遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『自白』上・下巻   ジョン・グリシャム    新潮文庫

2025-02-09 22:19:29 | 海外の作家
 私流に言えば、冤罪裁判闘争並びに被害者遺骨探索を扱うリーガル・スリラー小説である。邦訳タイトルとなった「自白」は、原題「The Confession」ズバリの翻訳。

 このストーリーで、「自白」は2つの意味で取り上げられている。一つは、ドンテ・ドラムが行った自白。テキサス州の人口4万人の街スローンの警察署において、長時間に渡る過酷な取り調べを行った刑事に誘導されるがごとくに、ドンテはニコル殺しを自白した。もう一つは、ニコル殺しの真犯人、トラヴィス・ボイエットの自白。

 本書は、平成24年(2012)11月に上下二巻として文庫版が刊行された。
 入手して以来長らく身近に積み上げた本の一冊になっていた。一時期、J・グリシャムの1900年代の作品を読み継いでいたが、ここ十年余離れていた。本書を契機に読み継いでいく作家の一人に復活させて、未読作を楽しみたい。

 事件の被害者は、ニコル・ヤーパー、17歳、白人。4年制スローン・ハイスクールのチア・ガールのリーダーだった。ドンテは幼馴染の同級生であり、学校や街では名の知られた黒人フットボール選手。ニコルが行方不明となり、捜査が進むが行方がつかめぬ状況の中で、ドンテの使っている車をニコル失踪の当夜彼女が駐車していた車の近くで見かけたという通報電話があった。任意同行で始まり、逮捕・取り調べに転換し、結果としてドンテは自白した形となる。1999年、19歳のとき、ドンテはニコルの拉致と強姦と殺害の罪により、有罪判決を受けた。刑務所に収監される。その時点でも、ニコルの死体は遂に見つかっていなかった。
 スローンの街で弁護士事務所を開設するロビー・フラックは、ドンテの無罪を確信し、ドンテの弁護を引き受ける。判決が決まった後も、無罪を主張し様々な裁判手続きを繰り出し、冤罪を主張し続ける。
 弁護士ロビー・フラックはドンテの自白を虚偽の押し付けと断じて、ドンテを救うために継続的に裁判手続・訴訟を推進する活動を行う、そのプロセスがこのストーリーの一つの太いストリームとなる。

 このストーリー、冒頭はカンザス州トーピカにあるセント・マークス教会に、トラヴィス・ボイコットという不気味な雰囲気の謎の男が訪ねて来て、受付で牧師に会いたいと告げるところから始まる。たまたまその日、主任牧師の妻ディナが代役で受付を担当していた。先客があったので、しばらく待機した後、トラヴィスは主任牧師のキース・シュローダーに面会する。トラヴィスは、トーピカの昨日(日曜日)の新聞の小さな記事を持ってきていた。今週の木曜日にテキサスで黒人の若者が処刑されるという報道記事だった。トラヴィスはその黒人の若者は無実であり、ハイスクールのチアリーダーを強姦して殺したのは自分だ。死体を埋めた場所も記憶している。と、トラヴィスはキーズに告白した。
 この瞬間からキースの苦悩が始まる。トラヴィスはキースに告白すると、教会を出ていた。キースがトラヴィスと面談している間に、ディナは、受付をした時の情報を元に、カンザス州矯正局の公式サイトにアクセスし、トラヴィス・ボイエットの人生履歴の情報を知る。彼は、性的暴行未遂や加重性的暴行で刑務所を4回出入りしていた。今は仮釈放中で、教会から数ブロック離れた社会復帰訓練所に滞在するよう命じられていて、市から出ることは禁じられている状況だった。トラヴイスには1月ばかり前に脳腫瘍が発見されていて、基本的に治療不可と言われていると言う。

 トラヴイスは口から出まかせを告白したのか。彼の語ったことに信ぴょう性があるのか。無実の若者が本当に死刑に処せられようとしているのか。キースは必死に情報収集行動に出る。トラヴィスとも連絡を取ろうと試みる。そして、トラヴィスの告白をおぞましいことだが真実と考え始める。検事や医師をしている友人にも相談する。牧師としての立場で懊悩する羽目になる。月曜日朝にトラヴィスが告白。新聞報道で刑の執行は木曜日。残されている時間は4日をはや切っている!

 コンタクトを撮れなくなっていたトラヴィスから電話連絡が来たことを契機に、キースは決断した。トラヴィスを己の車で、テキサス州のスローンまで連れて行き、事実を語らせて、無実の若者への死刑執行を阻止することに協力したいと。
 ここで、キース牧師とトラヴィスのテキサス行というこのストーリーの最初の太いストリームが進展していく。キース牧師の行動と、ロビーを含む法律事務所の一群の人々の行動が、パラレルに進行する。キースとトラヴィスのテキサス行にとり、さしあたりの目的地はロビーの法律事務所となる。
 もう2つ、背景的な動きが進展する。1つは、テキサス州の裁判所や警察など、ドンテの裁判に関わった一群の人々の動きである。もう一つはスローンの住民たちの間に沸き起こるドンテ裁判に対する不信と人種差別問題を根源とっする不満の湧出。スローンの街全体が人種対立の不穏な雰囲気に包まれていく。
 最後に忘れてはならないのが、ドンテの無実を信じる家族の存在。その一方で、ドンテが加害者であると信じるニコル・ヤーバーの家族の存在と彼らの動きである。

 このストーリーの構造には興味深い視点さいくつかある。
1. ストーリーは、テキサス州で発生した冤罪を取り上げていく。そこには、州の司法制度と法律の現状に目を向ける視点が織り込まれていく。以下の記述に関心が向く。
*地区首席検事は、検察官の中から選挙により選出される。知名度が大きい要素に。
*連邦最高裁判所の裁定により、警察には尋問中にさまざまな欺瞞を弄することが法律で認められている。ひらたくいうなら、警察は意のままに嘘をつけるのだ。 上・p157
*嘘発見機の結果は信頼できないことで悪名高く、法廷で証拠として採用されることはぜったいにない。  上・p158
*ビデオによる供述。  上・p168
*死体が発見できなくても犯人に死刑判決を下せるという実情。 上・p170
*刑務所の運営陣は、囚人を一日のうち23時間にわたって独房に閉じ込めておくことこそ、彼らを管理し、脱走と暴力沙汰を避けるための適切な手段だと考えていた。 上・p222
*裁判地変更を求める申し立てができる。  上・p237
*テキサス州は死刑制度の継続を認める州であり、薬物投与で死刑を執行する。
*死刑執行にあたり、州知事が声明を発表する。 下・p132
*死刑執行に被告側、原告側から限定人数の立ち会いが認められている。下・p133-140

2. 冤罪がテーマであり、一例として、その発生プロセスが明らかにされていく。冤罪が意図的に生み出されるものとして描き出されていく。そう受け止めた。

3. インターネットでの調査検索で、犯罪記録・裁判記録などについて、かなりの事実記録情報を収集できることがベースになっている。

4. 牧師の立場、その役割とは何か? それに対する問いかけが織り込まれていく。
 また、告白を受けた牧師の守秘義務と法規制との相克という視点も含まれている。

5. アメリカ合衆国の建国プロセスと大きく関わる人種差別問題が根底に横たわっている。それがどのような形で誘発され暴動化する可能性を秘めているか。その現象面を鮮やかに描き込んでいる。

 このストーリーの面白さは、その構成にある。
 全体は、< 第一部 罪 >、< 第二部 罰 >、< 第三部 雪冤 > の三部構成である。
 < 第一部 罪 > は簡略に言えば、ドンテが冤罪として「罪」を被せられる過程と、トラヴィスが「罪」を犯した過程を、パラレルに明かにしていく。
 < 第二部 > は、法律に基づき形成された「罰」がどのように執行されるかの経緯が描かれる。一方で、ドンテに対する冤罪の形成に対して、本来ならば誰が「罰」を受けるべきなのかが明らかになっていく。
 < 第三部 雪冤 > はタイトルに「雪冤」というちょっと難しい言葉が使われている。雪という漢字には「すすぐ。そそぐ」という意味がある。ここでは冤罪をそそぐという意味になる。我々の日常では「雪辱」という熟語が時折報道でも使われる一番身近な言葉ではないだろうか。
 この第三部の冒頭は、トラヴィスの告白を裏付けるために、ニコルの遺体を埋めた場所の特定と遺骨発見の経緯から始まる。遺骨の発見は勿論、トラヴィスの犯罪の立証になり、トラヴィスの逮捕に直結する。トラヴィスのその後は・・・・後に言及されていく。
 一方で、ドンテの冤罪が立証されたことにより、ニコル失踪事件の捜査に携わった刑事から裁判に関わった検事、知事たちまで、関係した人々の罪が問われ、それぞれの顛末が描かれていく。誰がどのように関与していたかが解明されていく。
 この第三部の進展プロセスに因果応報という四字熟語を連想してしまった。
 最後に忘れてならないのは、キース牧師夫妻である。トラヴィスの告白から始まったドンテの冤罪問題は、キースの人生に大きな転機をもたらす結果になる。どういう結果か? それは本書でお楽しみいただきたい。

 本作の末尾は、実に象徴的である。冤罪が発生した事実を認めても、テキサス州の法制度において、死刑制度を存続させるという根幹は揺るがなかった。リアルな現実で終わる。そこには著者のシニカルな視点も潜んでいるのではないかという思いが残る。

 著者は、カンザスの牧師キースに、テキサス州で思いを語らせている。
「いったいどこのだれが、人間たちに人間を殺す権利を与えたのか? 
 殺人がまちがったことなら、なぜ自分たちは殺人を許されているのか?」(下・p134)
キースを介して、著者は重い問いを私たちに投げかけている。

 ご一読ありがとうございます。


補遺
アメリカの死刑制度   :ウィキペディア
アメリカ合衆国における死刑の存置州・廃止州一  :「日本弁護士連合会」
Death Penalty Information Center   ホームページ
我が国における死刑の歴史について 資料18 :「法務省」
死刑制度の存廃に関する主な論拠  資料4 :「法務省」
死刑に関する研究 死刑の実態を明らかにし具体的な論議へ :「Reed」(関西大学)
死刑執行方法の変遷と物理的/感情的距離の関係   :「立命館大学生存学研究所」
日本における死刑  :ウィキペディア
死刑制度の廃止を含む刑罰制度全体の改革を求める宣言 :「日本弁護士連合会」
報告書「首に掛けられたロープ~日本の死刑と精神医療~」 (要約・仮訳版)
                  :「法務省」
世界の極刑  :「東北芸術工科大学」

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『悪しき正義をつかまえろ ロンドン警視庁内務監察特別捜査班』ジェフリー・アーチャー ハーパーBOOKS

2025-01-09 17:27:16 | 海外の作家
 1987年5月17日、ウィリアムはロンドン警視庁を辞めるつもりでホークスビー警視長と面談したが、逆に説得された。そして、捜査巡査部長から警部補への昇進を告げられ、新たな任務を命じられる。新設の内部監察特別捜査班を指揮して、囮捜査により、”腐った林檎を樽から取り除く”ことを求められる。

 本書はウィリアム・ウォーイックのシリーズ第3作。2022年10月に文庫が刊行された。
 この新設特別捜査班の最初の任務は、J・R・サマーズ捜査巡査部長の不正を捜査することだった。ウィリアムは、サマーズとはヘンドン警察学校で一緒になった同期であり、彼は最も優秀な一人だった。サマーズの上司が、サマーズにマフィアとの関わりの疑いがある旨を報告していたのだ。ウィリアムは同期の優秀な男を汚職警察官かどうか暴かねばならないという心理的な抵抗感を乗り越えなければならなくなる。
 
 まず、ホークスビー警視長から、この新任務に<トロイの木馬作戦>でチームを組んだアダジャ捜査巡査部長とロイクロフト捜査巡査部長が既に異動することを受け入れていると知らされた。ウィリアムは班長として新たに2名の巡査を選抜する裁量を委ねられた。
 彼は、レベッカ・パンクハースト捜査巡査とニッキー・ベイリー巡査を選抜する。レベッカ・パンクハーストは公立図書館司書助手を隠れ蓑としてサマーズを監視追跡し、一方ニッキー・ベイリーはサマーズの勤務するロムフォード署に勤務しながらサマーズに近づきつつ密かに捜査する役割を担う。

 この小説、メイン・ストーリーは、勿論、新任務・内務監察特別捜査班がターゲットとするJ・R・サマーズ捜査巡査部長の不正を証拠立て逮捕することである。
 しかし、それとパラレルに、サブストーリーが進展する。
 一つはウィリアムが前回、麻薬取締独立捜査班の一員として行動し、<トロイの木馬作戦>によって逮捕した麻薬王アッサム・ラシディの裁判がこれから始まるのだ。ウィリアムは引き続き麻薬取締独立捜査班に所属し、ラシディの裁判準備に専念していると周囲に思わせておくことを彼の隠れ蓑にして、この裁判に深く関わっていくことになる。
 なぜなら、ラシディはブース・ワトソン勅撰弁護士を裁判の代理人にしたからだ。手強い弁護士が被告側として裁判に加わる。刑務所に収監されているラシディと代理人ブース・ワトソン側が裁判の準備を進める側面から、このサブ・ストーリーが先行していく。
 もう一つのサブ・ストーリーが、さらに点描的に織り込まれていく。それはウィリアムにとってはさらに遡った特別捜査班活動で逮捕した美術品の窃盗詐欺師、マイルズ・フォークナーに関係する。マイルズは刑務所を脱獄していた。そのマイルズが死んだという情報を入手し、ウィリアムはジュネーヴでの葬儀に列席して確認することになる。この葬儀には、フォークナーの妻・クリスティーナと彼の弁護士でもあったブース・ワトソンが列席していた。ウィリアムはマイルズ・フォークナーが火葬に付されるところに立ち会いはしたが、葬儀で遺体を実見できなかった。状況からは一応死亡と判断することになる。だが、そこから始まるという謎めいたところが、おもしろさとなる。

 この第3作、ストーリーが三つ巴になって進展していく構成が、時間軸の奥行きと連続性を生み、一方で、事件の登場人物が相互にリンクしていく局面を持つという広がりを生みだしていく。

 本作の特徴をいくつかご紹介しておきたい。
1.ラシディの裁判において、原告側・被告側の代理人の裁判戦略と裁判における攻防戦の面白さが描出される。双方の弁護人がどのような論法と指摘で、陪審員を納得させようとするか。リーガル・サスペンスのおもしろさを遺憾なく味わわせてくれる。
 原告側が十分にラシディの罪を立証できると判断していた論証の筋書きが怪しくなっていく。弁証の落とし穴と表現の機微、陪審員心理への巧みな訴求など・・・。

2.イギリスの刑務所内の状況が描かれている。多少の誇張が含まれているかもしれないが、まんざら絵空事とは言えないだろう。そうすると、刑務所内の管理組織にも問題点が内在することをシニカルに描いていることになる。
 日本の刑務所はどうなのだろうか・・・・。

3.日本では囮捜査は公認されていないという。本作によれば、イギリスでは公認されている。囮捜査がどのように使われているか。それが有効に使われている状況がイメージできる。

4.後半には、逮捕されたサマーズの裁判が進行する。ここでもサマーズの代理人になるのは、ブース・ワトソンである。原告・被告の両代理人が有罪とわかっていても、陪審員に対する弁証のしかたで、陪審員たちに「合理的な疑いを超えて」と形容できる評決への自信を無くさせることもできるという局面が描かれる。これもまた裁判という仕組みの興味深さと言える。
 究極の土壇場で、ウィリアムが極めつけの証拠を発見するどんでん返し!!
 これがこのストーリー展開の面白さとなる。

5.この小説、最後はウィリアムの妻・ベスが<クリスティーズ>の絵画オークションに電話入札で参加する場面とその結果で終わる。ここには、いわばブラックユーモアがあるように感じる。また、オークションがどのように進むのか、イメージできておもしろい。
 それと、この結果が、終わりではなく再度の始まりというエンディングになっている。読者に今後の展開へ期待を抱かせ、さすがにうまい。

6.邦訳のタイトルは「悪しき正義をつかまえろ」。
 ウィリアムの新任務は、J・R・サマーズ捜査巡査部長の不正を暴くことだ。だが、彼はロムフォード署においては、群を抜く逮捕記録を誇り、数多くの事件を解決して実績を積み上げている。法的な正義を実行している。それがなぜ「悪しき」を冠されることになるのか。その実態局面を巧みに表現しているところにネーミングの特徴が出ている。
 本書の原題は「TURN A BLIND EYE」。
 これって、イデオムなのかな・・・・と思い、手元の辞書を引いてみた。
 ”turn a blind eye to O ・・・・を見て見ぬふりをする”と説明されている。
 本作を読了後、この文をまとめる際にふと辞書を引いてみたのだが、この小説の内容から考えて、さすがにうまく工夫した邦訳タイトルだなと感じた。
 尚、翻訳には、サマーズの「そんな貴重な情報をどこで手に入れたんだ?」という質問に対し、ニッキーが「通りの売人からよ、見て見ぬ振りをするのと引き換えにね」という会話場面が出て来る。原文は知らないが、原文タイトルはこの会話の箇所に使われているのではないかと想像した。(p324)

 ジェフリー・アーチャーはやはり楽しませてくれる。

 ご一読ありがとうございます。


こちらもお読みいただけるとうれしです。
『まだ見ぬ敵はそこにいる ロンドン警視庁麻薬取締独立捜査班』   ハーパーBOOKS
『レンブラントをとり返せ ロンドン警視庁美術骨董捜査班』  新潮文庫
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『まだ見ぬ敵はそこにいる』 ジェフリー・アーチャー  ハーパーBOOKS

2024-05-04 17:23:54 | 海外の作家
 副題は「ロンドン警視庁麻薬取締独立捜査班」。勅撰法廷弁護士である父の反対を押し切って、ロンドン警視庁に入庁したウィリアム・ウォーウィックの警察官人生シリーズ第2弾。第1作に記述の記憶では、ウィリアムがロンドン警視庁のトップに昇り詰めるまでのシリーズになるようだ。
 第1作は「美術骨董捜査班」所属だったが、この第2作では、「麻薬取締独立捜査班」がロンドン警視庁内に新設され、ウィリアムはこの班に異動する。

 勝っているチームは解散すべきではないという警視総監の判断により、元美術骨董捜査班が、麻薬取締独立捜査班として新編成される。ブルース・ラモントが警視に昇進してこの班の班長となる。ウィリアムは巡査から巡査部長への昇任試験に合格し、捜査巡査部長に昇進。それと同時にこの新設班で新たな任務に就く。ジャッキー・ロイクロフト捜査巡査もまたこの班に異動となる。そこに、ポール・アダジャ捜査巡査が新たに加わる。アダジャは少数人種系の警察官。少数人種系というのは、minority という単語の翻訳だろう。「アダジャと握手をするラモント警視がにこりともしないことを、ウィリアムは見逃さなかった」(p15)という一行がさりげなく記されている。イギリスにおける人種問題の一端が垣間見える。ウィリアムは逆である。「アダジャのような人物がどうして警察官になろうなどと考えたのか知りたいということもあって、ウィリアムはできるだけ早く彼をチームに馴染ませてやろうと決めた」(p15)逆に彼に関心を寄せる。
 アダジャはケンブリッジ大学で法律を学び、オックスフォード大学との対抗ボートレースの代表の一人だった。警察官となり、クローリー署の地域犯罪捜査班で3年の経験を積んでいるという経歴の持ち主である。読者としても新人登場で期待が持てるではないか。

 この麻薬取締独立捜査班は、ロンドン警視庁警視長であるジャック・ホークスビーの直属下に位置づけられる。ホークスビーは、この新設の捜査班は、既存のどの薬物対策部局や麻薬取締部局とも無関係に、完全に独立した位置づけであると皆に説明する。
 麻薬取締独立捜査班の目的は、「いまだ住所も不明で、グレーター・ロンドンの川の南側に住んで仕事をしているとしかわかっていない男を特定すること」(p18)そして排除することであると言う。その男とは、ロンドンを支配する悪名高き麻薬王で、”ヴァイパー”と称されている。その正体をつかみ、逮捕することがウィリアムたちの使命になる。
 
 ウィリアムが仲間から昇進祝いをしてもらった時、パブからウィリアムを自宅まで車で送り届けるのはジャッキーの役割となる。ジャッキーがウィリアムを送り届ける途中、ジャッキーは、チューリップと称する若い黒人が麻薬を取引する現場を目撃する。ジャキーは取引相手をまず逮捕した。チューリップは逃げた。現行犯逮捕した容疑者をジャキーはロチェスター・ロウ署の留置区画へ引き連れて行く。”白い粉の包み二つ”が証拠となる。
 この容疑者、偶然にもウィリアムのプレップ・スクール時代の同級生、エイドリアン・ヒースだった。それも、学校の売店でエイドリアンがチョコレートを万引きしたことを、ウィリアムが立証したことで、退学処分となった同級生だったのだ。
 ウィリアムは、麻薬の売人エイドリアンと交渉して”ヴァイパー”に関する情報を引き出す作戦をとる。それを微かな糸口として捜査を始める。
 一方、ウィリアムはロンドン警視庁に戻るため地下鉄の駅で列車を待っているとき、向かいのプラットフォームに立っているチューリップを見かけた。気づいて逃げるチューリップをウィリアムは追跡し、身柄を拘束する。チューリップが利用したタクシーの運転手から、彼が告げた行き先がバタシーの<スリー・フェザーズ>というパブだと聞き出す。これがもう一つの手がかりとなる。このパブの監視をホークスビーは囮捜査官に委託する。麻薬取締独立捜査班に囮捜査官が加わることになる。

 このストーリーの興味深いところは、僅かな情報を糸口にして、緻密な監視活動と追跡捜査を累積し、"ヴァイパー”を特定する捜査を行っていくというプロセスの描写にある。
 そして、ロンドン市内に存在するドラッグ工場の探索、現場への立入捜査の大作戦と逮捕へと進展していく。このプロセスが読者を惹きつけ、その描写の迫力が読ませどころになる。
 
 この第2作は、ストーリーの全体構成におもしろい点がある。
 メイン・ストーリーは、上記の麻薬王”ヴァイパー”の特定捜査と逮捕である。これと並行して、パラレルに進むストーリーが組み合わされている。それは第1作で逮捕された美術品の窃盗詐欺師、マイルズ・フォークナーに関する裁判である。裁判が進展して行く経緯が描き出されて行く。ひとつは、マイルズの妻、クリスティーナがマイルズに対して離婚訴訟を起こしている。クリスティーナの弁護士を引き受けているのが、ウィリアムの父、サー・ジュリアン・ウォーイックである。
 さらに、サー・ジュリアンは、マイルズの逮捕事案に対して、検察側の勅撰弁護士となり代理人を引き受けた。こちらの裁判には、ウィリアムの姉、グレイスが補佐として加わる。グレイスが活躍することに・・・・。まずは、マイルズの保釈申請事案、そして逮捕事実に対する裁判が進展していく。マイルズの弁護士、ブース・ワトソンとの裁判での対決、裁判の経緯描写が読ませどころとなる。
 裁判のシステムが日本と異なる点に気づき、知ることも興味深い。

 もう一つ、スポットとしてストーリーに織り込まれていくのが、ウィリアムとベスの結婚式と新婚旅行の様子である。結婚式で思わぬハプニングが発生するところがまずおもしろい。ウィリアムの結婚という人生の転換点が描き込まれ、ベスが出産するハッピーなエンディングとなる。双子の誕生!! これが第2作のストーリーを彩る一つの要素になる。
 他方、このストーリーの本流に関連して、仕組まれたアンハッピーな事態が新たに発生する。その一つの事件報道がこのストーリーを締めくくる文となる。
 第2作で麻薬取締独立捜査班の使命は達成される。だが一方で、形を変えて事件が生まれ、捜査が継続することになる。
 やはり、著者はストーリーテラーである。

 ご一読ありがとうございます。

補遺
グレーター・ロンドン   :ウィキペディア
イギリスの刑事裁判(独立性がある裁判官と検察官) :「西天満綜合法律事務所」
法廷弁護士  :ウィキペディア
英国法廷衣装こぼれ話  :「駒澤綜合法律事務所」

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『レンブラントをとり返せ ロンドン警視庁美術骨董捜査班』ジェフリー・アーチャー 新潮文庫
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『レンブラントをとり返せ ロンドン警視庁美術骨董捜査班』ジェフリー・アーチャー 新潮文庫

2024-03-05 16:14:40 | 海外の作家
 『レンブラントをとり返せ』という翻訳書の題名に目が留まった。手に取ると、「ロンドン警視庁美術骨董捜査班」と続く。この題名に惹かれて買って、しばらくそのままになっていた。
 本書の原題は至ってシンプル。NOTHING VENTURED である。辞書を引いてみてわかった。Nothing ventured, nothing gained. と例文が載っていた。<ことわざ>の前半がタイトルになっているようだ。「危険を冒さないと何も得られない」。その続きに「虎穴に入らずんば虎児を得ず」と説明されている。「虎穴に入らずんば」と提示されると、どんなリスクを負いながらどんな貴重なものを手に入れようと狙っているのか・・・・とつい想像を広げたくなる。そんなネーミングなのかもしれない。
 
 文庫の奥書を見ると、原書の著作権表示は2019年。文庫の刊行は、令和2年(2020)12月。手許の文庫本は令和4年2月、4刷である。

 この小説を読了して、改めて本書とそれに関連した全体の構図、本書のポジショニングを改めて明瞭に理解することになった。そこから始めよう。

 まず最初にこの小説に限定した全体の構成について。
 翻訳のタイトルにある通り、本書は、ロンドンにあるフィッツモリーン美術館からレンブラントの傑作、「アムステルダムの織物商組合の見本調査官たち」が7年前に盗難に遭っていて、その捜査と奪還をテーマにしている。ロンドン警視庁の美術骨董品捜査班に配属された新米捜査員ウィリアム・ウォーウィック(以下、ウィリアムと呼ぶ)が盗難作品の追跡捜査で活躍する美術ミステリーである。それがメイン・ストーリーになることに間違いはない。しかし、その美術ミステリーは、いわば本書の構成の中では、コインの一側面に位置付けられている。
 この追跡捜査の過程で、ウィリアムはフィッツモリーン美術館の調査助手、ベス・レインズフォードと知り合い、彼女に惹きつけられて恋に陥る。ベスとの結婚を考えるに至るのだが、ベスは家族のことを殆ど語らなかった。だが、その家族の秘密について、ある時点でウィリアムが気づく。それはいわば大きな障壁にもなりかねない問題だった。その課題に対するチャレンジが、コインのもう一つの側面として浮上していく。
 この小説の中盤から、2つのパラレル・ストーリーが展開していくという構成になっていく。それ故に、このストーリーはウィリアムの仕事としての「レンブラントをとり返せ」とウィリアムの恋の成就物語への重要な障壁突破の二側面が進展していく。翻訳書のタイトルはその一側面を少し強調しているとも言える。
 原題の NOTHING VENTURED は、確実に二側面をカバーしたタイトルだと思う。
 
 ここで、本書の最初に戻らねばならない。内表紙の後に、「親愛なる読者諸氏に」という著者からのメッセージが収録されている。
 文庫本を買い揃えながら、未読で書架に眠っている「クリフトン年代記」シリーズのことが冒頭に出てくる。この小説シリーズの主人公ハリー・クリフトンはベストセラー作家となることで、「クリフトン年代記」が最終巻を迎えるようである。ハリー・クリフトンをベストセラー作家に押し上げた連作小説の主人公がウィリアム・ウォーイックだという。読者から、「ウィリアム・ウォーイックについてもっと知りたいとの手紙を頂戴しました」と記す。そして、熟慮の末、この執筆に取りかかったのだという設定になっている。
 さらに、著者は最初からこの執筆がシリーズになる構図を設定しているのだ。
 「彼が平巡査から警視総監へ昇り詰める過程を共に歩んでもらうことになるはずです」と。つまり、本書はその第1巻。連作小説がここに始まった!!
 また、この文の前に、本書について著者自身が触れている。「この作品はウィリアムが大学を卒業し、自分の法律事務所の見習い弁護士になればいいではないかとうろたえる父親を説得して、ロンドン警視庁に奉職するところから始まります」と。

 つまり、ジェエフリー・アーチャーが、ベストセラー作家となったハリー・クリフトンの立場になって、ウィリアム・ウォーイックの連作小説を発表し始めるという構図が基盤に設定されている。
 そして、本書がその第1巻であり、「第1巻である本書では、彼(=ウィリアム:付記)の人生をたどりながら、併せて登場人物を紹介していことになります」と記す。この第1巻は、ウィリアムがロンドン警視庁に奉職して、レンブラントの作品奪還に成功するまでの第1ステージの時代が描き出される。
 このメッセージ文の次のページに、「これは警察の物語ではない、これは警察官の物語である」と付記されている。つまり、ウィリアムの物語ということになる。

 第1巻の時代をイメージしやすいように、少し周辺情報をご紹介しておこう。
 このストーリーは、1979年7月14日から始まる。この日に、ウィリアムは父親に己の人生の進路選択を告げる。
 ウィリアムは、8歳の時に探偵になりたいと思った。ロンドン大学キングズ・カレッジに進学し、美術史を学んだ。1982年9月5日、ヘンドン警察学校に入学。警察学校を卒業後、大卒者として首都警察の一員になる。だが、ウィリアムは、大卒は昇進が早くなるという有利な条件を行使しないという選択をする。警察官人生を普通の新人と同じ条件でスタートさせる。ランベス署に見習いとして配属され、平巡査からのスタートだなのだ。フレッド・イェーツ巡査がウィリアムの教育係として、彼の面倒を見てくれた。ウィリアムはフレッドから、警察官としての貴重な助言を数多く学んでいく。そのイェーツ巡査が悲劇に遭遇することに・・・・・。

 ウィリアムは1年後に刑事昇進試験を受け、合格する。ジャック・ホークスビー警視長からの呼び出しを受けて首都警察本部ビルに行く。本部ビル6階にあるホークスビー警視長のオフィスに行く途中、あるドアが薄く開いていたのでその奥の壁に立てかけてある絵に目が留まり、それをウィリアムは眺めていた。それで室内の人物から声を掛けらることになる。思わず、ウィリアムはその絵が贋作だと指摘した。それがウィリアムのその後の警察官人生を変える。美術骨董捜査班に捜査巡査として異動を命じられることになる。ここから具体的な追跡捜査の仕事が始まり、担当者として第一線で行動していくことになる。それが、フィッツモリーン美術館の調査助手、ベス・レインズフォードと出会うきっかけにもなっていく。本作の実質的な始まりである。

 美術骨董捜査班はレンブラントの盗難作品の件以外にも様々な案件を抱えている。それらの案件についての捜査活動に、勿論ウィリアムも関わっていく。そこでそれらの捜査がサブ・ストーリーとして織り込まれ、絡み合いながら状況が進展していく。さらにウィリアムとベスの恋の進展と障壁のストーリーがパラレルに進展していく形になる。この恋と障壁の側面は、言わぬが花ということで、このストーリーをお読み願いたい。

 ウィリアムの父、サー・ジュリアン・ウォーイックは、一流で辣腕の勅選法廷弁護士である。父としては、ウィリアムに弁護士への道を歩んで欲しかったのだが、息子の選択を認め、見守る立場になる。
 姉のグレイス・ウォーイックは進歩的な女性弁護士となっている。
 父と姉は、あることが契機で、ウィリアムが抱える重要な問題に関与していく立場になる。
 ブルース・ラモント警部を筆頭とする美術骨董捜査班は、レンブラントの作品が、マイルズ・フォークナーという美術品の大物窃盗詐欺師の一味の仕業と目星をつけてはいるのだが、その尻尾をつかめず、盗まれた作品の所在を全くつかめないのだ。本物を回収できたと喜びかけていたのを、ウィリアムに贋作と一蹴されてしまったわけである。その代わり、思わぬきっかけでウィリアムを美術骨董捜査班にスカウトした。彼は強力な戦力になる。

 ウィリアムの警察官人生の第一ステージを、本書で多いに楽しめる。著者はメイン・ストーリーに幾つものサブ・ストーリーを巧みに織り込み、ウィリアムの警察官人生の第一ステージを描いていく。やはり、著者はストーリー・テラーとして卓越していると思う。
 読み終えて、ネット検索してみたら、現時点で第4作まで出版されていることを知った。読み継ぎたい目標がまた一つ増えた。

 ご一読ありがとうございます。


補遺
布地商組合の見本調査官たち   :ウィキペディア 
アムステルダムの織物商組合の見本調査官たち 1661年  :「Salvastyle.com」
ロンドン警視庁の組織と機構   :ウィキペディア
イギリスの警察階級  :「Soifia and Freya @goo」
[美術解説]100万ドル以上の高額窃盗美術作品:「Artpedia(世界の近現代美術百科事典)」
「モナリザ」や「叫び」も被害に 過去の美術品盗難事件 :「AFP BB News」
20年間で数十億円相当を盗んだアート窃盗団が罪を認める。1人は逃走中:「ARTnews JAPAN」
盗まれた世界の名画 フェルメール「合奏」  :「IMS」

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『その裁きは死』 アンソニー・ホロヴィッツ  創元推理文庫

2023-01-11 18:14:16 | 海外の作家
 久しぶりに海外の作家の翻訳推理小説を読んだ。この本のことは bookook さんのブログ記事で知った。ブログを書き始める前は、J・グリシャムの小説をはじめかなり翻訳推理小説を読んでいた。特に法廷物に関心を抱いていた。その分野の翻訳小説がその後書棚に数多く眠ったままになっている。
 この本、そのタイトルから法廷物の推理小説かと勝手に思いこんでいた。読み始めて気づいた。元刑事の探偵がいわば警察の下請け的に殺人事件の捜査を行い、事件を解決に導くという探偵推理小説である。元刑事でも探偵なので捜査という用語が適切でないのかもしれないが、ここでは捜査という語で語ろう。

 主人公はダニエル・ホーソーン。「もともとはロンドン警視庁に勤務していたのだが、児童ポルノ売買の容疑者がコンクリート製の階段から転落するという事故の後、職を辞することになった。事故のとき、容疑者のすぐ後ろに立っていたから」(p26)ということで、失職した元刑事の探偵。だが、泥沼事件のたぐいには警察がホーソーンに協力を要請するという関係が維持されている。
 この小説の特徴は、ここに「わたし」が加わることにある。「わたし」とは本書の著者アンソニー・ホロヴィッツ自身。この点がおもしろい。ストーリーの中では、テレビドラマの脚本家としての仕事も手がけている。ホーソーンの捜査に「わたし」が同行し、その「わたし」の視点からホーソーン自身についてと事件捜査の経緯を叙述していくというスタイルになっている。

 なぜ同行するのか。この小説、実は第2作で、『メインテーマは殺人』というのが第1作。その中に二人の関わった経緯が具体的に記されているという。いずれ第1作も読んでみようと思っている。
 ホーソーンが捜査して解決する事件を本にまとめるということに合意し、出版元と三冊まとめての契約をしてしまったことに、同行する理由がある。
 この小説のおもしろいところは、殺人事件の捜査とその解決についての本を出版するためにホーソーンに同行するプロセス自体を叙述している点にある。いわば、事件を本にまとめるための最終原稿を書く前段階、事件の捜査状況そのものを記録していくことがストーリーになっている。私にはそのように読めた。つまり、その叙述自体がこの『その裁きは死』という作品に仕上がっているという構造なのだ。なんとも奇妙でかつおもしろい構成である。こういうスタイルの推理小説は初めて読む気がする。

 さて、このストーリーについて語ろう。
 北ロンドンのハムステッドで殺人事件が発生した。被害者はリチャード・プライス。離婚裁判の分野では著名な離婚弁護士。殺人現場は<サギの泳跡>と称されるリチャードの自宅の書斎。犯人は、1982年ものワインの未開栓ボトルでリチャードの前頭部から額にかけて殴打し、砕けたボトルの首で被害者の喉を刺突して殺害した。本棚にはさまれた壁には、182という三つの数字が緑煙色のペンキで乱暴に描かれていた。だが、リチャードは禁酒主義者だった。
 現場を検分したホーソーンの捜査はここから始まっていく。わたしはホーソーンに同行し、自らも犯人について推理をしつつ、ホーソーンの捜査プロセスの記録者となっていく。
 事件現場には、この事件を担当するカーラ・グランショー警部が居た。グランショー警部はこの事件を解決するのは自分自身だと宣言し、ホーソーンの動きを逐一報告するようにわたしに圧力をかける行動に出る。このストーリーの中では、ちょっと三枚目的な役割で花を咲かせる役回りである。

 リチャード・プライスは同性婚しており、連れ合いのスティーヴン・スペンサーは殺人事件の起こった夜は、別荘に居たという。
 リチャードはエイドリアン・ロックウッドの依頼で離婚訴訟の代理人として離婚訴訟に臨み、エイドリアンの妻アキラ・アンノには厳しい裁定を勝ち取っていた。凶器に使われたワイン・ボトルはロックウッドからの贈り物だった。
 アキラ・アンノがある場所で、リチャードをワインのボトルで殴ると脅しているという話が事件発生前に伝わっていた。

 もう一つこのストーりーの特徴がある。ホーソーンがわたしを同行させるが、その捜査過程で、ホーソーンは自分自身の捜査の推理を一切わたしには明かさないという展開になる点だ。わたしは同行時のホーソーンの捜査行動について、捜査場所、聞き込み相手への質問と会話、ホーソーンとわたしとの間の会話などを語っていく。それらの情報集積から、わたしはわたしとしての推理を展開していく。

 たとえば、ホーソーンはリチャード・プライスの人間関係や過去暦を捜査する。リチャードは洞窟探検を趣味としていて、<長路洞>と称される洞窟探検を3人のパーティで行い、一人が死亡するという経験をしていた。その未亡人、ダヴィーナ・リチャードソンに聞き込みに行く。夫の死後、リチャードソンがダヴィーナと息子コリンの面倒を見てくれてきた事実を知る。また、もう一人が、長路洞のあるヨークシャーに住むグレゴリー・テイラーだとわかる。後に、そのグレゴリー・テイラーは、リチャードの殺害される前日、キングス・クロス駅で轢死していたことが報道されていた事実もわかる。
 わたしとホーソーンがダヴィーナの自宅を再訪した時、ダヴィーナがアキラ・アンノの労作の俳句本を読んでいた。わたしは、伏せられた本のページをついめくり、その先頭に「君が息 耳にぞ告ぐる 裁きは死」という句に目を留める。その句は第182句だった。(p233)

 ホーソーンの捜査活動から、様々な断片的情報が次々に累積されていく。そこからリチャードソンの過去が明らかになっていくにつれ、人間関係の複雑な交錯が一層事件の謎解きを混迷させていく。
 わたしの視点と推理から眺めると、一見、事実が解明されたように見える。だが、そうではなかった。二転三転する推理の組み直し・・・・・そこにこの作品の巧みさが現れている。一つの事実にどのような意味づけができ、解釈ができるか。それが推論を誤らせることにもなる。
 ホーソーンは最後の最後まで、己の推理内容を明らかにしない。一方、わたしはどんでん返しの矢面に直面することになる。この二人の組み合わせが実に楽しめる。

 本書のタイトルは、第182句「君が息 耳にぞ告ぐる 裁きは死」の下五に由来するのだろう。「182」という三つの数字が何を意味するか。読んでお楽しみ、というところに突き進んで行く。

 ホーソーンとわたし、という二人三脚は、シャーロック・ホームズとワトソン博士の組み合わせを連想させる。「読書会」という章で、コナン・ドイルの『緋色の研究』を題材に扱った場面を組み込んでいるところもおもしろい。

 ホーソーンという人物像をわたしがつかみきれていないということをあちらこちらで触れていること自体がストーリーの一部になっているというなんとも奇妙なところがなんともおもしろい。第3作が書かれるとしたら、ホーソーンの人物像がクリアになるのだろうか。著者はどのように描き出していくのか。別の意味での楽しみができた。

 ご一読ありがとうございます。
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