遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『恋する組長』  笹本稜平   光文社文庫

2024-12-31 23:30:15 | 笹本稜平
 『ボス・イズ・バック』を2024年8月に読んだ。その時、本書の方が同じシリーズの初本であることに気づいた次第。そこで順番が逆になるが本書を読んでみた。
 本書は「小説宝石」(2002年1月号~2006年12月号)に不定期に短編が掲載され、2010年3月に文庫本が刊行された。第2弾『ボス・イズ・バック』と同様で、この第1作も、短編連作集である。本書には6編が収録されている。
 このシリーズ、著者の早逝により、残念ながらこれら2作で終わりとなった。
 本書のタイトルは、収録短編の最後のタイトルが使われている。
 
 本書に収録された6編はそれぞれ独立した短編。特に相互関係を気にせずに、どれからでも気軽に読める。

 本書の特徴は、主人公が「おれ」という一人称で語る短編の集まり。「おれ」は首都圏の周辺に位置するS市で私立探偵事務所を営んでいる。この私立探偵の顧客が、もっぱらS市にある3つの暴力団であり、それぞれの暴力団から仕事を得ているという点が特異なところ。東と西の指定広域暴力団の系列に連なるのが2つ。一つは関東系傘下の山藤組。もう一つが猪熊一家。そして、地場の独立系暴力団の橋爪組がある。
 この背景設定でおもしろいのは、私立探偵としては3つの暴力団から調査仕事を得なければ事務所を営んでいける収入を維持できないというところにある。相互に対立しあう暴力団のそれぞれと友好な関係を維持しなければならないというきわどさがある。そこが、ストーリーのおもしろみに繋がっていく。
 「おれ」の営む私立探偵稼業は、きわどい線を行くことがあっても、少なくとも一応カタギの立場で仕事を行っている。ゆえに、どこまで行動に踏み込めるかという観点で、読者として興味を引く側面が出てくる。

 この私立探偵事務所には、由子という電話番が居る。「おれ」の視点ではそうなる。この事務員が犬好きでけっこう役立つ場面があったりするからおもしろい。
 主な登場人物として警察官が欠かせない。ここにはS署刑事課第一係で殺しや強盗を専門とする刑事、門倉権蔵が登場する。「おれ」は彼をゴリラと呼んでいる。暴力団筋ではゴリラでたいがい通じるという刑事。暴力団関係とは、ちょっとズブズブの側面を持つ刑事でもある。
 暴力団というヤクザの世界を扱っているが、収録短編はいずれも、シリアスな話にならずに、コミカルタッチの話材となっていて、気楽に読めるところが読ませどころとも言える。

 ごく簡略に各編をご紹介し、読後印象にも触れてみたい。

< 死人の逆恨み >
 おれの事務所で、首つり死体がぶら下がっていた。死んでいたのは街金を営む窪木徹治という地場の暴力団の企業舎弟。咽喉の周りに「吉川線」らしき引っかき傷はある。自殺か他殺か?
 おれは自分でホシを探そうと考え行動を起こす。その矢先、死体の件は由子が警察に通報し、一方、おれは窪木の妻・雅恵から警察より先に犯人を捜してくれという仕事の依頼を受ける。犯人は窪木の実の息子と言うのだ。勿論、おれはこの仕事を引き受ける。
 これは生命保険金に絡んだ話。
 なぜ窪木が事務所に入れたのか? そのオチがおもしろい。

< 犬も歩けば >
地場の暴力団山藤組組長の山藤虎二が溺愛するブルテリア種の犬が行方不明となった。名前はベル。ベルちゃん探しを依頼される。犬好きの由子はその犬のことを知っていた。由子の出番となる。犬探しのポスター作戦から始まる。犬を見つけた時には、その傍に老婆の死体があった。庭からはさらに人骨が見つかることに・・・・。
 ベルちゃんが思わぬ事件を掘り起こすきっかけになる。
 犬の認識・意識次元と人間世界の次元とのギャップのおもしろさと悲喜劇を楽しめる短編。

< 幽霊同窓会 >
 山藤組の若頭、近眼のマサが行方不明になり三日が経つ。暴力団間の抗争はない。そこで、おれはマサの行方探しの依頼を受ける。マサの居場所を突き止めたが、そこでマサは、刑務所時代に知り合った立石金吾の幽霊が出たと怯えていた。その立石は1年前に死んでいるのだ。マサのムショ暮らし時代の同窓生が集まって、厄払いをしようという話に発展する。だが、幽霊同窓会の根っこには、金塊話が絡んでいた。おれが幽霊のカラクリに気づくことに・・・・。
 「おれはいったい誰なんだ」という自問がオチなのだが、哀れさがまといつく。

< ゴリラの春 >
S署刑事課の門倉権蔵ことゴリラが、おれに浮気調査の依頼に来た。ゴリラが惚れて結婚したフィリピン女性である。マリアは帰化して愛と名乗る。浮気の相手はS市在住の画家、藤堂博一だという。おれは、愛ちゃんと藤堂を見張るという行動から始める。そして、愛ちゃんの過去、藤堂の画家としての裏のカラクリを明らかにできることで、思わぬ方向へ・・・・。
 画家の裏のカラクリ、どこかにありそうな話のようでリアルな感じがおもしろい。
 この短編、直接には暴力団とからまない。過去話のなかでは少し絡んでいるが。

< 五月のシンデレラ >
 近眼のマサはインテリやくざ。私立の名門K大法学部卒。後輩で経済学部卒、インターネット上の広告ビジネスの会社の社長で岸川達也という男を由子の結婚相手にと、マサがおれの事務所に持ち込んでくる。岸川は郷里のS市に錦を飾り、ゆくゆくは政界進出をねらっているのだ。由子の家はS市で由緒があるからと言う。由子は舞い上がる。だが、おいしい話にはウラが・・・・。筋立てのおもしろさのある短編。
 知らぬ家宝を知ることになるという由子の家系についてのオチも楽しめる。

< 恋する組長 >
病院で精密検査を受けた門倉ことゴリラが入院して手術を受けることに。これが一つの伏線になる。一方、おれは、橋爪組の事務所に出向き、若頭からけちな調査仕事を依頼された時、組長に密かに頼まれた人探しに仰天する。あるきっかけでエキゾチックな相貌の女性に恋をしたという。その女を探してほしいという仕事。稼ぐためには仕事として受ける。だが、その女性がなんとゴリラの奥さん、愛ちゃんだった。おれは組長とゴリラとの板挟みになる羽目に。組長を怒らせることなく、愛ちゃんを如何にあきらめさせるか。そこがこのストーリーの山場。そこに医療ミスを織り込んでいるところが興味深い。

 それぞれ全くつながりのない話なので、おもしろいと思われる短編から読まれるといいのではないか。
 ちょっとコミカルなユーモアあふれる短編集である。気分転換によい。

最後に、今年もあとわずかで終わりの時刻になりました。
お立ち寄りいただいた皆様ありがとうございます。
良いお年をお迎えください。




こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『ボス・イズ・バック』    光文社文庫
『引火点 組織犯罪対策部マネロン室』  幻冬舎文庫
『特異家出人 警視庁捜査一課特殊犯捜査係堂園晶彦』 小学館文庫
『卑劣犯 素行調査官』   光文社文庫
『流転 越境捜査』   双葉社
「遊心逍遙記」に掲載した<笹本稜平>作品の読後印象記一覧 最終版
                     2022年12月現在 29冊





 
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『千里眼 美由紀の正体』 上・下   松岡圭祐   角川文庫

2024-12-28 18:48:30 | 松岡圭祐
 千里眼新シリーズの第7弾! 岬美由紀には出生後の幼少期の記憶がほとんどない。だが、特定のシーンが時折、脳裏にフラッシュバックし思い浮かぶことがある。それは美由紀が特定の要素が重なる窮地の状況に陥った人に遭遇し、その人を助けなければと美由紀が暴走する場合に発生する。それが何を意味するのか、美由紀自身にもわからなかった。
 美由紀が想起するシーンの持つ意味、その幼少期の哀しい事実が遂に明らかになる。美由紀自身が己の過去を探り出し、元凶となった根源に立ち向かう行動に邁進する。そのプロセスがこのストーリーである。読者も知りたい美由紀の過去が明らかになる。

 本書は文庫書下ろし作品で、平成19年(2007)9月に刊行された。

 北茨木市の五浦海岸の断崖絶壁から足を滑らせて転落した畔取直子は救助されたものの記憶をなくしていた。畔取直子と面談した茨城県警の廣瀬警部補は本庁からのファックス情報をもとに、臨床心理士の岬美由紀と連絡を取ろうとする。
 ストーカー被害に遭い、恐怖を感じているという雪村藍のアパートの部屋を訪れ、面談した美由紀は藍に自立訓練法の要領を教える。その時、携帯電話にメールを受信。これが畔取直子に関わり合う契機となる。美由紀は、藍の話の中でストーカーのことに思いが及ぶと、強い嫌悪感を感じ一瞬我を忘れる自分がいたと自己分析する。読了後に振り返ると、雪村藍への美由紀の助言のワンシーンに既にこのストーリーの伏線が敷かれていたことに気づいた。
 
 美由紀は、畔取夫妻の屋敷を訪ね、廣瀬警部補の立ち合いのもとで、夫と名乗る利夫から事情を聴き、直子に簡単なテストを行った。直子が記憶を失っているのは事実だった。直子は誰かから封筒と図面を渡されていたことを思い出す。「私はサインドだよ。ご存じと思いますが」(p29)と美由紀に語っていた利行は、図面が目の前に出て来るなり、それを持って立ち去った。直子に異変が起こる。夫と偽証し、その立場を悪用されたことを美由紀と廣瀬に告発したのだ。美由紀の内心にスイッチが入る。美由紀は利行と名乗った男・防衛省の防衛政策局調査課嵩原利行を追跡し、土浦駐屯地を巻き込む事件に拡大する。
 この小説の一つのスタイルになっているが、冒頭の小活劇がまず読者を惹きつける。

 これは美由紀には義憤に駆られ、歯止めが利かなくなる行動に及ぶ側面があるという事例でもある。それがなぜ起こるのか? その動因の究明がこのストーリーなのだ。
 さらに、警察では処理できない図面の問題。闇に紛れてしまうことを潔しとしない美由紀は、「どうせ警察は圧力で動けないでしょう。手をこまねいて待つくらいなら、一線を越えた方がましよ」(p65)と告げ、真実を追求する道を選択した。

 図面について、美由紀は伊吹直哉に電話連絡を入れる。そして、図面の入手経緯を説明した上で、その図面はそれらしくイラストレーターが仕上げた偽物の基地図面で、色校のコピーだと所見を告げた。伊吹に図面を持ち去った理由を尋ねられ、美由紀は「真実はさっさと暴かないと、被害者の女性がいつまでも苦悩を引きずることになる。理由はそれだけよ」(p80)と答える。これがきっかけで、伊吹は美由紀を心配し、彼女の事実究明に関わっていく。
 一方、臨床心理士の嵯峨敏也は、美由紀が人を救おうとして、突発的に暴力的な行為に及ぶとき、その状況を細分化すると一定の傾向があると分析し始めていた。先輩臨床心理士の舎利弗浩輔に己の所見を話してみる。解離性障害に近い症状がみられ、その原因は幼少のころに虐待を受けたのではないかと推論を進めていく。

 藍がストーカー行為に遭い恐怖を抱くようになった原因が解明され、そこからノウレッジ出版社に行き着く。美由紀はノウレッジ出版社を調べる過程で、偽の図面の究明とさらには、大きな陰謀の実行を阻止するための行動を迫られることになる。
 芋づる式に問題が連鎖的に関連していく。おもしろい構成になっていて、ストーリーが盛り上がっていく。

 人を救うために暴走的行動をとった美由紀は、検察官による公訴を受け、東京地裁で裁判を受ける被告人となる。裁判において嵯峨は弁護人側で美由紀の精神鑑定者の役割を担ていく。
 美由紀に時折起こる相模原団地のイメージのフラッシュバック。嵯峨による精神鑑定の一環として、その風景の謎を確かめる目的で、裁判所を通じて美由紀は許可を取り、相模原団地を見学に行く。通行証の許可は2人分。藍が相棒として会社が終わってから現地で加わる予定だった。ランボルギーニ・ガヤルドで出かけた美由紀は、意外と早く着いたのでとりあえず一人で見学することの許可を得た。
 米軍厚木基地の軍居住地区の一画に、基地施設の一部として相模原団地がある。そこは、米軍基地で働く日本人たちが住むエリアなのだ。
 相模原団地を目にした途端、美由紀は脳裏にフラッシュバックする光景がまぎれもなくこの相模原団地だと認識した。
 ここから第二幕が始まる。

 昭和三十年代の風景そのままの団地の佇まいを眺め、子供たちの様子を見、団地内を見て歩く内に、美由紀には消されていた記憶が徐々に蘇り始める。一方、団地内の見学中にボブと呼ばれる子供が本物の拳銃を持って美由紀の前に現れた。その子の後をつけた美由紀は、おぞましい情景を目にする。それが因となり、美由紀は窮地に落ち行っていく。
 雪村藍が相模原団地に着いた時には、美由紀は団地内の診療所のベッドの上に頭に包帯を巻かれて、横たわりびくりとも動かない状態だった。塚本紀久子という団地の薬剤師が、基地の医師の指示を受けて世話をしているという。美由紀が団地内で衝突事故を起こしたのだと。藍にはそれは到底信じられないことだった。今の事態に疑問を抱く。
 ここから藍の活躍が始まる。美由紀との意思疎通方法に気づいたのだ。さらに、窮地の美由紀が密かに書き残していたメッセージを見つける。そして、密かに伊吹に画像添付のメールを送信した。
 美由紀を事故に見せかけて抹殺しようとする得体の知れない一群の人々の存在。その連中との対決が始まっていく。

 藍の働きと伊吹らの活躍で救助された美由紀は、アメリカ大使館の職員、ジョージ・ドレイクから、相模原団地事件に関連して、舌紋(Tongue Print)をとることを要求される。これにより、美由紀の過去の一端が明瞭に跡付けられる。美由紀に起こる相模原団地の光景のフラッシュバックは、美由紀の過去と重要な関連性があったのだ。

 美由紀の脳に抑圧されていた記憶が徐々にリンクしていく。美由紀にフラッシュバックする他の光景もその意味がつながりを持ち始める。伊吹が美由紀の過去の記憶の一部を提示し、あのダビデも美由紀の前に現れてある事実を伝えることに・・・・。
 記憶の連鎖、記憶のピースがはまっていくと、美由紀は記憶をたどり、第二の客の居場所を究明する行動に乗り出していく。伊吹が協力し、舎利弗先生が情報収集の側面で協力する。
 これが、いわば第三幕といえようか。そプロセスで、現在時点で発生した事件が副次的に解決できるという付録まで織り込まれていく。この横道も面白い。
 大団円で幕を閉じる。
 
 勿論、この流れには最後に、被告人となっている美由紀の裁判の判決が残っている。
 伊吹直哉の結婚式という場面がそれに続く。
 ここで終わっても、このストーリー、なんら不自然ではない。

 だが、「二か月後」という最終章が付いている。これを付け加えてあるのは、新たな美由紀の行動が既に始まっているということを示すのだろう。岬美由紀らしいエンディングといえるかもしれない。次作はすぐに新たな行動のスタートから始まるのだから。

 ご一読ありがとうございます。

こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『千里眼 堕天使のメモリー』    角川文庫
『千里眼の教室』   角川文庫
『千里眼 ミッドタウンタワーの迷宮』    角川文庫
『千里眼の水晶体』   角川文庫
『千里眼 ファントム・クォーター』  角川文庫
『千里眼 The Start』 角川文庫
『千里眼 背徳のシンデレラ 完全版』 上・下  角川文庫
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅸ 人の死なないミステリ』 角川文庫
『千里眼 ブラッドタイプ 完全版』   角川文庫
『千里眼とニアージュ 完全版』 上・下  角川文庫
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅷ 太宰治にグッド・バイ』  角川文庫
『探偵の探偵 桐嶋颯太の鍵』    角川文庫
『千里眼 トオランス・オブ・ウォー完全版』上・下   角川文庫
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅵ 見立て殺人は芥川』   角川文庫
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅶ レッド・ヘリング』  角川文庫

「遊心逍遙記」に掲載した<松岡圭祐>作品の読後印象記一覧 最終版
                    2022年末現在 53冊
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『蘭医繚乱 洪庵と泰然』  海堂 尊   PHP

2024-12-26 15:27:42 | 海堂尊
 江戸時代末期の文政8年(1825)から明治5年(18772)の期間を背景に、蘭方医として活躍した二人のライバル、東の猛鷲・和田泰然と西の大鵬・緒方洪庵を中心にストーリーが織りなされていく。緒方洪庵の生きざまに比重を置きながら、洪庵と目指す目的は同じでも、違うやり方をとった泰然を対比的に描いていく。洪庵と泰然を描く伝気風歴史時代小説である。江戸時代末期に蘭学を学んだ蘭方医を中軸としながらも様々な分野で躍の場を見出し、蘭学の成果を繚乱と咲かせていった一群の人々が存在した。その状況を洪庵・泰然の行動の波紋の広がりとして捉えていく。

 奥書によれば、本書は「WEB文蔵」(2020年12月~2024年3月)に連載された後、大幅に加筆・修正され、改題されて、2024年10月に単行本が刊行された。

 本書は、「第一部 氷点」「第二部 融点」「第三部 沸点」という見出しの三部構成。簡略に言えば構成は次の通り。
 第一部は大坂と江戸、それぞれに住む二人の青年が、オランダ医学を学ぶために長崎に留学し、足かけ4年間修学する。出立までの背景・経緯及び長崎で蘭医の基礎を修得するプロセスでの二人の修学と日常生活のスタイルの違いを織り交ぜて、彼らが長崎を去る時点までを描く。
 一人は、備中足守藩大坂蔵屋敷の初代大坂留守居役、佐伯惟因の息子、惟彰。惟彰は蘭学の師となる中天游の勧めで緒方章と改名し、さらに長崎留学中に洪庵と改名する。もう一人は、江戸の中堅旗本伊奈家に仕えた佐藤藤佐の息子、昇太郎。昇太郎は長崎にて、泰然と改名する。二人が改名したのは奇しくもほぼ同じころだった。
 長崎を除けば、蘭方医は各地で点的に活躍し、根づき始めているが、世間の大勢は未だ漢方医の時代。それ故に、蘭医は氷点の時代である。
 文政8年(1825)~天保9年(1838)の期間が背景となる。

 第二部は、洪庵が大坂で「適塾」を創設し、医院を営みつつ、身分にかかわらず広く門弟を受け入れ蘭学を基礎から学ぶ環境を作る。洪庵の方針は、「来る者は拒まず」と蘭学学習は実力主義。一方、泰然は江戸の両国・薬研堀に蘭医塾「和田塾」を開設する。ともに私塾である。「西の適塾、東の和田塾」が覇を競う時代が到来する。
 この第二部は、天保9年(1838)~安政2年(1855)の期間が背景となる。
 彼ら二人が開塾した直後、天保10年5月には、渡辺崋山が江戸伝馬町の揚屋入りとなり「蛮社の変」が始まっていく。蘭学抑圧が始まる時機に、適塾・和田塾が始まっている。泰然は、和田塾を娘婿に任せ、己は佐倉藩主・堀田正篤の所領に移り住み、「佐倉順天堂」を創設する。この時期から、父の姓を使い佐藤泰然と名乗る。余談だが、現在の順天堂大学の淵源である。
 この第二部で、洪庵は、あらたに「除痘館」を設立し、ここを拠点に、現在の用語で言えば天然痘を撲滅する実践活動を推し進める。牛痘を子供に接種させる予防接種、種痘事業を邁進していく。この経緯がストーリーの中軸となる。泰然は洪庵から瘡蓋を入手し、関東での種痘事業を推進する。
 嘉永6年(1853)6月、アメリカの黒船襲来が時代を大きく変えていく。医学よりも軍事面での蘭学の知識の需要が高まり、政治面でも蘭学が需要される時代が到来する。融点の時代に転換していく。

 第三部は、蘭学へのニーズが沸点を迎える時代に移っていく。江戸には「蛮書調所」が、長崎には「海軍伝習所」「医学伝習所」が設置される時代へと転じていく。安政3年(1856)7月には、日米和親条約に基づき、下田にタウンゼント・ハリスが初代総領事に着任する時代に入る。安政3年(1856)~明治5年(1872)が時代背景となる。
 「安政の大獄」の顛末を経て幕末動乱期となり、明治維新へと移っていく。激変する時代の動きを描きつつ、洪庵がどのような立場に身を投じて行ったかを描く。洪庵は大坂のコレラ騒動に蘭医として対処・奮戦する。その後、江戸に出府し、西洋医学所頭取を引き受ける立場になっていく。江戸城の奥医師に組み込まれていく。
 本書を読み始めて知ったのだが、洪庵が昇天したのは文久3年(1863)6月10日。徳川幕府が滅びる5年前。一方、泰然が大往生を遂げたのは明治5年(1872)4月。この第3部の終点である。

 このストーリー、「そんなふたりの想いは、現代の日本に脈々と流れているのである」という一文で終わる。

 この小説が私の関心を惹きつける特徴がいくつかある。
1.洪庵と泰然という蘭医をめざした二人が対照的な性格の逸材であり、両者の関りが対比的に描きあげられていく。洪庵は内科を領域とし、己はオランダ医書を翻訳し、知識を広めることに重点を置く。適塾はオランダ語を修学する場で、能力があれば身分を問わず入塾を認め、人材を育成する場づくりをめざした。
 泰然は外科の領域に尽力し、蘭学自体は実務に役立てば良しとする。蘭医の逸材を見つけ、活躍の場づくりをする方に尽力していく。いわばオルガナイザー的な行動人となる。一方で、佐倉藩主・堀田正篤の相談相手として行動し、常に国内政治の動向と、蘭学を手段として世界の趨勢に目配りする活動を行う。洪庵との交信は絶やさない。
 対照的な二人の生涯の関りが実に興味深い。

2.洪庵の適塾が蘭学修得の拠点となる。適塾は、熟生が切磋琢磨し、青春の一時期をここで過ごした。適塾は後に様々な分野で活躍する人材を輩出する孵化器になっていく。それは蘭学という視点から、塾生を介して江戸時代末期と幕末動乱期を展望することにつながる。
 例えば、村田蔵六(後の大村益次郎)、伊藤精一(慎三)、武田斐三郎、橋本綱紀(左内)、佐野栄寿(常民)、長与専斎、池田謙斎、箕作秋坪、福沢諭吉などが適塾に足跡を残し、歴史に名を残していく。

3.洪庵と泰然を介して、あの時代の蘭医、蘭学者たちのネットワークと蘭書の翻訳文化を知ることができた。私にはほとんどが初めて目にする翻訳書名である。
 江戸時代末期、長崎の出島とオランダという窓を通じて、世界をどのように認識していたかがわかる。

4.江戸城の奥医師という漢方医の牙城に、江戸時代末期に徐々に蘭方医が食い込んでいく様子、その勢力関係が垣間見える。さらに、蘭方医の世界の中にも、力関係が大きく渦巻いていた状況も見えておもしろい。泰然はその力関係を読み切り、その中に入っていく存在であり、洪庵は勢力関係とは極力関係しない立場をとる存在だったようだ。

5.天然痘への予防接種思想の導入と実践、コレラ騒動への医療対策に、洪庵をはじめ蘭医たちがどのように立ち向かっていったかを知ることができる。これも歴史の一ページを知ることになる。学校の授業ではそこまで触れることのない側面だから、歴史が無味乾燥になりがちなのだろう。

6.シーボルトとともに、「シーボルト事件」がどういうものだったかを具体的に知る機会となった。事件のことは多少知っていたが、その対処法も含めてさらに細部を知ることができた。

7.「安政の大獄」を断行した悪名高い井伊大老について、彼の生涯における行動の二面性を著者は指摘している。「悪名高い」を留保して、「実は柔軟な考えを持つ人物で、ねじれた運命に翻弄された悲運の士だったとも考えられる」(p325)と述べているところも興味深い。
 これは人物像を如何に描き出すかに大きくかかわっている視点である。
 
 江戸時代末期の蘭医繚乱の様子を感じ取ることができ、幕末動乱期を武士の視点とは違う視点から楽しめる伝記風歴史時代小説である。おもしろい。


補遺
適塾   :ウィキペディア
大阪大学適塾記念センター  ホームページ
  洪庵について
  適塾とは
第17話 緒方洪庵  :「関西・大阪21世紀協会」
緒方洪庵  :ウィキペディア
大坂救った発信力 洪庵、感染症と闘った不屈の医師  :「日本経済新聞」
W600XH900 虎列刺(コレラ) 急激に死へと進む   :「エーザイ株式会社」
学祖 佐藤泰然   :「順天堂大学」
江戸日本橋薬研堀の蘭医学塾「和田塾」  :「順天堂大学」
佐藤泰然  :ウィキペディア

ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
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『遺恨 鬼役四』  坂岡 真   光文社文庫

2024-12-21 15:46:39 | 諸作家作品
 鬼役第4弾! 2006年に文庫で刊行されていたものに、大幅加筆修正し改題されて、2012年7月に文庫本が刊行された。
 本所には、短編連作として、「月盗人」「懸崖の老松」「暗闇天女」「末期の酒」の4編が収録されている。

 御小姓組番頭橘右近から、蔵人介の裏の役目を指示される状況が発生するが、本書でも蔵人介は橘右近との信頼関係になんとか距離を保ち、組み込まれてしまうことを回避できている。橘右近に呼びつけられれば、面前に出向かねばならないのだが、暗殺役については、その遂行について微妙なバランスを維持しているところがこの
シリーズの方向性として興味をそそる。

 文庫 新装版表紙

 さて、収録の短編それぞれについて、読後印象を織り交ぜながら、簡略にご紹介したい。

< 月盗人(ツキヌスット)>
 目安箱が盗まれた。橘右近に呼び出された矢背蔵人介はそのことを聞く。右近は己の失脚を狙った者の仕業だと激高する。蔵人介は橘の配下ではないと抗弁するも、「不逞の輩を見つけだし、斬罪するのじゃ」と告げられる。探索は公人朝夕人(くにんちょうじゃくにん)である例の男がする。悪者を見過ごすような男ではないと見込んで期待していると述べるにとどめるという老練さ。目安箱を盗むという行為に、蔵人介の好奇心、厄介な虫が疼きだす。公人朝夕人の土田伝右衛門が蔵人介に不埒者は強敵だと言い、路銀を用意してきていた。盗難の前日にあった直訴には、塩竃にある神社の神官の直訴が含まれていて、仙台藩の黒脛巾組の残党が絡んでいるらしく、既に御庭番が斬られているとも言う。
 伊達家仙台藩の内奥に巣くう闇の勢力に蔵人介は串部六郎太とともに挑んでいく羽目になる。
 このストーリー、蔵人介の家庭内で、息子の鐵太郎の教育について嫁と姑間での意見の相違問題がパラレルに進展していくところがおもしろい。
 斬られた御庭番には妹がいた。妹も隠密とはいえ、兄の遺恨を内奥に潜めながらの働きをする。タイトルの「月」が重要な意味をもっていた。


< 懸崖の老松 >
元鬼役で役を退いて十年になる磯貝新兵衛が矢背家を訪ねてくる。七年前に息子が城中で起こした事件の真相を知り、敵討ちの助力を蔵人介の義母志乃に頼ってきたのである。志乃は長刀の達人だ。
 一方、西ノ丸恒例の鷹狩りが駒場野にて行われる際の弓競べに蔵人介の妻幸恵が出ることになる。幸恵は弓では小笠原流の免許皆伝なのだ。この弓競べで二年連続で頂点に立った名人が今回も出る。西の丸書院番二番組組頭、塚越弥十郎である。幸恵が出るのには裏があった。
 塚越弥十郎は、磯貝の話では息子の死の元凶となる相手だった。
 弓競べの当日、蔵人介は駒場野にて鬼役の務めをすることになる。蔵人介は碩翁を介してこの弓競べに巻き込まれていく。
 このストーリーのおもしろい点は、志乃と橘が旧知の仲だったということである。
 磯貝の頼みが志乃を動かし、その結果、巡り巡って蔵人介が最後に関わっていく羽目になる。
 このストーリー、息子の死に関わる磯貝新兵衛の遺恨が根源にある。


< 暗闇天女 >
勘定方亀山喜平の死体が発見された。義弟の綾辻市之進は亀山の行状を調べていた。亀山は近江税所藩を強請っていたようだ。市之進は心中に見せかけた殺しだと言う。死んだ女は亀山とは無関係。亀山は辰巳芸者に金を注ぎ込んでいた。亀山の探索をしている間に、市之進はその辰巳芸者初吉、本名お初に岡惚れしてしまったと言う。
 蔵人介はお初に会ってみようと、お茶屋『万作』に出向く。万作で、蔵人介は同朋衆の道阿弥に出くわし、税所藩留守居役の接待だと聞き出す。万作の亭主は蔵人介に、これ以上深入りすれば命を縮めるもとになりますぞと告げられる。それが逆に蔵人介の心に火をつけた。是が非でもこの一件を暴くと。
 心中の形で殺された女は蝋燭問屋『日野屋』の娘お幸。なぜお幸が巻き込まれたのか。その真因も明らかになっていく。
 お初は蔵人介に言った。自分と付き合った男は皆金がたまらない。私は貧乏神の生まれ変わり。貧乏神を暗闇天女とのいうのだと。タイトルはここに由来する。
 この短編は、日野屋庄左衛門と辰巳芸者お初のそれぞれの遺恨が根底にある。
 義弟に協力する形ではあるが、主体的に蔵人介の正義が発露される顛末譚の好編だ。
 

< 末期の酒 >
 魚問屋『駿河屋』主人の接待を受けた帰路、蔵人介と串部六郎太は、月代頭の侍が刺客に遭う現場に出くわした。刺客に対峙し蔵人介が来国次を抜き放つことになる。刺客は阿田福面をつけていた。串部はその男が富田流の小太刀を使う手練と見抜く。尋常の勝負では負けていたと蔵人介が思ったほどの手練だった。
 殺された男は「七つ屋に諮られた」と言い残す。蔵人介はその顔を見て、御台所組頭の佐川又三郎だと気づいた。これが始まりとなる。
 義母の志乃は佐川の末期の言葉から、御家人株の売買と御家人株の流しを推測する。
 蔵人介は息子鐵太郎と共に溜池の馬場に行く。城勤めを辞めた潮田藤左衛門が凧揚げをしていた。そこで鐵太郎は凧揚げのコツを潮田から教えてもらうことに。蔵人介は城で、潮田と過去に多少の縁があった。二人の会話から賄吟味役だった潮田が城務めを辞めた経緯が明らかになっていく。
 蔵人介は、佐川の死の原因を究明するために、自ら七つ屋こと門前屋重五郎の所に金を借りたいと仕掛けていく。
 佐川の遺恨と阿多福面の男の腕が蔵人介が己の意志で動く原因となっている。この短編もまた、蔵人介の裏の顔とはリンクしてない。ただの人斬りに対する怒りである。

 本書は、短編連作の根底で、「遺恨」が共通項になっている。それが本書のタイトルには反映していると言える。

 ご一読ありがとうございます。

こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『乱心 鬼役参』   光文社文庫
『刺客 鬼役弐』    光文社文庫
『鬼役 壱』      光文社文庫
『太閤暗殺 秀吉と本因坊』   幻冬舎
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『本所しぐれ町物語』   藤沢周平    新潮文庫

2024-12-19 21:58:56 | 藤沢周平
 本所しぐれ町という町名は存在しなかった。文庫本末尾に、「対談 藤沢文学の原風景」という著者と藤田昌司さんとの対談録が併載されている。その中で著者は「最初から場所はその辺を考えていたのですが、名前にはてこずりました」と語っている。「しぐれ町」って、すっと惹きつけられるうまいネーミングだと思う。
 本書は短編12編が収録され、短編連作集。本所しぐれ町の表通りの表店と通りを外れた裏店に住む町民の喜怒哀楽、悲喜こもごもの日常生活状況に焦点があてられていく。一つの町域に住み、日ごろから互いのことがわかっている人々の普段の生活の諸局面が織り交ぜられて、しぐれ町の情景が浮かびあがっていく。全体のトーンとしては、哀感という印象が強く残る。
 本作は「波」に連載された後、昭和62年(1987)3月に単行本が刊行され、平成2年(1990)9月の文庫化された。

 対談の中で著者は本作について次のように語っている。
「時代小説のいろいろな拵えからちょっと気持ちが離れて、なるべく普通の世の中で起こり得ることを書いてみたかったのです」(p312)
「あまり悪辣な人間を書くのが嫌になりました。若いときにはそうでもなかったのですが、やはり年をとりますと、なるべくあくどい人間を見たくない、そういう感じが今度の作品には、だいぶ反映していると思います」(p315)
「そういう弱さがあるからこそ、人間はいとおしくていいのではないでしょうか。みんな清く正しくでは、これは困りものです」(p315)
「今でもそういう子供は案外いそうな気がして、そのまま突きはなすのはかわいそうな気がします。ですから、さっき言いましたように、いろんな意味でこの小説には、年齢的なものかなり反映されています」(p316)  付記:ここでの子供とは<おきち>をさす。
 ここでいう「普通の世の中に起こり得ること」という表現は、江戸時代の本所の町民の物語でありながら、どこの町でもあり得ることであり、形を変えて同様事象の問題が現代社会の庶民の日常生活にも再起しているのではないかととらえることもできるということだと思う。

以下、本書に収録された短編のご紹介と読後印象をごく簡単にまとめてみたい。

< 鼬(イタチ)の道 >
三丁目の菊田屋新蔵の弟がふいに上方から戻ってくる。兄嫁の心理と兄が弟の半次に抱く心理の葛藤が描かれる。そこに人別の届や金銭問題が絡んでいく。
 「鼬の道切り」という言葉が最後に出てくる。新蔵の本音を感じ取れる。
 
< 猫 >
二丁目の小間物屋紅屋の息子、栄之助の浮気。怒った女房が実家に帰っているのに、眼をつけていたおもんという女に手を出す。おもんの飼う猫・たまを栄之助が利用する。新たな浮気の始まりの一コマを描く。男の馬鹿さがこっけいである。

< 朧夜 >
 古手問屋萬屋の隠居佐兵衛は「福助」で酒を飲み過ぎた帰路の途中道端で眠ってしまう。「福助」の女中おときが帰路に佐兵衛を見つけて介抱したことがきっかけで、おときは佐兵衛の隠居所に出入りするように。萬屋の主人亀次郎・おくに夫妻の心配と佐兵衛の心境が描きこまれる。立場の違いでお金の意味づけが大きく変わる。

< ふたたび猫 >
 ひとの妾であるおもんに紅屋の栄之助が知り合って三月ほどたち、浮気が一歩深まった時点の栄之助の身辺状況話。栄之助と猫のたまとの関わり具合が変化を示す。栄之助がどうなって行くか。栄之助の心境を想像するとおもしろい。

< 日盛り >
 同い齢十の新吉と長太、一つ年上のおいとたちの身辺話。子供心がよくわかる。
 本所近辺で夜盗が横行しているという世相と長太の家の家庭内問題に焦点が移っていく。どこにでもありそうな日常生活の断片が切り出されている。

< 秋 >
 ささいなことで夫婦喧嘩をした翌朝、政右衛門が早朝の散歩に出かける。政右衛門の視点から、しぐれ町の現状を見つめて考える様子が描き込まれる。油を商う佐野屋の帳場にいた政右衛門は、裏店に住むおきちという娘が種油を買いに来たので直に応対するエピソードや、政右衛門は幼ななじみだったおふさにふと会いたくなる思いと実行話が織り込まれていく。夫婦喧嘩をしながらも、このまま行くのが己の人生という点に落ち着くところが現実的である。その現実感は共感を生み出す。

< 約束 >
 おきちの父親熊平は酒飲みだった。その父親が借金を抱えて死んだ。十歳のおきちには、与吉とおけいという弟と妹がいる。己が親の借金のけじめをつけると気丈にも判断しそのための行動をとる。借金の約束をおきちが己の身で償う顛末譚。
 気丈にふるまうおきちが最後に見せる「やっと十の子供にもどった」瞬間に哀感をいだかざるを得ない。

< 春の雲 >
 桶芳の住み込み奉公人千吉十五歳が藪入りの日の一日をどのように過ごすかから始まる。桶芳に臨時の職人左之助が来たことがきたことから、一膳めし屋・亀屋で働くおつぎちゃんにからむ展開となる。千吉がおつぎに寄せるほのかな思いの揺らめきと行動がいじらしい。千吉が一歩ステップアップするところを楽しめる。

< みたび猫 >
 紅屋の若旦那栄之助が再々登場。おもんとの浮気の続き話。

 この「猫」の登場について、著者は上記の対談の中で、おもしろいことを語っている。引用する。本書の短編は当初「波」に「非常に自由な形の連載」として載り、これは著者の初経験となったという。「どういう話にしようかは、毎回苦しんだわけです。どうにも考えつかないときには、『ふたたび猫』とか『みたび猫』とかいうように、前の話を持ってきてまたいじってみたり。最初からのプロットは何もなかったんですよ」「次のプロットが思いつかないときに、ちょっと一服しようと、緩衝剤みたいな意味もかなりありました」(p314)と。
 この裏話を読むと、この「猫」シリーズの登場をなるほどと思う。

< 乳房 >
 裏店に住むおさよと信助という若い夫婦の物語。めずらしく仕事が早く終わって、おさよが帰宅し、夫と同じ裏店の後家のおせんとの浮気の現場を目撃する。裸足で家を飛び出したおさよのそれからの心中の葛藤と行動が綴られていく。動揺するおさよに、言葉巧みに与次郎がすり寄ってくる。後に与次郎は女衒を本職とするらしいと人伝に知る。
 亭主に裏切られたショック、女心の変転が鮮やかに描きこまれていく。

< おしまいの猫 >
 栄之助の嫁が紅屋に戻ってきて、二人目が出来たとわかる頃、栄之助がやっと家業に身を入れ出す。己なりに商い品の内容も変えていこうと構想する。そんな最中に、おもんの旦那に浮気がばれる羽目に・・・・。おもんの旦那はけじめの条件を出す。
 「いやとは言わせませんぜ、若旦那」というエンディングは因果応報のオチになる。
 さて、栄之助どうする? 読者に物語の続きをを考えさせる終わり方がおもしろい。

< 秋色しぐれ町 >
 秋色に染まるしぐれ町の中だけでも、様々な人生模様が営まれていることを点描する小品。政右衛門は油商仲間の会合の後で、おきちが料理茶屋菊本で働くようになったことを知る。草履問屋山口屋を狙う泥棒と探索する島七たち。山口屋夫婦の内輪揉め。一膳めしの亀屋寅太の妹おまつを孕ませたのは誰かの相手探しの顛末譚。櫛引き職人重助とおはつのことなど。悲喜こもごもの日常が続いている。そこに生きている証があるというように・・・・。
 
 どこにでもありそうな、喜怒哀楽に突き動かされている人間模様が淡々と描き出されている。そこに哀感が漂っていると感じる。

ご一読ありがとうございます。

こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『天保悪党伝』    角川文庫
『早春 その他』  文春文庫
『秘太刀馬の骨』  文春文庫
『花のあと』    文春文庫
『夜消える』    文春文庫
『日暮れ竹河岸』  文春文庫
「遊心逍遙記」に掲載した<藤沢周平>作品の読後印象記一覧 最終版
                       2022年12月現在 12冊
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