教育ひとすじ半世紀 ~ わが80年の人生のスケッチ ~(3)

わが家の自立 
 (1956年)4月札幌へ。和寒駅に国鉄職員だった敏光叔父がにっこりしていた。札幌での宿舎は「恵迪寮」。札幌駅から北18条の寮までリアカーで荷物を運んだ。
 高校時代の先輩が後輩の私たちを札幌の喫茶店に案内してくれた。「美松」という店。私は生まれて初めてコーヒーを飲んだ。苦くて砂糖を入れなければ飲めない。この砂糖入れコーヒーはその後60数年今に続いている。
 大学4年間、自分は学生寮(恵迪寮と北学寮)で暮らした。ここでは麦を含んだメシ。しかし納豆のおかげで栄養はバランスがとれていたのではないか。
 勉強の講義に出ることよりもバイトと学生運動の北大時代だった。しかし今のようなテレビなどの身近な娯楽がなかったせいもあったが、自分ながらよく勉強したのではないかと思っている。また読書もしたように思う。世界の古典に親しんだ。そして年に何度かあるコンパなどでは第一にうたう歌は寮歌、そして労働歌や若者の歌だった。このころに口ずさんだ歌は今も覚えている。

 5月の連休に帰省した。母がうれしそうな顔をしていたことを忘れることができない。
 大学に入った年、高校時代の松田先生が登山部顧問だったからか、大雪山の縦走をやったと記憶している。よくやったものだ。この時、黒岳とかその他の山の名前を覚えたが今は忘れた。
 十勝岳周辺でバイトをしたように思う。その時十勝岳にも登ったように記憶しているが…。
 
 2年目の秋、どの学部に行くかが問題になった。文類の学生は法・経・文・教育学部という順番に決まっていく。私は大学2年の時、恵迪寮で聞いた教育学部の鈴木朝英先生の講演に大きな刺激を受けていたのか、迷うことなく教育学部を志望。当時、第一志望で教育学部を選ぶ数少ない学生だった。教師になりたかったというより教育行政の仕事につこうと思っていたように記憶している。専攻は鈴木朝英先生の「教育史・比較教育」。
 決めた卒論テーマは「発展途上国であるインドの教育史」だった。国の発展にとって学校教育がどういう役割を果たすか、といったことが問題意識だったと記憶している。

 1960(昭和35)年に大学を卒業。その年の4月、当時女子校だった札幌北斗学園に採用された。中学校と高校の教諭。中学校教諭の資格を証明してもらえたので大学での奨学金がすべてチャラになった。札幌北斗にはいるために大学の鈴木教授も高校の藤田喜一校長に挨拶に行ってくれた。自分の先輩だった乙部さんという人が北斗を退職したのでその後任だったと記憶している。
 母がようやく亀貝家の独立を得て、よほど嬉しかったか、和寒から札幌までの汽車の中でたえずにこにこしていた。思えば16年間に及ぶ和寒の長い寄寓生活だった。
 数か月間、札幌市菊水でのアパート生活をして、厚別ひばりが丘にできた公営住宅(6軒長屋)に入ることができた。
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