遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『姑獲鳥の夏』 京極夏彦  講談社文庫 

2024-03-23 17:41:04 | 京極夏彦
 京極夏彦さんの最近の本を数冊読んだ。そこでこのデビュー作から読み始めてみることにした。読み通していけるか未知数だが、できるだけ出版の時間軸に沿って読んでみたい。時には近年の作品を挟みながら・・・・。
 冒頭の表紙は手許の文庫本1998年9月第1刷の表紙。
 こちらは現在の新刊カバーの表紙である。
 カバーのデザイン一つでかなり印象が変わるな、という感じ。私的には第1刷のカバーの方が怪奇性が横溢しているように思う。一方、よく見ると文庫版のカバーに連続性が維持されている側面もある。
 元々の作品は、奥書を読むと1994年9月に講談社ノベルスとして刊行された。30年前に出版されていた。文庫版で四半世紀の経過、時代の変遷がカバーのデザインにも反映しているということなのかもしれない。
 いずれにしても、このデビュー作自体がロングセラー作品になっていることが新版カバーでの出版になっていることでわかる。

 私は最近の書楼弔堂のシリーズを京極夏彦作品として先に読んで、本作に回帰した。共通するのは、本屋の主を登場させていることである。書楼弔堂の主は元禅僧という背景がある。一方、本作は京極堂という古本屋を営む一方で、神社を預かる神主であり、陰陽師・祈祷師でもある人物が登場する。いずれの人物も培われた宗教的背景を持ち、共に博学で造詣が深い。またストーリーの中では当初は准主役的な位置づけにいる点が共通しているように思う。そして、主役にシフトしていく。
 ストーリーの雰囲気としては、書楼弔堂を読んでいたので、馴染みやすさがある。
 蘊蓄を傾ける知的論議にかなりのページが費やされていく点が共通する。本作でいうなら、怪奇現象、憑き物という世界の話が民俗学的考察の視点から論じられたり、たとえば不確定性原理までが俎上にのぼるなど科学的な論議もなされる。ストーリーのバックグラウンドとして、長々とした知的対話の場面がある。それも導入段階から続く。こういうところが、読者を惹きつけるか、本書を放り出すかの岐路になりそうである。

 本書を開くと、鳥山石燕筆「姑獲鳥(ウブメ)」の絵が載っている。『画図百鬼夜行』に収録された絵。それに続いて、姑獲鳥とは何かの説明が見開きページに4つの原典から引用されている。この姑獲鳥のイメージがこのストーリーの根底にある。のっけから異様な文、文脈が判読しがたい文が見開きページで続く。ここまでがプロローグになるようだ。

 さて、主な登場人物をまず簡略に紹介しよう。
関口巽 :文筆家。後述の京極堂、榎木津、藤野は学生時代からの友人。
     学生時代以来粘菌の研究を続けていた元研究者。鬱病を患った時期がある。
京極堂 :本名は中禅寺秋彦。京極堂と称する古本屋の主。関口と同学年。
     神社の神主。陰陽師であり祈祷師。
榎木津礼次郎 :神保町で「薔薇十字探偵社」を営む私立探偵。社名は京極堂の命名。
     旧華族の家柄。総一郎という兄が居る。天真爛漫な性格。
     人には見えないものを見ることができる特異な能力を持つ。
木場修太郎 :戦時中関口の部隊に属した戦友。生き残ったのは関口と木場のみ。
     東京警視庁の刑事。
久遠寺涼子 :榎木津の探偵事務所に行方不明の調査依頼にくるクライアント。
     雑司ヶ谷にある久遠寺医院の長女。梗子(キョウコ)という妹が居る。
中禅寺敦子 :京極堂の妹。稀譚社という中堅出版社の編集者。榎木津の調査する案件
     に関わって行く。
藤野牧朗 :ドイツに留学し、帰国後久遠寺梗子と結婚。失踪したとされる当事者。

 このストーリーの現在時点は、昭和27年の夏。榎木津の探偵事務所に、久遠寺涼子が訪れ、妹の夫であり婿養子となった藤野牧郎の失踪について調査依頼に来る。その時、関口は榎木津の探偵事務所に来ていた。榎木津はこの依頼を受諾。関口は藤野牧郎が学生時代の友人であることは伏せて、この事案に探偵助手という名目で参画していく。
 関口は、学生時代に、この久遠寺医院を訪れ、藤野の恋文を代理として持参し、少女の久遠寺梗子に手渡した記憶があった。藤野が恋慕した梗子に恋文を書けと助言したのは京極堂だった。
 久遠寺医院を訪れた榎木津と関口、中禅寺敦子は、涼子に案内され、妹夫婦が住居としていた元小児科病棟だったという建物に行き、部屋を検分する。部屋を見るなり、榎木津は「ここで惨劇が行われた訳だ」(p250)語った。さらに、絨毯の隅の血痕にも気付く。その血痕が失踪したとされる牧朗のものと言う。
 牧朗が最後に入ったのは、書庫だったと涼子は言う。その部屋は内側から小さな閂をかければ、部屋の外からは開けることができない。密室を構成する状態の部屋だった。その部屋には、現在妹の梗子が使っているという。涼子はその部屋に入る。引き続き榎木津が入口から少し入り、部屋を見た瞬間にその部屋から離れる。
 関口が理由を問うと、榎木津は「やることなんて何もないよ。強いていうなら、僕らに残されたできることは、ただひとつ、警察を呼ぶことだけだよ」(p268)と。また、榎木津は牧朗と梗子の寝室に居た時点で、「蛙の顔をした赤ん坊」が見えたとも関口に語っていた。
 榎木津はこの後、その場から退出してしまった。関口が引き継いで涼子からの依頼の件をこの後探索していく羽目になる。牧朗は本当に失踪してしまったのか・・・・。
 関口は、梗子に紹介される。また、その部屋には第二の扉があり、その状態も確認した。関口は牧朗の研究ノートや日記を調査のために借用する。それらの資料は京極堂が読み、分析することでこの案件に関わっていく。
 梗子は妊娠20ヶ月という異常な状態にあることが判る。一方で、久遠寺医院では、産まれたばかりの赤ん坊がいなくなるという事件が度々あったらしいという噂が流れていた。一昨年の夏から暮れにかけて、木場刑事はこの赤ん坊失踪事件を担当していたという。さらに、木場は、久遠寺の出自が香川であることから、所轄に調査依頼をしていた。そして、久遠寺の出身の村では、かつては御殿医という名家ではあるが、おしょぼ憑きという憑物筋だという噂があることを知らされたと言う。
 このミステリーが具体的に動き出していく。

 本作は、関口の視点からストーリーが進展していく。その進展のプロセスで、関口は恋文に関わる彼の記憶あるいは幻想を探索のプロセスに重層化して思考し始めることにもなる。また、このミステリーの謎解きに、陰陽師、祈祷師である京極堂が更に関わりを深めていく。このステージでは京極堂がいわば主役になる。独擅場となっていく。
 奇想天外とも感じるが、じつに論理的な展開、実に意外な顛末へと突き進む。

 本作にはいくつかのテーゼが下敷きになっている。以下は京極堂の発言である。
1. この世には不思議なことなど何もないのだよ。関口君。   p23
2. 関口君。観測する行為自体が対象に影響を与える--ということを忘れるな。
  不確定性原理だ。正しい観測結果は観測しない状態でしか求められない。
  主体と客体は完全に分離できない--つまり完全な第三者というのは存在しえない
  のだ。君が関与することで、事件もまた変容する。     p172
3. およそ怪異は遍く生者が確認するんだ。つまりね、怪異の形を決定する要因は、生
  きている人、つまり怪異を見る方にあるということだ。   p321
4. 憑物筋の習俗は今も根強く生きている。これを無視することはできない。 p348
5. 地域の民俗社会にはルールがある。呪いが成立するにも法則というものがある。
p544

 百鬼夜行の世界と現代ミステリーとの結合。不思議と思わせる状況を書きつらね、それを論理的理論的に突き崩していく。これがデビュー作だとは! 実におもしろかった。

 ご一読ありがとうございます。

こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『書楼弔堂 炎昼』  集英社文庫
『書楼弔堂 破暁』  集英社文庫
『書楼弔堂 待宵』  集英社

[遊心逍遙記]に掲載 : 『ヒトごろし』  新潮社

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『書楼弔堂 炎昼』  京極夏彦  集英社文庫

2023-04-25 21:40:12 | 京極夏彦
 このシリーズの『待宵』を最初に読み、そこから遡って本書を読んだ。連作短編集である。『破暁』に引き続き、本書にも6編の短編が収録されている。「小説すばる」(2014年9月号~2016年6月号)に掲載されたものが、2016年11月に単行本として刊行され、文庫の字組みに合わせ加筆修正されて、2019年11月に文庫化された。

 前著『破暁』と比べ、この『炎昼』に少し変化が現れる。短編6編に連なっていくサイド・ストーリー的位置づけで、いわば凖主役として「塔子」と称する女性が登場する。彼女がこの短編連作の狂言回し的な役割を担っていく。塔子が見聞したものとして、塔子の視点から描き出されていく。塔子は『破暁』の「高遠」に似た役回りである。『破暁』では最後に高遠の名前が初めて明かされた。今回はこの女性は名前でずっと記述され、その姓が明かされるのは本書最後の短編においてである。

 短編一作の構成パターンは一貫している。今回は前半に塔子が胸中に不満・鬱屈を秘めつつ行動するとともに塔子自身と家族関係についても少しずつ明らかになっていく。なので、サイド・ストーリーと上記した。塔子自身のプロフィールに対する興味が徐々に読者に形成されていく。これがまず一つの特徴と言える。
 この塔子が自然な成り行きで人々を弔堂に案内する立場になる。塔子に案内された人物が弔堂で主人公になる。弔堂の主とその人物との対話でストーリーが展開する。その話の中に時折塔子の思いや発言が織り込まれていく。

 本書の短編連作でおもしろいと思った第2の特徴は、短編の末尾が定型化されたことである。それは、塔子の言として「いえ、それはまた、別のお話なのでございます」と締めくくられる。
 本書の最後「探書拾弐 常世」の末尾では塔子の姓が明かされる。ここでもまた、
 「その後、私ー□□塔子がどのような人生を送ったのかといえば、
  それはまた、別の話なのでございます」(p541) □□の姓が何かはお楽しみに。

 塔子について、短編6作を読み重ねていくと、かなりイメージができる。だが、姓を明かされても煙に巻かれたままの余韻が残る。これがまたおもしろい。

 短編の後半に出てくる人物は、歴史に名を残す人々ばかり。人からの口コミで弔堂の存在を知り、書を求めて弔堂に来る。弔堂の主との対話を通して、その人物のある側面に焦点があてられ、人物像の一面が明らかになる。この対話プロセスが読ませどころである。史実を踏まえたフィクション化のおもしろさが鮮やかに発揮される。ここに第3の特徴がある。そこに明記される史実の該博さに驚かされる。事実を踏まえたフィクションを介して人物への興味が深まっていくという次第。

 さて、各短編について、読後印象を交えて簡略にご紹介しよう。
<探書漆 事件>
 ある思いを抱き芙蓉の木を眺めて佇む塔子の前に、松岡君、録さんと互いに呼び合う二人の男が現れる。弔堂への道に迷ったのだ。それが何かとは知らなかったが、塔子は陸燈台様の建物のある場所を知っていた。そこで案内役となる。塔子自身も初めて書楼弔堂の内部に入る。これが契機で、塔子は時折、人を案内し弔堂を訪れることになっていく。
 この連作では、単に狂言回しの案内役に留まらず、塔子自身も書を購う客の一人になっていく。そこに明治中期の女性の自我意識や自覚の高まりの先端部分が描き込まれていくことになる。明治時代の雰囲気が感じ取れておもしろい。
 弔堂では、松岡、田山(録さん)、弔堂の主という3人の会話になる。そして、録さんこと、田山花袋の求める書に関連した話に焦点が絞られていく。
 印象深い弔堂の主の言がある。
 「ええ。事実を事実として書くには、事実に見せ掛ける小細工をするのではなく、読む者の内面に事実を生成させるような工夫をしなければならないのではありませんでしょうか」(p85)
 ここでは、松岡國男の一書は決まらない。本書の短編連作では幾度か松岡が弔堂に現れることになる。松岡のことが少しずつストーリーに織り込まれて行く。これがこの『炎昼』の第4特徴といえる。

<探書捌 普遍>
 祖父と喧嘩した塔子は、反抗心にかられ行先も告げず家を出る。そして、弔堂に向かう坂の下に辿り着く。そこで偶然に松岡と出会う。松岡に背中を押されるような気持ちで弔堂に同行することに・・・・。二人は弔堂の前で不思議な人物に気づく。先客が居た。
 その人物は添田平吉、演歌師と名乗った。演歌は元は演説歌のこととか。そのことを本書で初めて知った。演歌師としての生き方を模索する様子が吐露されるストーリー。
 演歌師として活動した添田唖蝉坊が描き出される。  
 この時、塔子は弔堂で小説を初めて購入するというエンディングに・・・・。

<探書玖 隠秘(オカルト)>
 前作で「それはまた、別の話」となったことの話から始まる。塔子は明治女学校の英語教師・若松賤子著『小公子』を密かに自宅に持ち込んで読み始めるという冒険かつ経験をする。小説を知り、塔子はその感動を誰かと共有したくなる。相手として選んだ菅沼美音子との対話がストーリーになっていく。
 その後、塔子の足は弔堂に向く。弔堂には、先客として勝安芳枢密顧問官(勝海舟)が居た。弔堂の主との対話の話材は催眠術関連だった。おもしろいのは、塔子が美音子から聞かされた話題にリンクする点。勝と入れ替わりに、松岡が東京帝国大学哲学科の福來友吉を同行して弔堂を訪ねて来る。
 松岡が所望していたゼームズ・フレイザー著『The Golden Bough』二冊組みが入手できたことから、その内容へと話材が広がり、そこから福來の関心事へと転じて行く。福來友吉に焦点があたる。一方で、松岡についての関心事への広がりが加わることに。ストーリーの構成が実に巧みである。

 禅僧から還俗した弔堂の主の言が印象に残る。
「真理は、実は目の前にございます。しかし多くの人はそれに気づきません。気づかないからこそ、それは隠されていると考えるのです。隠されているなら暴こうとする。しかし隠されている真理など、実はないのでございます。隠すのは、何もないからでございますよ。ならば暴いても詮方なきこと」(p267)
 
<探書拾 変節>
 塔子は下女のおきねさんから聞いた垣根の花を見にでかけ、気味の悪い花という印象を抱く。なぜそう感じるかの描写から始まる。そこでハルと名乗る少女に出会い、時計草だと教えられる。ハルは修身学の授業を抜け出して来たのだと塔子に語る。塔子はハルを伴って、弔堂を訪れる。そこで再び、松岡と出会うことに。塔子は高等女学校に通うハルさんと松岡に紹介する。彼女は平塚明と名乗った。
 松岡が注文していた全国から集めた新聞の内容に話が転じて行く。そこから松岡とハルの間で「正しいこと」とは何かという論議に発展する。ハルの考え、ハルの父親の変節についての話へとその場での対話が進展していく。
 ハルは松岡から高山樗牛の翻訳小説の載る『山形日報』を譲られることになる。
 ハルとは後の平塚らいてうである。

 弔堂の主の言が印象深い。
「変節自体は問題にすべきではなく、寧ろ何故変節したのか、そして変節しても変わらぬものは何なのかこそ考えるべきではございませぬでしょうか」(p346)

<探書拾壱 無常>
 塔子の祖父が病気になる。その状況描写から始まる。祖父に接してきた塔子の愛憎が省察されていく。母親との会話に腹を立てた塔子はその場から逃げ出してしまう。
 いつもの坂道から、弔堂へと至る径を通り過ぎて行った先で、石に腰掛ける疲れた様子の老人に出会う。塔子は、その老人を一旦弔堂に誘い、そこで俥の手配をすることを提案する。老人は自身は軍人だが、泣き虫、弱虫のなきとだと名乗る。
 弔堂の主は、老人に会うなり「源三様」と呼びかけた。「あ、あんたは龍典さんか」(p404)。二人は三十年来の知り合いだった。
 二人の対話の最後に、龍典は、源三様と呼びかけた人、乃木希典に三宅観瀾著『中興鑑言』を進呈した。
 乃木希典がどのような人物だったのか、さらに知りたくなる短編である。

<探書拾弐 常世>
 年明けの状況が塔子の祖父の様子を描くことから始まる。塔子は美音子が嫁ぐという話を聞き、お祝いを持参する。その帰路、堀沿いのところで塔子は弔堂の主と丁稚のしほるに遭遇する。勝安芳(海舟)が亡くなったと聞く。梅が桜に変わる頃、塔子の祖父が死ぬ。祖父の一周忌が過ぎ、桜が散り舞う中、塔子は弔堂を訪ねる。途中で、塔子は1年半ぶり位に、松岡國男と出会うことに・・・。二人は弔堂を訪れる。
 この短編では、松岡國男自身のことが、弔堂の主と松岡の対話の中心になって行く。つまり、読者にとっては、遂に松岡が誰かがはっきりとする。
 最後に、主は松岡に言う。貴方さまの一冊は、貴方様がお書きになるものと推察致します(p538)と。
 一方、塔子は弔堂の主から奇妙な本、教則本のような本を薦められることに。
 この短編連作を通して、松岡國男のプロフィールが徐々に明らかになり、この「常世」でなるほどということになる。そこがおもしろい全体構成になっている。今回の6連作で落とし所が用意されていたという感じである。おさまりが良い。
 さらに、□□塔子の「それはまた、・・・」というエンディングは、いずれつづきが語られるという期待をポンと投げかけているようでおもしろい。

 この短編の中にも、印象に残る弔堂の主の言がある。引用する。
*それは方便でございます。人を生き易くするための嘘。信仰は、人を生き易くするためにあるのでございます。嘘だろうが間違いだろうが、信じることで生き易くなるのであれば、それで良いのでございます。信心というのは生きている者のためにあるのです。死人のためにあるのではない。  p513
*幽霊を扱った物語が怪談なのではございません。怪談の材料として幽霊という解釈は使い易いというだけのこと。怖くさせようとすすのですから、怖く書きましょう。 p517
*死者を成仏させるもさせぬも、それは生者次第でございます。 p528
*怖いというのなら、そう感じる方に疚(やま)しさがあるからでございます。生者の疚しき心こそが、幽霊を怖いものに仕立てるのでございます。  p530

 ご一読ありがとうございます。

補遺
田山花袋について  :「田山花袋記念文学館」
田山花袋      :ウィキペディア
添田唖蝉坊     :ウィキペディア
添田唖蝉坊・ラッハ゜節 /土取利行 Rappa bushi/Toshi Tsuchitori  YouTube
ラッパ節 「明治38年」 (明治・大正・昭和戦前歌謡)    YouTube
           東海林太郎(しょうじ たろう)唄
添田唖蝉坊:社会党ラッパ節::土取利行(唄・演奏)     YouTube 
女性の自立を求めた文学者 若松賤子  :「あいづ人物伝」(会津若松市)
福来友吉  :ウィキペディア
第13回 千里眼事件とその時代  :「本の万華鏡」(国立国会図書館)
 第1章 千里眼実験を読む 福来友吉と催眠術
平塚 らいてう   :ウィキペディア
平塚らいてう  :「近代日本の肖像」(国立国会図書館)
女性・平和運動のパイオニア 平塚らいてう  :「日本女子大学」
乃木希典    :「コトバンク」
乃木希典    :「近代日本の肖像」(国立国会図書館)
この写真の撮影日に夫婦共に自刃。明治天皇に殉死した乃木希典が神として崇められるまで  :「warakuweb」
三宅観瀾   :ウィキペディア
新体詩  :「HISTORIST」(山川出版社)
新体詩  :ウィキペディア
新体詩抄 初編 :「国立国会図書館デジタルコレクション」
柳田國男    :ウィキペディア
柳田國男    :「近代日本の肖像」(国立国会図書館)

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『書楼弔堂 破暁』  集英社文庫
『書楼弔堂 待宵』  集英社

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『書楼弔堂 破暁』  京極夏彦  集英社文庫

2023-03-31 10:30:32 | 京極夏彦
 最新刊第3弾の『書楼弔堂 待宵』を最初に読んだことから、このシリーズ第一弾に遡って読むことにした。短編連作集で6篇が収録されている。最初は各短編が順次「小説すばる」(2012年5月号~2013年8月号)に掲載され、2013年11月に単行本となった。2016年12月に、文庫版が出ている。

 先に第3弾『待宵』でご紹介しているが、短編の構成スタイルの基本は、前半に一人の男の日常生活がさまざまな形で描かれていく。その男がその都度、一人の人物を書楼弔堂に案内する役回りを担う立場になる。案内された人物は弔堂で主と対話して己の迷いや考えを吐露していく。主と客との対話の中で、その客のプロフィールが明らかになっていく。弔堂の主はその客のその後の人生に必要な本を助言する。興味深い点はその客が歴史に名を留める人物だという点である。

 時代設定は明治20年代半ば。書楼弔堂は東京のはずれにある。雑木林と荒れ地ばかりの鄙(いなか)、坂を登り切って、ある細道を歩む。細道のドン突きにはお寺がある。その途中に周りの風景に紛れ、融け込んだように、三階建ての燈台みたいな奇妙な木造建物がある。つい見過ごしてしまうような形で・・・。それが書楼弔堂。軒に簾が下り、その簾に半紙が一枚貼られ「弔」の一字が墨痕鮮やかに記されているだけ。この書楼自体が実に変梃な感じであり、本好きには興味津々となる設定である。

 それでは、読後印象を交えつつ、各編を少しご紹介しよう。

<探書壱 臨終>
 まず「高遠の旦那さん」と書舗の丁稚小僧・為三から呼ばれる男が登場する。二人の会話から、高遠の素性が少しずつ明らかになっていく。高遠は為三の勤める斧塚書店の贔屓客。この探書壱は、為三に案内されて書楼弔堂を訪ねるところから始まる。
 状況設定が明らかになっていく。高遠は10歳の頃に明治を迎えた元旗本の子であり、病気療養目的で家族と離れて一人仮住まいをし、自称高等遊民の下層的存在と言う。弔堂の主は、無地無染の白装束姿で、今は還俗し本屋を営む。己(じぶん)の本を探しているうちに本が増えてきた。求める者に本を縁づけるまで本を陳列し弔う。本を然るべき人に売るのが本への供養と考えると告げる人物である。先取りすると、探書弐では、「本と云う墓石の下に眠る御霊(みたま)を弔うために売っている」(p133)と語る。
 弔堂の主と高遠との会話が進む途中で、地本問屋滑稽堂の秋山武右衞門からの紹介で来たという客が現れる。話は後半に転じる。後半は、日本画が会話の話題となる。弔堂の主は会話を通じて、その客を吉岡米次郎と推断した。幽霊話に転じて行く会話が興味深い。主は、『The Varieties of Religious Experience』と帳面(のおと)の表紙に題が記された本を薦める。主は高遠に、あの人は浮世絵師・月岡芳年様ですよと教えた。
 当時の浮世絵、日本画の状況と月岡芳年の一局面が切り出された短編である。

<探書弐 発心>
 高遠の目を介して、当時の東京の様子が描き込まれていく。冒頭には様々な橋が話材になる。萬代橋・二拱橋・日本橋・吾妻橋・鍛冶橋・八重洲橋・二重橋などの変化について。さらに、当時の世相へと話が広がる。高遠の足は丸善に向かう。丸善の店員との会話。新文体が話題となるところがこの時代を反映しておもしろい。
 店員の紹介で尾崎紅葉の弟子に引き合わされる。未だ一編の小説も書いてはいないが小説家をめざしているというその弟子との会話でお化けが話題になった。それを契機に高遠はその弟子を書楼弔堂に導いていく。
 面白いのは、その内弟子の名前を聞いていなかった高遠は、弔堂の主に「畠の芋之助君」とでっち上げの紹介をした。これが後の伏線にもなっている。
 後半は、主とその内弟子との間で、書生としての日常の仕事内容から始まり、形而上のお化け論へと会話が展開していく。探書壱に引き続き、お化け論議の第二弾。弔堂の主が内弟子の心理・思考と高遠の紹介を分析していくところが読ませどころになる。
 主は「松木騒動の顛末を記した資料一式」をその内弟子に「これを-お売りします。あなた様の-筆で読みたい」(p180)と告げる。最後にその青年は実名を名乗った。泉鏡太郎と。後の文豪、泉鏡花がここに登場!
 
 この探書弐で印象的なのは、弔堂の主が語る次の文。
「何の、どうして怪談が無駄なものですか。人は、怪しいもの。世は常に理で動くものでございましょうが、その中で、人だけは合理から食み出してしまうものなのでございます。」(p162)
「仏道で云う悟りは、目的ではございません。悟るために修行するのではなく、修行そのものが悟りなのでございます」(p170)

<探索参 方便>
 元煙草製造販売会社の創業者山倉に誘われて、高遠が娘義太夫の舞台を見物するところから始まる。二人が立ち寄った居酒屋で、山倉は偶然に元警視庁の矢作剣之進を目にとめる。矢作を交えた会話で、またも、お化けが話題となる。女義太夫とお化けの話題から哲学館の話に転じていく。矢作が『哲学館講義録』と井上圓了のことに触れる。それが高遠を弔堂に赴かせる契機となる。
 弔堂で、高遠は先客の勝安芳(海舟)と出会うことに。勝が弔堂の主に対して話題にしたのが井上圓了のことだった。主と勝との間で、井上圓了論議が始まっていく。その上で、3日後に井上圓了を弔堂に来させると勝は言った。高遠はその日、己の関心から弔堂に出向き、主と井上の会話を傍聴する。二人の会話がこの短編の要となる。
 弔堂の主は井上に本を書けと薦める。「今の世に合った、真の方便を作るのでございます」(p273)と。そして、主は鳥山石燕の記した『畫圖百鬼夜行』を井上圓了に薦める。

<探書肆 贖罪>
 鰻が話材となり、高遠はうなぎ萬屋に行く。入口から少し離れたところに蹲る奇妙な男を目に止める。それが縁となり、土佐出身の中濱と称する老人と知り合う。奇妙な男は中濱の連れだった。中濱はその連れを世捨て人と言ったが、本人は死人だと訂正した。
 この老人もまた勝海舟の紹介で、書楼弔堂に行こうとしていた。鰻の取り持つ奇縁で高遠は中濱と連れの二人を弔堂に案内することに。
 弔堂の主は、その老人を中濱萬次郎と即断した。じょん万次郎と知り高遠は仰天した。主と中濱との会話は、幕末における勝海舟の行動が話題となり、さらに福澤諭吉の言論に話が及んでいく。当時の状況がわかって興味深い。その後で、中濱の連れの男の話になる。最後に中濱はその連れの名前を弔堂の主に告げた。連れの男の過去が明らかになる。
 主は文政9年に開版され14冊からなる『重訂解體新書』をその男に薦める。「あなたは、人が何故生きているかを知るべきです」(p360)と。そして、重要なひとことを付け加える。このひとことを伝えるのがこの短編の要と言える。

<探書伍 闕如(けつじょ)>
 高遠が紀尾井町の自宅に10日ばかり戻ったときの状況からストーリーが始まることで、読者はさらに一歩、高遠の人物像にふれることに・・・・。高遠は気分転換に日本橋の丸善に立ち寄る。そこで、店員の山田から泉鏡太郎の処女小説のことを教えられる。さらに尾崎紅葉からの作家繋がりで、作家の巌谷小波(いわやさざなみ)のことを聞き、作者名が漣山人となっている本を高遠は2冊買う結果となる。店員の一人合点によるまわりくどい紹介の仕方がおもしろい。
 高遠が仮住まいに戻る前に、世話になっている百姓の茂作の家に立ち寄る。その結果因縁のある猫を高遠が預かる羽目になる。この猫が一つの伏線となっていく。
 高遠の仮住まいに、巌谷小波が訪ねてくる。泉鏡太郎から聞いたということで、書楼弔堂を訪れてみたいと言う。高遠は巌谷を弔堂に案内することに。
 ここから弔堂の主と巌谷との会話となり、高遠はその傍聴者となる。読者もいわば傍聴者である。明治という時代の一端を感じることに繋がって行く。
 主は、巌谷が求めている本に、享保年間に刊行され23冊からなる『御伽草子』を附録として付けようと言う。

 この探書伍で印象深い文をご紹介しておこう。弔堂の主が巌谷に述べたことである。
「此方に向くのが正しいと思うなら、反対に向けば後ろ向きです。正しいと思わなければ、どちらを向いても前を向いていることになりましょうよ」(p431)
「歩むことこそが人生でございます。ならば今いる場所は、常に出発点と心得ます。そして止まった処こそが終着点でございましょう」(p442)
「ええ、現実と云うのは今この一瞬だけ。過去も、未来も、今此処にないものなのでございます。ならばそれは虚構でございましょう。過去なくして今はなく、今なくして未来もない。ならば虚実は半半かと存じます」(p444)

<探書陸 未完>
 高遠が預かった猫の話から始まる。猫を観察しながら高遠が己の生き方を重ねて行くところがおもしろい。高遠の仮住まいに、弔堂の小僧のしほるが猫の貰い手についての話を持ち込んでくる。それは弔堂に本を売る話と対になっていた。
 高遠は猫を貰ってもらうことと、弔堂が本を買い取るときの運搬作業に協力することに関わっていく。蔵書を売り、猫を欲しいと言うのは武蔵清明社宮司の中禅寺輔という人だった。教員だった中禅寺は神主を嗣ぐという人生の選択をした。自分にとって不要の本を売るという。弔堂の主は買い取る本を仕分けていく。そして、まだ生きている本は弔えないと述べ、その本を中禅寺輔に示して、理由を述べていく。弔堂の主の説くキーワードは、偽書と未完。偽書の意味が要となっていく。
 最後に弔堂の主は、高遠に初めて1冊の洋書を押し売りだと言い薦める。それは、奇妙な小説で未完のままだと言う。高遠はその本を買った。

 弔堂の主の名前が、この探書陸で初めて中禅寺が口にする形で出てくる。
 最後の最後になって、高遠の名前が初めて明らかにされる。そこがまたおもしろい。

 第2弾の短編連作がどのような展開になるのか。今から楽しみである。
 ご一読ありがとうございます。

補遺
月岡芳年  :ウィキペディア
ウィリアム・ジェームズ  :ウィキペディア 
尾崎紅葉  :ウィキペディア
泉鏡花   :ウィキペディア
松木騒動 ⇒ 真土事件  :ウィキペディア
井上円了  :ウィキペディア
鳥山石燕  :ウィキペディア
畫圖百鬼夜行  :「維基百科」
ジョン万次郎の生涯  :「ジョン万次郎資料館」
ジョン万次郎  :「土佐の人物伝」
重訂解体新書  :「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」
重訂解体新書  :「一関市博物館」
岡田以蔵伝   :「土佐の人物伝」
巖谷 小波   :ウィキペディア
御伽草子    :ウィキペディア
こんな本、あります No.48『大語園』  :「京都府立図書館」
ローレンス・スターン  :ウィキペディア
トリストラム・シャンディ  :ウィキペディア
『トリスラム、シャンデー』 夏目漱石  :「岐阜大学地域科学部」

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『書楼弔堂 待宵』  集英社
[遊心逍遙記]に掲載   : 『ヒトごろし』  新潮社


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『書楼弔堂 待宵』   京極夏彦   集英社

2023-03-05 22:28:43 | 京極夏彦
 書楼弔堂シリーズの第3弾! 第1・2作を読まずに、最近刊から読み始めてしまった。このシリーズは短編連作集である。本書にはこの短編シリーズの第13から第18の6編が収録されている。「小説すばる」(2017年2月号、2021年10月号~22年6月号の隔月)に各短編が連載されて、2023年1月に単行本が刊行された。
 手許に第1作の『書楼弔堂 破暁』を文庫版で購入済みだったのを後で思い出した。遅ればせながら、この第1作を確認すると、短編6編が収録されているので、各巻6編ずつということになる。

 この第3作、まずは表紙が洒落ている。オスカー・ワイルド作『サロメ』の挿絵部分図を組み込んだ装幀である。オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー画「ヨカナーンとサロメ」である。「書楼弔堂」という異質感を漂わすタイトルと共振している感じがする。
 一方、本書には、各編に鳥の図版が掲載されていて、その絵は毛利梅園『梅園禽譜』という天保10年(1839)の序が付く書からの図である。各短編に出てくる鳥名ともリンクしていて、様々な書を所蔵する「書楼」にマッチした雰囲気づくりにもなっている。

 元禅僧で還俗した男が、何でも揃う書舗(本屋)の主となり「弔堂」と称して営んでいる。その本屋はある坂道を登り切った先で一つの細道に入り、お寺に到るまでの細道の途中に周囲の景観に融け込むようにして建つ奇妙な建物である。見落としてしまう場所にあるという。普段は本を墓の如くにみなし本を弔っているが、その本を購うに最適な人に本を売るという方針の奇妙な本屋が舞台になっていく。然るべき人たちの口コミで書楼弔堂の存在を知り、然るべき人が本を探しに来ることにまつわる話を語ることがモチーフになっていると思う。それが所謂章立てに反映しているところが面白い。「第十三章」とは記さず、「探書拾参」と表すという具合である。読んでみてなるほどと思ったのだが、短編作品のタイトルはいわばそのストーリーのテーマが二文字の語句で表現されていると受けとめた。遅ればせながら手許の第1作『書楼弔堂 破暁』を確認したが、このネーミング法は一貫している。
 この後は、第1・2作は未読なので、この第3作に限定して、読後印象をご紹介する。

 本書の短編自体の内容は、勿論順次変化していくのだが、ストーリーの流れ・構成には一つのパターンができている。時代は明治の30年代後半に設定されている。ストーリー自体には明確な日時の記載はほとんどない。しかし主な登場人物が交わす会話などから大凡が類推できる。本書6編の大凡のストーリー展開は、前半でまずある坂道の上で甘酒屋を営む爺が登場する。彼の名は弥蔵。弥蔵は自らくたばり損ないの耄碌爺と自嘲している。幕末は幕府軍側に属した生き残りで、自ら賊軍だったという。弥蔵は人には語れない過去を背負っている。そこに、坂道の下側の町中に住む二十代の利吉が、甘酒飲みの常連客として登場する。彼は定職を持たない、職探し中の青年。弥蔵はいわば世捨て人。利吉は世間のホットな話材・情報を弥蔵に聞かせる。二人の会話から、時代状況や二人の考え方の違いやスタンスがわかる。明治時代の雰囲気も読者に伝わってくる。例えば、最初の「探書拾参」では、弥蔵の思い並びに弥蔵・利吉間の会話に、「行軍訓練中に命を落とす、やはり凍死は嫌だ、ハ甲田山の騒ぎ、もう十日も前のことだろうに・・・」という語句が次々に現れてくることから時代設定が推測できる。八甲田雪中行軍遭難事件は、調べてみると、明治35年(1902)1月に起こっている。
 この前段を踏まえて、もう一人主役になる人物が甘酒屋を訪れる。その人物は何等かの問題を抱えている。その対処ができる書を求めている。そこで書楼弔堂を訪れるために道順を尋ねたいのだ。だが、生憎とその書楼は説明しづらくわかりにくい場所にある。そこで、弥蔵が弔堂まで道案内する役割を担う。
 後半は、本を購うために弔堂を訪れる人物と弔堂の主との会話がストーリーの中心になる。弥蔵はいわばその場のオブザーバー。その状況の目撃者である、弥蔵という目撃証人の視点からストーリーが語られていく。時には弥蔵も会話に加わる。

 本書の特徴のひとつは、各短編の後半に登場する人物が、歴史に名を残す実在人物であること。その人物に関わる史実を踏まえて、その人物をモデルにし、ある一側面を鮮やかに切り取るという形でフィクション化している点にある。この点が実におもしろく、かつ弔堂の主とこの人物の会話が興味深い。
 2つめの特徴は、弔堂の主が、書について客に語る情報(チェックしていないが多分事実情報)の内容である。いわば書について該博な知識の泉があふれ出す。読書人には楽しみな情報提供になっている。著者の該博な知識あるはリサーチの結果がここに反映しているのだろう。
 3つめの特徴は、少なくともこの第3作に登場する弥蔵の人生に触れるということ。彼の抱える過去とは何か? その謎解きの側面が明らかになっていく・・・。短編を読み進めるうちに、読者は弥蔵という男への興味関心を深めていくに違いない。私がそうであったように。
 4つめの特徴は、利吉という人間がどうなっていくのかがわかるということ。利吉への関心をやはり読者は抱くことになるだろう。そのおもしろみが加わる。
 5つめの特徴は、目次におけるカウントの仕方である。この点は、以下のご紹介の中でおわかりいただける。こういう漢字の使い方は、私にとっては初見である。

 目次並びに、ストーリー後半に登場する歴史上の実在人物名、そして、読後印象からみの簡略なコメントを記してご紹介しよう。

<探書拾参 史乗>  徳富蘇峰  (蘇峰の弟は作家の徳富蘆花)
 徳富蘇峰は時代の転換期において、蘇峰は言論人として矜持を持つが、己の行動の方向性を模索していた。その局面が弔堂の主と蘇峰の会話で描き出される。
 弔堂の主は、頼山陽著『日本外史』を蘇峰に翳す。

<探書拾肆 統御>  岡本敬二(作家岡本綺堂)
 岡本敬二は、子供の時の記憶に残る絵を挿絵にしていた草双紙を求めて弔堂を訪れた。弔堂の主は、その書名を即座に返答する。しかし、それはもう手許にないと答える。そして、主は逆に、英国の雑誌『Beacon's Christmas Annual』を岡本に進呈した。その雑誌に、アーサー・コナン・ドイル著の小説「A Study in Scarlet」が載っているからという。そして弥蔵の発言に対して、「読み味の本質は何処にあるのでございましょうや」と応えるのだった。
 統御については、雑誌進呈の少し前に、主、岡本、弥蔵の三人の会話として出てくる。

<探書拾伍 滑稽>  宮武外骨(反骨の操觚者)  操觚者=文筆家、ジャーナリスト
 宮武は本を購うのではなく、書楼弔堂のことを知り、自らが編輯した雑誌類を売るために訪ねる。その目的は、雑誌発行などで作った借金返済のため。その経緯が宮武外骨の生き方を示す。
 弔堂の主は、雑誌の山を選り分け、一部を買い取る。しかし、大半は宮武が手許に保管し、逆に欠番をいずれ購入してフルセットにすることを薦める。
 「滑稽」にはいくつかの意味が重ねられている。そこが読ませどころだと思う。

<探書拾陸 幽冥>  竹下茂次郎(のちの竹下夢二)
 早稲田実業学校に在学し、己の生き方(実業か虚業か)に悩みつつ、幸德秋水の活動を手伝っている竹下茂次郎と弥蔵の出会いを描く。その時、往来で弔堂の小僧が事故に遭う場面に二人が居て、小僧を助ける。それが縁で、竹下は弥蔵とともに弔堂に行く結果となる。
 弔堂の主は、竹下に『サロメ』の英語版、そこに載る線画の挿絵を見せる。さらに、葛飾北斎と喜多川歌麿の絵をみせる。そして、主は2枚の浮世絵を竹下に進呈する。
 弔堂の主は、竹下との会話で、画風の違いについて、己の意見を述べる。それは、竹下の迷いに対する示唆となるのだろう。本書の表紙は、この短編と直接リンクしていた。

<探書拾漆 予兆>  寺田寅彦
 利吉が弥蔵を街中のある場所に案内するが、道に迷ってしまう。休憩に立ち寄った茶店で休んでいる時に、弥蔵はある老人に眼をとめる。何故か気になる。その老人は尋ね事をした若者に対し一礼して立ち去った。若者に尋ねようと弥蔵は声を掛けた。若者は弥蔵に寺田と名乗る。彼は、弔堂に幾度か出かけていて、弥蔵の顔を見知っていたのだ。
 茶店で行われる会話、金平糖がなぜあんな形になるかの話題の展開がおもしろい。弥蔵は寺田から老人の名は藤田五郎と知る。
 寺田は藤田五郎の探し求めている本について知る為に、弥蔵とともに弔堂に行く。寺田は藤田の尋ね事から、藤田の探す本に記された内容と藤田との関わりを論理的に解明することに関心を持っていたのだ。弔堂の主は本の題名も藤田の素性も知っていた。勝海舟他から情報を得ていたという。寺田は主にその本の入手を依頼する。寺田寅彦の当時の状況と思考スタイルが興味深く描かれている。その点はたぶん事実を反映していることだろう。

<探書拾捌 改良>  藤田五郎(齋藤 一)
 弥蔵は背中に痺れを感じる状態に陥る。そんな身体不調の状況の場に利吉が訪れ、弥蔵に関わっていく。一方で、己の今後の生き方について、弥蔵に語る。
 藤田五郎が寺田から連絡を受けたことで、弥蔵の店を訪ねてくる。二人の間で、過去の生き様が話材になる。
 二人は弔堂の主の許を訪ねる。会話の中から藤田五郎が齋藤一と名乗っていた新選組時代のことが明らかにされていく。また、弥蔵が己の過去を語る。
 読者にとって、この短編連作の前半部分のストーリーの累積の先で、弥蔵の心中がストンと理解できるという展開になっている。利吉の生き方の選択に一つの結論が出る。

 なかなか巧妙なストーリー展開になっている。
 早速、第1作に立ち戻って読み始めようと思う。一方、第4弾の出版を期待したい。

 ご一読ありがとうございます。

補遺
八甲田雪中行軍遭難事件  :ウィキペディア
徳富蘇峰  :ウィキペディア
徳富蘇峰  近代日本人の肖像 :「国立国会図書館」
岡本綺堂  :ウィキペディア
宮武外骨  近代日本人の肖像 :「国立国会図書館」
明治新聞雑誌文庫 ⇒ 近代日本法制史資料センター 東京大学 
竹下夢二  近代日本人の肖像 :「国立国会図書館」
夢二郷土美術館  ホームページ
サロメ (戯曲)  :ウィキペディア
4974554 オーブリー・ビアズリー 「ヨカナーンとサロメ(サロメ挿絵)」 :「アフロ」
寺田寅彦  近代日本人の肖像 :「国立国会図書館」
金平糖について :「緑壽庵清水」
齋藤一   :ウィキペディア

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[遊心逍遙記]に掲載
『ヒトごろし』  新潮社

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