上杉鷹山という人

「うえすぎようざん」と読む。今の山形県米沢市の領主(大名)だった人(1751-1822)。
市立図書館から童門冬二著の「小説・上杉鷹山」上下を借りて読んだのだが、この大冊をしっかりと読み終えた満足感が一入だ。

上杉鷹山という人については、江戸中期の「名君」の一人という程度の知識しかなかったのだが、あらためてこういう人が江戸時代に居たのか、と感銘を深くした。
かつてアメリカのケネディ大統領が尊敬する日本人としてあげたという。

「なせば成る 成さねばならぬ何ごとも 成さぬは人のなさぬ成りけり」という歌を詠んだ人。

九州の生まれだったが、10歳のとき、縁があった米沢藩主の養子となり、17歳で藩主となった。若くして、お屋形(やかた)さまと呼ばれるようになったが、周りの重役たちからは「この外様(とざま)の若造に何ができるか」という目で見られていた。米沢藩は日本でも最悪の状況(藩の財政、領民の暮らしなどのすべてが)だった。ここから青年藩主は全藩士たち全領民たちを対象とした問題提起を行い、だれからも意見を求めこのことを大切にした。このやり方は、身分制を社会の基本の仕組みにしていた当時としてはまさに劃期的なことだった。だから陰に陽に青年藩主への攻撃がなされた。

作者が最後に鷹山の事蹟を述べた部分を引用しておこう。
「世の中が湿っぽく、経済が思わぬように発展しないと、人々は、どうしても他人を責めたり、状況にせいにしたりすることが多い。しかし、鷹山はそれを突破した。鷹山の藩政改革が成功したのは、すべて
「愛」
であった。
米沢藩の人々は、士といわず町人といわず農民といわず、鷹山の改革に協力していそしんだ。それは、改革に協力することが、自らも富むことにつながっていたからである。
そしてそれは、富むだけでなく、他人を愛する心を復活させた。

今、上杉鷹山のような政治家が国政を指導するならどういう発言をするだろう、と思う。上に記したこと(みんなの意見を聞く、社会の仕組みへの根本的問題提起をする、愛のあるまつりごと、など)の観点で大きな「手直し」(根本的な変革)を求めていくのではないだろうか、とつくづく思うのだが。

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