遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『憧れ写楽』   谷津矢車   文藝春秋

2025-02-24 17:31:31 | 諸作家作品
 蔦屋重三郎をどのように描き出すのかという興味から、NHKの大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」を見ている。この蔦重が写楽の絵を世に送り出した。蔦重と写楽はいわばセットである。
 先日、このタイトルが目に止まった。勿論、手が出る。両者に関心があるので・・・・。

 本書は、2024年11月に単行本が刊行された。書下ろし作品。

 本書のタイトルにまず着目しよう。タイトルにはルビが振られている。標題では意識的にタイトルに付記されたルビを外した。このタイトルを遠目で見た時、最初に「憧れ」に目が止まり「あこがれ」と読んでいた。手に取ってみると、背表紙の「憧れ」には「あくが」とルビが振られている。表紙には、「憧れ」と「写楽」の間に、「あくがれしゃらく」と小さくルビが振られている。

 『新明解国語辞典 第5版』(三省堂)を引くと、「あこがれる/憧れる」は載っている。「(自下一)(「あくがる」の変化)①理想的な存在とする所の者に心が強く惹かれ、会って見たい、近づきになりたいと切に望む。②理想的な生活環境を実現しているものとして、自分も早くそれにあやかりたい(そこに行って見たいと思う。)」と説明。「あくがれる」は載っていない。
 「あくがる」は古語なのだ。『学研全訳古語辞典 改訂第二版』を引くと、「あくがる/憧る」が載っている。「自動詞・ラ下二。①心が体から離れてさまよう。うわの空になる。②どこともなく出歩く。さまよう。③心が離れる。疎遠になる」と説明している。
 大辞典レベルになると、さすがに両語が載っている。手元の『日本語大辞典』(講談社)を引くと、「あこがれる/憧れる」は、「(下一自)心をひかれる。思いをよせる。むねをこがす。あくがれる」と説明し、一方「あくがる/憧る」は、「古語(下二自)①物事に心をひかれて、ふらふら歩く。②心ひかれて、落ち着かなくなる。思いこがれる」と説明する。

 遠回りな書き出しになったが、「あくがれ」と読ませることで、写楽を対象とする二つの意味合いをはっきりと重ねている。その上で、写楽に迫って行くという構造なのだ。これは読みながら理解したこと。

 本作では、この「あくがる/憧る」は、鶴屋喜右衛門が蔦屋重三郎の口から零れた言葉として聞き取り、要領を得なかった言葉なので、山東京伝に尋ねてみたという文脈で出て来る。その時、京伝は西行法師の歌を引用して説明する。ここに由来する。(p89)
  あくがるる心はさても山桜 散りなんのちや身に帰るべき

 本作の本筋は、写楽自身を描くストーリーではなくて、「もう一人」の写楽、「ほんもの」の写楽を探すというプロセスにある。写楽探しのミステリー小説に仕立てられているおもしろさにある。
 時代設定は、寛政8年の「夏」「秋」「冬」にかけて。その冬に遂に「真相」が解明されるという4セクションで構成される。各セクションの後には、「ある記憶」という回想がパラレルに進行していく。壱、弐、参、四という具合に。このパラレル・ストーリーとして記憶を語るのが蔦重なのだ。
 「終 寛政10年3月」が最後の閉めとなる。喜右衛門と京伝の会話の場面で終わる。
 その会話で地本問屋の喜右衛門は「ようやく、手前は写楽から足を洗えます」(p266)と京伝に語る。喜右衛門の思いは深い。

 メイン・ストーリーに入ろう。こちらに本書のタイトルが直接的に繋がっている、
 「あくがる」には、2つの意味合いがある点を巧妙に構造化していく。現在の私たちが普通に使っている「心をひかれる。思いをよせる」という意味合い。上記の「どこともなく出歩く。さまよう」という意味合い。これが写楽に関わる。

 御三卿田安家の家臣を務める唐衣橘州が、写楽の絵を愛好し、寛政6年5月の興行を写した大首絵、特に「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」に心ひかれていた。この絵を肉筆画として描いて欲しいという思いを抱いていた。

 「写楽の役者絵は、寛政6年5月興行分、同7・8月興行分、同11・閏11月興行分、寛政7年正月興行分に大別でき、熱心な贔屓ほど寛政6年5月興行分の絵を好むきらいがある」(p10)つまり、唐衣橘州その人も、その類の贔屓だということに。

 唐衣橘州の要望を引き受けたのは、鶴屋喜右衛門。彼は日本橋近くの通油町の一角に店を構える仙鶴堂という江戸では老舗の地本問屋の主人。唐衣橘州は狂歌作者でもあり、著作者として、喜右衛門とは関わりがあった。
 松平定信の寛政の改革を経る過程で、仙鶴堂では学術書や実用書という物の本を商う比率が高くなり、浮世絵や戯作という華やかな色合いの地本を商う比率が下がり、低迷している状態だった。地本問屋として、喜右衛門は内心忸怩たる思いを抱いていた。
 喜右衛門が橘州の所望を引き受けたのは、勿論、写楽の素性は斎藤十郎兵衛との噂を聞き知っていたからである。八丁堀地蔵橋に住む阿波蜂須賀公抱えの猿楽師だと。
 喜右衛門は斎藤十郎兵衛を訪れ、橘州所望の肉筆画を描くことを依頼した。だが、かなりの時日が過ぎた後、その思惑は頓挫する。
 斎藤は写楽として絵を描いたのは事実だが、自分が描いていない役者絵で写楽名の作品が6名あると白状したのだ。その一人の絵が「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」だった。

 喜右衛門は、橘州の要望を叶えるために、本物の写楽探しをしなければならない状況に追い込まれる。勿論、本物の写楽を突き止められれば、耕書堂蔦屋重三郎とは別に、地本問屋として、新たに仕事を依頼するという思惑、算段が内心にあった。
 喜右衛門は、本物の写楽を求めて、「あくがる」ことに・・・・。つまり、写楽探しに江戸をさまよい、あちらこちらと出歩く仕儀となる。
 勿論、いくら地本問屋の主といえど、己一人で探せるわけがない。
 たまたま、いつものように、だしぬけに仙鶴堂を訪ねてきた喜多川歌麿に、事情を説明すると、歌麿は興味を持ち協力をすると言う。ここから本物の写楽探しがは決まっていく。ここから喜右衛門と歌麿による聞き込み調査と推理が積み重ねられていく。まさにミステリー小説となる。

 目次の次の内表紙には、写楽の役者絵が「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」を筆頭に6枚挿画とし描かれている。

 誰に聞き込みをするかが興味深い。される側の名前を列挙してみよう。
 曲亭馬琴、十偏舎一九、北斎宗里、大田南畝、市川蝦蔵、河原崎座の河原崎権之助、二代目中村仲蔵、山東京伝、市川男女蔵、谷村虎蔵、四代目岩井半四郎、二代目小佐川常世、内田米棠、歌川豊国、斎藤十郎兵衛、藤一宗らである。
 浮世絵好き、芝居好き、戯作好きには惹かれる有名人が登場し、応答する流れとなる。
 喜右衛門は地本問屋の寄り合いの折に、蔦屋重三郎には斎藤十郎兵衛に絵の仕事を依頼していると伝えてはいた。だが、本物の写楽探しをしているという噂を耳にした蔦重は、写楽探しを無意味なもととして、喜右衛門の前に立ちはだかる者として要所要所で現れてくる。勿論、読者にとっては、興味津々の度合いがエスカレートしていく要因になる。

 蛇足になるが、著者が本作において、「憧れ」という語句を使用している箇所で、通読していて気づいた箇所を明記しておこう。見過ごしがあるかもしれないが・・・・。
     p75、p89、p181、p215、p241、p251、p252 である。

 最後に、喜右衛門と蔦重の思いが記されていて、印象深い箇所を引用しておきたい。
 まずは鶴屋喜右衛門の思いから:
*世の中に向き合う仕事でもあるのは百も承知です。でもね、あたしたち版元が、面白いもの、学びになるもの、綺麗なもの、すごいものを作ることから目を背けちゃいけない。最近、そう考えるようになりました。   p169
 面白いものを企んで作るのが、版元の本義だって言いたいだけですよ。・・・手前ら版元は、面白いもんで世の中の横っ面を叩かなくちゃならないんですよ。今、この瞬間(とき)だって。   p170 → 寛政の改革、倹約令の余波・影響がある時点
*斎藤も、本物の写楽も、勝川春章が源流にあった。-----同じ絵師に私淑していたのだ。しかし、あり方はまったく違う。斎藤は無邪気に元絵を写し、本物の写楽は元絵の先にあるものを描こうとした。善し悪しはないが-----この違いは途轍もなく大きい。 p205
*才は花だ。盛りがあり、終わりの日がやってくる。
 版元とは、花の盛りを捉えて花卉を摘み、並べ売る仕事なのかもしれない。
 古い花は心底で咲かせ、新たな花の糧とするべきだったのだ。  p206

 次に蔦屋重三郎の思い: この箇所、大河ドラマの蔦重に通じているように感じる。
*一等前を走る人間は自分の手綱を緩めることが出来るんです。でも、誰かに追随する人間は、やることが極端になる。なぜなら、手綱を自分ではなく、他の人に委ねているからです。   p136
*沢山作り、大いに売る。そうすることで、江戸をーーーーー世の中を変える。    p260

 著者は、本作により、写楽二人説という仮説を提示した。
 さらに、なぜ写楽の作品が上記の期間に限定せざるを得なかったのかにも、大胆な仮説を提示したことになる。
 写楽の役者絵のいくつかについて、その読み解き方を仮設の一部として取り込んでいるところに斬新さを感じた。それは状況設定のフィクションと絡んでいることなのかもしれないが、おもしろい発想と思う。

 幾人もの作家が、写楽を題材とした作品を発表している。ここに、新たな仮説が提示されたと言える。東洲斎写楽、一層おもしろくなったと言える。

 ご一読ありがとうございます。


補遺
東洲斎写楽  :ウィキペディア
東洲斎写楽の生涯  :「刀剣ワールド浮世絵」
浮世絵史上最大のミステリー!謎の絵師・東洲斎写楽ってどんな人? 
          :「北斎今昔」(アダチ版画研究所)
勝川春章   :ウィキペディア
鶴屋喜右衛門 :ウィキペディア
蔦屋重三郎  :ウィキペディア
山東京伝   :ウィキペディア
江戸三座役者似顔絵  :「e國寶」
【AROUND蔦重】⑰ナゾの絵師、東洲斎写楽――蔦重、大いに売り出す:「美術展ナビ」
役者絵(歌舞伎絵)の画像  :「刀剣ワールド浮世絵」
蔦屋重三郎の記事   :「美術展ナビ」

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こちらの本も読後印象を書いています。「遊心逍遥記」に掲載。
お読みいただけるとうれしいです。
『安土唐獅子画狂伝 狩野永徳』  徳間書店
『三人孫市』 中央公論新社
『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』 Gakken 
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『白い謀殺』   門田泰明   徳間文庫

2025-02-21 00:39:43 | 諸作家作品
 先日来、青森県下の某病院内で発生した患者間殺人の隠蔽事件が報じられている。報道を読み、隠蔽行為に愕然とする。隠蔽に到る経緯と事実の究明はこれから進展するのだろう。医療業界での隠蔽行為もここまで広がるか・・・・そんな思い。

 さて、先日久しぶりに著者の小説を読んだ。読後のブログ記事を書き始める遥か前に著者のシリーズものを愛読していた。本書はいわば、医療ホラー小説とも呼べそうな、医療業界におけるおぞましい、恐ろしい局面を想定したフィクション。短編連作集である。

 長らく積読本にしていたのを読み終えた後、しばらくして冒頭の事件報道を目にした。この短編連作集の内容、単なる絵空事ではないかも・・・・と改めて感じさせる。事実は小説より奇なり、とも言われるから、医療業界の闇は恐ろしく深いのかもしれない。

 本書は、1981年11月に『謀殺病棟』(広済堂出版)と題して刊行され、1984年3月、標記の改題で文庫化された。

 本書には5つの短編が収録されている。医療という人間の命を扱う領域において、医療法人のトップや医師が己の金銭欲につき動かされ、あるいは大病院という組織内での地位・名誉欲に魅入られる局面が、テーマとなったフィクションである。隠蔽という要素を強固に組み入れれば・・・・起こりうる事象と感じさせるところがホラーである。
 各編について、読後印象を含めて、簡略にご紹介する。

< 金のなる病棟 >
 京都・嵯峨野の大覚寺に近い青山邸で、善道会総合病院の運営会議が行われる。総合病院の基礎を築いた理事長・青山宗次郎は7年前に脳卒中を起こし、病床にある。青山夫人紫津が理事長を継承している。宗次郎の前で病院運営の御前会議が行われ、紫津が会議を主導する。善道会は京都府医師会を完全に制圧するほどの勢力を持つようになっていた。 紫津は、志賀正彦を最高責任者としてOC班という入院患者数確保活動部隊を運用した。病院内の老人センターの病床を埋める老人患者獲得を主体に、手段を問わず目標数の患者を確保させる方法をとった。一方で、紫津は全国に総合病院を展開する計画を抱き、その為に手段として密かに株の買い占めを推進していた。そのためにも、総合病院の効率的な病棟運営は必須条件だった。
 志賀の幼い一人娘奈美は、急性リンパ性白血病で、当病院の小児科病棟に入院している。志賀にとっては、愛娘が唯一の生きがいであり、一方で無意識の枷にもなっていた。
 だが、OC班の活動と紫津の計画は、ほころび始めることに・・・・・・・。
治療行為が心理操作の手段に使われるという恐怖。それが絡められていく。
 それぞれの局面での手段が悪因となり、連鎖していく顛末が読ませどころとなる一編。

< 白き悪魔の館 >
 朝吹コンツェルンの総帥で、その中核となる世界的な弱電メーカー、亜細亜電機の代表取締役会長、朝吹権兵衛は、わが国で最大級と言われる企業内病院、亜細亜総合病院で診断を受けた後、トップ人事についての最重要な会議に臨む。朝吹・貝堂体制を終焉させ、経営者の若返りを図るとして、己の息子・一郎に社長を継承させる構想を発表した。発表した直後に、決議以前の段階で朝吹権兵衛は倒れ、騒然となる。院長・富永信州の執刀で総勢7名の手術団が、胃癌手術に臨む。
 そこから、コンツェッルン内のトップ人事について、密かな対立・確執、裏工作が蠢き出す。人事問題は、役員人事に留まらず、亜細亜総合病院のトップ人事にも波及していく。
 手術を無事終了し、特別病室で療養に専念する朝吹権兵衛の許に息子の一郎が訪れた時、権兵衛は矢庭に両手で虚空をつかみ「ガアッ」と叫ぶという症状を起こした。院長は出張中で不在。関根副院長が対応処置をとる。
 事態は新たな局面に入って行く。後の精密検査で、脳腫瘍が発見された・・・・・。
 一方、長年の朝吹・貝堂体制は、思わぬ副産物を生み出し、密かに継続していた。
 この短編、医学領域でのSF的発想と、社会における起こりがちな泥臭い人間関係が巧妙に組み合わされていて、おもしろい。権力への欲求が人を変える。あり得るだろうなと思う。

< 遺体生産病院 >
 この短編には、次の一文がテーマの底流にある。
 「充分な解剖体を持っているのは、東大、阪大、京大、金沢大などの一流校に限られており、新設の私立医大になるほど、解剖体の不足は深刻の度を増していた」(p132)
 冒頭に記したように、この短編は1981(昭和56)年以前に執筆されている。令和時代の現在、解剖体の供給という裏事情はどうなのだろうか。ふと、その点が気になった。
 主人公は、鬼面坂老人総合病院を経営する院長の烏丸弁重郎。彼は、病院の敷地内に、県の福祉協力施設の指定を受け、「鬼面坂老人ホーム・清鈴荘」を別に経営し、主に身寄りのない老人を収容している。県とのタイアップであり、老人ホームの運営資金のほとんどは協力金という名目で、清鈴荘に支給される関係を維持している。
 烏丸は洛陽医大の第一期生だった。母校を訪れ、学長と面談した時に、解剖体不足の件で相談を受け、協力すると約束した。
 この短編は、金銭欲の旺盛な烏丸院長が何を企んだかの顛末譚である。
 このストーリーは途中から、用務員として病院に勤めることになった加藤善作の視点で進展していく。
 私の想像だが、この短編のは、読者がパート2を想像して、顛末のシナリオを描けるスタイルではないか。この短編の終わり方がおもしろい。

< 白衣の殺人鬼 >
 神奈川県厚木市郊外の高台に建つ、6階建てでベッド数県下最大の富士産婦人科病院が舞台。理事長・北見早太郎は医者ではないが病院経営に特異な能力を発揮する。院長は妻の北見千津子。彼女は国立大学の医学部を卒業後、ドイツに留学した優秀な女医。院長をがっちりと支えるのは彼女と同い年の副院長・黒井高男。患者はこの三人を御三家と呼ぶ。
 <金の力で医者たちを抑える>のが、北見理事長のやり方だった。医師たちは他の病院と比較して、高級で処遇されることにより、要求される医療行為に従う風土が出来ている。理事長は時価2億円の超音波断層装置の導入という投資を行った。病棟増築工事代の負債が残り、滞納している状況下で、病院への信用を強固にするために、超音波断層装置の導入という逆手戦法を取った。
 そして、その装置の操作を自分が担当すると言い出した。
 この短編、勿論創作当時の医療機器の科学技術水準を前提としている。理事長は、この装置の操作をするという役割から、意図的に一歩を踏み出して、写し出された映像判定に関わって行く。このストーリーの怖さは、ここから始まる。
 この短編のタイトルに「殺人鬼」が使われている。実に象徴的なネーミングだと感じた。

< 白い復讐 >
 ブラジル政府専用機に便乗し、羽田空港に着陸した対日通商使節団一行と共に、東都医大消化器外科の浅川英雄助教授が帰国した。学長はじめ幾人かの教授が彼を出迎えた。一方、空港内の気づかれないような位置から、青山礼子が浅川の帰国を確認していた。礼子は、東都医大寄生虫研究所という、人目に触れない職場で、主任研究員として、寄生虫学を研究する女医である。
 このストーリー、高校1年生だった礼子が、東都医大の学生主催によるダンスパーティに参加した時、4回生だった浅川と知りあい、その夜、浅川に凌辱されたことが発端となっている。タイトルにある通り、女医青山礼子が復讐に踏み切るというストーリーである。
 青山は己の研究領域で修得した知識と技術を手段として巧妙に利用する周到な計画を実行する。この行動自体がいわばホラーである。だが、さらに礼子のシナリオにはなかった想定外の事態が連鎖的に発生した・・・・・・。
 エンディングの余韻は複雑!!

 昭和の時代の末期にフィクションとして創作された短編連作。だが、今、令和の時代においても、絵空事とは断言できない側面が医療の領域にありはしないか。それこそ、ホラーになりかねない尻尾が、形を変えて今も闇に潜んでいないか。そんな余韻が残る。

 ご一読ありがとうございます。


補遺
解剖体委員会  :「日本解剖学会」
人体解剖学実習を終えて  :「東京科学大学」
献体にご協力ください   :「山梨大学」
献体について  :「三重大学大学院医学系研究科 発生再生医学研究分野」 
公益財団法人 日本篤志献体協会 ホームページ
Anatomage Table 革命的な解剖学教材   :「Anatomage」
Q:CTとはどんな装置? :「キャノンメディカルシステムズ株式会社」
CT装置を扱うのに必要な資格とは?   :「医療機器情報ナビ」
公益財団法人 目黒寄生虫館 ホームページ

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『張良』   宮城谷昌光    中央公論新社

2025-02-10 22:47:53 | 諸作家作品
 ブログを書き始める以前の愛読作家の一人の新刊広告を読み、十有余年ぶりに本書を手に取った。漢を建国する劉邦の功臣となった張良という存在をかつては意識していなかった。劉邦と諸葛孔明との関係に関心があったからだろう。今、初めて張良という存在を知る機会となった。本書は、劉邦との関わりを描きつつ、張良の生涯を描いた伝記風中国史小説と言える。

 本書は、著者はじめてのウエブ連載小説として「読売新聞オンライン」(2024.1.1~2024.10.26)に連載された後、2024年12月に単行本が刊行された。

 読了後に少しネット検索していて、著者がこのウエブ連載小説を始める時点で、インタビューに応じている記事に出会えた。そこに記された著者の抱負をまず要約してご紹介しておこう。
 この小説の連載にあたり「『美しい軍師』を書きたい」という願望があったと著者は語る。そして、「張良は基本的に軍を指揮しないし、政治にもたずさわらない。『王佐の才』すなわち君主の補佐という意味で、最も軍師らしい軍師だ」と位置づけている。その張良が活躍する「原動力はまさに『恨み』です」と語る。それが張良の信念に昇華されて行ったのだ。「本当に目的に向かって意志を貫くと、生きる原動力になる」という転換である。

 この小説、張良の人生ステージに沿ってストーリーが進展する。大きくとらえると次のようにとらえられると思う。
A 楚の国・淮陽への遊学と帰国。暗殺の対象になる
 韓の国の宰相・張平の晩年の子として生まれた。父の死のときには幼小の故に位を継げなかった。淮陽への遊学の折、倉海君の知遇を得て、その親交の絆が生涯の支えとなる。その時、王佐の才と剣難の相を観相者に指摘される。

B 韓の消滅。その因となる秦の始皇帝への復讐:博浪沙での襲撃
 『韓非子』を著した公子非は秦王政の招請で秦に赴くが、後に殺される。秦軍の攻撃で韓が滅亡。張良は秦王政を殺すという目的で生きる決意をする。国土を平定した始皇帝(政)を張良は苦節の末、博浪沙で襲撃するが失敗。この経緯が張良の人生の最初の山場となる。

C 潜伏期。黄石公との出会い
 倉海君の助力を得て張良は潜伏する。このとき、黄石公との不思議な出会いを体験する。この時、太公望の兵法書を授かる。張良が兵法を修得する契機となる。
 後で調べてみると、この黄石公との出会いが能の演目にも取り入れられていることを知った。張良の人生にとって、将来軍師として劉邦を佐(たす)けるための力量を培う時期となったのだろう。張良の許に、少数だが剣士、方士など精鋭の人々が一団を形成する。張良の情報収集力が培われる。

D 始皇帝の死と劉邦との出会い
 始皇帝が巡遊中に死ぬ。秦帝国に大乱の兆しが生じる。群雄割拠の到来である。大沢郷で陳勝の起こした叛乱が嚆矢となる。陳勝は張楚を建国する。張良は情報収集に努め、情勢分析に注力する。張良は再び韓の国を建てるという志望を果たすために行動し始める。
 張良は方士南生の観たてに従い、沛公(劉邦)に謁見する。この出会いが、その後の張良の生き方を決定づけていくことになる。人が人にほれるという共鳴が起こったのだろう。
 著者は記す。「この出会いは、歴史的な邂逅といってよく、端的にいえば、劉邦は張良を拾ったことにより、天下を拾ったのである」(p246)と。
 劉邦は、張良という力量があり軍師となれる人物、国佐の人物に巡り合ったのだ。
 張良は、韓を建国するうえで劉邦が支持力・推進力になってくれると感じたのだろう。                                       
E 韓国再建
 張良は横陽君すなわち韓の公子成と再会する。張良は公子成と共に、楚の国の武信公(項梁)に謁見する。項梁が楚王の代人として、横陽君を韓王と認め、張良を申徒(司徒、首相)に任じた。これが再建の始まりとなる。やがて長社が韓国再建の基地となる。

F 劉邦との再会。劉邦と共に歩む
 病に倒れた張良が養生している陽城に劉邦軍が進軍してくることで、劉邦と張良が再会する。この再会で、劉邦は張良を傍に置き、相談相手とし、張良に軍師の役割を担わせていく。

G 鴻門の会
 項羽軍は函谷関を破り、西進し鴻門に本営を置く。劉邦軍が項羽軍に勝てるはずがない。そこで窮余の一策が講じられる。その結果、劉邦が項羽に謁見する形で両者の衝突が回避される。それが成功した背景には、張良と項伯との強い絆があった。
 鴻門の戦い回避の成功が、張良の人生で大きな岐路になったのではないかと思う。

H 劉邦が漢王になる。張良は韓に帰国。項羽が韓を滅ぼす
 劉邦が漢王になった時点で、張良は韓国に戻る。帰路、張良は己につき従ってくれた部隊を解散させ、故郷に戻す。韓国に戻ると、韓王成は、項王(項羽)に実質上拉致されていた。項王は後に韓王を殺害し、韓を滅ぼす。

I 張良は漢王劉邦の王佐となり、項羽への復讐を目指す
 改めて張良は漢王劉邦のもとに行く。劉邦より成信侯と名づけられ、王佐として劉邦への助言を行い、軍師としての働きを担う。韓王成を殺し、韓国が滅ぼされた恨みを、項羽を倒すという目的にして張良は再び前進する。彭城の戦いから始まって行く。

J 漢王朝の確立。張良は留侯に封じられる。
 劉邦が漢王朝を確立し、漢皇帝となる。張良は劉邦が与えようとした巨大な褒賞を辞退し、留の地に封じられれば充分とだと述べる。留県を領地とした張良は留侯と称される。
 張良は恵帝の六年に亡くなった。本書の最後は、張良の言葉で締めくくられる。

 私利私欲を持たず、己の信念と目的のもとに突き進んだ張良のスタンスが「美しい」。張良が親交を持ち、絆を強くして行った人々との真摯な関わり方、張良の許に集まった人々を大事に思い共に行動する姿が「美しい」。

 本作を読み終えて、劉邦の様々な戦いがストーリーに織り込まれていくのに、諸葛孔明が一度も顔を出さないことに気づいた。なぜだろうかと気になった。
 読後にたまたま入手した上記のインタビュー記事で著者は次のように語っている。
「諸葛孔明は文官としての能力が高いとおもいますが、兵の扱いもうまくなって文武両道になっていきます。軍とともに行動して、戦場にいながら裁判や中央行政などなんでもやっており、常に仕事をしているオールマイティーな人物です」
 この箇所を読み、思った。戦争と闘争(戦い)の次元の違いだろうかと。張良は大きな戦争の方向性という観点で軍略について劉邦を助ける軍師となった。諸葛孔明は、主に、既に動き出した戦争の実際の戦場における戦闘次元で、軍師として策略をたて助言した。多分、その違いではないか。だから、諸葛孔明の活躍は直接にはこのストーリーの流れの中では、戦争に関する記述の水面下で、諸葛孔明が重層的に活躍しているということではないかと。
 
 最後に、インタビュー記事の末尾の著者の語りを引用しておきたい。
 それは、本書で描かれた張良の生きざまに反映していると思うので・・・・・。

「本当に真剣な人は、自分のやりたいことがみえてくるはずで、みえていないというのは真剣さが足りていない。仕事でも学問でも一生懸命やるということの大切さを感じてほしいとおもいます」
 これは耳の痛い警句でもある。

 ご一読ありがとうございます。


補遺
自身初のウェブ連載小説で描く「美しい軍師」の生涯~「張良」宮城谷昌光さんインタビュー   :「讀賣新聞オンライン」
張良  :ウィキペディア
張良とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】  :「歴史上の人物.com」
張良  :「コトバンク」
演目事典:張良   :「the 能.com」
曲目解説 張良   :「銕仙会~能と狂言~」
黄石公   :ウィキペディア
始皇帝   :ウィキペディア
劉邦    :ウィキペディア
項羽    :ウィキペディア

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『惜別 鬼役五』   坂岡 真   光文社文庫

2025-01-30 23:58:57 | 諸作家作品
 一つのブログ記事での小説の長さ分類を参考にすると、本書は中編1、短編2から成る連作集で、「鬼役」シリーズ第5弾である。
 出版社が代わり、シリーズとして大幅加筆修正、改題して、2012年8月に文庫本が刊行された。

 新装版表紙

 最初の「婀娜金三千両」が中編、「加州力士組」と「天保米騒動」が短編である。
 文庫のタイトルが「惜別」となっているのは、読了してみて、この一語が収録3作品のテーマになっているという印象を持った。

 < 婀娜金三千両 >
 婀娜金に「あだがね」とルビが振られている。このタイトルがまず興味を惹く。「あだっぽい」という語なら知っていた。婀娜という語はそれをさすようだ。「あだ」の見出しで、この漢字を載せ、形容動詞として、「女性がなまめかしいさま。いろっぽいさま。あだっぽい」(日本語大辞典、講談社)と説明されている。
 ならば、婀娜金三千両とは何か。遊郭吉原が幕府に納める半季分の冥加金のことである。この冥加金を載せた荷車が水無月(陰暦6月)晦日の晩に浅草の菊屋橋付近で襲われて強奪されたいう事件が起こる。
 時は天保4年葉月(陰暦8月)、鬼役矢背蔵人介は、近習を束ねる御小姓組番頭橘右近から呼び出されて、この事件の事を聞かされる。そして、強奪された婀娜金三千両の行方を追えと命じられる羽目になる。鬼役とは関わりのない仕事だが、蔵人介は関わらざるを得なかった。橘右近は、元甲州勤番、神尾徹之進がその婀娜金の移送に関わっていたというのだ。神尾徹之進は、蔵人介と同じ道場で鎬を削った仲、無二の親友だったのだ。
 少し前に、蔵人介は夕餉の毒味で鯖にあたるという事態が起きていた。橘右近は、蔵人介に自宅での静養という名目で、この事件を追わせることに・・・・・。
 蔵人介は、尾州浪人、菊岡作兵衛という偽名で、吉原の用心棒に雇われる形で事件の解明に関わっていく。
 このストーリーの副産物は、遊郭吉原の仕組みと内情の一端が見えることである。
 そして、なぜ神尾徹之進が婀娜金三千両強奪事件との関わりとして、その名が出たかの解明が、事件の謎解きに繋がっていく。神尾に邂逅した蔵人介は神尾の復讐心を知る。
 事件の発端が、幕府内の闇に繋がっていく側面が読ませどころになる。
 蔵人介にとっての悲哀は、無二の親友、神尾との惜別と言える。


< 加州力士組 >
 長月(旧暦9月)28日、神楽坂、前國寺の毘沙門天の縁日、境内の水茶屋『百足屋』に巨漢力士5人が立ち寄り、加賀前田家の手木足軽に飲ませる酒はないというのかと、無理な注文をして、ひと騒動を起こした。その一人は己を紫電為五郎と名乗った。紫電の暴力で水茶屋のおしのがその夜亡くなる。おしのは元幕臣の娘でもあった。
 その場にたまたまいた蔵人介は、南町奉行所の同心に紫電の行状を言上した。勿論、己の役職、氏名を伝えている。これが発端となる。
 加賀藩留守居役の萩尾調所は、碩翁に働きかけ、仲介してもらい、この事件を握りつぶそうと、証言した蔵人介に圧力をかけてきた。
 神無月(旧暦10月)に御公儀が催す御前相撲に加賀藩から紫電が出場するという話がそこに絡んでいた。この御前相撲には、蔵人介は毒味役の職務のために土俵下、砂かぶりの位置に控えることになる。そこで、紫電を懲らしめる秘策を練っていた。
 つまり、力士の乱暴狼藉により元幕臣の娘おしんが死んだ事件が、雪だるま式にどんどん大事になっていく。その経緯が読者を惹きつけ、最後の鉄槌を蔵人介が振るう。読者は喝采で、楽しめる。
 このストーリー、その後にキッチリと最後のオチがつけられる。自業自得と言うべき結末。勿論、その引導を渡すのは、蔵人介である。「暗殺御用」ではないところがいい。
 
 余談だが、調べてみると、加賀藩に手木足軽という職制があったのは事実のようだ。勿論、紫電為五郎というのはフィクションだろう。一方、江戸時代後期に雷電爲右エ門(1767~1825)という大相撲力士がいた。さらに、雷電爲五郎(生年不詳~1785)という力士がいたことも事実のようだ。


< 天保米騒動 >
 品川の海晏寺に矢背一家が紅葉狩に出かけた折、門前の楊弓場で鐵太郎が初老の町人に人質に取られるという事件から始まる。その男の首は5日後に鈴ヶ森の獄門台に晒されたのだが、その素性を調べると、「丹波屋」という米問屋を営む商人だった。そこで、蔵人介はさらに調べてみると、天保の不作による飢饉のせいで発生している米騒動に絡む不正とのつながりが見え始める。というのは、丹波屋の跡地で、義弟の市乃進に声をかけられたのだ。市乃進は闕所物奉行の鳥飼新兵衛の不正を探索していた。
 市乃進の話を聞き、蔵人介は米騒動に絡む不正の真相を自ら確かめるべく、一歩踏み込んでいく。
 米騒動で米問屋の打ちこわしを扇動する者、その騒動を操る悪徳米問屋、幕府内部に巣くい彼らと結託する輩という構図が見えて来る。一方、そこには扇動され米騒動に加担し使い捨てにされる哀れな人々が居た。
 蔵人介の心中で悪を一掃するべしとの信念、怒りが爆発する。
 ここには米騒動に踊らされて死んでいった哀れな人々への惜別の情が根底にある。
 このストーリーの底流に、蔵人介の義弟、綾辻市之進の結婚問題が密かに進行していく。己の信念を貫いた結果である。その行為は上役や同僚には奇異に思えることだった。このシリーズの読者に取っては、明るく楽しいと受け止められる事象である。それはなぜか。本書で確かめていただきたい。
 
 この第5弾もまた、「暗殺御用」とは別次元での蔵人介の必殺行動に帰着する。

 ご一読ありがとうございます。
 
 

補遺
小説のジャンルー長編小説・中編小説・短編小説を作品の長さで分類 :「Hatena Blog」
加賀藩手木足軽と氷室に関する覚え書き  竹井 巌 :「北陸大学」
雷電爲右エ門  :ウィキペディア
無双力士 雷電為右衛門  江戸時代のおすもうさん :「雷電くるみの里」
雷電爲五郎    :ウィキペディア
天保騒動     :ウィキペディア
飢饉  天下大変 :「国立公文書館」
天保飢饉と米騒動 『福井県史』通史編4 :「福井県立図書館・文書館」

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『遺恨 鬼役四』    光文社文庫
『乱心 鬼役参』    光文社文庫
『刺客 鬼役弐』     光文社文庫
『鬼役 壱』      光文社文庫
『太閤暗殺 秀吉と本因坊』   幻冬舎
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『[新装版]火城 幕末廻天の鬼才・佐野常民』  高橋克彦   PHP

2025-01-07 20:51:12 | 諸作家作品
 昨年末に、海堂尊著『蘭医繚乱 洪庵と泰然』(PHP)を読み、読後印象をご紹介した。この時、初めて佐野栄寿(常民)が緒方洪庵の適塾で学んだ一人だということを知った。読後に少し調べていて、佐野常民が明治維新後に日本赤十字社の創設者になった人物であることと、『火城』という小説があることを知った。
 それがきっかけでこの歴史小説を年初の一冊に組みいれた。
 読了後に、本書の「あとがき」や奥書を読んで知ったことから、まずご紹介したい。

 PHP文庫表紙   1995年9月出版 
  角川文庫表紙  2001年11月出版 

 冒頭の写真、[新装版]は2007年12月に刊行された単行本である。
 元は1992年5月にPHP研究所より単行本が刊行されていた。上掲の通り、文庫化が既に行われているのに、単行本として新装版が出版されたということが私にはちょっと驚きであり、このことがまず印象的である。それは著者自身も感じていたようだ。「新装版に寄せて」という本書末尾の一文に、その経緯が記されている。ここでは触れない。
 一方、この箇所はご紹介しておきたい。
「佐賀のすばらしさは、国のために一丸となって無駄な回り道を厭わなかった点にある。揺れ動く時勢に惑わされることもなく、ただひたすら定めた目標に向かって歩き続けた。こんな道を今の日本が選べるだろうか?」(p355、1992年3月記)
「人は人のために働いてこそ価値がある。これは私の近頃の実感なのだが、佐野常民ほどその生き方を貫いた人はいない。彼は佐賀藩のために在り、日本の未来のためにすべてを捧げた。・・・・・過去を描くことがすなわち未来を読み解くことだと、私は佐野常民の起伏に満ちた人生を通じてはっきり教えられた」(p357、2007年10月記)
 もう一つは、著者が歴史小説を手掛ける嚆矢となったのがこの『火城』だということを初めて知った。
 
 「泣く、ということはひとつの才能である」という冒頭文から始まる。佐野栄寿の特異性がここにあったという。冒頭で、一瞬、エッ!と感じた。『葉隠』が家訓として重視された肥前佐賀藩においてである。佐野栄寿が泣くという特技を人々が結果的に受け入れたということがまずおもしろい。当時の風潮とは真逆の行動を必要とあらば自然に貫いたのだから。最初の節の末尾に、「男の名は佐野栄寿、後の常民。/ 日本赤十字社の生みの親である」(p6)と記す。
 佐野栄寿は、佐賀藩士下村家の五男として生まれた。11歳で親戚である藩主侍医佐藤常微の養子となり、佐藤家で先に養女となっていた駒子と20歳で結婚した。この小説は、25歳の時に、藩主鍋島直正(のちの閑叟)の命により、蘭学習得のために京都に留学するところから始まり、文久元年の秋までを描く。この年の7月に栄寿に蒸気機関製造命令が出されたのである。つまり、日本赤十字社のことは、後年のことであり、この歴史小説には登場しない。
 栄寿は京都で広瀬元恭に就いて蘭語と化学を2年間、大坂の適塾に入りさらに2年間学んだ後、藩命により江戸に赴き、伊藤玄朴の塾で学ぶ。この塾の塾頭になった栄寿がある事件の当事者となる。この事件の動機を栄寿は黙して語らない。だが、この事件が栄寿にとり大きな転機となっていったのは間違いがないと思う。
 ここでストーリーの進展において面白い点を指摘しておきたい。司馬遼太郎の作品スタイルと同様に、ストーリーの要所要所で著者自身が顔を出し、己の解釈、仮説を加え、ストーリーに織り込んでいく。これが大きな要素になっている。ストーリーの推進力にもなっていく。

 ストーリーの導入部で、適塾時代のエピソードが紹介される。藩命で潤沢な費用を支給されている栄寿は、塾生仲間に全21巻の辞書『ズーフ・ハルマ』を書き写してもらい、その謝礼に一説では7両を支払ったという。このエピソードを記した後、栄寿のスタンスが記されている。栄寿にとり辞書は蘭書を読み解く道具。「蘭学の理解よりも、蘭学の実践を意図していた栄寿にとっては、・・・・蘭語を自由に操れるようになるのが栄寿の本来の、目的ではない。自分の語学力が足りなければ別の人間がそれを正しく読めればいい。中に何が書いてあって、それが佐賀藩の将来にどう役立つか、こそが栄寿の一番の関心だった」(p10)と。これが栄寿の行動原理になる。この行動原理を実践に移したプロセスがこのストーリーともいえる。

このストーリーのテーマと特徴をご紹介しよう。
1.佐野栄寿の行動原理が実践されるプロセスを描き出す。それがメインストーリー。
 栄寿の目指したのは、佐賀藩において自力で蒸気船を建造することだ。この目標をぶれずに遂行するためには、藩の方針を変容させることにも果敢に挑戦し、協力者を集め、結果をだす。やがて、栄寿の視野は、佐賀藩という規模から、日本の存在という次元にステップ・アップしていく。
 栄寿は舎密の口入れ屋だと自称する。目標を達成するために、石黒寛二、中村奇輔という優秀な蘭学の徒二人と京都で機巧堂を営む田中儀右衛門(カラクリ儀右衛門)を口説いて佐賀に連れて帰る行動に出る。この人材確保・活用のプロセスが描かれていく。
 尊王、開国、攘夷という思想に翻弄される世間をよそに、佐賀においては精錬方という位置づけで技術力の確立に邁進する生きざまがここにある。

2.佐賀藩主鍋島直正、後に閑叟と号した人物を、栄寿の活躍を支えた力として描く。
 江戸時代の末期において、鍋島閑叟がどのような見解をもち、何をなそうとしたかがわかる。時代の推移を明察し、佐賀藩が何をなすべきかを見とおした英邁な人物像が浮かびあがる。だが、それ故に孤高な存在だったことだろう。
 佐賀藩の行動がぶれなかったのは、この藩主によるところが大きいと感じた。

3.佐賀藩という組織。この藩の方針と実状のおもしろさが加わってくる。
 幕領である長崎を防御するという役目を担う佐賀藩の特殊性がある。出島とオランダを介して、西洋の情報を得やすい立場にあった。それ故に彼我の差も実感し、具体的な危機感も発生する。藩主の方針のもとに反射炉の建造を進める。それは自力で大砲を製造する技術力を確立することを目指していた。火術方には技術力を高める上で七賢人と称される精鋭が集っていた。薩摩藩と同様に、当時の先端を歩む開明度の気風がある。一方、幕藩体制下において、自己防衛のために、二重鎖国を方針としていた。栄寿など枢要な人材の留学などを積極的に推進する一方において、藩領から他藩領へ人々が出ることを禁じ、一方他藩領から人が入るのも制限するという状況だった。情報漏洩の遮断策だ。『葉隠』という家訓を奉じた藩に別の顔があるところがおもしろい。また、開明のスタンスが実践されている一方で、佐賀藩にも攘夷を唱える一派がいたようである。

4.栄寿の眼と思考を介して、江戸幕府をはじめ諸藩並びに世間の動向、併せて蘭学の世界の動向が点描されていく。その中でも、栄寿が、彦根藩の頭脳となっていく長野主馬(後に主膳ろ称す)に着目していくところが興味深い。


 著者は伊東玄朴と栄寿との対話の中で、玄朴に次の言葉を語らせる。
 「人が従うのは力や金にではない。真摯な心と存ずる」(p313)
 「この時代にあって、先の世に思いを馳せるとは、常人にたやすくできることではない。いかに殿様がお許しになられたと申しても、貫くには並大抵でなかろう。それでも、やり遂げて下され。陰ながら祈っておりまする」(p317)
 このストーリーは、この言葉を栄寿とその仲間が目標に邁進するプロセスとして描き出したとも言える。

 藩主閑叟は栄寿に語る。「儂は大砲を並べることで佐賀を日本の火城たらしめんとした。だが・・・・・・・・思惑とは異なっても、すでに佐賀は火城となっておる。」(p289)
 「大砲も火なれば、蒸気も火。・・・・・・おまえの火がからくり儀右衛門という火を佐賀に呼びよせたのだ。こけおどかしの松明となるか、そうでないかは、これからの働きにかかっておる」(p290)
 本書のタイトル「火城」はここに由来するようだ。


 尊王攘夷や国学の思想が渦を巻き、騒乱を惹起している最中に、思想とは一線を画し、西洋諸国に対峙していく道を模索していた一群の人々がいたことを本書で知った。江戸時代の末期を眺める視座が広がった気がする。

 栄寿がジョン万次郎と関りを持ち、一助の策をめぐらしたというくだりを興味深く読んだ。栄寿ならやったことだろうなと思う。ここにも人を活かす心が息づいている。

 ご一読ありがとうございます。



補遺
鍋島直正   :ウィキペディア
佐野常民 揺ぎなき博愛精神     :「Sagabai.com」(佐賀市観光協会)  
佐野常民と三重津海軍跡の歴史館  ホームページ
  佐野常民の歩み
枝吉神陽 ~佐賀の「吉田松陰」~  :「Sagabai.com」(佐賀市観光協会)
伊東玄朴   :ウィキペディア
からくり儀右衛門(田中久重)の生涯   :「久留米市」
田中久重   :ウィキペディア
佐賀県の歴史第2章 嵯峨における幕藩体制  :「佐賀県」
明治維新の先駆的役割を果たした佐賀藩    :「佐賀県」
久留米からくり振興協会  ホームページ
蒸気船雛形(外輪船)     :「佐賀城本丸歴史館」
蒸気車雛形 附貨車他 一台  :「さがの歴史・文化お宝帳」

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