遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『惜別 鬼役五』   坂岡 真   光文社文庫

2025-01-30 23:58:57 | 諸作家作品
 一つのブログ記事での小説の長さ分類を参考にすると、本書は中編1、短編2から成る連作集で、「鬼役」シリーズ第5弾である。
 出版社が代わり、シリーズとして大幅加筆修正、改題して、2012年8月に文庫本が刊行された。

 新装版表紙

 最初の「婀娜金三千両」が中編、「加州力士組」と「天保米騒動」が短編である。
 文庫のタイトルが「惜別」となっているのは、読了してみて、この一語が収録3作品のテーマになっているという印象を持った。

 < 婀娜金三千両 >
 婀娜金に「あだがね」とルビが振られている。このタイトルがまず興味を惹く。「あだっぽい」という語なら知っていた。婀娜という語はそれをさすようだ。「あだ」の見出しで、この漢字を載せ、形容動詞として、「女性がなまめかしいさま。いろっぽいさま。あだっぽい」(日本語大辞典、講談社)と説明されている。
 ならば、婀娜金三千両とは何か。遊郭吉原が幕府に納める半季分の冥加金のことである。この冥加金を載せた荷車が水無月(陰暦6月)晦日の晩に浅草の菊屋橋付近で襲われて強奪されたいう事件が起こる。
 時は天保4年葉月(陰暦8月)、鬼役矢背蔵人介は、近習を束ねる御小姓組番頭橘右近から呼び出されて、この事件の事を聞かされる。そして、強奪された婀娜金三千両の行方を追えと命じられる羽目になる。鬼役とは関わりのない仕事だが、蔵人介は関わらざるを得なかった。橘右近は、元甲州勤番、神尾徹之進がその婀娜金の移送に関わっていたというのだ。神尾徹之進は、蔵人介と同じ道場で鎬を削った仲、無二の親友だったのだ。
 少し前に、蔵人介は夕餉の毒味で鯖にあたるという事態が起きていた。橘右近は、蔵人介に自宅での静養という名目で、この事件を追わせることに・・・・・。
 蔵人介は、尾州浪人、菊岡作兵衛という偽名で、吉原の用心棒に雇われる形で事件の解明に関わっていく。
 このストーリーの副産物は、遊郭吉原の仕組みと内情の一端が見えることである。
 そして、なぜ神尾徹之進が婀娜金三千両強奪事件との関わりとして、その名が出たかの解明が、事件の謎解きに繋がっていく。神尾に邂逅した蔵人介は神尾の復讐心を知る。
 事件の発端が、幕府内の闇に繋がっていく側面が読ませどころになる。
 蔵人介にとっての悲哀は、無二の親友、神尾との惜別と言える。


< 加州力士組 >
 長月(旧暦9月)28日、神楽坂、前國寺の毘沙門天の縁日、境内の水茶屋『百足屋』に巨漢力士5人が立ち寄り、加賀前田家の手木足軽に飲ませる酒はないというのかと、無理な注文をして、ひと騒動を起こした。その一人は己を紫電為五郎と名乗った。紫電の暴力で水茶屋のおしのがその夜亡くなる。おしのは元幕臣の娘でもあった。
 その場にたまたまいた蔵人介は、南町奉行所の同心に紫電の行状を言上した。勿論、己の役職、氏名を伝えている。これが発端となる。
 加賀藩留守居役の萩尾調所は、碩翁に働きかけ、仲介してもらい、この事件を握りつぶそうと、証言した蔵人介に圧力をかけてきた。
 神無月(旧暦10月)に御公儀が催す御前相撲に加賀藩から紫電が出場するという話がそこに絡んでいた。この御前相撲には、蔵人介は毒味役の職務のために土俵下、砂かぶりの位置に控えることになる。そこで、紫電を懲らしめる秘策を練っていた。
 つまり、力士の乱暴狼藉により元幕臣の娘おしんが死んだ事件が、雪だるま式にどんどん大事になっていく。その経緯が読者を惹きつけ、最後の鉄槌を蔵人介が振るう。読者は喝采で、楽しめる。
 このストーリー、その後にキッチリと最後のオチがつけられる。自業自得と言うべき結末。勿論、その引導を渡すのは、蔵人介である。「暗殺御用」ではないところがいい。
 
 余談だが、調べてみると、加賀藩に手木足軽という職制があったのは事実のようだ。勿論、紫電為五郎というのはフィクションだろう。一方、江戸時代後期に雷電爲右エ門(1767~1825)という大相撲力士がいた。さらに、雷電爲五郎(生年不詳~1785)という力士がいたことも事実のようだ。


< 天保米騒動 >
 品川の海晏寺に矢背一家が紅葉狩に出かけた折、門前の楊弓場で鐵太郎が初老の町人に人質に取られるという事件から始まる。その男の首は5日後に鈴ヶ森の獄門台に晒されたのだが、その素性を調べると、「丹波屋」という米問屋を営む商人だった。そこで、蔵人介はさらに調べてみると、天保の不作による飢饉のせいで発生している米騒動に絡む不正とのつながりが見え始める。というのは、丹波屋の跡地で、義弟の市乃進に声をかけられたのだ。市乃進は闕所物奉行の鳥飼新兵衛の不正を探索していた。
 市乃進の話を聞き、蔵人介は米騒動に絡む不正の真相を自ら確かめるべく、一歩踏み込んでいく。
 米騒動で米問屋の打ちこわしを扇動する者、その騒動を操る悪徳米問屋、幕府内部に巣くい彼らと結託する輩という構図が見えて来る。一方、そこには扇動され米騒動に加担し使い捨てにされる哀れな人々が居た。
 蔵人介の心中で悪を一掃するべしとの信念、怒りが爆発する。
 ここには米騒動に踊らされて死んでいった哀れな人々への惜別の情が根底にある。
 このストーリーの底流に、蔵人介の義弟、綾辻市之進の結婚問題が密かに進行していく。己の信念を貫いた結果である。その行為は上役や同僚には奇異に思えることだった。このシリーズの読者に取っては、明るく楽しいと受け止められる事象である。それはなぜか。本書で確かめていただきたい。
 
 この第5弾もまた、「暗殺御用」とは別次元での蔵人介の必殺行動に帰着する。

 ご一読ありがとうございます。
 
 

補遺
小説のジャンルー長編小説・中編小説・短編小説を作品の長さで分類 :「Hatena Blog」
加賀藩手木足軽と氷室に関する覚え書き  竹井 巌 :「北陸大学」
雷電爲右エ門  :ウィキペディア
無双力士 雷電為右衛門  江戸時代のおすもうさん :「雷電くるみの里」
雷電爲五郎    :ウィキペディア
天保騒動     :ウィキペディア
飢饉  天下大変 :「国立公文書館」
天保飢饉と米騒動 『福井県史』通史編4 :「福井県立図書館・文書館」

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『[新装版]火城 幕末廻天の鬼才・佐野常民』  高橋克彦   PHP

2025-01-07 20:51:12 | 諸作家作品
 昨年末に、海堂尊著『蘭医繚乱 洪庵と泰然』(PHP)を読み、読後印象をご紹介した。この時、初めて佐野栄寿(常民)が緒方洪庵の適塾で学んだ一人だということを知った。読後に少し調べていて、佐野常民が明治維新後に日本赤十字社の創設者になった人物であることと、『火城』という小説があることを知った。
 それがきっかけでこの歴史小説を年初の一冊に組みいれた。
 読了後に、本書の「あとがき」や奥書を読んで知ったことから、まずご紹介したい。

 PHP文庫表紙   1995年9月出版 
  角川文庫表紙  2001年11月出版 

 冒頭の写真、[新装版]は2007年12月に刊行された単行本である。
 元は1992年5月にPHP研究所より単行本が刊行されていた。上掲の通り、文庫化が既に行われているのに、単行本として新装版が出版されたということが私にはちょっと驚きであり、このことがまず印象的である。それは著者自身も感じていたようだ。「新装版に寄せて」という本書末尾の一文に、その経緯が記されている。ここでは触れない。
 一方、この箇所はご紹介しておきたい。
「佐賀のすばらしさは、国のために一丸となって無駄な回り道を厭わなかった点にある。揺れ動く時勢に惑わされることもなく、ただひたすら定めた目標に向かって歩き続けた。こんな道を今の日本が選べるだろうか?」(p355、1992年3月記)
「人は人のために働いてこそ価値がある。これは私の近頃の実感なのだが、佐野常民ほどその生き方を貫いた人はいない。彼は佐賀藩のために在り、日本の未来のためにすべてを捧げた。・・・・・過去を描くことがすなわち未来を読み解くことだと、私は佐野常民の起伏に満ちた人生を通じてはっきり教えられた」(p357、2007年10月記)
 もう一つは、著者が歴史小説を手掛ける嚆矢となったのがこの『火城』だということを初めて知った。
 
 「泣く、ということはひとつの才能である」という冒頭文から始まる。佐野栄寿の特異性がここにあったという。冒頭で、一瞬、エッ!と感じた。『葉隠』が家訓として重視された肥前佐賀藩においてである。佐野栄寿が泣くという特技を人々が結果的に受け入れたということがまずおもしろい。当時の風潮とは真逆の行動を必要とあらば自然に貫いたのだから。最初の節の末尾に、「男の名は佐野栄寿、後の常民。/ 日本赤十字社の生みの親である」(p6)と記す。
 佐野栄寿は、佐賀藩士下村家の五男として生まれた。11歳で親戚である藩主侍医佐藤常微の養子となり、佐藤家で先に養女となっていた駒子と20歳で結婚した。この小説は、25歳の時に、藩主鍋島直正(のちの閑叟)の命により、蘭学習得のために京都に留学するところから始まり、文久元年の秋までを描く。この年の7月に栄寿に蒸気機関製造命令が出されたのである。つまり、日本赤十字社のことは、後年のことであり、この歴史小説には登場しない。
 栄寿は京都で広瀬元恭に就いて蘭語と化学を2年間、大坂の適塾に入りさらに2年間学んだ後、藩命により江戸に赴き、伊藤玄朴の塾で学ぶ。この塾の塾頭になった栄寿がある事件の当事者となる。この事件の動機を栄寿は黙して語らない。だが、この事件が栄寿にとり大きな転機となっていったのは間違いがないと思う。
 ここでストーリーの進展において面白い点を指摘しておきたい。司馬遼太郎の作品スタイルと同様に、ストーリーの要所要所で著者自身が顔を出し、己の解釈、仮説を加え、ストーリーに織り込んでいく。これが大きな要素になっている。ストーリーの推進力にもなっていく。

 ストーリーの導入部で、適塾時代のエピソードが紹介される。藩命で潤沢な費用を支給されている栄寿は、塾生仲間に全21巻の辞書『ズーフ・ハルマ』を書き写してもらい、その謝礼に一説では7両を支払ったという。このエピソードを記した後、栄寿のスタンスが記されている。栄寿にとり辞書は蘭書を読み解く道具。「蘭学の理解よりも、蘭学の実践を意図していた栄寿にとっては、・・・・蘭語を自由に操れるようになるのが栄寿の本来の、目的ではない。自分の語学力が足りなければ別の人間がそれを正しく読めればいい。中に何が書いてあって、それが佐賀藩の将来にどう役立つか、こそが栄寿の一番の関心だった」(p10)と。これが栄寿の行動原理になる。この行動原理を実践に移したプロセスがこのストーリーともいえる。

このストーリーのテーマと特徴をご紹介しよう。
1.佐野栄寿の行動原理が実践されるプロセスを描き出す。それがメインストーリー。
 栄寿の目指したのは、佐賀藩において自力で蒸気船を建造することだ。この目標をぶれずに遂行するためには、藩の方針を変容させることにも果敢に挑戦し、協力者を集め、結果をだす。やがて、栄寿の視野は、佐賀藩という規模から、日本の存在という次元にステップ・アップしていく。
 栄寿は舎密の口入れ屋だと自称する。目標を達成するために、石黒寛二、中村奇輔という優秀な蘭学の徒二人と京都で機巧堂を営む田中儀右衛門(カラクリ儀右衛門)を口説いて佐賀に連れて帰る行動に出る。この人材確保・活用のプロセスが描かれていく。
 尊王、開国、攘夷という思想に翻弄される世間をよそに、佐賀においては精錬方という位置づけで技術力の確立に邁進する生きざまがここにある。

2.佐賀藩主鍋島直正、後に閑叟と号した人物を、栄寿の活躍を支えた力として描く。
 江戸時代の末期において、鍋島閑叟がどのような見解をもち、何をなそうとしたかがわかる。時代の推移を明察し、佐賀藩が何をなすべきかを見とおした英邁な人物像が浮かびあがる。だが、それ故に孤高な存在だったことだろう。
 佐賀藩の行動がぶれなかったのは、この藩主によるところが大きいと感じた。

3.佐賀藩という組織。この藩の方針と実状のおもしろさが加わってくる。
 幕領である長崎を防御するという役目を担う佐賀藩の特殊性がある。出島とオランダを介して、西洋の情報を得やすい立場にあった。それ故に彼我の差も実感し、具体的な危機感も発生する。藩主の方針のもとに反射炉の建造を進める。それは自力で大砲を製造する技術力を確立することを目指していた。火術方には技術力を高める上で七賢人と称される精鋭が集っていた。薩摩藩と同様に、当時の先端を歩む開明度の気風がある。一方、幕藩体制下において、自己防衛のために、二重鎖国を方針としていた。栄寿など枢要な人材の留学などを積極的に推進する一方において、藩領から他藩領へ人々が出ることを禁じ、一方他藩領から人が入るのも制限するという状況だった。情報漏洩の遮断策だ。『葉隠』という家訓を奉じた藩に別の顔があるところがおもしろい。また、開明のスタンスが実践されている一方で、佐賀藩にも攘夷を唱える一派がいたようである。

4.栄寿の眼と思考を介して、江戸幕府をはじめ諸藩並びに世間の動向、併せて蘭学の世界の動向が点描されていく。その中でも、栄寿が、彦根藩の頭脳となっていく長野主馬(後に主膳ろ称す)に着目していくところが興味深い。


 著者は伊東玄朴と栄寿との対話の中で、玄朴に次の言葉を語らせる。
 「人が従うのは力や金にではない。真摯な心と存ずる」(p313)
 「この時代にあって、先の世に思いを馳せるとは、常人にたやすくできることではない。いかに殿様がお許しになられたと申しても、貫くには並大抵でなかろう。それでも、やり遂げて下され。陰ながら祈っておりまする」(p317)
 このストーリーは、この言葉を栄寿とその仲間が目標に邁進するプロセスとして描き出したとも言える。

 藩主閑叟は栄寿に語る。「儂は大砲を並べることで佐賀を日本の火城たらしめんとした。だが・・・・・・・・思惑とは異なっても、すでに佐賀は火城となっておる。」(p289)
 「大砲も火なれば、蒸気も火。・・・・・・おまえの火がからくり儀右衛門という火を佐賀に呼びよせたのだ。こけおどかしの松明となるか、そうでないかは、これからの働きにかかっておる」(p290)
 本書のタイトル「火城」はここに由来するようだ。


 尊王攘夷や国学の思想が渦を巻き、騒乱を惹起している最中に、思想とは一線を画し、西洋諸国に対峙していく道を模索していた一群の人々がいたことを本書で知った。江戸時代の末期を眺める視座が広がった気がする。

 栄寿がジョン万次郎と関りを持ち、一助の策をめぐらしたというくだりを興味深く読んだ。栄寿ならやったことだろうなと思う。ここにも人を活かす心が息づいている。

 ご一読ありがとうございます。



補遺
鍋島直正   :ウィキペディア
佐野常民 揺ぎなき博愛精神     :「Sagabai.com」(佐賀市観光協会)  
佐野常民と三重津海軍跡の歴史館  ホームページ
  佐野常民の歩み
枝吉神陽 ~佐賀の「吉田松陰」~  :「Sagabai.com」(佐賀市観光協会)
伊東玄朴   :ウィキペディア
からくり儀右衛門(田中久重)の生涯   :「久留米市」
田中久重   :ウィキペディア
佐賀県の歴史第2章 嵯峨における幕藩体制  :「佐賀県」
明治維新の先駆的役割を果たした佐賀藩    :「佐賀県」
久留米からくり振興協会  ホームページ
蒸気船雛形(外輪船)     :「佐賀城本丸歴史館」
蒸気車雛形 附貨車他 一台  :「さがの歴史・文化お宝帳」

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『遺恨 鬼役四』  坂岡 真   光文社文庫

2024-12-21 15:46:39 | 諸作家作品
 鬼役第4弾! 2006年に文庫で刊行されていたものに、大幅加筆修正し改題されて、2012年7月に文庫本が刊行された。
 本所には、短編連作として、「月盗人」「懸崖の老松」「暗闇天女」「末期の酒」の4編が収録されている。

 御小姓組番頭橘右近から、蔵人介の裏の役目を指示される状況が発生するが、本書でも蔵人介は橘右近との信頼関係になんとか距離を保ち、組み込まれてしまうことを回避できている。橘右近に呼びつけられれば、面前に出向かねばならないのだが、暗殺役については、その遂行について微妙なバランスを維持しているところがこの
シリーズの方向性として興味をそそる。

 文庫 新装版表紙

 さて、収録の短編それぞれについて、読後印象を織り交ぜながら、簡略にご紹介したい。

< 月盗人(ツキヌスット)>
 目安箱が盗まれた。橘右近に呼び出された矢背蔵人介はそのことを聞く。右近は己の失脚を狙った者の仕業だと激高する。蔵人介は橘の配下ではないと抗弁するも、「不逞の輩を見つけだし、斬罪するのじゃ」と告げられる。探索は公人朝夕人(くにんちょうじゃくにん)である例の男がする。悪者を見過ごすような男ではないと見込んで期待していると述べるにとどめるという老練さ。目安箱を盗むという行為に、蔵人介の好奇心、厄介な虫が疼きだす。公人朝夕人の土田伝右衛門が蔵人介に不埒者は強敵だと言い、路銀を用意してきていた。盗難の前日にあった直訴には、塩竃にある神社の神官の直訴が含まれていて、仙台藩の黒脛巾組の残党が絡んでいるらしく、既に御庭番が斬られているとも言う。
 伊達家仙台藩の内奥に巣くう闇の勢力に蔵人介は串部六郎太とともに挑んでいく羽目になる。
 このストーリー、蔵人介の家庭内で、息子の鐵太郎の教育について嫁と姑間での意見の相違問題がパラレルに進展していくところがおもしろい。
 斬られた御庭番には妹がいた。妹も隠密とはいえ、兄の遺恨を内奥に潜めながらの働きをする。タイトルの「月」が重要な意味をもっていた。


< 懸崖の老松 >
元鬼役で役を退いて十年になる磯貝新兵衛が矢背家を訪ねてくる。七年前に息子が城中で起こした事件の真相を知り、敵討ちの助力を蔵人介の義母志乃に頼ってきたのである。志乃は長刀の達人だ。
 一方、西ノ丸恒例の鷹狩りが駒場野にて行われる際の弓競べに蔵人介の妻幸恵が出ることになる。幸恵は弓では小笠原流の免許皆伝なのだ。この弓競べで二年連続で頂点に立った名人が今回も出る。西の丸書院番二番組組頭、塚越弥十郎である。幸恵が出るのには裏があった。
 塚越弥十郎は、磯貝の話では息子の死の元凶となる相手だった。
 弓競べの当日、蔵人介は駒場野にて鬼役の務めをすることになる。蔵人介は碩翁を介してこの弓競べに巻き込まれていく。
 このストーリーのおもしろい点は、志乃と橘が旧知の仲だったということである。
 磯貝の頼みが志乃を動かし、その結果、巡り巡って蔵人介が最後に関わっていく羽目になる。
 このストーリー、息子の死に関わる磯貝新兵衛の遺恨が根源にある。


< 暗闇天女 >
勘定方亀山喜平の死体が発見された。義弟の綾辻市之進は亀山の行状を調べていた。亀山は近江税所藩を強請っていたようだ。市之進は心中に見せかけた殺しだと言う。死んだ女は亀山とは無関係。亀山は辰巳芸者に金を注ぎ込んでいた。亀山の探索をしている間に、市之進はその辰巳芸者初吉、本名お初に岡惚れしてしまったと言う。
 蔵人介はお初に会ってみようと、お茶屋『万作』に出向く。万作で、蔵人介は同朋衆の道阿弥に出くわし、税所藩留守居役の接待だと聞き出す。万作の亭主は蔵人介に、これ以上深入りすれば命を縮めるもとになりますぞと告げられる。それが逆に蔵人介の心に火をつけた。是が非でもこの一件を暴くと。
 心中の形で殺された女は蝋燭問屋『日野屋』の娘お幸。なぜお幸が巻き込まれたのか。その真因も明らかになっていく。
 お初は蔵人介に言った。自分と付き合った男は皆金がたまらない。私は貧乏神の生まれ変わり。貧乏神を暗闇天女とのいうのだと。タイトルはここに由来する。
 この短編は、日野屋庄左衛門と辰巳芸者お初のそれぞれの遺恨が根底にある。
 義弟に協力する形ではあるが、主体的に蔵人介の正義が発露される顛末譚の好編だ。
 

< 末期の酒 >
 魚問屋『駿河屋』主人の接待を受けた帰路、蔵人介と串部六郎太は、月代頭の侍が刺客に遭う現場に出くわした。刺客に対峙し蔵人介が来国次を抜き放つことになる。刺客は阿田福面をつけていた。串部はその男が富田流の小太刀を使う手練と見抜く。尋常の勝負では負けていたと蔵人介が思ったほどの手練だった。
 殺された男は「七つ屋に諮られた」と言い残す。蔵人介はその顔を見て、御台所組頭の佐川又三郎だと気づいた。これが始まりとなる。
 義母の志乃は佐川の末期の言葉から、御家人株の売買と御家人株の流しを推測する。
 蔵人介は息子鐵太郎と共に溜池の馬場に行く。城勤めを辞めた潮田藤左衛門が凧揚げをしていた。そこで鐵太郎は凧揚げのコツを潮田から教えてもらうことに。蔵人介は城で、潮田と過去に多少の縁があった。二人の会話から賄吟味役だった潮田が城務めを辞めた経緯が明らかになっていく。
 蔵人介は、佐川の死の原因を究明するために、自ら七つ屋こと門前屋重五郎の所に金を借りたいと仕掛けていく。
 佐川の遺恨と阿多福面の男の腕が蔵人介が己の意志で動く原因となっている。この短編もまた、蔵人介の裏の顔とはリンクしてない。ただの人斬りに対する怒りである。

 本書は、短編連作の根底で、「遺恨」が共通項になっている。それが本書のタイトルには反映していると言える。

 ご一読ありがとうございます。

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『乱心 鬼役参』  坂岡 真   光文社文庫

2024-12-03 12:33:13 | 諸作家作品
 鬼役シリーズの第3弾! 他社文庫刊から改題の上、2012年6月に文庫本刊行。(奥書は前作同様の経緯を経たシリーズなので、以降煩雑さを避けて略記する)

 新装版文庫の表紙

 今回は短編連作風時代小説と言うべきか。本書には「鬼役受難」「蘭陵乱舞」「不空羂索」「乾闥婆城」の4編が収録されている。

 このシリーズの主人公は矢背蔵人介であり、表の顔は毒味役。裏の顔はグレーゾーン状態にある。蔵人介には用人として串部六郎太が付き従い、強力な協力者となる。
 今回は、主な登場人物として、しばしば登場する矢背蔵人介の家族・親族について、ここに記しておこう。
 矢背志乃 蔵人介の義母。蔵人介は矢背家の養子となった。志乃は長刀の達人。
      前作で当事者として関りを深めたが、茶道においても師匠格の技量を持つ。
 矢背幸恵 蔵人介の妻。徒歩目付の綾辻家から嫁いできて、鐵太郎という一子を産む。
      弓の達人でもある。

 綾辻市之進 幸恵の弟。不正を嫌悪するごく真面目な徒歩目付として任務に精励する。
      三十路になっているが独り者。蔵人介の所によく出向いてきて情報提供者
      の役割を果たすとともに、蔵人介の活動に協力することしばしばである。
      剣の腕はそこそこレベルにとどまるが、柔術と捕縛術には長けている。

 もう一人、第2作から表に登場してきた人物に触れておこう。
 橘 右近 御小姓組盤頭。蔵人介の裏の役目が暗殺役であると知っている人物。
      若年寄の長久保加賀守、蔵人介の裏の役目だった指令役の立場になる意図
      を見せ始めている。
 つまり、第2作以降、橘右近と蔵人介との関係がどうなるかは、読者にとっても重要な関心事とならざるを得ない。それだけ、ストーリー展開がおもしろくなると言える。

 各編ごとに、読後印象を含めて、少しご紹介していこう。
 第2作で天保2年の蔵人介の活躍が描かれた。本書は、天保3年の事件譚である。

< 鬼役受難 >
 このタイトルにまず惹きつけられる。これは天保3年卯月のストーリー。
 田宮流抜刀術の達人ということはわかっているから、第3作に入って受難って何? 
 ストーリーの冒頭で、公人朝夕人(クニンチョウジャクニン)の土田伝右衛門から、明後日の灌仏会の夕餉において二の膳の鱚(キス)の塩焼きには毒が盛られるという噂があると密かに伝えられる場面から始まる。本来の役目で危地に立つ?! のっけから興味津々に・・・。
 蔵人介が警告を承知の上で毒味をする。毒と知りつつ毒を喰らい、己の体で実証し、役目を全うする。このストーリーはそこからが本当の始まりなのだ。
 だれが毒をもった犯人なのか? 
 九死に一生を得た蔵人介は串部に言う。「毒を盛られて平気でいられるはずがあるまい。相手がどのような難敵でも、かならずや仕留めてみせる」(p41)と。
 勿論、橘右近は蔵人介を呼びつけ面談する。読ませどころとなる山場をいくつも盛り込んでいて、読者を惹きつけること間違いなし。毒味に到る過程。家斉謁見の場面。犯人追求プロセスでは大奥の政争に止まらず禁裏にまで裏事情の蠢きが及んでいく。
 スケールの広がりと一種のどんでん返しを楽しめる。一方、私は完結する短編という印象を持てなかった。この編で蔵人介が黒幕を仕留めるまでに至らないから。

< 蘭陵乱舞 >
 冒頭文は「茫種(ボウシュ)」という語句から始まる。稲を植える時分のころをいう。
 茶壷道中の前を横切った過度で妊婦が斬殺されることから始まる。江戸城内で茶を点てる役目の数寄屋衆の横柄な振る舞いで、常陸下妻藩主の井上正健が困惑している場に出くわした蔵人介が手助けをした。それが因となり、蔵人介は碩翁に譴責部屋に呼び出される。腹を切りたくなければ、採茶師の横内恵俊を斬れと言われる。この悪辣坊主を斬ろうとしたことが因となり、禁裏と南都奈良のたくらみの渦中に、蔵人介は投げ込まれて行く。土田伝右衛門は、奈良の当尾にある岩船寺の笑い仏が絡んでいると、蔵人介に教えた。彼らの狙いは、将軍家斉の御首級を取ることだという。
 小大名を助けたことが思わぬ方向へ蔵人介を引き込んでいく。一方、宇治の茶師、神林香四郎が義母の志乃のところに来訪してきていた。
 なかなか巧妙なストーリー構成になっている。そこがおもしろい。
 この一編、最後は江戸城内、大広間前の表舞台が山場となる。舞楽の演目は蘭陵王と納曽利である。タイトルはここに由来する。
 この短編は、ひとまず一件落着する。蔵人介が一局面において、いわば生きがいを感じる機会となっただろうと、読者は共感でき楽しめると思う。

< 不空羂索 >
 時季は暦が夏至に変わった頃に移る。吉原の廓で、夕霧のもとに入り浸っている宗次郎を連れ戻すために、蔵人介は串部を伴い、吉原に乗り込む。夕霧、宗次郎に会い、話し合っている時に、厠で首を縊ったと思われる遊客が発見される。夕霧も馴染みにしていた伊勢屋徳兵衛という札差だった。
 宗次郎が花魁の佐保川と会っているのを目撃された夜、佐保川が足抜きしたという。
 蔵人介は吉原での佐保川事件に関わらざるを得なくなる。宗次郎の行方がわからなくなったのだ。佐保川のことを探るために、蔵人介は、橘右近を介して大奥表使の村瀬に会う。だがそこで、村瀬の抱える問題にも巻き込まれていく。伊勢屋の死と、村瀬の抱える問題とに接点が出て来る。加えて、佐保川の素性の一端がわかる。大奥の政争に宗次郎がからみとられているようなのだ。
 「そは観音菩薩の羂索(ケンジャク)、人界の鋼にて断つことあたはず。無駄なことはおやめなされ」(p210)と蔵人介が告げられる場面が出て来る。不空羂索観音菩薩という名称。短編のタイトルはここに由来するようだ。

< 乾闥婆城 >
 冒頭は「鬱陶しい梅雨は明けた」という一文。蔵人介と家族は、夜店を楽しんだ後、涼み舟に乗り大川の花火見物を楽しむが、その時、祇園祭の鉾の形をした屋形船がすれ違っていく。その舳先に「金青色の能面に唐人装束、異様な風体の二人が置物のごとく舳先に立っている」(p251)のを蔵人介らは目撃する。志乃は南都興福寺の天龍八部衆に乾闥婆なる神がいることを思い出す。乾闥婆城とは蜃気楼のことなのという。
 南都最強の敵が、蔵人介の前に遂に姿を見せ始めたのだ。
 義弟の綾辻市之進が、蔵人介を訪ねてきて、漆奉行の不正について探索している内容を語る。そんな矢先に、蔵人介は御前試合に出るようにとの命を受ける。蔵人介は橘右近から呼び出されて、背景事情推測の一端を聞かされる。蔵人介は真の問題事象の渦中に投げ込まれていく。
 このストーリー、御前試合が大きな山場になって行く。
 別次元と思われる事象が互いに錯綜し、陰の部分で繋がっており、その一方で、異なる企みが併存することを蔵人介は己の身を挺して認識していく。
 そして、遂に乾闥婆が姿を現す・・・・・。
 この短編、フィクションの面白さを遺憾なく発揮している。

 この第3作、蔵人介は橘右近との間に未だ距離を保つことができたと言える。

 最後に本書のタイトルは「乱心」。乱心とは、「正常な精神状態ではなくなること」(『新明解国語辞典』三省堂)という意味だから、このストーリーの大半の登城人物はこの語彙に該当する。なぜ、この語彙をタイトルに。
 この第3作の4編の繋がりを踏まえ直して、ふと視点を変えて思ったこと。この「乱心」は将軍家斉を表象しているのではないか。それがオチにもなっていると。そこがフィクションのおもしろさかもしれない。なぜ、そう思ったのかは、本書をお読みいただき、ご判断いただきたい。

 さて、次作ではどう進展していくのか。楽しみである。

 ご一読ありがとうございます。


補遺
灌仏会   :ウィキペディア
蘭陵王 (雅楽)  :ウィキペディア
納曾利 雅楽 作品と鑑賞 :「文化デジタルライブラリー」
蘭奢待   :「コトバンク」
例幣使街道 :「栃木市観光協会」
亀戸天神社 ホームページ
川崎大師  ホームページ
御茶壷道中の栄誉、そして挑戦の時代へ  :「綾鷹」
東大寺不空羂索観音立像    :ウィキペディア
乾漆八部衆立像    :「法相宗大本山 興福寺」
乾闥婆【八部衆】   :「法相宗大本山 興福寺」
祇園祭  ホームページ (祇園祭山鉾連合会)
天下祭   :ウィキペディア
山王祭山王山車のゆくえ   :「皇城の鎮 日枝神社」

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こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『刺客 鬼役弐』 坂岡 真   光文社文庫
『鬼役 壱』    坂岡真    光文社文庫
『太閤暗殺 秀吉と本因坊』  坂岡真  幻冬舎
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『刺客 鬼役弐』 坂岡 真   光文社文庫

2024-12-01 21:57:33 | 諸作家作品
 鬼役シリーズ第2弾! 奥書を読むと、2005年8月に『鬼役 矢背蔵人介 炎天の刺客』(学研M文庫)として刊行された作品に大幅加筆修正、改題して、2012年5月に刊行されている。このシリーズ、最新刊に到るまで長丁場で楽しめそうである。

  新装版の文庫表紙

 この第2弾も短編連作集といえる。本書には「対決鉢屋衆」「黄白の鯖」「三念坂閻魔斬り」「流転茄子」の4編が収録されている。

 主人公の矢背蔵人介は将軍家斉の毒味役で御膳奉行の役目を担う。魚の小骨が公方(将軍家斉)の咽喉に刺さっただけでも断罪となる役目。それにもかかわらず役料はたかだか二百俵。家禄と合わせても五百俵に足りぬ貧乏旗本である。その蔵人介は、毒味役を表の顔とすると、裏の顔を持つ。それは田宮流抜刀術の達人という技量を活かし、指令役から指令を受けて、幕臣の不正を断つという暗殺役である。暗殺役という裏の顔を蔵人介の家族や親族は誰も知らない。指令役は若年寄長久保加賀守であり、蔵人介はこの人物を信頼してきたのだが、第1作において、長久保加賀守に裏切られるという展開になった。つまり、蔵人介の裏の役目は断絶した。毒味役に専心する立場になったという段階から、この第2弾が始まる。読者にとっては、表の顔の毒味役だけで、ストーリーが続くのか、という興味津々としたセカンド・ステージがここから始まる。

 蔵人介には、用人として串部六郎太が仕えている。彼は悪党どもの臑を刈るという得意技を持つ柳剛流の達人である。元は長久保加賀守の家来で、蔵人介の裏の仕事を見届けるような立場を担い、蔵人介の用人になった。だが、主人長久保加賀守のやり口に嫌気がさし、蔵人介に忠誠を誓い、行動を共にする立場に変容していく。蔵人介の強力な協力者に徹する。このストーリーは、いわばこの二人が何をするかである。
 
 セカンド・ステージではもう一つ大きな変化要因が加わる。望月宗次郎の面倒を蔵人介が見なければならない羽目になったのだ。その顛末は第1作で語られている。宗次郎は矢背家の隣人・望月家の次男坊であるが、望月左門が政争に巻き込まれ殺される前に、その面倒を託されたのだ。なぜか。宗次郎は西ノ丸に依拠する徳川家慶のご落胤であると左門から伝えられた。宗次郎は己の出生を知らずに育ち、甲源一刀流の遣い手になっているが、吉原の廓に入り浸り、放蕩が続いている。蔵人介はそれを承知で見守る立場となってしまった。蔵人介は誰にも相談できない極秘の火種を抱える立場になる。ストーリーの底流となる宗次郎の存在と行動は、読者にとっては、見守り続ける興味深い要素となる。

 さて、暗殺指令を発する者がいなくなり、毒味役に専心する蔵人介が、何に巻き込まれていくのか。そして、蔵人介はどういう行動に出るのか。それがこのストーリー。

 短編連作集の基本構造は、主に2つの流れが織り交ぜられながら進展する。
 一つは、蔵人介の本来の役目・毒味役の仕事に関わって起こってくる様々な状況の変化とハプニングに蔵人介がどう対処していくかのストーリーの流れである。
 大奥を含み、幕府内の上層部には世継ぎ問題を含め常に政争状況が密かに蠢いている。そこに蔵人介も人間関係のしがらみにより投げ込まれていく立場になる。
 もう一つは、毒味役の役割を離れた場において、蔵人介が好むと好まざるとに関わらず、関係していく羽目になる状況への対応である。この第二の側面において、公的な暗殺指令を受けるという裏の役目は今時点では消滅している。ならば、何が起こるか。それこそが、読書にとっての楽しみどころになる。
 

 収録短編ごとに、読後印象を交え、簡略なご紹介をしてみたい。

< 対決鉢屋衆 >
 天保2年水無月(6月)から文月(7月)にかけての出来事。不作続きの年のこと。
 蔵人介が毒味の役目を終えて下城の途次、登城する長州藩の行列に出会う。その場に襤褸を着た百姓が駕籠訴の行動に出る場面を目撃する。駕籠訴に成功する前に斬られそうになり蔵人介の傍に百姓が逃げて来る。長州藩という大大名に対し、貧乏旗本の蔵人介が、堂々と正論を吐き、その場から一旦百姓を庇い助けた。百姓を追ってきたのは、長州藩馬廻り役支配、鉢屋又五郎と名乗る。勿論「本丸御膳奉行、矢背蔵人介」と返答する。これが発端となるストーリー。
 この事件、江戸城内で噂になる。長州藩の内情と一方で面目が関わってくる。鉢屋衆が動きだす。鉢屋衆とは長州の忍である。蔵人介は鉢屋衆と対峙する羽目になる。
 文月26日、長州藩では、江戸開闢以降で最大の一揆が勃発した。
 飢饉下での政治政策の失敗を糊塗し、武士の面子にすり替える意識と行動が描かれている。駕籠訴の実態もわかる短編である。

< 黄白の鯖 > 
 蔵人介は文月に柳橋から屋形船を仕立てて、家族や居候の宗次郎ほかとともに宵涼みと洒落込んだ。ところが、天保鶺鴒組と名乗る旗本の次男・三男坊たちが乗る船が、川を行く施餓鬼船にちょっかいを出す。その船は江戸随一の「吉野丸」である。蔵人介の乗る船がその場に居合わせた。
 翌日、夕餉の毒味を済ませた蔵人介は、中野碩翁に呼び出される。天保鶺鴒組の連中が狼藉を働いた相手が智泉院の旦那衆であったので、この出来事を忘れよと、同席していた本丸留守居役の稲垣に告げられる。三日後、黄白の鯖と目録に記される鯖代が尾張藩で盗まれ、家老が切腹する事件が発生する。この件で天保鶺鴒組に疑いが向けられる。これが発端となる。尾張柳生が動き出したという。
 蔵人介もまた、動き出さざるを得なくなる。宗次郎が関係しているかもしれないという話が持ちあがったのだ。
 このストーリー、公人朝夕人(クニンチョウジャクニン)黒田伝右衛門が登場するところがおもしろい。
 この短編は、今後の展望に繋がっていく布石でもある。蔵人介の裏の役目が、将来への岐路に入るからだ。読者には、興味と期待を抱かせる要因になる。

< 三念坂閻魔斬り >
 牛込の筑土八幡宮門前から南にきつい登り坂が続く三念坂で、閻魔の顔を象った武悪面をつけた男が、坂道を下りてきた二人の侍を待ちうける。一人は勘定奉行有田主馬、従者は野太刀自顕流を修めた高見沢源八。武悪面の男は「わしは公儀鬼役よ」と有田に告げた。武士二人はあっけなく惨殺された。文月十六日、閻魔の斎日である。大工見習いの亀吉がこの闇討ちを目撃していた。
 蔵人介に疑惑が向けられることになる。これがストーリーの始まりとなる。
 蔵人介は、裏の役目を果たすことが契機で、狂言面を打つことを心の浄化を兼ねた趣味にしていた。蔵人介は武悪面を打っていた。それがない。持ち出すとすれば、居候の宗次郎と推測される。
 虎穴に入らずんば虎児を得ずという格言があるが、そんな進展になるところが、興味深い。自ら疑惑の解明に立ち向かうという筋立て。どのように・・・が読ませどころ。
 もう一点、おもしろいのは、勘定奉行有田主馬の後釜に昇進するのが、遠山景元である。俗にいえば遠山の金さん。ストーリーの落としどころがおもしろい。

< 流転茄子 >
 神無月の朔日、『遊楽亭』の庭にある草庵で口切の茶会が催される場面から始まる。遊楽亭の亭主は万蔵。この茶会で茶を点てるのは蔵人介の義母・志乃である。蔵人介はその茶会に加わるように義母から指示されていた。万蔵は口切の一番茶を賞味する立場になれることに幸福感を味わっている。そんな茶席の場面から始まり、茶道具をネタにストーリーが進展していく。茶会では松永久秀所蔵「平蜘蛛」の釜が話題となる。
 5日には、志乃に呼ばれた蔵人介は、志乃から「つくも茄子」を話題にされる。志乃が宗次郎から預かっていた茶入が関係していた。
 茶道具の茄子の転売に対して、それを取り戻そうとする志乃・蔵人介の行動顛末譚。
 そこに、矢背家の過去と、志乃の若き時代の逸話が絡んでいる。そこに大奥の政争が絡んでいるのだからおもしろい。楽しめるフィクションである。

 蔵人介が天保2年に関わった事件を扱った短編連作集である。

 ご一読ありがとうございます。

こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『鬼役 壱』    坂岡真    光文社文庫
『太閤暗殺 秀吉と本因坊』  坂岡真  幻冬舎
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