遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『舟を編む』  三浦しをん  光文社

2023-05-16 16:51:34 | 諸作家作品
 辞書とは何か。辞書がどのように編纂されるのか。辞書はどのようなプロセスを経て世に刊行されるのか。株式会社玄武書房の辞書編集部が、十五年余の歳月をかけて『大渡海』と命名する辞書を刊行する経緯を描いたフィクションである。
 本書は、最初、女性ファッション雑誌『CLASSY』(2009年11月号~2011年7月号)に連載され、2011年9月に単行本が刊行された。2015年3月に文庫化されている。

 友人のブログ記事で本書が映画化されていて辞書にまつわる小説と知り、それがきっかけで読んだ。後で調べて、本書は2012年に本屋大賞を受賞。映画化され2013年4月に公開。テレビアニメ化され2016年に放映。ということを知った。

 玄武書房の辞書編集部長荒木公平は、辞書一筋の会社人生を過ごし、松本先生と新しい辞書『大渡海』の刊行を目標としてきた。だが、その荒木にも間近く定年を迎える時期がくる。荒木は社内で、辞書編集業務に情熱を注げる適任者を物色する。荒木は部下の西岡が挙げた名前の人物に会ってみて、その人物に辞書編集担当者の資質を発見する。それが第一営業部馬締光也だった。荒木は馬締を辞書編集部に引き抜く。第一営業部の観点では必ずしも適材ではなかったせいか、人事異動は円滑に進む。
 読者にとっては、荒木と馬締の出会いの場面にまず引きつけられる。馬締のキャラクターが特徴的でおもしろいから。
 馬締の歓迎会の席で、荒木は「辞書は、言葉の海を渡る舟だ」(p27) 「海を渡るにふさわしい舟を編む。」(p27) と語り、松本先生はその思いをこめて、荒木君とともに新たに刊行する辞書を『大渡海』と名付けたと言う。本書のタイトルは、馬締に語りかけた会話に由来する。
 『大渡海』は、約23万語を予定する中型国語辞典であり、『広辞苑』や『大辞林』と同程度の規模を想定している故に、後発辞書となる。玄武書房内では、辞書刊行は出版社の格を示す重要な側面にもなるが、一方で金喰い虫とみなされていた。金喰い虫という社内他部門の目が、『大渡海』刊行までに紆余曲折を経る要因になっていく。

 荒木が編集部長の時代を前期とすれば、馬締が編集部の中核になり、様々な辞書刊行を行いながら、地道に『大渡海』編纂を推進するのが後期なる。荒木は定年退職後も、明記されていないがいわゆる嘱託社員的な立場になり、『大渡海』編纂に継続して関わりを持ち続けていく。松本先生は『大渡海』の監修者として、馬締との関わりを一層深めていく。

 本書は言わば辞書が誕生するまでの舞台裏を描いて行く。これが読者にとっては辞書が生み出される工程を知ることになる。
 用例採集カードの作成・集積:松本先生の日常生活の一部として点描される。
 編集方針会議:松本先生、荒木、馬締、西岡(後に人事異動で去ることに)で実施
 専門分野ごとの研究者・学者の原稿依頼、原稿への手入れ・修正、
 見出し語の検討:語釈の適切性。用例確認。用例の妥当性。例文作り。
    ⇒用例確認には、アルバイト学生を動員。
 用例確認を終えた原稿への編集方針に従った級数・ルビなどの指示入れ。
 入稿・印刷・校正刷り ⇒校正刷りのチェック ⇒印刷所への戻し ⇒再校
    最低でも五校はチェック作業がくり返される
こういうプロセス、辞書の舞台裏を考える利用者は少ないだろう。私もその一人、辞書の見出し語から、その内容に取り上げられた用例を重宝してきているだけだった。これら辞書作りのステップに絡むエピソードが織り込まれていく。例えば、西岡が馬締への引き継ぎを円滑にするために、日本中世史専門の大学教授の原稿に対する問題点指摘と修正を納得してもらうエピソード。四校時点で発見された見出し語「ちしお[血潮・血汐]」の脱落から始まる「玄武書房地獄の神保町合宿」状況。など、興味深い山場が点描される。

 また、『大渡海』印刷用紙の特注(特別開発)が、一つのサブストーリーとなる。あけぼの製紙の窓口となる宮本と発注元の馬締とのコラボレーションである。用紙開発のキーワードは馬締が口にした「ぬめり感」。
 辞書編纂が転記に入る頃に、入社三年目の岸辺みどりが辞書編集部に異動してくる。「再校を戻す日になって、正字ではない字体が混入していることを発見する、という夢を見た気がします」(p154)と語る馬締に対して、「せいじって、なんですか」と質問を返すという場面から、岸辺みどりの悪戦苦闘が始まる。だが、岸辺は徐々に辞書編纂の流れに主体的に取り組み、己の仕事に意義を見出していく。そして、「ぬめり感」の実現に捲き込まれて行くのだが、それは、岸辺と宮本の間に愛が育まれる契機にもなっていく。一つのサブストーリーが織り込まれていく。

 最大のサブストーリーは馬締光也の恋愛物語。馬締は学生の時から引き続き、春日にある下宿「早雲荘」に住んでいる。家主はタケおばあさん。下宿人は今では馬締だけ。そこに、タケおばあさんの孫「かぐや」が京都から移ってきたのだ。その出会いから、既に馬締は恋に陥っていく。「かぐや」つまり林香具矢は京都で板前修業をしてきて、東京では『梅の実』に勤め板前の修業を続ける。馬締と香具矢が愛を育むサブストーリーが馬締の辞書作りを支える背景として、それとなく自然に織り込まれていく。馬締の恋心を最初に見抜いたのが西岡だった。馬締は香具矢へ便箋15枚分もあるラブレターを書く。真剣かつ滑稽なサブレター。それをまず西岡に見てもらうのだからおもしろい。西岡はそのラブレターのコピーをとり、それをある意図のもとに辞書編集部内に残した。巡り繞って、その秘匿されたラブレターを岸辺みどりが西岡からのメッセージにより、探し出し読むことに・・・・。

 辞書作りという地道な作業のプロセスが、どちらかと言えば淡々とした筆致で進展していく。辞書作りに情熱を傾ける人々の姿、行動が、事態の紆余曲折を含めて、ユーモラスなエピソードを交えながら、辞書刊行を目指して描きこまれていく。
 堅苦しくなく読み進めることができ、辞書作りのプロセスの要はちゃんと押さえられている。勿論辞書作りの問題点の指摘も含む。
 『大渡海』を刊行したこのストーリー末尾近くの、次の記述が、実に心に響く。
    俺たちは舟を編んだ。太古から未来へと綿々とつながるひとの魂を乗せ、
    豊穣なる言葉の大海をゆく舟を。
    「まじめ君。明日から早速、『大渡海』の改訂作業をはじめるぞ」
 楽しみながら読み通せる本書は、辞書作り舞台裏話+ラブストーリーである。

 最後に、印象深い文を引用しご紹介したい。
*原稿の執筆者も、専門分野ごとに信頼のおける学者を厳選する。執筆者の名は辞書の巻末に列挙されるので、見るひとが見れば、人選が的確かどうかわかってしまうからだ。執筆者の顔ぶれから、辞書の態度と精度とセンスをある程度測ることができる。 p136
*有限の時間しか持たない人間が、広く深い言葉の海に力を合わせて漕ぎ出していく。こわいけれど、楽しい。やめたくないと思う。真理に迫るために、いつまでだってこの舟に乗りつづけていたい。  p145
*言葉にまつわる不安と希望を実感するからこそ、言葉がいっぱい詰まった辞書を、まじめさんは熱心に作ろうとしているんじゃないだろうか。 p186
*たくさんの言葉を、可能なかぎり正確に集めることは、歪みの少ない鏡を手に入れることだ。歪みが少なければ少ないほど、そこに心を映して相手に差しだしたとき、気持ちや考えが深くはっきりと伝わる。一緒に鏡を覗きこんで、笑ったり泣いたり怒ったりできる。 p186
*まじめさん。『大渡海』は、新しい時代の辞書なんじゃないですか。多数派におもねり、旧弊な思考や感覚にとらわれたままで、日々移ろっていく言葉を、移ろいながらも揺らがぬ言葉の根本の意味を、本当に解釈することができるんですか。 p199
*「その言葉を辞書で引いたひとが、心強く感じるかどうかを想像してみろ」と。p200
*言葉とは、言葉を扱う辞書とは、個人と権力、内的自由と公的支配の狭間という、常に危うい場所に存在するのですね。   p226
*言葉は、言葉を生みだす心は、権威や権力とはまったく無縁な、自由なものなのです。また、そうであらねばならない。自由な航海をするすべてのひとのために編まれた舟。『大渡海』がそういう辞書になるように、ひきつづき気を引き締めてやっていきましょう。   p226
*だがどうやら、女は本気で「誠実」を最上級の褒め言葉だと思っているらしく、しかもその「誠実」の内実が、「私に対して決して嘘をつかず、私にだけ優しくしてくれる」ことを指していたりする。 p97

 ご一読ありがとうございます。

補遺
舟を編む  :ウィキペディア
ノイタミ  :ウィキペディア
舟を編む :「映画.com」
映画『舟を編む』予告編  YouTube
アニメ「舟を編む」PV #Fune wo Amu #Japanese Anime   YouTube
国語辞典  :ウィキペディア
『広辞苑』『大辞林』『大辞泉』はどう違う? 中型国語辞典徹底比較 :「四次元ことばブログ」
意外と硬派?「比べて愉しい国語辞書ディープな読み方」  :「毎日ことば」
日本語教師のための"正しい"辞書の使い方とその指導   :「no+e」

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『マル暴 ディーヴァ』  今野 敏   実業之日本社

2023-05-11 14:47:16 | 今野敏
 マル暴シリーズの第3弾。「ディーヴァ」の意味を知らなかったので、ネット検索してみた。ウィキペディアにこの項目があった。手許の英和辞典にも載っていた。「diva」という語で、イタリア語と明記され「(オペラの)プリマドンナ、花形女性歌手、歌姫」と説明されている。冒頭の表紙の装画でわかるように、ここでは花形女性歌手を意味している。本書は「Webジェイ・ノベル」(2021年5月18日~2022年4月19日)で配信したものを2022年9月に単行本として刊行された。

 さて、このストーリーの主人公は刑事らしくないマル暴刑事甘糟達男。彼は暴力団を担当する刑事の典型的ともいえる風姿の先輩刑事・郡原虎蔵とペアを組んでいる。甘糟はマル暴刑事であることを嫌いつつ、与えられた任務には確実に取り組んでいく。甘糟の視点から、事象に対する突っ込みやシニカルな思い、第三者的な見方などが各所に盛り込まれストーリーが描かれて行く。マルBに対応する甘糟の姿と書き込まれた甘糟の視点での思いがこのストーリーにコミカルなタッチを加えていて、おもしろい。

 事件は甘糟・郡原が本部の銃器・薬物班からジャズクラブ「セブンス」へのガサ入れに対する協力を要請されることから始まる。そのジャズクラブは足立区東和五丁目にある。そのあたりは住宅街であり、甘糟も郡原も「セブンス」というジャズクラブがあることを知らなかった。協力を要請された日(金曜日)に郡原は下見を主張し認められ、甘糟と出かけた。そして、星野アイと名乗るボーカルの歌声に魅了されてしまう。この星野アイがディーヴァということになる。
 星野アイは、月曜日と金曜日の夜にワンステージ5曲だけ歌う。この歌声を聴くために大勢のお客さんがこのジャズクラブに集まってくる。
 ところが、このときトイレに行った甘糟が思いもよらぬ人に遭遇した。栄田光弘警視総監だった。なぜここにいるのかと質問され、甘糟はガサ入れの下見と答えた。甘糟は栄田の要請で郡原を引き合わす。
 翌週月曜日の午後7時30分に「セブンス」へのガサ入れが行われる。だが、このガサ入れは不発に終わった。その後、甘糟と郡原は栄田から呼び出され「セブンス」を再訪する。そして意外な事実を知らされる。「セブンス」のマスターは谷村と言い、元警視監で警察庁OB、さらに星野アイの本名は大河原和恵で現職のキャリア警察官、警視正である。
 谷村が、シマジ不動産の島地進という男から嫌がらせを受けているという。「セブンス」が入っているマンションごと谷村の所有で、ジャズのライブハウス「セブンス」の経営は谷村の趣味なのだ。島地は「セブンス」の売却を持ちかけ、その後は賃貸物件にしないかと引きさがらない。拒否されると、柄の悪い連中を連れて店に出入りするようになったという。

 甘糟は、島地進が左木山組の組員であることをつかむ。
 島地がなぜ執拗に住宅街にある小規模な「セブンス」にこだわるのか。このストーリーは、ここから本格的にスタートしていく。郡原・甘糟は島地の行確として張り込み捜査から始める。駐禁場所での張り込みをして、北綾瀬署交通課の新人警官に駐禁の切符を切られかけるエピソードなど、コミカルタッチな場面が加わりおもしろい。

 島地は星野アイを「セブンス」から引き抜く作戦に出る。そこに、「フラットナイン」というラウンジ(一号営業許可)のオーナー・斎木一が関わっている。
 星野アイは、捜査に協力するために、金曜日のワンステージを「フラットナイン」で行うことに同意する。いわゆる潜入捜査として甘糟・郡原に協力する。
 一方、月曜日の「セブンス」での星野アイのステージで、トオルとヨシキという若者がステージ妨害行為に出る。彼らを逮捕する。郡原は本部組対部の松井に取り調べを引き受けてもらう。ステージ妨害は島地の指示だったと判明する。

 このストーリーにはおもしろいところが幾つかある。
1.星野マリがステージで歌う日は、栄田警視総監が変装してお忍びで歌を聴きにきていること。その場に居合わすことになる本部の刑事たちは、警視総監がいるなどとは夢にも思っていないで行動する。それを甘糟と郡原はハラハラとしながら見守るという場面設定の面白さ。
2.「セブンス」を執拗に入手しようとする島地の狙いが、薬物隠遁の中継地にしようとしているのではないかと推論が進展する。ならば、島地は薬物を現在はどこに隠しているのか。捜査目標が変化していく。「セブンス」へのガサ入れの空振りから捜査がおもしろい方向に展開する。
3.北綾瀬署交通課の新米警官東美波が、駐禁切符の問題の後、自ら捜査に協力を申し出てくる。郡原は東美波に役目を与えてやる。東美波が捜査目的も知らずに素直に従うところがおもしろい。
4.最終ステージになって、斎木一の真意が明確になる。だが、斎木の利用が功を奏さず、潜入捜査意識の大河原和恵(星野マリ)がいとも容易に島地から核心情報を入手するところがおもしろい。人間の心理の虚を衝いたからだろうか。
5.警察組織の中間管理層の一面が色濃く描かれている。ここでは、郡原と甘糟の上司にあたる仙川係長の姿と行動。彼は業績至上主義と係長という管理職意識を発揮するタイプ。それが要所要所に書き込まれていく。そこに併せて甘糟視点の思いが織り込まれるので、これがコミカルになる。
 逮捕状と家宅捜査の執行を郡原の根回しで仙川係長ができることになる。この描写がまたおもしろい。
6.マルB問題を扱いながら、事件の周辺関係者はすべてハッピーエンドを迎える。ここがおもしろい。殺人も負傷者の発生もなく、捜査は結末を迎える。

 この小説、著者は興に乗って書き進めたのではないかという気がする。

 ご一読ありがとうございます。

補遺
ディーヴァ   :ウィキペディア

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こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『秋麗 東京湾臨海署安積班』   角川春樹事務所
『探花 隠蔽捜査9』  新潮社
「遊心逍遙記」に掲載した<今野敏>作品の読後印象記一覧 最終版
                   2022年12月現在 97冊
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『教場』  長岡弘樹   小学館

2023-05-10 15:27:27 | 諸作家作品
 つい先日、新聞を読んでいるとさかんに「教場」と称するテレビドラマの宣伝を目にした。テレビドラマは視聴していない。テレビドラマの宣伝広告にはこの本とそのシリーズ本が併記されていた。この作家の作品を読んだことがなかった。そこで原作に関心を抱き、第1作になる本書をまず読んでみた。
 本書は、最初「STORY BOX」のVOL.1からVOL.18の間で期間を置きながら順次掲載された。当初は『初任』というタイトルだったそうである。全面改編して2013年6月に単行本が刊行された。2015年12月に文庫化されている。
 因みに直近では、フジテレビ開局65周年特別企画「風間公親-教場0」と題して、主演木村拓哉でテレビドラマ化され、放映されている。このシリーズは、『教場Ⅱ』『教場0』が既に刊行されている。直近のテレビドラマ化は、たぶん第3作がベースとなっているのだろう。
 
 本書は、短編連作集で6話を収録。ストーリーの場所は警察学校。登場するのは初任科第98期短期課程の学生達。彼らは警察学校の構内にある『さきがけ第一寮』で寄宿生活をする。大部屋を簡単なパーティションで区切っただけだが、一応全室個室の体裁になっている。入校後50日が経った時点で、既に4人が脱落し、退校していた。37人が在籍という状況からストーリーが始まる。
 この初任科短期課程の学生達が座学として授業を受ける教室が「第三教場」と称される。教場には専任の教官が付く。入校当時は植松教官が付いたのだが、肺炎に罹り入院することになったので、この教場の教官は、風間公親(キミチカ)係長が引き継ぐことになった。いわばこの教場の学生が一つのチームである。そこでは連帯責任、その結果としての行動にも繋がって行く。
 
 この短編集は、初任科第98期短期課程の学生37人の中で、数人に焦点をあてる形で、教場で発生するトラブルを描き出していく。警察学校とはどのような環境か。そこで初任科短期過程の学生はどのような内容の授業を受け、どのような実技訓練を積むのか。そのプロセスが点描される。
 最初にエピローグのことに触れておこう。入校したばかりの第100期短期課程の学生40人を第三教場の教壇から眺めて、初っ端に風間が言ったことである。警察官に憧れているものはと問いかけ、手を上げさせた。そして、風間は言う。退校届を書きここを去れと。一週間もすれば憧れなど打ち砕かれる。「それにだ。きみたちの前に第98期を受け持ったが、気持ちの休まる暇がなかった。連中がしばしばトラブルを起こすせいでな。あれですっかり懲りたよ。だからわたしとしては、一人でも減ってもらった方がありがたいわけだ」(p293)と。

 ここに収録された6話は、学生達が起こすトラブルと風間の対応を描き出している。
 各短編ごとに、簡単にご紹介して行こう。
<第1話 職質>
 授業内容:職務質問について。職質のロール・プレイングを学生にさせる
 学生の平田和道と宮坂定の間で起こるトラブル。宮坂は風間から一日の授業が終わったらその日に気づいたことを風間に報告する課題を与えられた。いわば、一種のスパイ行為だが、宮坂はそれを命令と受けとめ実行する。それが宮坂を救うことになる。平田は退校する。
 宮坂の報告に対する風間の目のつけどころ、学生たちへの風間の観察力が発揮される。
<第2話 牢問>
 授業内容:2時限目に取り調べについて。5時限目は文化クラブ活動。
 「現場での初期捜査活動について」(練習交番に代表者3班の7人の待機から開始)
 「似顔絵クラブ」に属する楠本しのぶと岸川沙織の間のトラブル。
 クラブ活動の際に、しのぶは沙織に、かつては取り調べに「牢問」が行われていたことを教える。
 風間はしのぶに岸川にときどき手紙が来るが、その差出人は君かときく。しのぶはただの悪戯と答えた。しのぶには隠された意図があった。
 準備として、検問実習のために使う車のボディのワックスがけに楠本しのぶが格納庫に行き、作業をしているときにトラブルが起こる。それは一種の牢問の状態を生み出した。「良い警官と悪い警官」の役回りの利用、そして「思い込みは刑事にとって命取りだ」という教訓が興味深い。

<第3話 蟻穴>
 授業内容:自動二輪の運転講習、水難救助訓練、自主学習(刑訴法の小テストの準備)
      災害救助訓練、屋外で車に搭乗の運転者に対する職務質問
 鳥羽暢照と稲辺隆の間でのトラブル。柔道担当の須賀から鳥羽は「射撃場」への呼び出し紙片を伝令の学生から受ける。射撃場に行くと、そこには稲辺が居た。一昨昨日の金曜日の夜に、稲辺が出抜けをしたという嫌疑での詰問だった。その夜、稲辺は自習室に居たと主張。鳥羽も居たので証言してくれるはずと。ところが、鳥羽は稲辺の気配に気づいたのだが、見ていないと返答した。彼には嘘をつかねばならない原因を自分の日記に書き込んでいたのだ。日記に事実以外を書くと、それは退校処分の理由になる。
 稲辺は思わぬ報復の手段をとる。
 風間は鳥羽の日記の記述箇所に一定の特徴があることに気づき、その裏読みをしていた。短編の各セクションは鳥羽の日記文で始まる。そこに伏線が敷かれていたことに、後になってから気づくというお粗末さ・・・・・。

<第4章 調達>
 授業内容:(実習)警備勤務。この時点では、風間教場の学生は34人に。
   服部教官による犯罪捜査用模擬家屋で、外傷のない死体発見の処置について。
   逮捕術。
 日下部准と樫村巧美が警備勤務に当たっていた。校内でも寮内でも所持できないはずの禁制品を風間教場のある学生が持っているのを日下部が話題にした、日下部は禁制品が物々交換で行われ、その調達の要に樫村が関わっていることを突き止めていた。
 打開策として、樫村はある調達を日下部に持ちかける。だがそれは仇になる。
 練習交番に日下部が行くと、そこには樫村と風間教官が居て、風間が持ち込んだ今日の夕刊が置いてあった。風間は二人に交番勤務での特別授業をするという。そこには風間の意図があった。総合的に情報を把握し判断した風間の動きがオチになっている。

<第5章 異物>
 授業内容:練習用パトカーを使った運転技術。教官は交通機動隊の神林係長
      陶芸クラブの活動。風間が整備実施のための装備装着を由良個人に実習指示
 由良元久と安岡学の間でのトラブル。教官の指示を受けて由良が練パトを運転し、四輪スラローム走行を行う。だが、目の前を飛んできた黄色い物体がスズメバチと由良は判断した。咄嗟に運転を誤り、安岡に当たりそうになる。間一髪の所で風間が安岡を突き飛ばす。その結果、風間は足に負傷した。
 由良は安岡の仕業と勘ぐり、白状させるための嫌がらせをする。
 由良は風間から整備実施の一人授業を受けることになる。その結果、由良は異物が練パトに飛び込んで来た真因に気づく。由良は安岡に詫び、償いをする。
 この連作で、ハッピーエンドに終わる最初の短編がこれである。

<第6章 背水>
 授業内容:整備実施訓練 校舎前での献血、自主学習(警察職員に対する懲戒処分)
 都築耀太と日下部准との関わり。都築と宮坂との関わり。
 都築は整備実施訓練のための装備着装に遅れをとる。マフラーが見つからない。日下部は都築を手伝い、マフラーを探し発見した。その感謝の代償として、都築に[卒業文集編纂さん委員]を引き受けさせた。
 都築は献血車の中で、宮坂に卒業文集の原稿を書かせる。その後、献血車に風間が現れる。風間は都築から余分の原稿用紙を受け取り、[我能弭謗矣]と書いた。風間は私の好きな一節だと言い、知りたければ自分で調べることだと告げた。
 その後、事務室で風間は都築に退校届を出せと迫る。ここからの展開がおもしろい。
 「背水」というタイトルがそれを示す。

 風間が都築に告げた言葉を引用しよう。
「警察官という仕事には度胸が欠かせない。ぎりぎりでの戦いを経験できなかった人間にはそれがないから、第一線では使い物にならない。辞めさせるのが本人のためだ。私は経験からそれがよく分かっている」(p267)

 誇張があるかも知れないが、警察学校がどのような授業を行っているのか、イメージが作れる短編連作集である。
 これらの6話がどのようにテレビドラマ化されたのだろうか。

 警察組織の裏方となる警察学校という組織を取り扱った点がやはり異色なのだろう。
 警察小説をいろいろ読んでいるが、このアプローチは初めて。おもしろかった。

 ご一読ありがとうございます。

補遺
教場  :ウィキペディア
風間公親-教場0-  公式サイト  
警察学校 警察学校FQA  :「警察庁 都道府県警察採用案内」
警察学校キャンパスライフ  :「令和5年度警視庁採用サイト」

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『覇王の轍』  相場英雄   小学館

2023-05-09 18:49:05 | 諸作家作品
 この小説のモチーフが、本書のタイトルになっている。私はそう受けとめた。
著者はこの小説の最終ステージで次のように語らせている。<この国で一番悪い仕組みは、一度決めたら中断はおろか、後戻りすることが一切許されないことだ>(p411)さらにこの一文に続く。<今から50年も前に決めたことが、規定路線として今も生きている。田巻元首相という戦後最強の覇王が作った轍(わだち)は、既得権益、利益誘導、集票の道具として新幹線を延長させ続ける>(p411) さらに小説の末尾に近い箇所で<この国は「覇王の轍」の呪縛に50年以上縛られたままだ」(p459)と駄目押しする。タイトルの「覇王の轍」はここに由来する。
 本書は、「STORY BOX」(2021年9月号~2022年7月号)に連載された後、2023年2月に単行本が刊行された。

 主人公はキャリア警察官僚の樫山順子。警察庁に入庁後、凡庸なポストばかりを歩み、警視庁捜査一課管理官となった。ここで継続捜査班のベテラン警部補とともに殺人事件に関わり、「最終的に事件は他の省庁も捲き込む騒動に発展し、警察の威信を内外にアピールする結果となった」(p24) 
 樫山は急な人事異動の発令を受け、急遽北海道警察本部刑事部捜査二課の課長として赴任することが決まる。樫山が先輩に同行して赴任の直前に内閣官房副長官の松田に面会したときに、松田は樫山の担当したこの殺人事件に触れた。松田は樫山に「あそこは色々と問題のあるところ。なにか困ったことがあれば、ここに連絡しなさい」(p22)と告げた。

 プロローグは、JE宗谷本線永山駅から一人の男がタクシーで市営住宅団地の集会場で行われている葬儀に参列するという場面である。
 場面は一転し、着任日の前日、樫山がスケジュールを調整して、八雲町にある牧場に嫁いだ親友の川田ゆかりと再会する場面に切り替わる。そこへ刑事部長命を受けたという捜査二課の伊藤保から連絡が入る。伊藤は樫山が北海道の事情になじむまでの世話係を命じられたという。このストーリーの進行において、伊藤は樫山のサポートであるとともに、樫山の捜査行動での相方となっていく。
 樫山は伊藤の運転でまずは函館に向かう。その途中、国道五号線沿いにある地元の生産者の直営食堂に立ち寄る。食堂で待ち時間に樫山が三日前の北海道新報の社会面記事を読んでいて、<ススキノの雑居ビルで転落事故>という15行程度のベタ記事に目がとまった。そばに来た女性店員がその記事に目をとめ、転落死した東京から出張中の稲垣達朗の事件について、感想と疑問を樫山に告げた。3,4回この食堂に来た事があること。鉄道が好きで、どこか東京の役所に勤めていると聞いたこと。「あのビルは風俗ビルなのさ。私、札幌の専門学校に行ってたの。ススキノのラーメン屋でバイトしていたからわかるのさ。それにこの人、下戸だって言っていたし」(p45) その店員は稲垣がそんな場所に行ったことに不審感を抱いていたのだ。

 樫山が着任すると、第二課は特捜班キャップの冬木辰已警部補の下で、ある贈収賄事件に取り組んでいた。警視庁捜査二課からの情報を端緒として冬木たちは捜査を始めたという。警視庁捜査二課は小堀理事官のもとで、贈賄側の捜査を進めている。小堀は樫山にとって大学の先輩にあたった。一方、道警の捜査二課では収賄側の捜査を行っていた。被疑者は、道の病院局の課長補佐、栗田聡子39歳、独身。病院の資材や物品購入に関する入札情報を業者に漏洩していた疑いである。栗田は、月に一、二度の割合で東京に飛び、ホスト遊びにいれ込んでいることを、警視庁の内偵班が掴んだのだ。この贈収賄事件は、警視庁の小堀理事官が指揮する捜査班と道警捜査二課の連携事件として進んでいた。着任早々、樫山はこの大きな事件で道警側の捜査当事者のトップに位置することになる。
 このストーリーでは、この贈収賄事件の捜査がメイン・ストーリーになっていく。

 一方、食堂の店員から耳にした稲垣の転落死についての発言が、樫山には心にしこりを残した。樫山は伊藤に指示して、この事件の記録を入手する。所轄の中央署地域課がこの事件を取扱い、単純な転落事故として処理済みとしていた。
 既に処理済みの事件を、警察組織のキャリアとして、さらに着任早々の者としては迂闊に扱えない。だが、疑問を抱くと徹底的に解明するという信条の樫山は己が抱いた不審感を無視できない。樫山は警視庁鑑識課のベテラン検視官・常久崇之に写真を送り、所見を求めた。常久の感触は<悪質かもしれん。もしかすると組織ぐるみで何かを隠しているんじゃないのか?>(p94)
 樫山は、この処理済み事件の不審点を自ら密かに再捜査し始める。メインの贈収賄事件捜査の合間に時間を調整して、稲垣の転落死の真相解明に一歩踏み込んでいく。つまり、樫山の独自捜査が、サイド・ストーリーとしてパラレルに進行する。樫山はキャリア警察官僚としての己の立ち位置について葛藤しつつも、己の信条を曲げたくないという思いで取り組んで行く。
 読者としては、異質な2つの事件に興味津々とならざる得ない。

 樫山は内密に捜査を推し進め、東京で稲垣の母親の住まいを訪れ、聞き込み捜査をする。その時、稲垣親子の相談に親身に相談にのってくれた電設工事のベテラン職人・倉田宗吉さんの話が出てくる。母親は息子から倉田さんが1ヵ月半まえに亡くなったということを教えられた。その時、息子は怒っていたという。許可を得て樫山は倉田と稲垣が写った写真をスマホで撮影した。これが一つの糸口になっていく。
 札幌に戻った樫山は、伊藤が道警本部のデータベースを調べた結果として、倉田宗吉さんの事案を知る。八雲署が倉田さんの死について死体検案書を作成していたのだ。検視結果は<突然死>となっている。指定医によれば、心筋梗塞による心停止。事件性はないと判断されていた。だがそこに、樫山は不審感を抱く。

 この小説の醍醐味は、捜査方針が明確で、東京と北海道で連携しながら粛々と進行する贈収賄事件の捜査と、既に事案が処理された2つの事件をキャリア警察官の樫山が追跡捜査する行動、この対照的な事件の捜査の経緯にある。小堀理事官が贈収賄事件の展望を描いていたのとは異質な要因がリンクする接点が現れてくる。3つの事件がつながりをもつ側面が現れることに・・・・。

 樫山はキャリア警察官僚として、己の心中の葛藤と戦いながら、己の信念・信条を守っていこうとする。そして、情報収集の為に、情報開示についてはミニマムで一線を引きながらも、樫山は北海道新報の記者・木下と接触する。この点が興味深い。樫山はここでも己のキャリアを賭けることになる。

 この小説のおもしろいところは、事件の解明・処理に対して、警察レベル、検事レベル、政治家レベルでの規準の違いを鮮やかに織り込んでいる点である。
 そして、最後の最後での逆転劇。この結末に、読者の一人としてはホッとした。

 本書をお楽しみいただきたい。


補遺
北海道警察  ホームページ
贈収賄  :「コトバンク」
贈賄罪(ぞうわいざい)とは? 構成要件と賄賂に関する罰則:「ベリ-ベスト法律事務所 仙台オフィス」
一般的な犯罪情報(贈収賄等の汚職事件)  :「愛知県警察」
北海道警察 不祥事一覧  ウィキペディア :「weblio辞書」
整備新幹線とは   :「国土交通省」
整備新幹線     :ウィキペディア
北海道新幹線    :「北海道旅客鉄道株式会社」
北海道新幹線    :ウィキペディア
なぜ北海道新幹線の2030年度末延伸開業に黄信号が灯ったか【コラム】:「鉄道チャンネル」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

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『香君』(上:西から来た少女 下:遙かな道) 上橋菜穂子  文藝春秋

2023-05-07 17:07:48 | 上橋菜穂子
 児童文学の領域で秀逸な作品を発表し続ける著者によるファンタジー小説。2022年3月に上下2巻の単行本が刊行された。上巻には「西から来た少女」、下巻には「遙かな道」という副題が付いている。

 物語は、ウマール帝国とこの帝国の属国である4つの藩王国-西カンタル・東カンタル・オゴダ・リグダール-が舞台となる。著者が創造したフィクションの帝国と属国。ウマール帝国と藩王国全域の存亡を揺るがす大災害の発生とその克服の物語。児童から大人までを幅広く読者対象とする小説。ある意味では大人の為のファンタジー小説と言ってもよいと思う。帝国の運営維持という政治・政策の世界と自然災害-自然の生態系、天敵という形での食物連鎖-との関係を壮大な物語として描いている。なお、そこには自然災害と見えて底流に人為的要因が潜む場合もある。
 本書では人と自然との共存を追究するというテーマがベースになっていると思う。
 さまざまな香りを嗅ぎ、香りに声を聞き、その意味を理解できるという非凡な能力を持つ少女アイシャの孤独と運命の変転、その成長が物語となっていく。

 遙か昔、ウマール帝国の皇祖となる男とカシュガ家の始祖となるアミルが、神郷オアレマズラから一人の女性とオアレ稲を携えて帰国した。その女性はオアレ稲の栽培の方法を人々に教え、オアレ稲の生育を制御する知識・技術を司り、初代香君として、香りで万象を知る活神として奉られる。ウマール人の政権はこのオアレ稲を戦略的に活用して帝国を形成していった。オアレ稲を栽培すると、その土地の人口を増やし豊かにする反面、オアレ稲を植えた土壌はその質が変化し、他の植物が育たなくなる弊害があった。だが、人々は餓える心配がなく豊かさをもたらすオアレ稲を歓迎し、栽培を広げた。ウマール帝国の西に位置する藩王国は、オアレ稲の魅力に屈し、ウマール帝国の支配下に入る。
 オアレ稲の種籾を植え、定められた肥料を指示通りに使い栽培すると、豊かな稔りをもたらすが、その稔りから次の種籾はできなかった。種籾はウマール帝国の政権の専売になっていた。この種籾のコントロールと専売は、まさにウマール帝国が周辺国を支配下に置く戦略的な手段となり、繁栄する。

 西カンタルを治めていた王ケルアーンは、オアレ稲の問題点を見抜き、西カンタルでの栽培を禁じた。だが餓える民衆はそれに抗うようになり、西カンタルはヂュークチに簒奪されてしまう。ケルアーン家の生き残りはケルアーンの孫、姉アイシャと弟ミルチャのみとなる。アイシャとミルチャが捕縛され、ジュークチの前に引き出された時、アイシャは、ジュークチの体から冥草の匂いを嗅ぎ取り、あなたは毒を盛られていると指摘した。その場に同席していた藩王国視察官のマシュウ=カシュガは、アイシャの非凡な嗅覚に気づく。マシュウの指示で即刻医術師が呼ばれ、ジュークチは一命を取り留める。だが、ジュークチは後悔をなくすために二人の処刑を考える。マシュウは情けをかけるなら斬首でなく苦しまず眠るように逝く毒殺を薦める。
 アイシャとミルチャは凍草を使い毒殺される。そして、ジュークチの眼前でユギの木の下に埋葬された。だが、ここにマシュウの謀があった。凍草の毒の量を調整し仮死状態を死と見せかけて、救助するためだった。アイシャとミルチャは蘇生する。

 香りの声を聞く非凡な能力を持つアイシャはマシュウに見出され、ウマール帝国の帝都に向かうことになる。「西から来た少女」の誕生だ。

 マシュウにより、ミルチャは身の安全を確保できる地に匿われ生活の場を得る。一方、アイシャは、マシュウの意を受けたミジマ=オルカシュガにより香君の住む宮殿である香君宮に誘われる。ミジマは香君宮に仕える上級香使であり、香使たちを束ねる大香使ラーオ=カシュガの次女である。
 アイシャは、マシュウの母方の従妹、アイシャ=ロリキという名目で、<リアの菜園>に入園し、香君に仕えるという道を歩み始めることになる。アイシャはミジマに導かれて、御簾越しに、香君を継承する活神に引き合わされる。
 アイシャとマシュウの関係は? 物語の後半で明らかになっていく。

 読者は徐々に、香君の位置づけと存在価値並びにその役割、オアレ稲とその肥料に秘められた秘密、ネルマール帝国の政権の中枢における人間関係と勢力関係、オアレ稲の取扱についてのそれぞれの立場による思惑の相違などを理解していくことになる。これら諸側面の絡まり行く状況が、読者をこのストーリーに引きこんでいく。
 たとえば、ウマール帝国の皇帝のもとで政権を担うのはイール=カシュガである。彼は新カシュガ家の当主。富国ノ大臣であり、帝国の財政を維持する視点からオアレ稲を見据えて政策をとっている。マシューはイールの弟ユーマ=カシュガルの息子である。今は藩王国視察官として、帝国を支える立場に立つ。だが、マシュウは伯父のイールの政治・政策とは異なる視点で帝国の維持運営を捉えている。イールと直接の対立はしないが、イールの政策に同調している訳ではなく、別のあり方を思慮している。

 <リアの菜園>で働き始めたアイシャは、菜園で栽培されている植物たちの香りの声を聞き、無自覚に禁忌の行動をとったことから、オリエと直接に会話をする機会を持つ。オリエの発する香りから、アイシャはオリエが香君その人であると認識する。これがアイシャとオリエとの関係が深まっていく契機となる。
 <リアの菜園>から<ユギル山荘>で働くようになり、やがて香使の一人として、藩王国との間でオアレ稲に関わっていく。実状からさまざまなことを学び、考え始める。
 
 このストーリー、アイシャが香りの声を聞き、その意味を理解するというステップの一つ一つが読ませどころとなりつつ。その香りの声の広がりと繋がりが、物語の大きなうねり、帝国と藩王国への危機の到来へ突き進んで行く。巧みなストーリー構成になっている。

 香君オリエが、<青稲ノ風>儀礼のために、オゴタ藩王国のラパ地方のオアレ稲の栽培地に赴いた時に、水田でヨマの卵に似ているけれど見たことがないほどの大きな卵に気づいた。オアレ稲の根元に付いていたという。ラーオ師がオリエにこのことを知らされたときから、オアレ稲への災害の兆しが始まって行く。それは、オオヨマの発生だった。この虫害発生は、その一帯のオアレ稲を焼き払う処置で被害の拡大を防がねばならなくなる。それは餓える人々の発生に繋がって行く。
 一方、オゴダ藩王国の藩王母ミリアは密かに独自にオアレ稲を研究・栽培するという行動をとっていた。このこと自体が、ウマール帝国の脅威になりかねない事象でもあった。アイシャはこの状況の中に投げ込まれていく。このオゴダの秘密自体が大きな山場の一つになっていく。

 オオヨマに対処できる<救いの稲>が開発されてくる。だが、<救いの稲>の香りが次の新たな災害をもたらすことになる。バッタの大群が西カンタル藩王国の北側にそびえる天炉山脈の方から襲来するのだ。<天炉のバッタ>と称されるようになるが、このバッタによる虫害との戦いが、下巻でメインストーリーとして進行していく。
 <天炉のバッタ>の凄まじい広がりにどのように対処できるのか。藩王国間の意識の差、藩王国とウマール帝国との間での為政者たちの意識の差。ウマール帝国と藩王国との存亡はこの虫害への対処の仕方にかかってくる。
 
 ストーリーの進展とともに、ウマール帝国と藩王国の体制や情勢のイメージが形成され、香君オリエ、藩王国視察官マシュウ、富国ノ大臣イール、大香司ラーオ、そしてこのストーリーの主人公アイシャの人物像のイメージが形成され、ストーリーに引きこまれていく。ストーリーの最終ステージの山場は、涙なくして読めないのではないかと感じる。香君オリエとアイシャの立場と彼らの行動にまさに感情移入して読んでしまった。

 最後に、印象深い箇所をご紹介しておきたい。
*ここに来るたびに、思うの。多くの他者が互いに手を差し伸べあっていることの意味を。弱い者を見放さず、手を差し伸べることが、何を守るのかを。 ⇒オリエの言 上p229
*表情をあらため、真剣な眼差しで、自分がこう感じるから、他の人も同じように感じるだろうと思ってはいけない、そう思ってしまったとき隙が生まれる、と言っていたマシュウの顔が目に浮かんだ。 ⇒アイシャの思い 下p41
*生き延びるという、最も大切なことを行うときにすら、人という生き物は様々な思惑にとらわれ、戸惑い、決断するまでに時間がかかる。危機感を共有することすら難しい。
      ⇒アイシャの思い 下p226
*生き物は、どんな存在に生まれるか、選ぶことはできない。望む力を持って生まれてくるわけでもない。それでも、それぞれが己の持つ力を活かし、あるときは他者を助け、あるときは他者を害して生きていく。
 そういう関係が絶えず動き続ける網の目のようにこの世を覆っていて、ちっぽけな虫ですら、それぞれの役割を背負い、その網の目をつくっている。どんな小さな者も己の役割を担って生きている。  ⇒オリエの言 下p318
*権威というのは、・・・互いの関係で成り立つ。幻想だ。幻想だが、いったん身に沁み込んでしまえば、反射的に心身が反応するし、多くの人が同時に抱けば、現実の力となる。 
           ⇒マシュウの言  下p328
*香りで万象を知ることなんて、出来ません。初代の香君は、私などより、ずっとすごい人だったのかもしれないけれど、それでも香りで万象を知ることなんて出来たとは思えません。わからないことも、たくさんあったはずです。その、わからないことすら、わかったふりをして、その偽りを、神という幻想で隠して、これまで-ここまで、来てしまったことが、私には、とても怖いことに思えるんです。  ⇒アイシャの言 下p331
*人々が、神に頼るのではなく、オリエがつくった「場」の中で、自らの立場を再認識し、自らの意思で未来を選ぶ、そういう道をオリエはつくりたかったのだ。 
              ⇒アイシャの思い   下p404
*知識さえあれば、辺境の農夫たちだって、自分たちの未来を、自分たちで救えたかもしれない。  ⇒アイシャの言   下p430
*どんな道にもそれぞれの難点がありますね。  ⇒アイシャの言 下p431
*<語ると、それが現れる>からですよ。  ⇒ユーマの言  下p441
*ひとつの稲に過度に依存することは、もちろん避けねばなりませんが、いまの我々が為すべきは、オアレ稲の排除ではなく、あの稲との共存なのでしょう。 ⇒ユーマの言 p448

 人の我欲による行動と自然の生態系について、私たちに考えさせる小説だと思う。
 このフィクションのファンタジーな世界は、現実の世界に対する鏡の役割を果たしているようにも思う。

 ご一読ありがとうございます。

こちらもお読みいただけるとうれしいです。
[遊心逍遙記]に掲載
『鹿の王 水底の橋』   角川書店
『精霊の木』 偕成社
『鹿の王』 上・下  角川書店
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