱の幕開けとなり、悲劇が起こる。
 この章で、「籠(コミ)仕立て」という技法を知ることになった。また、庭における水の流れが重要なポイントになっていることがわかる。

< 第3章 古里の庭 >
 ストーリーの底流部分からます始まる。白楊によるちゃらスカウトの行動。一方、植辰の顧客たちの庭で庭木が枯れるという事態が連続して起こる。現場を調べて、辰蔵は木殺しと見抜く。不穏な事象が始まる。
 作庭依頼が入る。薮下道を根津権現に向かって下った道沿いの仕舞家に住む老夫婦が新しい施主である。施主は庭の柿の木が気に入り、その家を即決で購入したという。ちゃらはこの老夫婦に雑木の庭を提案する。それは辰蔵・福助・玄林にはなかった発想だった。 古里の庭が完成した後の騒動譚が興味深い。庭とは何か、という理念につながっていくと受け止めた。

< 第4章 祈りの庭 >
 木殺しという原因はわかりつつも、辰蔵が施主たちへの誠実な賠償行為を実行している状況と、世間で発生している流行り病という事象からストーリーは進展する。傷寒の流行とは別に、傷寒に対処している月光寺に気狂いの行き倒れが運びこまれたという。これが新たな進展への因となる。
 流行していた傷寒が終息してきた状況下で、ちゃらの発案を受け、月光寺の庭に雑木の庭づくりが始まる。それがなぜ祈りの庭なのかが、この作庭の顛末譚となる。
 「親方、どうぞお願い申します。雑木の庭の普請で、生きる術も希望も持たぬ者たちに己の足でこの世に立つ道をつけてやってください」(p284)という発言に集約される。この発言者がだれか。それが楽しめて余韻の深いオチになっている。

< 第5章 名残の庭 >
 序章に登場する是沢与右衛門宅の庭に奥庭を仕立てる。施主与右衛門は玄林に構想を任せた。それをちゃらが手伝う。三体の石を使う庭である。これが名残の庭の作庭となる。景石、組む、据える、捨て石、石の根が切れる、という用語を学ぶ機会になった。「木心を汲むように、石の心も聴け。どこにどう坐りたいかも、聴けば石は答える」(p291)という一文が印象深い。
 この章において、底流として蠢いてきた諸事象の根源である嵯峨流正法宗家・白楊の企みの全貌が表に現れる!! いわば大団円へと進展し、読者には予想外の事態が生起することに・・・・・。
 この章で印象的な箇所を引用してご紹介したい。それがどのような文脈で発せられたのかは、本書にて味わっていただきたい。
 「静けさって、音があって初めてわかるものね」(p294) → お留都の言
 「子供の頃、獣のようだった俺にも魂があったとすれば、その魂を見くびらずに対等に扱ってくれたのは親方だ。それが慈悲というものじゃねえんですか。この世に苦しみは満ちている。だが慈悲も満ちている。浄土とはそうやって、生きる苦しみも悲しみも全部引き受けて、いつか己が心に築くものじゃねえんですかっ」(p360) →ちゃらの言

 終章は主な登場人物のその後を語る。ここには触れない。やはりお読みいただいての楽しみだろう。

 楽しく読めるのは間違いない。
 ご一読ありがとうございます。


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『藪医ふらここ堂」  講談社文庫
『花競べ 向嶋なずな屋繁盛記』  講談社文庫
『悪玉伝』    角川文庫
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「遊心逍遙記」に掲載した<朝日まかて>作品の読後印象記一覧 最終版
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『藪医ふらここ堂」  朝井まかて  講談社文庫

2024-08-24 16:29:09 | 朝井まかて
 神田三河町に天野三哲という小児医が住んでいる。自宅兼診療所の前庭に大きな山桃の木があり、三哲は娘・おゆんの幼い頃に、自ら板を削り、2本の綱を通して、山桃の枝に吊るし、ふらここと称する遊具をこしらえた。今も子供たちがそのふらここで遊ぶ。そこで三河町界隈では「藪のふらここ堂」と渾名されている。本書のタイトルはここに由来する。
 本作は医療時代小説。「一 薮医、ふらここ堂」から始まり、「九 仄々(ほのぼの)明け」の9つのセクションで構成され、ふらここ堂とその周辺の下町庶民との関わりを日々の逸話として描いていく。それぞれが短編としてほぼ完結しながら、一方ストーリーの背景でつながりがあり、ふらここ堂の三哲とおゆんを軸に日常生活の状況が進展していく。
 江戸の下町庶民の生活を楽しみつつ、一町医者の生き方を描く長編小説といえる。
 本書は2015年8月に単行本が刊行され、2017年11月に文庫化されている。

 各逸話が娘のおゆんの視点から描き出される形で一貫しているので、様々な事象を織り込みつつ全体で長編小説を成している。私は全体のストーリーの流れをそのように受け止めた。江戸の下町の日常生活、人間関係の様々な側面を話材に織り込みながら、江戸で発生する子供の病気と病気への対処がストーリーの中軸に据えられている。底流には天野三哲という小児医の医者としてのスタンスの貫徹がある。外観と日常行動では「藪のふらここ堂」と呼ばれ、親しまれながら藪医者とみなされている人物なのだが、見えないところで凄腕を発揮する。ストーリーの流れからは意外な結末となるところが楽しい。

 「藪のふらここ堂」の医療活動の日常を切り回しているのは、娘のおゆん。父の三哲の日常はいわばでたらめである。朝寝坊はする。患者を平気で待たせる。「面倒臭ぇ」というのが口癖で、面倒な状況からはすぐに逃げ出してしまう。いつもおゆんがその後始末をしなければならない。だが、三哲は医療の根源においては、己の確固たる信念を持つ。
 患者本人の自己治癒力を信じ、それをサポートする治療を心掛けているようである。
 「薬なんぞ要らねえよ。」「だから必要がねえんだよ。そもそも、こんなに汗が出ているってのは熱が下がりかけてる証だ。自分で治ろうとしてんだよ、この子は」(p40)
 「無闇に薬をやりたがるんじゃねぇ。今はな、身中に回った毒を外に出してんだ。そりゃあ辛ぇに決まっているさ、五臓六腑が口と尻から出ちまうような苦しさだ。だがな、毒を出す流れを薬で止めたら、それこそ御陀仏なんだよっ」(p69)

 三哲には、半ば押しかけで入門してきた次郎助という弟子がいる。彼は、通りを隔てたすぐ先の水菓子屋、角屋の倅で、おゆんの幼馴染み。おゆんは幼馴染みであること以外は全く意識していないのだが、次郎助はおゆんへの思いを秘めている。それが本作の底流にあり、読者のはどう進展するのかが気になる側面として、読み進めることになる。
 ふらここ堂には、近所の長屋に住む高齢だがいまだ現役で凄腕の取上婆と評判の高いお亀婆さんが、しょっちゅう出入りしている。ふらここ堂に上がり込み、ちゃっかり食事をし、おやつをもらっていくという婆さん。ふらここ堂の家族のような溶け込みと振る舞いが読んでいて楽しい。にぎわかし役でもあり、ちゃっかり婆さん。このお亀婆さん、やり手なのだ。そして、物知りでもある。

 下町の日常生活の様々な側面のちょっとしたエピソードの積み重なり、織り上げられてこのストーリーの絵姿が見えてくる。三哲は思わぬ陰働きもする。

 9つのセクションをキーワード風にご紹介しておこう。
<薮医 ふらここ堂>
 天野三哲とおゆん。薮医ふらここ堂の登場。太物問屋の孫の発熱騒動に三哲流の処置。

<二 ちちん、ぷいぷい>
 佐吉と息子勇太の登場。嘔吐と下痢ー集団食中毒に三哲・おゆんの奮闘。

<三 駄々丸>
 勇太の手習塾初登山エピソード。親から神童呼ばわりされる娘の治療。

<四 朝星夜星> 
 勇太の日常。掃墨秘薬騒動。

<五 果て果て>
 丸薬三哲印製造の夢話。薬問屋・内藤屋による料理屋美濃惣にてのご招待。

<六 笑壺(えつぼ) >
 三哲の出自。町役人の来訪。

<七 赤小豆>
 宝暦10年(1760)正月の千客万来。兄・三伯長興の来訪。明石屋火事。おみちの反発。

<八 御乳持(おちもち)>
 おゆんの屈託。佐吉の出自。神田祭
 
<九 仄々明け>
 鶴次とおせん。佐吉と勇太の出立。三哲の計らい。おせんの出産。おゆんの決断。

 次のような描写が出てくる。
*患家の多い医者にどんな特徴があるかを、私なりに思い起こしてみました。立派な身形と門構えを整え、往診には紋入りの薬箱と、弟子も何人も従えています。難しい医書をいくつも携えて、それも患家の信頼を得る秘訣でしょう。もちろん患者やそのお身内の機嫌を取り結ぶのが第一ですから、日に二度三度と病人の様子を見に赴き、年始や暑中見舞いもかかしません。
 そんな医者にも腕のたしかな人はいますが、怪しい人も少なくありません。p152-153
*慈姑(くわい)頭に長羽織をつけているので、豪勢にやっているおお医者さんなんだろうと思った。
 長羽織は己が富貴な名医だと世間に物申しているいような身形でいわゆる徒歩医者と呼ばれる町医者よりも格上とされているらしい。   p203
*患者への往診にも四枚肩の籠に乗り、従者や薬箱を持つ弟子も、皆、歩かない。その籠代は薬代に上乗せされ、すべて患者が持つそうだ。 p203-204

 江戸の医者の生態は、形を変えて現代の医者の生態に通じていると著者は描いているようにも思った。見かけの名医と本物の名医。人は見かけに騙される。いつの時代も同じか。

 もう一つ、興味深く感じたのは、天野三哲の生きる時代を将軍徳川家重在位の後半期に設定していることである。三哲が「小便公方」という言葉を使う場面が出てくる。少し前に、村木嵐著『まいまいつぶろ』という時代小説を読んでいたので、思わぬところで接点が出てきて、おもしろさを感じだ。

 文庫の「解説」を作家・医師である久坂部羊さんが書かれている。それを読むと、この小説には、実在のモデルがいた!「江戸時代の中期、第九代将軍家重に拝謁し、西之丸奥医師を拝命した篠崎三徹がそれで、」と記されている。
 読後に「解説」を読み、なるほどと思った。実在のモデルとこのフィクション化との差異は知らない。だが、医者と患者、病気の治癒力などを扱う著者の視点がおもしろい。

ご一読ありがとうございます。


補遺
11.当世武野俗談  旗本御家人Ⅲお仕事いろいろ :「国立公文書館」

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『花競べ 向嶋なずな屋繁盛記』  講談社文庫
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『花競べ 向嶋なずな屋繁盛記』  朝井まかて  講談社文庫

2024-06-05 22:40:26 | 朝井まかて
 著者のデビュー作がこれだと知り、遅ればせながら読んだ。
 文庫本の解説の冒頭を読むと、本書が著者のデビュー作、しかも初めて書いた小説だったという。小説現代長編新人賞奨励賞を受賞した作品である。
 当初、2008年10月に『実さえ花さえ』の題で単行本が刊行された。それに加筆、改題して、2011年12月に文庫化されている。

 かなり前に、何の本だったか忘れたが、江戸時代に朝顔が園芸品種として盛んに栽培されその交配により様々な新種が生み出されたこと。園芸が一種の流行となっていて、下級武士層の内職仕事になっていた側面もあったこと。今では見られない品種も存在したことを読んだ記憶がある。また、染井吉野という桜は、江戸時代末期に、オオシマザクラとエドヒガンの交雑種として作り出されたこと。それらが記憶の底にあった。

 そんなことから、本作が江戸時代、文化・文政期に、新次とおりんの夫婦が向嶋で営む「なずな屋」という植木屋が舞台になっていて、植木職人、花師である新次が主人公でおりんが甲斐甲斐しく新次を助けていくという設定が親しみやすかった。さらに花師という職人の世界を扱っていることに興味を抱いた。この分野の職人を扱う小説を読むのは初めてである。初物の楽しみ。

 駒込染井にある霧島屋という江戸城にお出入りする植木商に植木職人として奉公し、六代当主、伊藤伊兵衛政澄みの一人娘、理世とも花師となるべく共に修業を積んでいた新次がこの小説の主人公である。新次は霧島屋を去り、文人墨客が好み大店の寮(別荘)や隠居所が点在する風雅で鄙びた向嶋になずな屋という植木屋をおりんとともに営んでいる。敷地の中心になずな屋の母屋がある。それは元豪農の隠居所だった家屋で三間きり。そこを新次とおりんは住居兼店としている。敷地の周囲を藪椿と櫟の混ぜ垣を低く結い回し、そぞろ歩きの人々も庭の風景が垣間見えるようにしてある。敷地の庭には新次が丹精込めて植木や花々を育成している。苗選びに訪れる客は敷地を巡り、縁側でおりんから番茶の接待を受けるという小体な店である。
 新次は「売り物といえども、むざむざ枯らされちゃ花が可哀想だ。それで花いじりが厭になっちまうお客にも気の毒だ。だから売り放しにはしねぇ、どんな相談にも乗るのが尋常だ」(P12)とおりんに言い暮らす職人肌の花師。一方、おりんは生家が浅草の小間物屋であるが、事情があり生家を出た後は深川の伯母の家で裁縫やお菜ごしらえを教わりながら過ごした後、手習いを教えるようになった。新次が名付けた新種の花の名の清書を頼まれたことがきっかけとなり、気がつけば、おりんは新次の女房になっていた。おりんは売り物の苗に「お手入れ指南」といういわばマニュアル文を添えることを考案し、墨書したものを添付するようになった。それが客から評判がいい。おりんのからりとした明るい性格と工夫心が実に良い。
 こんな夫婦の「なずな屋」物語。出だしからなかなか好い雰囲気・・・・・。引きこみかたが巧い。

 さて、ストーリーの第一幕は、向嶋の隠居所に住む日本橋駿河町の太物問屋、上総屋の隠居の六兵衛がなずな屋を訪れてきたことから始まる。お手入れ指南の片隅に三月に売り出す花の広目(宣伝)の書き入れをどこかで目にした六兵衛が頼み事にきたのである。
 新次の生み出した発売予定の新種の桜草を小鉢に仕立てたものを、快気祝いの引き出物にしたいという。配る相手は見舞いに訪れて励ましてくれた俳諧仲間なのだ。
 小鉢の選択は新次に任され、桜草30鉢の納入。鉢の代金を含め総額30両までは掛けようと言う。勿論、新次は有難く引き受ける。六兵衛が気に入った桜草は問題ない。それにマッチする小鉢をどうするか。そこからこの納品までの紆余曲折が始まっていく。

 このストーリーに、しばしば新次の幼馴染みである大工職人留吉一家が絡んでくる。女房のお袖との間に男の子二人がいるが、留吉とお袖の間ではいざこざが絶えない。その仲裁役を新次に振ってくるのだ。おりんがお袖のために去状を代筆することに発展する位である。勿論、お袖がそう簡単に離縁する訳ではないのだが・・・・・。この一家の関わりがいわば1つのサイド・ストーリーになっていき、楽しませてくれる。そこには江戸市井の庶民の感覚が溢れている。
 新次の悩みを手助けしておりんが桜草の納品に絡んで出したアイデアが、留吉を巻き込むことにもなる。この後も、留吉・お袖夫婦が幾度も登場してきて面白味を加える。

 もう1つ、サイド・ストーリーが織り込まれていく。それは六兵衛の孫でいずれ上総屋の跡取りとなる辰之助に関わる話である。最初、なずな屋まで六兵衛に奇妙な形で同行してきたときから始まる。凡人からみれば、辰之助の波乱含みの生き方が節々で描かれつつ、新次との関わりが深まっていく。その関わりが1つの読ませどころになっていく。

 さて、メイン・ストーリーの第二幕がタイトルの「花競べ」になる。
 桜草の小鉢もので縁ができた六兵衛が、その話を新次に持ち込んで来る。
 花の好事家の集まりである「是色連(コレシキレン)」により、3年に一度、重陽の節句の翌日の9月10日に「花競べ」が行われる。勝ち抜き式の評定(審査)は浅草寺の本堂で行われる。この花競べに新次に出品して欲しいと六兵衛が頼みに来るのだ。出品のお勧めではなく依頼という所に、この第二幕の眼目があった。六兵衛は是色連にも関係していた。
 六兵衛は新次に言う。「有り体に申しましょう。このままでは、霧島屋さんは大変なことになる」(P99)と。さらに、その内情については探りをいれている段階だともらす。
 霧島屋は新次が花師の修業をした花の世界では特別な家。霧島屋の一人娘の理世と切磋琢磨した場所でもあった。現在の当主は七代目伊藤伊兵衛治親。5年前に理世の婿養子となった。元500石取りの旗本の三男坊である。彼の野心と行動が問題となっていた。
 新次は六兵衛の依頼を受け、何を出品するかについて工夫を重ねていく。
 この頃、新次は日頃雀と呼んでいる子供を預かっていた。草花の棒手振(行商人)を生業とする栄助の子である。栄助は売り物にする苗の仕入れでなずな屋に出入りするようになり、栄助は育種について新次に教えを受けてもいた。栄助は商いで上州に旅をするのでしばらく預かって欲しいと、子を託して行ったのだ。そして、音沙汰を絶つ。
 子がいない新次・おりん夫婦にとって、雀は家族の一員のようにもなり、新次の弟子の立場にもなっていく。
 この雀は、新次が花競べに出品する作品の名付け親となるとともに、第二幕から始まるサイド・ストーリーの1つになっていくとだけ述べておこう。お楽しみに。
 9月10日、花競べの場で、新次は理世と再会する。新次と理世の微妙な関係性、この点もまたこのストーリーの読ませどころとなる側面である。この小説に織り込まれた秘やかな花物語と呼べるサイド・ストーリーかもしれない。

 メイン・ストーリーには、第三幕がある。
 その翌年の半ばに、新次は駒込染井にある藤堂家の下屋敷から用命を受ける。
 用人の稲垣頼母からの要件は、毎年2月15日に大勢の客を招いて、殿が仲春の宴を催される。下屋敷の東庭が宴に使われる。野遊びの趣向で100坪の庭を仕立てよというのが新次に名指しで依頼されたのである。
 頼母は言う。「霧島屋になら遠慮は不要ぞ。主庭と北庭は霧島屋にすべて任せているが、東庭は宴にしか使わないものでな。腕利きの庭師や花師にも広く機会を与えてやるよう、殿の仁恵である。むろん、霧島屋には某から筋を通してあるゆえ、安心いたせ」(p166)
 新次はこの仕事に花師としての思いと手持ちの植物類を注ぎ込む。だが、この仕事の依頼には、用人の知らぬ次元で裏のカラクリが潜められていた。

 このストーリー、最後はそれぞれのサブ・ストーリーのエンディングが重ねられていく。メインである花師新次のストーリーは、吉野桜で締めくくられる。このエンディングへのプロセスが読ませどころといえる。
 この最終段階全体を第四幕というべきかも知れない。
 松平定信まで登場して来る。その定信が良い役割を担っているのだ。そこがおもしろい。 

 ご一読ありがとうございます。


補遺
第二章 独自の園芸の展開 :「NDLギャラリー」(国立国会図書館サーチ)
  描かれた動物・植物-江戸時代の博物誌-
草木に1億円!江戸の園芸ブームは数々の品種を生み出していた :「はな物語」
江戸のガーデニングブームはなぜ起きた?一番人気だった花とは :「AERAdot.」
展覧会 花開く 江戸の園芸 :「江戸東京博物館」
染井吉野   :「桜図鑑」
ソメイヨシノ :「庭木図鑑 植木ペディア」
ソメイヨシノと‘染井吉野’はちがう?!意外と知らない桜の真実  :「HONDA」

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『悪玉伝』    角川文庫
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『悪玉伝』   朝井まかて   角川文庫

2024-03-13 18:40:55 | 朝井まかて
 「行くで。どこまでも、漕ぎ続けたる」が本作末尾の文。その少し手前に、「わしこそが亡家の悪玉やった。欲を転がして転がして、周りの欲もどんどん巻き込んで、江戸まで転がったわ。けど、これこの通り、生き残った。しかも船出するのや。惨めな、みっともない船出やけど、船には弁財天が乗る。悪玉の神さんや」(p436-437)という箇所がある。「悪玉伝」というタイトルは、この箇所に由来するようだ。
 わしこそ悪玉と述懐するのは、大坂の炭問屋に養子に入って、炭問屋の主となった木津屋吉兵衛である。なぜ、こんな述懐をしたのかがこのストーリー。
 大坂で名の知られた吉兵衛が、実家の辰巳屋を継いだ兄の急逝と事情により、正式に辰巳屋の跡目相続人となる。だが謀計による家督横領と訴えられたことが因となり、捕らえられて江戸送りの身に。伝馬町の牢暮らしと取り調べの日々を耐え抜いて、サバイバルして出獄する・・・・・その顛末の半生が描き出される。
 
 「悪玉」という言葉は経験的に考え、文脈により様々な意味づけやニュアンスで使われると思う。吉兵衛が己を悪玉と述懐する他に、視点を変えて本作を見直すと、様々な悪玉が登場しているストーリーと見ることもできる。真の悪玉は誰かと問いかけているストーリーという側面を内包しているようにも思う。そこがおもしろい。

 本書は2018年7月に単行本が刊行され、第22回司馬遼太郎賞を受賞。令和2年(2020)12月に文庫化されている。

 本作はその構成が実に巧みである。
 メイン・ストーリーは木津屋吉兵衛の半生物語である。そこには、大坂商人の慣習、思考、行動がベースになっている。商人の目で押し通す。
 吉兵衛は大坂の有数の炭問屋木津屋に養子になる。その商売面においてではなく、長年遊蕩と学問の方に走ったことで世間にその名を知られる。それが因で、三万両あった木津屋の身代が潰える寸前までに立ち至る。そこからこのストーリーが始まる。読者は吉兵衛のプロフィールをまず鮮やかにイメージできる。ここがいわば「起」と言えようか。

 実家辰巳屋の当主である兄の急死が吉兵衛に伝えられる。大坂の豪商「御薪 辰巳屋」に吉兵衛は駆けつけ、兄の通夜と葬儀に弟として采配を振るい、兄の娘・伊波を助けて、辰巳屋の家格・体裁を示そうとはかる。が、そこに大番頭の与兵衛が横槍を入れてきて、吉兵衛を排除しようと試みる。徐々に吉兵衛は長年離れていた実家辰巳屋の内情を知って行くことになる。吉兵衛は一旦、おのれが跡目相続人となる正式な手続きを推し進める。その背景の一因は、吉兵衛の兄が泉州の海商である唐金屋から養子に迎え、いずれ伊波と娶すつもりだった乙之助にあった。この通夜から跡目相続人になるまでが、ストーリーの最初の山場になっていく。「承」にあたる。

 パラレルにサブ・ストーリーが「第二章 甘藷と桜」から始まっていく。こちらの舞台は江戸。寺社奉行ほかの役職を担う大岡忠相が登場する。こちらは政治・行政の目という位置づけになり、大岡忠相の視点からストーリーが織り込まれていく。
 公方吉宗公に敬服する忠相は吉宗公に見込まれて行政手腕を発揮してきた。江戸町奉行から寺社奉行に栄進したのだが、内心は一種の左遷ではという思いを抱いている。そんな忠相が、吉兵衛の事案に関わっていくことになる。それは、なぜか。
 吉宗は将軍となり抜本的な財政立て直しに乗り出した最中の享保6年に、「御箱」を設置する仕組みを創設した。投函された「目安」(訴状)に自ら目を通し、吟味を要すると判断した訴状内容には、問題解決担当者を決めて吟味させるのだ。大坂商人の跡目出入の一件を吉宗は問題事象に取り上げた。大坂での裁きに対する不服を江戸で出訴した目安だった。この目安の内容の吟味・解決に対する御用懸4名の一人として忠相は関与する立場になう。この時点から、忠相が吉兵衛の事案に関わっていく。
 このサブ・ストーリーの興味深さは、まず、忠相の子飼いの役人である、薩摩芋御用掛の任に就いている青木文蔵(号は昆陽)と「公事方御定書」の編纂を任とする加藤又左衛門枝直を忠相の自宅に登場させる場面から始まる。さらに、忠相が染井村の霧島屋を玉川に桜の木を植樹する事案で訪れる場面、吉宗公から呼び出され吹上御庭に参上する場面が重ねられていく。これらの場面は、御用懸の任を担当することになる忠相にとっての伏線となっていく。

 江戸で投函された目安を吉宗が取り上げることになり、その当事者として吉兵衛が捕らえられて江戸送りとなる。この辺りからが、いわば「転」だろう。捕らえられた時の吉兵衛の思惑と行動、江戸送りの道中での入牢についての付きそう役人から教えられる知識、伝馬町での入牢生活が、吉兵衛の視点から描き出されていく。
 読者にとって、このプロセスは吉兵衛の観察力としたたかさ、彼の思考を眺めていくことになる。
 一方、副産物として、江戸時代の伝馬町の牢屋の仕組みと実態を具体的に知ることになる。このあたり、当時の状況を著者はかなりリアルに描き込んでいるのではないかと思う。
 
 遂に、具体的に「辰巳屋一件」の取り調べが始まる。ここからは一気に読み進めてしまう大きな山場となっていく。「結」のプロセスである。
 吉兵衛は入牢生活に絶え抜いていく。その中で智謀を巡らし、己がなぜその窮地に陥れられたかに思いを巡らす。取り調べへの対応策を練る。大坂での遊び仲間である升屋三郎太や大和屋惣右衛門が吉兵衛を支援する。だが、彼等もまた吉兵衛の取り調べに巻き込まれていき、己のことで精一杯になっていく。辰巳屋の番頭で吉兵衛を子供時代から知る嘉助もまた吉兵衛の居る牢屋に入牢させられる羽目に・・・・。
 牢内では牢内役人の辰三との関係が深まり、辰三は吉兵衛に情報を提供してくれるようになっていく。
 吉兵衛は己の立場を堅持する。奉行所側の取り調べの結果の請証文に対し爪印を捺すことを拒絶する。
 疫病がはやり牢名主が死ぬ。その直前に吉兵衛は思わぬものを入手した。吉兵衛は己の戦略で奉行所側と交渉をするタフさを発揮していく。
 さて、具体的にどのような展開になるかは、本書で楽しんでいただくとよい。

 江戸時代の政治経済状況について、ストーリーの背景に事実情報を数多く盛り込みながら、木津屋吉兵衛のしたたかさと行動に、読ませどころを盛り込んでいく。
 大坂と江戸の文化差も盛り込まれている。その中で、大坂の商人の目と江戸の政治・行政者の目の対比が興味深い。その底流に「民を動かす根本は美辞麗句でも脅しでもなく、『欲』だ」(p109)が潜んでいる。政治・行政の目の裏側にもまた、己の利が働いている側面が垣間見える。
 将軍吉宗もまた多面性を持つ人であることを大岡忠相の目を通して描写している。この点もおもしろい解釈だと思った。吉宗は「米将軍」「野暮将軍」と陰で呼ばれていたという。このストーリーの中では、大岡忠相もまた、政治の目で、吉宗の思考を忖度してこの御用懸の任を務め、判断している印象を私はもった。

 エンターテインメント性もたっぷり盛り込まれている。特におもしろいと思うのは、吉兵衛とお瑠璃の関係である。島原の遊郭で禿だったお瑠璃を身請けして女房にした。そのお瑠璃は吉兵衛を嫌う一方で、寒牡丹の育成を趣味にしている。この二人の関係性である。
 本書の表紙には、牡丹がデザインされている。ストーリーの底流では、牡丹が江戸の吹上御庭、木津屋と辰巳屋の庭、牡丹の連仲間、泉州の荒金屋へとつながっている。趣味の世界はそれぞれが無意識の内に輪環しているのだ。「寒牡丹が売れたんどす」(p434)とお瑠璃が吉兵衛に告げる一言にリンクする。

 全体の構成のおもしろさ。さすが受賞作だけのことはある。

 ご一読ありがとうございます。
 
 こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『ボタニカ』   祥伝社
『朝星夜星』   PHP
「遊心逍遙記」に掲載した<朝日まかて>作品の読後印象記一覧 最終版
                 2022年12月現在  8冊
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『ボタニカ』  朝井まかて  祥伝社

2023-08-07 15:07:22 | 朝井まかて
 NHKの朝ドラ「らんまん」は人気があるらしい。朝ドラは見ていないので内容は知らない。NHKのウエブサイトを見ると、連続テレビ小説であり、「春らんまんの明治の世を舞台に、植物学者・槙野万太郎の大冒険をお届けします!!」の後に、「高知県出身の植物学者・牧野富太郎の人生をモデルとしたオリジナルストーリー」だと記されていた。 本書は、2021年の『類』に続いて、牧野富太郎その人の植物研究人生を綴った伝記風小説である。史実にフィクションを織り込んだものと思うが、牧野富太郎その人の風貌と生き様のエッセンスはこの作品の中軸としてしっかり捉えられているように感じた。
 世間的な物差しでみれば、やはり奇人変人の部類につらなる一人なのだろう。植物と語り合い、植物研究の為にはお金のことなどお構いなしに己の思いを貫き進んで行く。まず研究ありき。事情、状況がどうであろうと、それを結果的に貫けたという人生はなんと恵まれた人だったのか・・・・・そんな思いが第一印象に残る。

 著者はこの小説を次の文章で結んでいる。(p494)

   惚れ抜いたもののために生涯を尽くす。かほどの幸福が他にあるろうか。
   この胸にはまだ究めたい種(ボタニカ)が、ようけあるき。
   ゆえに「どうにもならん」と「なんとかなるろう」を繰り返している。

   富さん、ほら、ここよ。 
   富さん、私のことを見つけてよ。
   一緒に遊ぼうよ。

 本書のタイトル Botanica(ボタニカ)は、ラテン語で「植物の」という意味という。
英語で botanical になるのだろう。ネット検索すると、ラテン語では、植物(botanica comes)、植物学(botanicae)と説明されていた。
 本書の最終章が「十三 ボタニカ」で、その中に上掲の「種」にボタニカとルビがふられている。本書タイトルはここに由来するのだろう。
 本書は月刊『小説NON』(2018年11月号~2020年11月号)に連載後、加筆・訂正を加え、令和4年(2022)に刊行された。

 植物学者で絵の巧みな牧野富太郎という名前はどこかで見聞していたが、それ以上に踏み込んで考えたことがなかった。小説という形ではあるが、本書で初めて牧野富太郎という人物の全貌をイメージでき、一歩近づけた気がする。
 文久2年(1862)土佐(高知県)佐川村の牧野家に生まれた。屋号を「岸屋」と称する造り酒屋を生業とし、江戸時代には名字帯刀を許された家。地方の素封家である。ものごころがついた頃には両親を亡くしており、祖母に育てられた。このストーリーは明治6年富太郎が数え12の時から書き出されていく。塾では抽んでて優秀、村での遊びにおいてはおのずから大将になる。野山を巡り植物を愛でる。植物に不思議を感じ、植物に惚れ込んでいく素地はこの少年期に形成されたようだ。
 祖母は祖父の後妻であり、富太郎とは血がつながらない人であるが、「岸屋」を継承し富太郎に「岸屋」を継承させるために育て見守った。富太郎のやることをまさに見守ることに徹し、彼の行動に釘をさすようなことはしなかった。それが富太郎を植物学の世界にのめり込ませ、自由奔放に行動できる環境を培ったようである。何事もそうだが、植物を研究するにも金がいる。研究するための情報源である書物を入手し、読まねばならない。富太郎が少年期以降、まず恵まれていたのは、金について心配を一切しないという立場を貫けたということだ。勿論後年に金について苦労があったとはいえ、気にせず己の行動を貫いていく。植物の研究について資金面で挫折して終わりということがなかった。
 富太郎が研究のために東京に居住するようになってからも、祖母に金を送ってほしいといえば、金が届けられた。祖母は富太郎の従妹にあたる3歳離れた「お猶」を引き取り養女として育てていた。祖母の目論見どおりに、後に富太郎は猶との祝言を上げる。だが、それは名前だけの夫婦であり、富太郎は研究の便宜性から東京を拠点とした生活に入る。祖母の死後は、土佐の猶に金送れと連絡を入れるだけ。やがて、東京でスエという女性を見初めて一緒に住むようになる。つまり、当初はいわば現地妻である。富太郎には実質的な妻であり、東京での家庭を築く。富太郎はスエの存在を猶に告げている。猶が己を取り乱すことなく、そのことに対応するというのも明治という時代感覚なのだろうか。現代では考えられない状況と思う。富太郎が「岸屋」の身代をつぶし、猶と離婚した後は、東京での金の工面は正妻となったスエが陰で担うことになる。それは借金という形での自転車操業なのだが。
 富太郎は金の入手源について頓着しないのだ。研究には金が要るものと思うだけ。そのことからだけでも、まず世間的には奇人の部類に入るだろう。だが、それが結果的にまかり通った人生なのだからびっくりするとともにうらやましさすら感じてしまう。

 富太郎は全く完全な在野の研究者ではなかった。東京を拠点にするようになったのは、研究を継続するためには、当時の東京帝国大学植物学教室への出入り、研究のための蔵書の閲覧利用や最新情報に接することが不可欠と判断したからである。植物学教室への出入りがどのようにして可能になったのか。その経緯が興味深い。
 それは富太郎が20歳で土佐から上京することから始まる。独学で研究する富太郎が会いたかった博物局の小野先生を訪ね、そこで天産部長の田中芳男先生にも会う。そこから『泰西本草名疏』の著者小野圭介先生を小石川の植物園に訪ねることになる。その人間関係が植物学教室の扉を開けることになっていく。興味深いのは、富太郎が大学に入り、植物学の学位をとるという方向に一切興味を示さなかったことである。富太郎は文献情報や資料にアクセスでき、疑問を問える相手がいれば、独学で十分研究できるという信念を培っていた。少年期から実行してきた植物の咲く現場で植物に接し、採取し、研究するということが本道であると。誰にも負けない植物を描く才能も開花させてきた。
 植物学教室の出入りを許され、教室での手伝いをする。教授との軋轢で植物学教室の出入り禁止となったり、一方で東京帝国大学農科大学の教室への出入りが可能になる。その後、帝国大学理科大学植物学科助手になる。更に紆余曲折をへて、講師になった時期もある。不思議な立場を歩んだ人である。この経緯がおもしろい。

 史実に基づいているのだろうが、本書によれば富太郎の人生で大きくは2回、己の借金を肩代わりし清算してもらう経緯があったようだ。勿論、それができたのも、牧野富太郎という在野の植物学者の非凡な才能を有識者が認識していたからである。この借金清算の紆余曲折がストーリーではいわば山場になっていく。読者はどうなることか、富太郎の研究はこれで頓挫か・・・と一層引き込まれていくことになる。
 このストーリーには、富太郎がどのような研究をしていたのかがきっちり書き込まれていく。その実質的な業績と彼の知識レベルにより、富太郎の才能を認識し、彼を支えようとする人々に恵まれていたとも言える。

 なぜ、富太郎が莫大な借金を抱えるに至るのか。
 研究のために必要な本なら購入資金のことを考えずに、どんどん購入してしまう。
 研究した成果を本にまとめて出版する。自費出版である。その費用がかさむ。自ら印刷機を購入するという手段さえとる。石板印刷の技術を実地に学ぶことすら行った。
 富太郎は、山野に分け入り、植物を採取し、それを克明に描画し、植物標本を作成するという現場主義を植物研究の本道と考えている。そのため、しょっちゅう日本全国の山野に赴くことになる。月単位での現地踏査に及ぶ。
 活動資金のことを考慮せずに、思いつくままにそれらを実行するのだから・・・・・。
 だが、そこにはそれを結果的に許す環境があったのだ。たとえそれが、「岸屋」を破産させ、また巨額な借金を作ったとは言え。

 昭和32年(1957)1月、齢94歳で没する。牧野富太郎、稀有な人生を駆け抜けた人。
 凡人には思い及ばない生き様。ある意味、うらやましいなぁ・・・・・。
 その生き様には己への自負と気概があり、輝きを感じる。
 植物学の世界において、花に触れ、花を愛で、その不可思議を研究し続けた人。
 日本における植物学を日本人が確立する!我ここにあり・・・・スゴイ人が実在した。

 最後に、印象的な記述個所を引用してご紹介しておこう。
*教えること、すなはち一方的に伝えることではない。教えることは、自らで何かに辿り着く瞬間を辛抱強く待つことでもある。思い起こせば、目細谷の伊藤塾の欄林先生はよく問い、よく待ってくれた師だった。  p45
*書物を読んで知を得、その知を深く識るためには己の足で探索し、己の目と手、いや、持てるものすべてを使って観察することだ。するとなにかしらに気づく。  p148
*植物にかかわる学者であるなら、やはり大学の外を歩くべきだ。山に登り、渓流に入ってこそ得られる景色と植物があるのであって、研究室に籠って欧米の学会誌や専門書を読み漁るテーブル・ボタニーだけでは日本の植物学者は自前で屹立できない。 p352
*だが、周囲の誰も彼もが、「教授を立てよ」「気を兼ねよ」と、足を引っ張りにかかる。そんな情実を挟んでおったら、日本の植物学はいつまで経っても進歩できんじゃないか。  p361
*不遜傲岸と退けられようと、最初から世界を見ていたのだ。好きなこと、信じることのみに誠実に生きてきた。   p468
*人生は、誰と出逢うかだ。 p415

 ご一読ありがとうございます。

補遺
練馬区立牧野記念庭園 ホームページ
  牧野富太郎について
高知県立牧野植物園  ホームページ
  牧野富太郎
東京都立大学 牧野標本館 ホームぺージ
  牧野富太郎博士
小石川植物園で活躍した研究者:牧野富太郎  :「Science Gallery」(東京大学)
牧野富太郎  :ウィキペディア
牧野富太郎、日本初の植物学雑誌創刊のため、石版印刷の技術を身に付けた熱意|植物学者・牧野富太郎の生涯(3)  :「JBpress オートグラフ」
牧野富太郎が歩いた「国有林」 :「四国森林管理局」
牧野富太郎特設サイト  :「報知新聞」
なぜ研究室を出禁に? 牧野富太郎を絶望させた「恩師・矢田部良吉との確執」 歴史街道                  :「YAHOO! ニュース」
神戸を知る 牧野富太郎  :「KOBE」
牧野富太郎ってどんな人?  :「絵本ナビ」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

 こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『朝星夜星』   PHP
「遊心逍遙記」に掲載した<朝日まかて>作品の読後印象記一覧 最終版
                 2022年12月現在  8冊

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