教育ひとすじ半世紀 ~ わが80年の人生のスケッチ ~(4)

教師、第一歩

 札幌北斗高校で30年間。この間、9回の卒業生を担任した。毎年、クラスを担任した。校務分掌で希望してもほとんどかなえられなかった。多分、組合で役員をやっていて、校長だった藤田喜一氏と常時団交などで丁々発止とやっていたからではないか。少々ケムタがられていたのは、と覚えている。その組合活動がこの高校教諭時代の特筆できることだった。勤務した年が例の「60年安保」の年。何度街頭デモに出たことか。しかしこの安保闘争のおかげで私の現社会に対する視点が確立したといっていいかも知れない。大学時代も、学生自治会の委員長などをやっていたから、組合活動はいわばその延長線上だったと言っていいかも知れないが。

 赴任2年目ころから、組合の執行部員になった。また当時結成直後の北海道私立学校教職員組合の書記次長になり、3年目ころから書記長になった。以降、退職する1990年までずっと道私教祖のトップに居続けることになる(書記長、副委員長、最後は委員長などと)。道私教祖時代の特筆できることは「私学助成」を求める運動を軌道にのせたことだったのではないか、と思う。
 70年代から80年代にかけて毎年「全国100万署名」など、私学への公的支援を求める私学教職員と父母たちの共同の活動を粘り強くすすめた。その成果が今日の私学への助成金になっていることを思えばある種の成就感がある。。
 道私教祖の代表として、全国の代表者会議などで、あるいは私学教研集会などで毎年のように各地に行った。1984年7月、洞爺湖温泉で第15回全国私立学校研究集会(全私研)が開かれた。私は開催地代表として挨拶をしたのだが、次のようなことを強調したと覚えている。
「札幌の地で、新渡戸稲造が明治28年に遠友夜学校を開きました。これは、学びたくとも経済事情で進学できない若者のための学びの場でした。私学のひとつの典型があると言っていいのではないでしょうか」と。
 この夜学校は50年間続いた。今思うのは、遠友夜学校はフリースクールの重要な意義を表しているのではないかということだ。
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