米の値段が倍になった上、スーパーに行っても10kg入りの袋がなくて5kgしか置いてない。
その5kgの値段が、以前の10kgのそれになっている😥
その貴重な米をホーローのストッカーに移し替えていたら、手が滑って一部が床に散乱してしまった。
その時「あーーー💦」と落胆して、「そんな上の空じゃなくて、マインドを今に集中して丁寧にやらないからだよ」「口だけじゃなくて行動に移さないと」「そういう抜けたところってなかなか直らないね」と、もっともらしい分析と説教をしてくるのは思考であり、「あー、また思考が出た。黙らせているはずなのに」と殊勝に思うのも思考になる。
それらを遠くの山から、ぼーっとと見ているのがワタシ。
そういう声や感情と自分を同一化せず、同一化しそうになったら幽体離脱するみたいに離れられるのがワタシ。
すると「自分ではない何者かがパニくってる」と見ているのが、本当の自分とわかる。
本当の自分というのは、興味のあるものに意識をフォーカスするだけの「意識の焦点さん」が正体だから。
「は?他人事かよ?米をこぼしたくらいだからいいけど、じゃあ仮に交通事故を起こしても他人事なのかよ?ねえねえ?」と、起こってもない話まで作って何とか思考に引っぱりこもう、自分と同一化させたいとするのが思考。
それを黒歴史にして背負って、何度も反芻させたいのが思考。
さっさと忘れて、未来には二度とそんなことが起こらないイメージを持たれると困る。
(現実化するから)
過去を引きずって、そこにフォーカスするゆえにまた同じことが起こり、また思考して、沼にハマったままグルグルとエンドレスの方が、思考にはよい。
そういう思考の都合は置いといて、黒歴史とかいう自分じゃないものをリセットしていくと、毎日が「新天地」にいるようなフレッシュでラクな日々が始まる。
そういうわけで、ラクな方を選択したい私は、たんたんと床を掃除して、未来には金輪際、米は一粒もこぼさない設定にしたので、私はもう死ぬまで米はこぼさない🤣
そうそう、米ついでに先日買いなおした炊飯器が、毎日褒めちぎっていたら何故か操作が快適になって、15回くらい押してやっと反応していたボタンが、軽く一回で効くようになった。
何一つ問題がなくなった、ウソみたいな本当の話。
すべてのモノに魂が宿っているというのは本当かもしれない。
なんとそれは私ではなかった😒
その思考とピッタリ寄り添って同一化していた(もっと言うと乗っ取られていた)ので、てっきり自分だと思い込んでいただけで。
その「腹立つわ~」から幽体離脱してボーッと「見る側」に行ったら、あることに気づく。
その理路整然としたもっともらしい理屈は「終わったこと」を言ってる、つまり「手遅れ」なことを言っている。
思考って「今この瞬間」が嫌いなので。
そんなボヤキにマジメに付き合う義務も責任もなくて、放ったらかして別のもっと楽しいことにフォーカスして全然OK。
「でも気にする性分なのよ、ワタシって」ではなく、それは「ワタシ」じゃなくて、思考なのだ。
「出来事に怒っている私」じゃなくて「思考にからめとられている私」であり、私と怒りは実は無関係。
中には思考の奴隷になりながら、怒りや恨みやストレスや復讐にどっぷり漬かっているのが楽しい、それこそを味わいたいという人もいるかもしれないけど、ふつうはいい加減疲れるよね。
乗っ取られて奴隷でいることが、心底、平穏で満ち足りて愉快でたまらないという奴がいたら連れてこい🤣
というわけでチンタラが嫌いな私が、いちばん速い解決策をいうと、まずそのストレスを感じる感情、言い分を客観的に観察(これを「気づき」というらしい)する。
→具体的には、意識を思考から引き離してみる。
(意識って焦点を移動できるので、これがちょっとした訓練でできるんですよ!)
→そして意識のフォーカスを「今この瞬間」に変えて、今この瞬間にいる「身体の感覚、神経」の世界にいく。
→そして「今この瞬間」から、不満の消える状況を明瞭にイメージする。
→すると未来からそれが実現してやってくる。
→結果、「腹立つわ~」の出来事が改善。
思考の奴隷になって、それが自分が主体と勘違いしたまま、何をボヤこうと叫ぼうと、あるいは冷静をもって冷笑しようと、そんなのチンタラの極みで、このスピードと確実性には絶対叶わない。
心の軽さも全く違う。
サクサク、楽しい、平和、気楽が好きな人は、深刻さをブン投げて、この方法を実践することをお勧めします。