遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『海風』   今野 敏   集英社

2024-11-28 16:44:01 | 今野敏
 6月に小説『天を測る』の読後印象を書いた。この歴史時代小説は、小野友五郎を主人公として、日米通商条約批准の遣米使節団の正使がポーハタン号に乗船して渡米する際に、咸臨丸が同航した。日本人の航海員だけで操船する咸臨丸に、天体観測により航路を定める航海士が小野友五郎だった。
 本作は、井伊大老より永蟄居を言い渡されて自宅の居室で永井尚志が、太平洋を横断しアメリカに向かって出航した咸臨丸の姿を思い浮かべる場面で終わる。海防のためには艦船が必要であり、操船するには航海士を育成することが必須である。永井は長崎に伝習所を創設する準備をし、初代の伝習所総督となる。航海士育成に尽力した。その長崎伝習所第一期生の一人が小野友五郎である。

 本作は、この永井尚志を登場人物の中核とし、単純化していえば、通商条約締結の結果、咸臨丸をアメリカに運航させる段階にまで至った時代を描き出した歴史時代小説である。攘夷思想が時とともに高揚していく時代の渦中で、日本国の将来を考えると、開国し通商により国を繁栄させていく選択肢しかないという結論に至り、そのために奮励し行動した一群の人々の物語である。
 勿論、徳川幕府内には開国派と攘夷派が居て、老中が一枚岩であった訳ではない。黒船来航という外圧の下で、清国の状況を鑑み、海軍創設、開国と通商の必要性への思いを抱き、老中に働きかけ、苦心惨憺しつつ、各拠点地で通商条約締結への交渉担当者となって活躍したいわば中堅官僚の生きざまを描く。大変なプレッシャーだっただあろうと感じる一方で、時代と国を背負うというやりがいもあったのではないかと思う。

 本書は、「小説すばる」(2023年5月号~2024年4月号)に連載された後、2024年8月に単行本が刊行された。

 ストーリーは、主な登場人物の3人が、黒船来航の時勢話を交わしている場面から始まる。その3人の共通点は昌平黌(ショウヘイコウ)と呼ばれる昌平坂学問所の大試に合格した仲間という点にある。簡単なプロフィールを紹介しておこう。
 永井尚志(岩之丞) 昌平黌甲科合格。大名の側室腹の生まれで、旗本永井家の養子。   38歳の折、目付に取り立てられ、海防掛(海岸防御御用掛)に指名される。
   職務には外国との交渉が含まれていた。永井は長崎表取締御用として長崎へ。
   出島のオランダ商館長クルチウスとの交渉担当に振られることが皮切りに。

 岩瀬忠震(タダナリ) 昌平黌乙科合格。旗本設楽家の第三子。母方の岩瀬家の養子に。
   永井は岩瀬には甲科合格の実力あり、その気がなかっただけとみる。頭が良い。
   ペリーが浦賀に再来した1854年1月、海防掛目付を命じられる。ペリーとの交渉
   に加わることを皮切りに。何を言っても人に嫌われない性格の人物。
   御台場の建設、大砲の鋳造、大型船の製造にも関わっていく。

 掘省之介 昌平黌乙科合格。堀の父は大目付。母は林述斎の娘。堀と岩瀬は従兄弟同士
   二人より一足先に海防掛目付になっていた。蝦夷地の探索に赴く。帰路の矢先に、
   函館奉行に任じられる。北の防御対策を推進することを皮切りに。
   
という形で、それぞれが外国との交渉の最前線に関わっていく。
 
 本作は、徳川幕府が対応を迫られた諸外国との通商条約を成立させていく紆余曲折のプロセスを、実務に携わった彼ら3人の視点から織り上げていく。その中で、永井の活動を中軸に描きつつ、岩瀬・堀とのコミュニケーション、連携プレイが進展していく。当時の諸外国との条約交渉の状況がどういうものであったかということがイメージしやすくなった。コミュニケーションをするだけでも如何に大変かがよくわかる。
 読ませどころは、やはり外国との交渉の実態描写にあると思う。
 だが、諸外国との交渉に奔走した人々は、井伊大老の下で、左遷され罷免されていく。
 最後に、日本史の年表からこの小説に関わる史実を抽出しておこう。
   1853(嘉永6)年 6月 米使ペリー、艦隊を率いて浦賀に来航                    7月 ロシア使節プチャーチン、長崎に来航
   1854(嘉永7)年 1月 ペリー、再び来航  
            3月 日米和親条約(神奈川条約)
            8月 日英和親条約
           12月 日露和親条約
1857(安政4)年 5月 下田条約
   1858(安政5)年 6月 日米修好通商条約調印 
            7月 オランダ・ロシア・イギリスと調印
            9月 フランスと調印
 尚、これらの通商条約の調印に、京の朝廷は許可を出していない。
 この小説には触れらず、その一歩手前の時期で終わるのだが、安政5年9月には、井伊大老の下で、「安政の大獄」が実行される。本作はそういう時代状況を描き出している。

 黒船来航から、諸外国と通商条約締結というステージに立ち至る我が国の状況を感じ取るには大いに役立つ歴史時代小説である。史実の読み解き方のおもしろさがここにはあると思う。

 ご一読ありがとうございます。


補遺
永井尚志    :ウィキペディア
永井尚志    :「コトバンク」
長崎海軍伝習所初代総監理・永井尚志と岩之丞の追弔碑  :「墓守りたちが夢のあと」https://ameblo.jp/
岩瀬忠震    :ウィキペディア
岩瀬忠震    :「コトバンク」
岩瀬忠震宿所跡 :「フィールド・ミュージアム京都」
堀利煕     :ウィキペディア
堀利煕     :「コトバンク」
日米修好通商条約  :ウィキペディア
安政五カ国条約   :ウィキペディア
出島   ホームページ
出島   :ウィキペディア
浦賀   :ウィキペディア
函館奉行所 公式ウェブサイト

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『ロータスコンフィデンシャル』    文藝春秋
『台北アセット 公安外事・倉島警部補』   文藝春秋
『一夜 隠蔽捜査10』   新潮社
『遠火 警視庁強行犯係・樋口顕』    幻冬舎
『天を測る』       講談社
『署長シンドローム』   講談社
『白夜街道』       文春文庫
『トランパー 横浜みなとみらい署暴対係』   徳間書店
『審議官 隠蔽捜査9.5』   新潮社
『マル暴 ディーヴァ』   実業之日本社
『秋麗 東京湾臨海署安積班』   角川春樹事務所
『探花 隠蔽捜査9』  新潮社
「遊心逍遙記」に掲載した<今野敏>作品の読後印象記一覧 最終版
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『伏蛇の闇網 警視庁公安部・片野坂彰』   濱 嘉之   文春文庫

2024-11-25 22:56:44 | 濱嘉之
 警視庁公安部・片野坂彰シリーズの第6弾! 文庫のための書下ろしとして、2024年10月に刊行された。
 本作はまさに直近の世界情勢を片野坂彰をリーダーとする警視庁公安部長付特別捜査班が情報収集し、片野坂を中核に分析し論じあうというインテリジェンス・ストーリー、情報小説である。現下の世界情勢をこういう視点から見つめることができるものか、というところが、フィクションという形式を介して、大いに参考になる。

 本作はこれまでのシリーズとはちょっと全体構成の趣が違うという印象をまず抱いた。一つの特別捜査事案がメイン・ストーリーになって、いくつかのサブ・ストーリーが織り込まれていき、結果として集約統合されていくという展開とはかなり異なる。いわば、短編連作の底流に一つのテーマが横たわっていて、それぞれの短編のある局面が、その一つのテーマと接合していくというイメージである。
 
 片野坂は特別捜査班のリーダーであり、4人の部下がいる。しかし、片野坂は上司・部下という上下関係を主体とする一班ではなく、それぞれが専門領域での優秀な捜査員であり、お互いが同僚だという意識でのチーム作りを実践している。それぞれのメンバーは、己の担当する領域でテーマを主体的に追及しいく。特別捜査班全体での情報の共有化を図りつつ、海外各地域に分散し単独で諜報活動に従事していくとともに、片野坂の提起する特定事案の解決にチームプレイを発揮する。今回は、このそれぞれの活動を描くという側面の比重がこれまでの作品より大きくなり、ストーリーに色濃く反映されていると思った。

 これは、本作の目次をご紹介すれば、そこにその一端が現れていると思う。
 短編連作風の作品と感じる一つの要因は、各章での主体となり諜報活動をする人物が明確な点である。個々の主人公が片野坂と連絡を取り、一方で同僚間の相互協力とコミュニケーションを密にしている。目次と併せて主体となる人物を明記しておこう。

  目次              主体として活動する特別捜査員
    プロローグ         片野坂彰警視正  本筋の事案の始まり
  第1章 ロシア情勢       香川潔警部補
  第2章 中国情勢        壱岐雄志警部
  第3章 中東情勢        望月健介警視
  第4章 福岡          片野坂彰警視正
  第5章 経過報告        片野坂がメンバーと活動状況を共有化
  第6章 新たな問題       緊急事案への対処:片野坂・香川・壱岐
  第7章 事件捜査        緊急事案が事件捜査に転じる
  第8章 海外警察の拠点摘発   片野坂の扱う本筋の事案の解決へ
    エピローグ

 プロローグで、片野坂が京都の八坂の塔の近くに現れる。土地鑑のある地域から始まると情景のイメージが湧きやすく一層ストーリーに入り込みやすくなる感じがした。
 片野坂はそこから京都の中心地区に移動し、とあるビルにある監視カメラに情報収集のための小細工を加える。それは片野坂が友人から入手した情報を契機に、ある事象の殲滅をテーマとして着手する始まりとなる。ここからまず面白いのは、ウィーンを拠点とする白澤香葉子警部のもとに、監視カメラに加えた細工を通して得られる情報を送信し、白澤がリモートでアクセスして、そこを起点に情報源を遡っていき、さらに関連情報をハッキングするというルートを構築していくところにある。片野坂が国土防衛のために取り組む事案は、その進め方が頭からグローバルな展開となる点である。このシリーズに引き込まれるのは、グローバルな情勢分析感覚がベースにあることだ。
 では、片野坂が友人から協力依頼を受ける形で得た情報を契機に取り組み始めたのは何か? 中国公安が、日本に秘密警察の「海外派出所」を設営して、留学生などの在日同朋を脅迫する一方で、チャイニーズマフィアと連携して大規模詐欺に関与しているという事象だった。京都に海外派出所の一つがあることと場所を片野坂が特定した。片野坂はこの京都から得られる情報を起点に、日本に設営された中国の秘密警察派出所の殲滅を一挙に行うことを決意する。これがこの第6弾のメイン・ストーリーに相当する。

 しかし、この事案だけを主体に捜査を展開していくストーリーの構成になっていないところが面白いところである。片野坂は、ロシア、中国、中東の各エリアで活動している同僚たちと、コミュニケーションを取り、情報を共有しながら、片野坂の視点で諜報活動の目標について助言・指示したり、危険性の評価などをしたりする。また、各捜査員の入手情報は、ウィーンの白澤のもとに中継拠点として集約される。一方、白澤は情報源へのハッキング活動により、片野坂以下4名に収集・分析した情報をフィードバックする。このスケールの広がりが、このシリーズの魅力的なのだ。

 第1章~第3章のロシア・中国・中東各地域の情勢分析とグローバルな相互関係についての描写は、ほぼリアルタイムな世界の情勢・情報が扱われている。その情報分析を一つの視点として受け止めると有益である。見方が広がることは間違いない。リアルな情報が巧みに織り込まれ、その動向がこの5人のメンバーの分析の俎上に上ってくるのだから、おもしろい。
 
 3人の特別捜査員がこのストーリーではどこに出かけているかだけはご紹介しておこう。特別捜査班の全員が片野坂の指示で警視庁本部庁舎で一堂に会するのは、クリスマスイヴの前日になる。それまで、片野坂は日本で単独捜査。白澤はウィーンで主にハッカーとしての業務に従事し、ストレートに帰国。あとの3人は以下の通り。
 香川:ウラジオストク→(シベリア鉄道・北ルート)→モスクワ→サンクトペテルブルク
 壱岐:上海・長江河口地域→香港→江西省の南昌市
 望月:フォレストシティ(マレーシア・ジョホール州)→モルディブ

 全員が集合して会合した後、片野坂は皆に1月15日の集合を告げ、それまでは有給休暇を取るように指示する。だが、年が明けてから、思わぬ新たな問題が発生する。それは公安部のサイバー犯罪特別捜査官の出奔事件である。その重要性に鑑みて、片野坂は即刻捜査に取り組む。そこに香川と壱岐が加わっていく。サブ・ストーリーの進展なのだが、それがまた、片野坂の事案に繋がっていく。外国と国内が絡むと、広いようで狭い裏社会の繋がりが露呈する。まあ、そんなものかも・・・・と思ってしまう。
 このサブ・ストーリー、リアルにあるかもと思うような話であり、興味深い。

 本作は、メイン・ストーリーと思う片野坂の取り組む事案を描くボリュームが相対的に少ない。それ以外の世界情勢の話題と分析に結構拡散している。なので、世界情勢の論議をフィクションを介して読むことに関心がない人にはお勧めとはいいがたい。
 フィクションを介しながらも、ここまで一つの視点で、世界情勢と過去の歴史の一端を取り上げ、読み解き、書き込んでいるところが興味深くおもしろいと思う。

 香川潔警部補の発言は、いつも過激で極端な側面があるのだが、それ故に思考の刺激になる。香川と片野坂の会話をいつも楽しみながら読める。
 最後に、香川が毒舌・揶揄でネーミングし、会話に頻出させるあだ名を挙げておこう。
    プー太郎、チン平、黒電話頭。
 小説ならではのあだ名ではないか。

 ご一読ありがとうございます。


補遺
CISSPとは  :「ISC2」
OSCPとは? :「CONPUTERFUTURES」
ガスプロム  :ウィキペディア
鬼城(地理学):ウィキペディア
恐れていた事態が起こった「中国の不動産業界」…中国で「完成はしたけれど住む人がいない」マンションが急増   :「現代ビジネス」
南昌市   :ウィキペディア
江西省・南昌市 概況説明資料  :「JETRO」
ヒズボラ  :ウィキペディア
バース党  :「日本国際問題研究所」
ハマース  :ウィキペディア
フーシ   :ウィキペディア
イスラエル国   :「外務省」
イスラエル    :ウィキペディア
モルディブ共和国 :「外務省」
モルディブ    :ウィキペディア
AIアシスタントとは?   :「RAKUTEN」
生成AIのパワーを活用する :「intel」
生成AI    :「NRI](野村総合研究所)

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『天空の魔手 警視庁公安部・片野坂彰』  文春文庫
『プライド2 捜査手法』   講談社文庫
『孤高の血脈』   文藝春秋
『プライド 警官の宿命』   講談社文庫
『列島融解』   講談社文庫
『群狼の海域 警視庁公安部・片野坂彰』  文春文庫

「遊心逍遙記」に掲載した<濱 嘉之>作品の読後印象記一覧 最終版
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『赫夜』   澤田瞳子    光文社

2024-11-20 21:49:34 | 澤田瞳子
 タイトルの「赫夜」には「かぐよ」というルビが振られている。
 赤を二つ並べたこの最初の漢字は、辞典を引くと「火がまっかにかがやく意を表す。①あかい。(ア)まっか。火のあかいさま。②さかん(盛)。勢いのさかんなさま。③かがやく。ひかる(光)」(『角川新字源』)と説明されている(説明一部省略)。

 延暦13年(794)の平安京遷都から6年後、富士ノ御山が山焼けする。富士山の噴火が20年ぶりに勃発したのだ。赫夜は噴火した富士山の夜の情景を表象している。
 富士山の噴火とその脅威がもたらす自然環境の激変、その富士山の東側から南東側の地域を活圏とする人々は噴火の結果、生活と心情を翻弄されていく。
 本書は、富士山の噴火活動の描写と様々な人々が翻弄される姿と彼らの思い、政治を執行する人々の関わり方-官の自己中心性-を描写することをテーマにとりあげた作品だと思う。

 本書は、「小説宝石」(2021年6月号~2023年1・2月合併号)に連載されたのち、加筆修正され、2024年7月に単行本が刊行された。

 本作が描く地域は駿河国の東部。富士ノ御山そもものと、富士山の南に位置する愛鷹(アシタカ)山の東側にある岡野牧(官馬を飼育する駿河国牧)、その南東に位置する長倉駅、長倉から北に向かう街道沿いに設けられた横走(ヨコバシリ)駅、国境を越えた先・甲斐国の水市(ミズイチ)駅。この三駅の周辺の人々の生活圏が舞台となる。

 主な登場人物を簡略に紹介しておこう。
鷹取  :大中臣家の家人(賎民)。大中臣伯麻呂が駿河国司として赴任する際に従属。
     主の黒馬が逃げた責めを負い岡野牧に出向く羽目に。岡野牧での生活を開始
宿奈麻呂:以前の駿河国司の従僕だが反抗し白丁に格下げとなり、駿河国庁に留まる。
     馬に無知な鷹取に同行する事を志願。富士山の火山活動を記録する執念を抱く
     富士山の活動情報に詳しい。合理的思考と文筆力に秀でている。
志太朝臣綱虫:駿河国の大掾の地位にあり、私腹を肥やし自己本位主義の地方役人。
五百枝 :岡野牧の牧帳。父の継足を補佐する官牧のナンバー2。
安久利(アグリ):岡野牧の牧子。馬の子と称され、周囲の人々に経緯を抱かれ、馬を熟知
     捨て子で、馬たちがその命を守ったという。継足に育てられ、岡野牧で生育
駒人(コマンド) :岡野牧の牧子。青年一歩手前、未だ少年。安久利を尊敬し、つき従う。
     鷹取に牧での生活の手ほどきをする。一方、助け助けられる関係となる。
小黒(オグロ) :元大中臣家の家人。鷹取より年下。多治比浜成に仕えることになり、放
     賎されて多治比家の従僕になる。大中臣諸魚から放賎の口約束を得ていた鷹
     取はそれが実行されなかったことで、友の小黒の言動に心穏やかになれない
     心理を抱く。小黒には旅をしたい願望がある。
 その他に登場する人々は、岡野牧、長倉・横走・水市の人々が加わる。さらに、足柄山を拠点とする遊女たちと山賊の頭・夏樫など。

 鷹取は大中臣伯麻呂の家人となったが故に、駿河国に随行する羽目になる。国衙で伯麻呂の乗馬を逃してしまい、伯麻呂の従僕たちから鷹取の失態と決めつけられる。大掾綱虫の助言を受け、新たな馬を入手するために、岡野牧に宿奈麻呂とともに赴く。馬を得るための代償としてしばらく官牧で手助けの労務をする立場になる。岡野牧での生活に少し慣れてきた頃、ちょっとした鬱憤晴らしの息抜きに横走に出かけていく。その折に、富士山の噴火に遭遇する。ここで、足柄山を拠点とする賎機と名乗る遊女の長と足柄山の山賊と自称する夏樫と出会い助けられて、縁ができる。だが、その後人助けの心を起こしたことで、逆に己が再び危地に陥るが、今度は安久利と駒人に助けられて、岡野牧に帰還できる。
 この後、富士山の火山活動が進展する。岡野牧の人々は、馬を生かし、己たちが生き残るための対策を立て、一方近隣の人々を援助する活動を始めていく。

 「富士ノ御山の山焼け」と表現される火山活動の活発化に伴い、様々な自然現象が発生していく経過が克明に描写されていく。その描写を通して読者は徐々に噴火活動の状況が脳裏にイメージとして形成されるととともに、ストーリーの新tンに惹きつけられていく。
 一方、頭上に降り注いでくる焼けた石や砂により、人々は騒然となり逃げまどう。焼け灰が大地に積もりはじめ、火災も発生し始める。その災禍に右往左往する人々の行動が活写されていく。地表一面に堆積した石や灰が地上の景観を一転させてしまう。己のよりどころである故郷の景観と生活の拠点を喪失した人々の生きざまが始まっていく。人々はどう対応していくのか。 もちろんここには、一旦小康状態になった後に発生する二次災害が描きこまれていく。小康状態が続いた後、噴火が再発することに・・・・。

 9世紀初頭の富士山の火山活動と災禍の事象を描き出すその経緯は、まさに現代社会で発生している火山の噴火、大震災や河川の大氾濫に遭遇した罹災者と共通する。状況が重なって見えてくる。私は著者の筆力に引き込まれていった。

 宿奈麻呂は言う。「大げさではない。何かを見ること、知ること。それは万金に値するのだ」(p111)と。それを記録に残し伝えることの重要性を彼は語る。なぜなら、伝えらえなかったものは、無かったこととして扱われ、消されていくと彼は言う。
 このことをなるほどと思う。記録に残されないことは、風化して消え去る。記録があっても、アクセスできなければ、無いに等しい。

 鷹取の思いに共感するところが生まれてくる。ここはと思う箇所を抽出・引用しご紹介する。
*兄弟同然に過ごしてきた小黒と自分が良戸と家人に分かれたように、どれだけ親しくとも人同士は結局、赤の他人である。お互いを完全に理解することは、決してできない。 p271
*鷹取は所詮、余所者だ。この地に生まれ育ち、父祖代々の生活をあの山焼けによって奪われた者の苦しみを、完全には理解できない。
 だが一方で、生まれながらに諦念を強いられてきた鷹取には、これだけは分かる。血を吐くほどに何かを希おうとも、どうしたって叶わぬものは叶わない。生きることはつまり、そういうことなのだ。
 失われた平穏な暮らしを、猪列が嘆くのは理解できる。だがそれでもなお、日々は続く。人はどんな目に遭おうとも、ただ生き続けるしかない。  p239
*都においても、地震や疫病がいつかの地を襲い、誰がその犠牲になるかは誰も分かりはしない。そう気づいた瞬間、鷹取はつくづく、自らがいかにちっぽけな存在であるかを考えぅにはいられなかった。  p334
*人の世は哀れなほど脆く、儚い。だがそれでも一旦この世に生まれた以上、人はただその脆い世で足掻き続けるしかない。そして少なくとも突如、平穏な暮らしが破られるやもしれぬという苦しみが、貴賤を問わず、あまねく人々の上に降りかかるものであると知れば、生きる苦難はほんの少しだけ軽くなるのではあるまいか。  p335
*人知を超えたこの世の理から計れば、自分は誰に諂う必要もない。人はどんな時も、ただその人でしかあり得ぬのだから。  p336
*人の生とは、考えもつかぬことばかり繰り返される。しかしだからこそ人は懸命に生きようと足掻き、幾度となく訪れる夜を切り開いていくのではあるまいか。  p416

 さらに、次の思いに凝縮していく局面があることに鷹取の思いを介して気づく。
*何があろうとも日は昇り、新たなる朝はすべての者の前に等しく訪れる。ならば命ある者は、どれほど無力であろうともーーーいや、無力であればこそなお、ただ前に進み続けるしかない。  p391
*どれほど赫奕(カクヤク)たる夜も、いずれは必ず明ける。そう、世の中には変わらぬものは何一つないのだから。  p415
*国も、住まう者も異なる。しかもそれぞれの地を大切に思う一点において、人の心は変わらぬのだ。  p447

 この最後に引用だけは、少し異質な側面を含んでいる。それはなぜか。
 このストーリーには、蝦夷征討に向かう征夷大将軍坂上田村麻呂の軍隊のサブ・ストーリーが織り込まれていく。旅に出たい望みの小黒が自ら志願してこの征討軍の兵士に志願する。そして、偶然にもその旅程の途中で、行軍を見物する鷹取と再会する。
 この蝦夷征討軍のストーリーが、この富士山噴火のおどろおどろしい経過の最終ステージで、このメイン・ストーリーに織り込まれていく。ストーリー中の様々な要素と因果関係を持つようになる。実に巧みなエンディングといえる。
 だが、この関りかたの部分は、史実を踏まえているのだろうと思う。が、それを確認できる資料は手許にない。あくまで個人的な想像である。
 これ以上は、本書を読まれる妨げになるだろうから、触れない。

 ご一読ありがとうございます。


補遺
富士山の噴火史について    :「富士市」
富士山 有史以降の火山活動  :「気象庁」
富士山の活動状況   :「気象庁」 
富士山が噴火したらどうなる  :「NHK」
6.宝永の大噴火(字幕付)    YouTube
[明日をまもるナビ] 富士山噴火で火山灰・首都圏で起こること | NHK    YouTube
活火山富士 噴火は迫っているのか? | ガリレオX 第23回 YouTube
【火山情報】 鹿児島県・桜島で噴火が発生 噴煙は4000mに YouTube
硫黄島沖で噴火“新たな島”出現 海上には「軽石いかだ」漂着の恐れは?専門家が解説(2023年11月5日) YouTube
ハワイ・キラウエア火山が噴火 最高警戒レベルに引き上げ(2023年6月8日)   YouTube
ロイヒ海底火山  :「NHK」
ハワイ・キラウエア火山の溶岩流 - Kilauea        YouTube
カメラが捉えた凄まじい火山の噴火トップ7     YouTube
日本の古代道路   :ウィキペディア
東海道について  :「東海道への誘い」(横浜国道事務所)
坂上田村麻呂   :ウィキペディア

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『月ぞ流るる』    文藝春秋
『のち更に咲く』   新潮社
『天神さんが晴れなら』   徳間書店
『漆花ひとつ』  講談社
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『戦国武将を推理する』   今村翔吾   NHK出版新書

2024-11-17 14:00:51 | 今村翔吾
 英雄8人をプロファイリング!
 今年、2024年3月に刊行されたエッセイ集。

 本書は、1章1武将で、8章構成。
 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、武田信玄、上杉謙信、伊達政宗、松永久秀、石田三成が取り上げられている。「英雄」という言葉から、松永久秀、石田三成を即座にカウントする人はそれほど多くはないかもしれない。私は思い浮かばなかった。
 著者はこの8人を選んでいる。まず、それがおもしろい。なぜ、この8人をとりあげたのかはエッセイの中で語られている。

 「はじめに」において、著者は、史料に拠る実証主義の歴史学者に比べて作家は気楽なものと言いながら、「突飛な話にし過ぎては、読者が興醒めしてしまうかもしれない。そのためには対象となる人物や時代を良く知らねば、こうではないかという想像すら思い浮かばないのだ」と記す。人物や時代を知るために、著者が小説を生み出す舞台裏でどのようなことをしているかの様子をこのエッセイ集で垣間見ることができる。
 それを、次の文でさらりと抽象化して語っている。「仮に物証はなくとも、行動パターン、過去の経歴、身体的特徴などさまざまなものから人物像の輪郭を限りなく明確にしていく。いわば、それは歴史上の人物のプロファイリングである。私は小説を書く過程において意識して、あるいは無意識にでも必ずしている」と。
 「そういった意味では、本書は創作しているときの私の頭の中を、余すところなく語り尽くし、文章に書き起こしたものといえるかもしれない」と記す。

 章を読み進めていくと、人物プロファイリングを行うために、著者が相当に史料を渉猟し、時代と人物を明確に想像するための下準備を重ねている様がよくわかる。日本史研究における歴史解釈の変化や動向が語られたり、戦国武将の行動事象についてその解釈に様々な仮説があることを列挙してくれている。そのうえで、時代小説作家として己の解釈、仮説を語っていく。おもしろいのは、著者が己の小説の中でどのような人物造形をしたかについて、随所で触れている点である。これは著者自身の作品PRにもなっていて一石二鳥という感じ。著者の作品群で知らなかったものに気づく機会にもなった。

 本書は読みやすい。ここに登場する人物の行動や思考法を語る際に、現代社会において誰しもが見聞あるいは経験している事象や行動、用語などを譬えに使って語られている箇所が多いからである。身近に感じられ、ピンとくるところがある。
 「第1章 織田信長」を例にとるだけでも、流通革命、ジャイアントキリング、ランナーズハイ、スティーブ・ジョブス、ファストファッション、ヘッドハンティング、燃え尽き症候群、大河ドラマや映画での信長役を引き合いに出す、などを譬えに利用している。すんなりとイメージしやすくなるのは、この語り口に一因があるようだ。
 他章でも、会社の合併・子会社化などで権力構造を譬える例がある。「後輩ムーブ」「親ガチャ」「コミュ力オ化け」「無理ゲー」などという語句も使われていて、おもしろい。

 各章は、戦国武将の人物像を推理し、プロファイリングしていく叙述である。そのエッセンスの一端が各章の見出しに副題として付されている。それをご紹介しておこう。後は本書を楽しんでいただきたい。

    第1章  織田信長 - 合理精神の権化
    第2章  豊臣秀吉 - 陽キャの陰
    第3章  徳川家康 - 絶えざる変化の人
    第4章  武田信玄 - 厳しい条件をいかに生きるか
    第5章  上杉謙信 - 軍神の栄光と心痛
    第6章  伊達政宗 - 成熟への歩み
    第7章  松永久秀 - なぜ梟雄(キョウユウ)とされてきたか
    第8章  石田三成 - 義を貫く生き方

 各章末には、ここに取り上げられた戦国武将の簡略な系図と、武将本人の略年表が収載されている。

 各章に2ページの分量でコラムが載っている。本文は戦国武将という英雄を扱うのに対し、こちらは戦国時代の縁の下の力持ち的な、黒子的役割を担った一群の人々を取り上げている。英雄は本人一人で生まれるものではないという側面をこれらの人々で代表させているのかもしれない。
 穴太衆/国友衆/雑賀衆・根来衆/伊賀衆・甲賀衆/黒鍬衆/金山衆・金堀衆/海賊集衆/会合衆、を語っている。
 これらの名称を読み、即座にイメージが浮かぶなら、あなたはかなりの歴史小説愛読者なのだろう。だが、さらに一歩踏み込んだ知識を得られるコラムになっていると思う。

 私の読書遍歴からは、ここに取り上げられた8人の武将の中で、戦国時代の三大梟雄の一人と言われる松永久秀が相対的に一番遠い存在だった。本書では松永久秀のポジティブな側面をかなり推理している。著者の視点と語り口を興味深く受け止めた。著者は松永久秀を主人公にした小説『じんかん』に触れている。私には気づいていなかった一冊。また、一つ読書目標ができた。

 ご一読ありがとうございます。


こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『春はまだか くらまし屋稼業』   ハルキ文庫
『くらまし屋稼業』  ハルキ文庫 
『童の神』   ハルキ文庫
『恋大蛇 羽州ぼろ鳶組 幕間』  祥伝社文庫
『襲大鳳 羽州ぼろ鳶組』 上・下   祥伝社文庫
『黄金雛 羽州ぼろ鳶組零』 祥伝社文庫
『双風神 羽州ぼろ鳶組』   祥伝社文庫
『玉麒麟 羽州ぼろ鳶組』   祥伝社文庫
『狐花火 羽州ぼろ鳶組』   祥伝社文庫
『夢胡蝶 羽州ぼろ鳶組』   祥伝社文庫
『菩薩花 羽州ぼろ鳶組』   祥伝社文庫
『鬼煙管 羽州ぼろ鳶組』   祥伝社文庫
『九紋龍 羽州ぼろ鳶組』   祥伝社文庫
『夜哭烏 羽州ぼろ鳶組』   祥伝社文庫
『火喰鳥 羽州ぼろ鳶組』   祥伝社文庫
『塞王の楯』   集英社

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『紫式部と男たち』    木村朗子    文春新書

2024-11-16 22:45:07 | 源氏物語関連
 『源氏物語』と紫式部に関連した本を少しずつ読み継いでいる。タイトルが目に止まった。紫式部と「男たち」を対比しているところに関心を惹かれた。著者は何を語ろうとするのか。
 本書は、2023年12月に刊行されている。

 平安宮廷社会において、男たちは書き言葉として漢文を使った。一方で、やまと言葉の文体が生み出され、和歌を詠んだ。やまと言葉の文体は女子供が読む物語を綴るのに使われていく。こちらは、当時における言文一致の口語体の文体であると著者は説く。この文体があったからこそ『源氏物語』が生み出されたと。そして、これが世界で最も早く、それも女性作家により書かれた本格小説作品であることを強調する。そして『源氏物語』が生み出される土壌が平安貴族社会にあった点を明らかにしていく。

 「はじめに」の末尾に、著者の関心と本書執筆の意図が提示されている。「紫式部とはどのような人だったのだろうか。いったいどういうわけで、『源氏物語』のような大作が生まれたのだろうか。『源氏物語』と照らし合わせながら、紫式部の生きた時代をみてみよう」(p10)と。「男たち」には、宮廷貴族社会そのものを象徴している意味合いもあるようだ。

 「男たち」は2つの視点で論じられていく。1つは、紫式部が『源氏物語』の中に描き込んだ、光源氏を中心とした「男たち」である。なぜ、あのような形で男たちが物語に描き込まれて行ったのか。描くことができたのか。先行する日記文学の作品並びに『源氏物語』のテキストを例示し、著者は具体的に分析し論じられていく。さらに、なぜ紫式部があのような内容を織り込んでいったのかについて、著者の見解がわかりやすく説明されている。
 もう1つは、紫式部自身の体験という視点である。『源氏物語』を書き始めた紫式部が、藤原道長にスカウトされて、中宮彰子のもとで仕える。仕事の一環として『源氏物語』を書きつないでいく。女房務めにより実際の宮廷社会を内部から眺め、体験することになる。宮廷生活の中で接する「男たち」との関りとリアルな体験という視点である。勿論、宮廷社会の実生活の中で女性たちを見つめる側面を抜きにしては語れない。
 この2つの視点を織り交ぜながら、紫式部の生きた時代が明らかにされていく。

 本書は8章構成になっている。章構成と私が理解したキーポイント並びに読後印象を少しご紹介しよう。

< 第1章 『源氏物語』の時代 >
 『源氏物語』は「延喜・天暦の治」(醍醐天皇・村上天皇の御代)を時代背景に設定して描かれているらしいと言う。『源氏物語』が生み出された時代は、摂関政治の時代であり「学問の叡智に頼らず、性愛によって天皇をとりこめていく政治体制」(p24)がその内実だったとズバリ論じる。わかりやすい。学才よりも恋愛力が重視される時期だった。「ならば色好みの男たる光源氏が主人公となるのも必然という気がしてくる」(p25) のっけから、なるほど・・・。この対比、今まで深くは意識していなかった。また、怨霊と物の怪の登場がこの時代を反映していることもよくわかる。
 明治~太平洋戦争以前の時代における『源氏物語』の扱いに触れているところがおもしろい。

< 第2章 摂関政治下の色好みの力 >
 当時の「天皇の政治とはまずもって性を治める『性治』であって、それを踏み外すことなどよもあってはならない。まさに『性治』の乱れは政治の乱れだったのである」(p34)この一文は端的。大河ドラマ「光る君へ」に登場する場面を連想してしまう。
 権力再生産の論理において「生む性」と「生まない性」を明確に区別し論じているところがわかりやすい。権力再生産の埒が明確だったのがよくわかる。
 著者は興味深い視点を投げかけている。「『源氏物語』が権力再生産に関わらない女たちとの関係をこそ描こうとしているとすれば、それは摂関政治体制に対するアンチテーゼであったかもしれない」(p38) と。
 そこで、現代社会における「生む性」とは、という点にも言及している。
 また、この章で、当時の女房階級の中にみられた「召人」という男女関係も明確に位置付けて説明されていて、わかりやすい。

< 第3章 すべては『蜻蛉日記』からはじまった >
 誰しも光源氏のモデルは誰か、に関心を抱く。この章の最初に論じられている。
 著者は、先行しておとぎ話が数多く存在するのに対し、『源氏物語』という本格小説が生み出されるうえで、『蜻蛉日記』が大きな影響力を果たしたことを明らかにする。
 『蜻蛉日記』の名前は知っていても、内容は知らなかった。本書で初めて道長の父・兼家について、および夫の兼家への思いが綴られた日記であることを具体的に知った。『蜻蛉日記』は、実在人物の話でありながら、本格小説の走りとしての存在だと言う。
 
< 第4章 女の物語の系譜 >
 『蜻蛉日記』、『和泉式部日記』、『栄花物語』が論じられていく。興味深い文を引用しておこう。
*開かずの戸を「真木の戸」と詠むのは兼家歌によってかたちづくられたイメージである。 p87
→和泉式部はこの歌ことばを好んで使い、『紫式部日記』にも道長歌として登場
*『源氏物語』の光源氏のモデルと目されている道長よりもずっとその父兼家の方が光源氏像に近い。その兼家像とて策略家であった兼家を直接引いているというわけではない。 p109

< 第5章 呪いと祈祷と運命と >
占いにたよった兼家、陰陽師安倍清明に占わせた道長、夢告について日記に記録する藤原行成の事例などをとりあげ、当時の人々の心理と行動の側面が論じられている。
 そういう実態が、『源氏物語』の中に当然投影され、織り込まれている。

< 第6章 女房たちの文化資本 >
 文化資本とはおもしろい表現だと感じる。ここでは中宮定子が形成した後宮サロンがどのような目的を持ち、どのようなものだったかが明らかにされている。そこで活躍したのが清少納言であり、そのサロンの充実が一条天皇をはじめ宮廷の貴公子たちをひきつけることになった。
 その評判に対抗する形で、中宮彰子が己のサロンを形成していくことになる。紫式部がそこに関わっていくのは御存知の通り。
 この2つのサロンが対比されて具体的に語られる。

< 第7章 『源氏物語』はどう読まれたか >
 紫式部の評判/紫式部のユーモア/『源氏物語』のなかの滑稽譚/愉快な玉蔓十帖/『源氏物語』はどう読まれていたか/「蛍」の巻の物語論/『源氏物語』と男たち/学問を重んじた光源氏と藤原道長、という小見出しで、この章が論じられていく。

< 第8章 女が歴史を書く >
 明石に事実上配流となる光源氏像には、配流となった藤原伊周が重ねられているという説明から、入っていく章である。さらに、吉夢と呪い、物の怪に触れられる。
 そして、「物語が女の人生を照らす参照枠になるというのが、『源氏物語』の基本的な態度である」(p196)と論じている。さらに、「物語が現実を変えてしまうことがある」(p198)という側面にも例をあげて論じていく。
 最後に、女が書いた歴史として『榮花物語』に触れている。

< おわりに >
末尾は、清少納言と彰子サロンの女房たち/和泉式部とあ清少納言、に触れた後、紫式部と道長の関係を論じて本書は終わる。どのように論じているかは本書をお読みいただくとして、最後に、末尾の箇所を引用しておこう。『源氏物語』とリアルな世界とを表裏一体にした解釈と詠みとることができる。

*紫の上の死後、光源氏はどの女君たちにも関心を失い、・・・・・そんななかで、ただ一人だけ光源氏が夜を共にする女がいた。それは紫の上に仕えていた女房の中将の君である。光源氏の召人であったその人が、光源氏の最後の女になる。
 『源氏物語』は光源氏の死を描かない。だから中将の君との愛に終わりはない。一人の召人との関係が永遠の愛を得て、物語は完結するのである。それが道長の召人であった紫式部の答えなのである。  p227

 ここまでの言及が印象深い。
『源氏物語』と紫式部について、一味ちがう局面から眺めることができたように思う。

 ご一読ありがとうございます。


こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『散華 紫式部の生涯』 上・下  杉本苑子  中公文庫
『紫式部の実像』  伊井春樹  朝日新聞出版
『読み解き源氏物語』 近藤富枝  河出文庫
『道長ものがたり 「我が世の望月」とは何だったのか-』 山本淳子 朝日選書
『芸術新潮 12』 特集 21世紀のための源氏物語   新潮社
『源氏物語』  秋山 虔   岩波新書
『古典モノ語り』   山本淳子   笠間書院
『紫式部の実像』 伊井春樹  朝日新聞出版
『紫式部考 雲隠の深い意味』   柴井博四郎  信濃毎日新聞社
『源氏物語入門 [新版]』  池田亀鑑  現代教養文庫

「遊心逍遙記」に掲載した<源氏物語>関連本の読後印象記一覧 最終版
                   2022年12月現在 11冊

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