遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『あなたが誰かを殺した』     東野圭吾    講談社

2024-08-31 18:36:52 | 東野圭吾
 加賀恭一郎シリーズ第12弾となる。これが何冊目かと調べていて、前作『希望の糸』(2019年刊)を見過ごしていることに気づいた。このシリーズ、愛読シリーズの一つなのだけど・・・・。逆にいえば、読む楽しみが増えたことになる。
 さて、本書は、書下ろしとして、2023年9月に単行本が刊行された。

 本作、第10弾までの作品と比較すると、刑事加賀恭一郎の活動としては異色なストーリー。連続殺人事件の犯人は事件発生の一週間後に送検された。この他県で発生した事件には無関係の加賀が事件の真相解明に巻き込まれていく。そこからまずこのストーリーは異例である。他県での殺人事件の真相解明に加賀が取り組んでいくのはなぜか?

 事件の犯人は送検されてしまっていたのだが、犯行の全容が解明できたという明言を警察は避けている状況だった。そこで、被害者たちの遺族の一人、高塚俊策が発起人となり、遺族たちが集合し事件の「検証会」を開きたいという提案をした。遺族と関係者はその検証会実施を受け入れた。検証会には同行者2名を認めるという形だった。
 この事件で夫・鷲尾英輔を亡くした春那は、職場の先輩金森登紀子に相談を持ち掛けた。登紀子より加賀の紹介を受け、加賀と金森が同行者になる。金森が看取った患者の息子が加賀であり、その縁で個人的な相談にも乗ったことがあるという関係だった。金森が直前に家庭の事情で同行をキャンセルした。そこで加賀一人が春那に同行し、検証会に出席する。勿論、加賀はこの連続殺人事件について、マスコミ報道等で公表されている情報を一通り情報収集し調べていた。

 なぜ、加賀が自由に行動できたのか。それは、ある一定の勤務年数を経た者は1ヵ月間の休暇を取らなければならないという制度の対象者に該当し、長期休暇中だったのである。暇ですることがないというメッセージを金森は受け取っていたのだ。巧みな背景設定がなされている。すんなりと状況に入り込んでいける。

 このストーリーの冒頭には、ある別荘地で近隣の4家が恒例のバーベキュー・パーティーを開催する日の状況とその夜に連続殺人事件が発生する状況が描かれる。そして、高崎の発案による「検証会」実施へと進展する。
 この検証会で、警視庁の現役刑事である加賀は、全員からこの会合の司会者兼とりまとめの役目を任される。つまり、当日の事件発生の状況・経緯の検証を加賀の司会のもとに、参加した遺族と関係者たちが、己の記憶をもとに、何が起こっていたのかの事実と認識を語り、己の意見も明らかにしていく。全員で事件の経緯の検証作業が始まる。
 加賀はいわば検証のためのコーディネーターを担当し、己自身が刑事としての立場から情報の再整理をしつつ、内心で犯人の割り出しを遂行していく。遺族・関係者に質問をし、事件の経緯を整理しつつ、情報の欠落部分を明らかにし、真相に迫っていく。
 この検証会には、この事件を担当し犯人を送検した県警の榊刑事課長がオブザーバーとして参加する。彼は、捜査資料そのものは見せられないが、質問がある場合、必要に応じて捜査結果の情報を提供する役割を果たすことになる。それは、事件の事実経緯を鮮明にしていく一助となる。加賀にとっても、それは検証会での司会による情報の聞き出しと整理に加え、捜査情報を具体的に知り、己の推論の裏付けを明確にしていくことになる。加賀の力量を判断した榊刑事課長は加賀との連携を円滑に進めていく。
 「鶴屋ホテル」の時間的制約のある会議室で、話し合いを一通り終えると、食事会をした後、一旦解散となり、翌日、別荘地の現地検証が実施されていく。
 そして、バーベキュー・パーティーが行われた山之内家の庭で、事件についての総括が始まる。
 
 この検証会に参加する前に、春那は「あなたが誰かを殺した」という一行のメッセージを記しただけで発信者名なしの手紙を受け取っていた。この検証会で同種の手紙が遺族・関係者にも送信されていたことを知った。誰がこの手紙を送信したのか。
 本書のタイトルは、このメッセージに由来する。

 バーベキュー・パーティーの参加者と殺人事件の被害者(●)を一覧にする。負傷者には(△)を付した。

山之内家 山之内静枝   鷲尾春那    鷲尾英輔(●)
栗原家  栗原正則(●)  栗原由美子(●) 栗原朋香
櫻木家  櫻木洋一(●)  櫻木千鶴    櫻木理恵   的場雅也(△)
高塚家  高塚俊策    高塚桂子(●)  小坂均    小坂七海   小坂海斗

 多少付記すると、山之内静枝は春那の叔母で、夫の死後この別荘地を住居とする。春那たちは新婚のカップルだった。栗原朋香は寄宿舎生活をする中学生。櫻木理恵は的場雅也と婚約関係にあった。小坂一家は高塚の経営する会社の出戻り従業員。
 検証会に、栗原朋香は、久納真穂と称し寄宿舎の指導員という同行者と参加した。つまり、検証会の同行者は、加賀と久納の二人だけである。
 検証会は、上記一覧の遺族・関係者並びに、加賀、久納と榊刑事課長の参加で進行する。

 連続殺人事件が発生した翌日の夜、鶴屋ホテルのダイニングルームを訪れた男性客は、25,000円の『鶴屋スペシャルメニュー』を注文し、白ワイン『モンラッシェ』を水のごとくに飲み、20万円はくだらないはずの『シャトー・マルゴー』をこれまた胃袋に流し込むようにして飲んだ。食事を終えて、責任者を呼び、警察に連絡してくれと言った。証拠だと言い、皿の上に載せた血のついたナイフを見せて・・・・。
 男の名は桧川大志、東京在住、無職、28歳。別荘地で起きた殺人事件の犯人は自分だと供述。生きている意味を感じないので死刑になりたいという願望を持っていたことと、自分を蔑ろにした家族への復讐が犯行に至る動機であると言う。彼は殺す相手は誰でもよかった、とにかく目についた人間を刺し殺そうと思い実行したと語るだけだった。桧川の示したナイフには、栗原正則と由美子の血が検出された。
 ストーリーの導入部で、殺人事件の犯人が最初に名乗りを上げて出てくるパターンでこのミステリーが始まる。このパターン自体は一つの類型である。

 なぜ桧川はこの別荘地で事件を起こしたのか。供述通りの単独犯なのか。それとも。どこかで、この別荘地の所有者との共犯なのか。現場の遺留品捜索にも関わらず、犯行に関わるナイフという証拠物件で発見できないものがあるのはなぜか・・・・。
 多くの謎が残されたままで、検証会が始まっていく。

 別荘所有者族の優雅な生活。優雅にお互いを尊重する社交が華やかに繰り広げられていくが、その裏面では互いに嫉みあい、批判的な観察と中傷を繰り広げているネガティブな側面、また、計算づくでの付き合いという側面が、検証会の場を通じて徐々に明らかになっていく。さらに、それぞれの家の内部事情が暴露されていくことで、それぞれの人間関係の明暗両面が見え始めていく。だが、そこに真相を解明するヒントが含まれていた。様々なお互いの欲望が背景で蠢いていたのだ。

 加賀は、今まで見えなかった側面が少しずつ表に現れていくように司会を進めていく。事件の経緯事実を再確認し、事実の整合性を見つけ出すことを参加者たちと共有しながら、検証を深めていく。ミッシング・リンクに気づき、それを見つけ出し、事実の間隙を埋めていく緻密な作業が、検証会で進行する。加賀にとっては、情報を整理し、同じ土俵の上で、尋ねることが唯一の武器なのだ。

 そこに思わぬ事実が明らかになってくる。読者にとってはどんでん返しの連続といえようか。エンディングが極め付きのどんでん返しとなる。加賀の心境や如何と推測したくなる。記されてはいないが、加賀の心境はやるせないのではなかろうか・・・・・。

 刑事加賀恭一郎の活躍の新たな局面を楽しめる作品になっている。既存の警察小説の捜査の定石的描写の累積によるストーリー構築とは一味異なり、一歩踏み超えた次元での捜査事実の再解釈、再統合という展開がおもしろい。これもまた警察小説の範疇だろう。
 本作もやはり一気読みしてしまった。
 ご一読ありがとうございます。


こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『さいえんす?』   角川文庫
『虚ろな十字架』   光文社
『マスカレード・ゲーム』    集英社
「遊心逍遙記」に掲載した<東野圭吾>作品の読後印象記一覧 最終版
                    2022年12月現在 35冊

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『対決』 月村了衛  光文社

2024-08-29 22:36:13 | 諸作家作品
 東京地検特捜部は、裏口入学に関わる贈賄容疑で統和医科大学の強制捜査を行った。関係書類を根こそぎ押収していったのだが、その中に入試関連の書類がすべて押収されてしまっていた。その書類は、裏口入学問題よりも大学の存続を脅かしかねない資料だった。日邦新聞社社会部の檜葉菊乃記者は、裏口入学関連のネタをつまもうと聞き込み活動をしている時に、初老のドイツ語講師瀬島からその書類のことを聞きこんだ。統和医科大学は入試において、女子学生をできるだけ合格させないようにするために女子の点数を一律減点している。2010年頃には既にそれが常態化していたという。
 もしそれが事実ならば、裏口入学問題よりもはるかに衝撃的な女性差別問題である。檜葉は大スクープの端緒をつかんだ高揚感とこのネタをものにしたい意欲を感じる。
 「Ⅰ 端緒」を読み始めて、かつて複数の医科大学で行われていた不正入試問題が大きく報道されていた事実を思い出した。

 本作は、過去の不正入試問題を踏まえて、入試における女子の点数の一律減点という不正に焦点をあて、そこに潜む女性差別というテーマを取り上げたフィクション作品である。奥書を読むと、「ジャーロ」88号(2023年5月号)~91号(2023年11月号)に連載されたのち、2024年4月に単行本が刊行された。

 本作の興味深いところは、東京地検特捜部が裏口入学事件で強制捜査に入り、偶然にも押収した書類の中に入っていた入試関連の書類について、東京地検特捜部は沈黙し問題事象立件しようとする動きが全くないところである。具体的な証拠が東京地検特捜部に押さえられた状況下で、檜葉菊乃がつかんだネタに関して、客観的な証拠、証言が得られれば大スクープとなりうる。このストーリーは、檜葉の進言から始まり、日邦新聞社がこの問題にどのように取り組んでいくか、その渦中で檜葉はどのような行動をとるか、そのプロセスを描きあげていく。
 他社が気づかぬうちに、いかに速やかにウラを取り、動かぬ証拠を押さえたうえで記事にできるかが勝負となる。

 檜葉は社会部の中で、司法担当に属し、その中でも検察官担当(P担当)の一人として、裁判所合同庁舎二階にある司法記者クラブ内にある日邦新聞社のブースを拠点にしていた。直属の上司はP担キャップの相模である。P担はキャップを入れて5人。43歳の檜葉はキャップに次ぐチームリーダーである。後の3人は男性記者。
 檜葉はつかんだネタをキャップの相模に報告する。本格的な取材活動を推進するには、社会部の東海林部長の承認を得ることが必要になる。そのためにはこのネタの信ぴょう性の確度をつかまなければならない。特捜部に押収された書類に書類が本当に存在するのか。檜葉はまずこの事実への裏取りに腐心することになる。その先で、日邦新聞社内でウラ取りのための取材体制構築がまず始まっていく。
 スクープをものにするために、新聞記者がどのような行動をとるか。そのための組織体制がどのように形成され動きだすか。そのあたりが実にリアルに描き出されていく。

 
 本作は、スクープをものにするための全体の動きを背景に描きつつ、檜葉菊乃の取材活動に焦点を当てる形で進展させていく。本書のタイトルは『対決』である。これは、統和医科大学理事、神林晴海、45歳という女性の理事から女子の点数を一律減点しているという入試不正問題への証言を試みる取材活動プロセスを描き出すことに由来する。
 神林晴海は事務方の出身で理事に抜擢された女性として、大学の理事会では稀有な存在だった。主流派の一人で、かつ複数いる入試担当理事の一人なのだ。神林から証言を得られれば、特捜部に書類が押さえられている中で、確実な証拠となる。檜葉は神林に取材を試みる。その両者の迫真せまる応答の攻防、心理の裏読みが始まっていく。二人の女性の人格的攻防戦にすら進展する。このストーリーでは、その対決が「Ⅱ 第一の対立」「Ⅲ 第二の対立」「Ⅳ 最後の対立」と3回にわたって積み上げられることになる。

 本作の読ませどころと私が思う諸点を列挙してみる。
1. 過去実際に発生した入試における女子の点数の一律減点という不正問題。この事実を題材に、正面からこの女性差別問題を取り上げていること。
 大学側でこの不正行為が慣例化して行った背景が明らかになる。2004年に新研修医制度が制定されたことで、医療現場が変貌したという。医療分野の舞台裏の側面が描きこまれている。それは「政府も厚労省も医療現場の実態を知らなさする」(p94)という一理事の発言に繋がっている。
 さらに、背景に様々な視点、要素が絡み合っていることが明らかにされていく。

2. 入試における女子の点数の一律減点という不正問題で、女性への差別という事実を追う新聞社の記者たちの側にも、パワハラ、セクハラなどがリアルに発生している実態。日常化されたハラスメントの具体例が、檜葉のこれまでの体験あるいは観察として描きこまれる。ハラスメントについての意識の変化を扱いながら、一方で現在の組織構造に内在化してしまっている無意識的なハラスメント行動の現象も織り込まれていく。ハラスメントについての認識と行動のギャップ。実に厄介な問題事象といえる。

3. 一方、大学というアカデミズムの組織の中で発生してきたハラスメント事象もまた、神林晴海の体験あるいは観察として、同様に描きこまれていく。さらには、統和医科大学の一女子学生が受けているハラスメント事例が俎上に上ってくる。上林は理事として、敢然とこの事例に取り組んでいく。

4. 檜葉菊乃はシングルマザーとして、新聞記者生活を続けながら、娘の麻衣子を育てている。麻衣子は医者になることを目標に受験勉強に邁進しているという状況にあった。入試における女子の点数の一律減点という不正問題、女性差別問題は、檜葉菊乃にとって、切実な問題事象でもあるという側面が本作に織り込まれている。
 偏差値が向上しない麻衣子は、ある女性医学者の本を読んだ感動から、統和医科大学を受験したい気持を母に話す・・・・・。

 神林晴美の思考の一環として、「Ⅱ 第一の対決」にかつての医局制度と新研修医制度の比較と功罪が記述されている。p93~94 と p100~102 の箇所である。医学界、医療分野の仕組みの一つとして、関係者には常識の範囲なのだろうが、部外者の私には初めて知る側面だった。医療システムを考える上で、重要な要素だ認識した。現在の研修医制度は大都会と地方という国全域で見たときうまく機能しているのだろうか。

 印象に残る記述をいくつか取り上げておきたい。この小説の底流に意識の一端が表出されている。
*人間どこまで行っても差別はあるんだよ。でもそれを受け入れるのと、なんとかしようとするのは別だ。   p153
*男性と男性優位の社会が作ってきた制度そのものを見つめ直す。そうした発想が今後はもっともっと必要とされてくるだろう。 p245
*監視を怠ってはならない。不正や腐敗は、国民が一瞬でも目を逸らすと、素知らぬ顔であらゆるものに忍び入る。ことに女性差別は厄介だ。   p311

 スクープ報道として発表にこぎつけようとした取材活動は意表をつくエンディングとなる。日邦新聞社もまた一私企業、利益集団なのだ。このエンディングは最適解なのか・・・・、それとも妥協なのか・・・・。おもしろい終わり方だなという印象が残った。
 問題意識を喚起させる小説である。一気に読んでしまった。

 ご一読ありがとうございます。

補遺
2018年に発覚した医学部不正入試問題     :ウィキペディア
医学部入試における女性差別対策弁護団  ホームページ
「浪人年数での不合格判定は違法」医学部不正入試、順天堂大に180万円の賠償命令 初の司法判断   :「東京新聞」
女性差別の不正入試、東京理科大に賠償命じる判決 東京地裁 :「朝日新聞DIGITAL」
女性受験生への差別「人生変わった」 東京医科大学不正入試めぐる訴訟、9日に判決 原告「今も重い負担」  :「東京新聞 TOKYO Web」
「なぜ私が不合格になったのか」‐医学部不正入試、被害女性の苦悩と戦い :「YAHOO!ニュース JAPAN」
医学部の不正入試問題、聖マリアンナ医科大に280万円賠償命令…「女性を差別し違法性は顕著」  :「讀賣新聞オンライン」
医学部入学者、女性が4割占める~求められる「人生を自分で決める力」~ 不正入試から5年    :「時事メディカル」
医師法 令和6年4月1日 施行 
良質かつ適切な医療を効率的に提供する体制の確保を推進するための医療法等の一部を改正する法律(令和三年法律第四十九号)
   :「e-GOV」
医師臨床研修制度とは?  :「日本病院ライブラリー協会」 
研修医制度をわかりやすく解説! 専門医になるまで何年かかる? :「ドクスタ」
研修医とは? 医学生との違いや研修制度の概要・修了条件など[基本事項まとめ]
                            :「ドクタービジョン」
 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

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『可燃物』   米澤穂信   文藝春秋

2024-08-26 16:52:04 | 諸作家作品
 ミステリー作家についての一文を読んでいたとき、この作家の名前を知った。そこで関心を抱き、たまたま新聞広告で目にとまった本書をまず読んでみた。検索してネット情報で記事の見出しだけを見ると、著者の作品群の中では、初の警察ミステリーとか。 
 本書は短編5本の連作集であり、「オール讀物」(2020年7月号~2023年7月号)に掲載されたのち、2023年7月に単行本が刊行された。
 警察小説は数人の愛読作家の作品を読み継いでいるので、親近感もあり、それぞれの作家の作風の違いを感じながら、一気に読み進めることとなった。

 今までの警察小説の読書遍歴で言えば、警視庁の刑事たちを主軸とする小説が大半だったので、群馬県警を主軸にする点で舞台ががらりと変わり新鮮であった。いままで相対的に長編物を読んできているので、短編連作というところも、気分転換となり、おもしろかった。
 事件が発生し、初動捜査の後、分担された捜査活動で事実証拠や聞き込み情報が端的に集積されていく。短編ゆえに、そこから事件解決への推理を突き進めるというメインストリームがズバリと描きこまれていく。まさに推理プロセスそのものに焦点が当たっていく。論理的な推理の醍醐味そのものを味わえる作品群になっている。

 主な登場人物は、群馬県警察本部の刑事部捜査第一課の葛(カツラ)警部と葛班の刑事たち。葛の上司として、小田指導官、刑事部捜査第一課長、新戸部(ニトベ)四郎が要所要所で登場する。「指導官」という職位は、警視庁物での「管理官」に相当する機能と理解した。

 この短編連作集でおもしろいところは、まずそれぞれのキャラクターがかなり明瞭な特徴がを持つことである。著者によるキャラクター描写をご紹介しよう。
 葛警部に小田指導官が直に語る葛評がある。「俺も上も、葛班の検挙率には一目置いている。だが、葛班はあまりにも、お前のワンマンチームじゃないかと疑ってもいる。お前の捜査手法は独特だ。どこまでもスタンダードに情報を集めながら、最後の一歩を一人で飛び越える。その手法はおそらく、学んで学び取れるものじゃない。お前も永遠に県警本部の班長ではいられん。下が力をつけてこなければ、県警の捜査力は落ちる」(p200) 勿論、小田には「自分は自分で育てるものだ」(p201) という考えが根底にあって、語っている。
 読者としての醍醐味は、葛班の刑事たちが集めてきた情報が、葛の頭脳を通して整理される。そのプロセスが描写され、事実証拠がすべて開示されていく。そのプロセスで葛の事件解決への推理が紆余曲折を経ながら進展していく。読者はそのメインストリームを追体験する。その先に「最後の一歩を一人で飛び越える」という局面が来る。それが短編の読ませどころへと止揚していく。まさに、正 ⇒ 反 ⇒ 合 の展開であり、事実証拠から導き出された結論は、読者にとって意外性を感じさせ、飛び越えたものに帰着する。
 
 小田指導官については、それほど記述はない。葛が適切に報告を上げ、指示を受ける良好な関係にある。中間管理職としてうまく機能している存在として、時折登場する。葛は小田について、「小田はふだん、葛の捜査方針を支持することが多い。葛に味方するというより、葛は放置した方が解決に近づくと考えている節がある」(p200)と見ている。このキャラクターがうまく機能しているようだ。葛からみれば、小田指導官が「俺は」と言いつつ見解を述べる時には、新戸部課長の意向を踏まえている。つまり、小田は葛にとって、課長との間のクッション的役割を果たしている。こういう側面は、どの組織においてもあると思う。

 新戸部課長については、葛が捉えた課長評にそのキャラクターが端的に表現されている。「課長まで昇った新戸部は、部下に対して、自らに忠実であることを求める」「だがその新戸部の部下に、彼の顔色を窺う刑事はほとんどいない。新戸部自身が、おのれの機嫌取りをする刑事と有能な刑事を比べて、後者ばかりを捜査第一課に引っ張ってくるからである。どこかに一人ぐらい、自分の腰巾着でありながら有能な刑事がいないかと切望しながら、新戸部は結局、自らの意をろくに汲まない実力主義の集団を組織してきた。それゆえに新戸部は部下に接する時、常に機嫌が悪い」(p90-91)自分の本音を抑えつつ、組織力重視の実力主義で成果を望む管理職というところである。
 葛にとっては、相対的に対応しやすい上司といえるのかもしれない。その前提は、確実に捜査活動から速やかに犯人逮捕の成果を出すという前提付きなのだが・・・・。

 その結果、この短編連作集では、基本的に葛班のメンバーの捜査活動を主軸にストーリーが描かれていくことになる。事件の発生場所の所轄署に捜査本部が立つ。概ね所轄警察署の刑事と葛班の刑事がペアリングするので、結果報告は葛班の刑事の発言が多くなる。時折、所轄署の刑事たちが地元に関連した特有の情報による発言で、情報を加えるのは勿論であり、葛はその内容を適切、的確に活用していく。いわゆる聞く耳を持ち、熟考するのが葛の特徴である。
 葛は、一匹狼でもなく、チームのまとめ役・調整役でもない。チーム力を発揮させることに意を注ぎ、結果的におのれはチームの一歩先に飛び越えてしまう。おもしろいキャラクターが創りだされたといえる。楽しめる。

 収録された短編について、少しご紹介しておこう。
<崖の下>
スキー場<上毛スノーアクティビティー>のバックカントリースノーボードで遭難が発生。出かけたのは4人組だった。捜索結果、崖の下で二人を発見。後藤稜太は頸動脈を刺されたことによる失血。低体温症に陥っての錯乱行動が見られた。傍で発見された水野正は意識不明の重体の状態で発見された。崖の上も、発見場所周辺も、捜索者関連の足跡を除くと、二人以外の足跡なし。凶器は発見されず。いわば密室殺人というテーマ領域か。

<ねむけ>
 群馬県藤岡市で強盗致傷事件が発生。被疑者の一人、田熊竜人(39)に24時間体制で監視が付けられていた。だが、その田熊が車で移動中、午前3時頃、合間交差点で相手の軽自動車と衝突事故を起こした。二人の命に別状はないが重症。田熊を別件逮捕し、強盗致傷事件に繋げるか。葛班はこの交通事故の捜査に関わっていく。午前三時頃にも関わらず、4人の目撃者が発見されたことから、逆に事実究明に混迷が始まる。

<命の恩>
 群馬県榛名山麓にある<きすげ回廊>の近くで、人間の腕様の物体が発見・通報された。捜査の結果、山麓からバラバラに切断された遺体が一部を除きほぼ発見される。歯の治療痕から遺体の身元は、高崎市内の塗装業者で、野末晴義(58)と判明する。葛班は聞き込み捜査から、野末晴義について、ネガティブな情報や遭難者を救助した情報を含め様々な情報を集積していく。一昨年の8月に、息子の勝を受取人にした死亡保険金1000万円の保険が契約されているが、押収証拠の中に保険証書はなかった。
 これは殺人死体遺棄事件なのか。
  
<可燃物>
 12月8日(月)の深夜から12日(金)の未明にかけて、群馬県太田市内のゴミ集積所から不審火が連続した。発見され通報されて鎮火されたものと、自然に火が消えていたものとが混在した。太田南警察署が捜査を進めていたが、12日の朝、連続放火事件と判断して捜査本部が立つ。葛班が担当する。聞き込み調査が始まり、情報が集積されていく。だが、本部が設置された以降、不審火はピタッと止まったのだ。連続放火犯を特定できるのか?

<本物か>
 拳銃所持の前科がある殺人未遂容疑者の逮捕をやり遂げた葛班は、人員輸送車で警察本部への帰途、伊勢崎市の国道沿いにあるファミリーレストランで客、店員が避難しているという事件を警察無線で聞く。指令室の指示に従い現場に向かう。課長から連絡が入る。「立てこもり事件だ。特殊班を出す。お前は手を出すな。情報の収集と報告の任に就き、特殊班を支援しろ」と。このストーリー、葛班の情報収集のプロセスを描く。
 葛はほぼ立てこもり事件の真相を見抜いていた。その情報をきっちり特殊班の三田村警部に引き継ぐ。

 捜査により集積された事実と証拠。それらの諸情報を整理し、様々な視点から検討し、葛は事実究明の推論を重ねていく。そのプロセスで見えなかった事実、事象に気づく。その側面を補って、論理的な推論を重ねると、事件の真実に至るどんでん返しが生まれてくる。
 葛警部の真骨頂が発揮される。

 葛警部シリーズがこの先、生まれるのだろうか。期待したい。



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『藪医ふらここ堂」  朝井まかて  講談社文庫

2024-08-24 16:29:09 | 朝井まかて
 神田三河町に天野三哲という小児医が住んでいる。自宅兼診療所の前庭に大きな山桃の木があり、三哲は娘・おゆんの幼い頃に、自ら板を削り、2本の綱を通して、山桃の枝に吊るし、ふらここと称する遊具をこしらえた。今も子供たちがそのふらここで遊ぶ。そこで三河町界隈では「藪のふらここ堂」と渾名されている。本書のタイトルはここに由来する。
 本作は医療時代小説。「一 薮医、ふらここ堂」から始まり、「九 仄々(ほのぼの)明け」の9つのセクションで構成され、ふらここ堂とその周辺の下町庶民との関わりを日々の逸話として描いていく。それぞれが短編としてほぼ完結しながら、一方ストーリーの背景でつながりがあり、ふらここ堂の三哲とおゆんを軸に日常生活の状況が進展していく。
 江戸の下町庶民の生活を楽しみつつ、一町医者の生き方を描く長編小説といえる。
 本書は2015年8月に単行本が刊行され、2017年11月に文庫化されている。

 各逸話が娘のおゆんの視点から描き出される形で一貫しているので、様々な事象を織り込みつつ全体で長編小説を成している。私は全体のストーリーの流れをそのように受け止めた。江戸の下町の日常生活、人間関係の様々な側面を話材に織り込みながら、江戸で発生する子供の病気と病気への対処がストーリーの中軸に据えられている。底流には天野三哲という小児医の医者としてのスタンスの貫徹がある。外観と日常行動では「藪のふらここ堂」と呼ばれ、親しまれながら藪医者とみなされている人物なのだが、見えないところで凄腕を発揮する。ストーリーの流れからは意外な結末となるところが楽しい。

 「藪のふらここ堂」の医療活動の日常を切り回しているのは、娘のおゆん。父の三哲の日常はいわばでたらめである。朝寝坊はする。患者を平気で待たせる。「面倒臭ぇ」というのが口癖で、面倒な状況からはすぐに逃げ出してしまう。いつもおゆんがその後始末をしなければならない。だが、三哲は医療の根源においては、己の確固たる信念を持つ。
 患者本人の自己治癒力を信じ、それをサポートする治療を心掛けているようである。
 「薬なんぞ要らねえよ。」「だから必要がねえんだよ。そもそも、こんなに汗が出ているってのは熱が下がりかけてる証だ。自分で治ろうとしてんだよ、この子は」(p40)
 「無闇に薬をやりたがるんじゃねぇ。今はな、身中に回った毒を外に出してんだ。そりゃあ辛ぇに決まっているさ、五臓六腑が口と尻から出ちまうような苦しさだ。だがな、毒を出す流れを薬で止めたら、それこそ御陀仏なんだよっ」(p69)

 三哲には、半ば押しかけで入門してきた次郎助という弟子がいる。彼は、通りを隔てたすぐ先の水菓子屋、角屋の倅で、おゆんの幼馴染み。おゆんは幼馴染みであること以外は全く意識していないのだが、次郎助はおゆんへの思いを秘めている。それが本作の底流にあり、読者のはどう進展するのかが気になる側面として、読み進めることになる。
 ふらここ堂には、近所の長屋に住む高齢だがいまだ現役で凄腕の取上婆と評判の高いお亀婆さんが、しょっちゅう出入りしている。ふらここ堂に上がり込み、ちゃっかり食事をし、おやつをもらっていくという婆さん。ふらここ堂の家族のような溶け込みと振る舞いが読んでいて楽しい。にぎわかし役でもあり、ちゃっかり婆さん。このお亀婆さん、やり手なのだ。そして、物知りでもある。

 下町の日常生活の様々な側面のちょっとしたエピソードの積み重なり、織り上げられてこのストーリーの絵姿が見えてくる。三哲は思わぬ陰働きもする。

 9つのセクションをキーワード風にご紹介しておこう。
<薮医 ふらここ堂>
 天野三哲とおゆん。薮医ふらここ堂の登場。太物問屋の孫の発熱騒動に三哲流の処置。

<二 ちちん、ぷいぷい>
 佐吉と息子勇太の登場。嘔吐と下痢ー集団食中毒に三哲・おゆんの奮闘。

<三 駄々丸>
 勇太の手習塾初登山エピソード。親から神童呼ばわりされる娘の治療。

<四 朝星夜星> 
 勇太の日常。掃墨秘薬騒動。

<五 果て果て>
 丸薬三哲印製造の夢話。薬問屋・内藤屋による料理屋美濃惣にてのご招待。

<六 笑壺(えつぼ) >
 三哲の出自。町役人の来訪。

<七 赤小豆>
 宝暦10年(1760)正月の千客万来。兄・三伯長興の来訪。明石屋火事。おみちの反発。

<八 御乳持(おちもち)>
 おゆんの屈託。佐吉の出自。神田祭
 
<九 仄々明け>
 鶴次とおせん。佐吉と勇太の出立。三哲の計らい。おせんの出産。おゆんの決断。

 次のような描写が出てくる。
*患家の多い医者にどんな特徴があるかを、私なりに思い起こしてみました。立派な身形と門構えを整え、往診には紋入りの薬箱と、弟子も何人も従えています。難しい医書をいくつも携えて、それも患家の信頼を得る秘訣でしょう。もちろん患者やそのお身内の機嫌を取り結ぶのが第一ですから、日に二度三度と病人の様子を見に赴き、年始や暑中見舞いもかかしません。
 そんな医者にも腕のたしかな人はいますが、怪しい人も少なくありません。p152-153
*慈姑(くわい)頭に長羽織をつけているので、豪勢にやっているおお医者さんなんだろうと思った。
 長羽織は己が富貴な名医だと世間に物申しているいような身形でいわゆる徒歩医者と呼ばれる町医者よりも格上とされているらしい。   p203
*患者への往診にも四枚肩の籠に乗り、従者や薬箱を持つ弟子も、皆、歩かない。その籠代は薬代に上乗せされ、すべて患者が持つそうだ。 p203-204

 江戸の医者の生態は、形を変えて現代の医者の生態に通じていると著者は描いているようにも思った。見かけの名医と本物の名医。人は見かけに騙される。いつの時代も同じか。

 もう一つ、興味深く感じたのは、天野三哲の生きる時代を将軍徳川家重在位の後半期に設定していることである。三哲が「小便公方」という言葉を使う場面が出てくる。少し前に、村木嵐著『まいまいつぶろ』という時代小説を読んでいたので、思わぬところで接点が出てきて、おもしろさを感じだ。

 文庫の「解説」を作家・医師である久坂部羊さんが書かれている。それを読むと、この小説には、実在のモデルがいた!「江戸時代の中期、第九代将軍家重に拝謁し、西之丸奥医師を拝命した篠崎三徹がそれで、」と記されている。
 読後に「解説」を読み、なるほどと思った。実在のモデルとこのフィクション化との差異は知らない。だが、医者と患者、病気の治癒力などを扱う著者の視点がおもしろい。

ご一読ありがとうございます。


補遺
11.当世武野俗談  旗本御家人Ⅲお仕事いろいろ :「国立公文書館」

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『花競べ 向嶋なずな屋繁盛記』  講談社文庫
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「遊心逍遙記」に掲載した<朝日まかて>作品の読後印象記一覧 最終版
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『ずっと、ずっと帰りを待っていました 「沖縄戦」指揮官と遺族の往復書簡』 浜田哲二・浜田律子 新潮社

2024-08-20 22:00:04 | 歴史関連
 著者はフリーランスのジャーナリスト夫妻。哲二さんは元朝日新聞社カメラマン、律子さんは元読売新聞大阪本社記者。「沖縄には20世紀末から通い始め、本島の中南部で戦没者の遺骨や遺留品を収集し、身元を特定して遺族に返還する活動を続けている。勤めていた新聞社での取材がきっかけだったが、2010(平成22)年に哲二が会社を早期退職したのちは、毎年約2ヵ月間は現地に滞在し、ボランティアで取り組むようになった」(p4)という。
 2015年2月、沖縄本島南部の糸満市喜屋武と福地に連なる丘陵地の岩山の横穴で18枚の認識票を収集した。この認識票の持ち主を特定しようと著者たちが奮闘する中で、思い余って相談したNHKの記者から、沖縄戦の最後の戦闘に加わっていた歩兵第32連隊第1大隊の元隊長・伊東孝一(元大尉)さんがお元気であるという情報を得る。認識票の持ち主の特定という一縷の望みをかけた伊東孝一元大隊長との出会い。これが本書の生まれる始まりになる。
 西原・小波津の戦闘、首里近郊146高地、棚原高地と次々に指令を受け転戦し、最後の防衛線として糸満・国吉台の戦闘という激戦を経て、終戦を迎え、伊東大隊長以下の生存者は奇しくも本土に生還した。

 沖縄戦から生還した伊東大隊長は、1946(昭和21)年6月1日付で、およそ600の遺族に詫び状を送られた。それに対して、356通もの返信が届いた。伊東さんは、この返信を己が没するときに携えていくつもりでおられたようだ。また、2001年に伊東さんは戦記『沖縄陸戦の命運』を私家版として出版されていた。
 著者たちが伊東大隊長と面談でき、認識票についての話が一段落した後、哲二さんは、人目を避けた場所で、「ところで、遺族に手紙を書かれたそうですが、返信が来たのでは」と伊東大隊長に問いかけたという。私家版の戦記に一行記されていた箇所について、哲二さんは問いかけたのだという。後日、面談いただいたことへの礼状を投函する際に、「その最後に、ジャーナリストとして沖縄戦の記録と記憶を残すために、遺族からの手紙を読ませてほしいと書き添えて投函した」(p8)。それに対し、伊東大隊長からは己の心を定め答えを出す猶予がほしいとの返信があった。
 2016年8月、終戦記念日の少し前に、手紙の公開について応諾の返事が伊東さんから届く。「この手紙には、当時の国家や軍、そして私の事が、様々な視点で綴られている。礼賛するものもあれば強く批判したものも。そうした内容の良いも悪いもすべて伝えてほしい。手紙にしたためられた戦争犠牲者の真実を炙りだしていただきたい。どちらか一方に偏るならば、誰にも託さない」(p9)と記されていたそうだ。

 終戦から71年が過ぎた秋(2016年10月)に、著者夫妻に356通の手紙が託された。
 約70年前の書簡の解読、分析から始め、その手紙の差出人もしくは遺族関係者の現住所を特定するという困難な追跡作業が引き続く。「これを世に出すには、手紙の差出人の遺族の了承を得る必要がある」(p11)からだ。
 本書には、この追跡調査のプロセスの一部も記述されている。
 そして、伊東大隊長の詫び状に対して、出された返信の書簡が困難を経ながらも無事に受諾され、遺族に引き取られることになる。この過程で、戦争の犠牲者となった兵士たちの遺族関係者の戦後の生活にも簡略に触れられていく。戦死した兵士たちだけが戦争の犠牲者ではない。その遺族の人々にもその後の犠牲が及んでいるのだ。「指揮官と遺族の往復書簡」はいわば、戦後につながる契機となっている。この側面は本書を通して、戦争について考える重要な要素だと思う。
 一方で、引き取りを拒絶される事例や、追跡調査ができない事例もあるという。

 著者たちと伊東大隊長の関係は、伊東大隊長への手紙を介して深まっていく。書簡の公開への承諾と書簡の引き渡しが、困難を経ながらも少しずつ進行していく。そのプロセスが進行するさなか、2020年2月、伊東大隊長は自宅でひっそりと逝去された。享年99歳。

 本書はドキュメンタリーという分野の一書になると思う。
 「プロローグ---伊東大隊長への手紙」には、本書が生み出された背景が記述される。そこに、上記した伊東大隊長の詫び状の書簡文が開示されている。
 そして、本文は7章で構成される。各章は歩兵第32連隊が指令を受けて戦闘拠点を移動させていく状況に合わせて、構成されていく。その一部は上記で触れているが、改めて章題としてご紹介しておこう。
 第1章 戦いは強固な陣地づくりから
        ー沖縄上陸と戦闘準備(1944年夏~45年4月中旬)
 第2章 陣地なき戦い
        ー緒戦、西原・小波津の戦闘(1945年4月末)
 第3章 噛み合わない作戦指令
        ー首里近郊、146高地の戦闘(1945年5月初旬)
 第4章 死闘、また死闘
        ー棚原高地の奪還作戦(1945年5月5~7日)
 第5章 玉砕を覚悟
        ー首里司令部近郊の守備~南部撤退(1945年5月中旬~5月末)
 第6章 最後の防衛線
        ー糸満・国吉台の戦闘(1945年6月中旬)
 第7章 武装解除までの消耗戦
        ー糸満・照屋の戦闘(1945年6月~8月末)
 エピローグ ------奇跡の帰還

 各章とエピローグの前半部には、当時24歳だった青年将校、伊東大隊長の視点から、沖縄戦が伊東大隊の戦いを辿る形で記述されていく。その内容は、伊東孝一著、私家版の手記・戦記『沖縄陸戦の命運』を土台に、「復員した同大隊兵士、戦没者およびその遺族らによる手紙や証言、その他の記録などを参照・一部引用したうえ」で著者が構成している。この部分は、本文がグレー地で表示されている。
 それに引き続き、伊東大隊長に返信された書簡の内容開示されていく。その開示にあたる追跡調査のプロセスの要点や、書簡を引き取っていただいた遺族関係者の戦後の状況や思いが併せて記述されていく。返信された方ー父、母、妻ーの思いが、その返信文の中に、様々な形で表出されている。沖縄戦の展開状況を読み、その拠点で戦死した兵士の遺族からの返信書簡を合わせて読むと、涙せずにはいられない箇所が頻出してくる。
 
 エピローグに返信書簡はない。その代わりに、沖縄で犠牲になった二十数万人の戦没者のなかで、DNAが合致して身元が判明した6例目のことが取り上げられている。それは伊東大隊の隊員の一人の遺骨と判明し、2021年4月に奇跡の帰還を果たした。その隊員については、父親からの返信書簡が第7章で取り上げられている。
 もう一つ、伊東さんが訪問を受け、面談した人々に対して、伊東さんが尋ねた質問とその結果、及び伊東さんの意見について著者が記述している。
 その質問とは、「日本にとって、大東亜戦争とは? 
            ①やむにやまれぬものか ②愚かなものか 」 である。
 
 後は本書をお読みいただきたい。

 先日、GOOブログのU1さんのブログ記事で本書を知った。ブログ記事を読んでいなければ、知らずに終わる一冊になったかもしれない。

 団塊の世代の一人として生を受け、いわゆる「戦争を知らない世代」、戦争に関わる直接体験が皆無の世代の一人として生きてきた。沖縄での戦いは、米軍上陸に伴う沖縄の人々がどのような状況に投げ込まれたかについて、本や記録報道などで見聞したことはある。一方、沖縄本島における沖縄戦の戦闘に絡んだ戦記の側面は読むことがなかった。本書で初めてその一端に触れた思いがする。さらに、沖縄戦で犠牲となった兵士の遺族の思いがどうであったか、そこまで具体的に思いを及ぼすことはなかった。己の無知を知らされる。
 そういう意味では、得難い一冊となった。

 世界の各地で戦争が継続している。「戦争」のない世界平和はなぜ実現できないのだろう。
 日本が「あらたな戦争前夜」へと踏み出さないことを願う。

 ご一読ありがとうございます。

補遺
これを機会に、少し情報を検索してみた。
戦没者の遺骨収集の推進に関する法律  :「衆議院」
遺骨収集事業の概要  :「厚生労働省」
戦没者遺骨収集情報センター   :「県営平和祈念公園」
「遺骨収集」の記事一覧  :「沖縄タイムスプラス」
日本戦没者遺骨収集推進協会  ホームページ
沖縄戦  :「沖縄県」
沖縄戦の歴史         :「沖縄市役所」
沖縄戦の実相         :「沖縄市役所」
沖縄市における沖縄戦について :「沖縄市」
【そもそも解説】沖縄戦で何が起きた 住民巻き込んだ「地獄」の戦場:「朝日新聞DIGITAL」
沖縄戦の概要  :「内閣府」
伊東孝一    :ウィキペディア
「大隊の部下の9割を失って」  動画 :「NHK」

 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

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その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
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