来し方、行く末に思いを続けて…
日記 … Kametarou Blog
「障害者は抹殺さるべき」という恐るべき行為
2016年の7月、「障害者は不幸を作ることしかできません」。こういう恐るべき思想を具体化して19人を殺害し、その他傷つけた人たち合わせて45人。
神奈川県の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた大量殺人事件の犯人植松聖被告。
神奈川県の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた大量殺人事件の犯人植松聖被告。
第一審は死刑の判決。植松は控訴しないと言っているがどうなるのだろうか。
こういう、人間を徹底的に差別する行為は歴史の中ではむしろ主流だったのではないだろうか。人種によって、性別によって、あるいは年齢、そして体力や知力によって。
日本では第二次大戦後の「日本国憲法」でこの差別選別の思想を捨てたことになっているのだが、上の植松某のような行為を行う人間がいるだけでなく、昨日記した森友問題で安倍総理を忖度して執拗に公文書偽造などを推進した官僚たちもこの差別者の中に堂々と位置づけられるだろう。
考えてみれば、差別は歴史の主流だったといったが、例えば日本にかつてあって誰もが知っているだろう「姥捨て伝説」などもその一例だろう。
不要になった(あるいは不要の)人間は捨てる、消す、抹消する、という思想。日本だけではないだろう。
かつてドイツの哲学者カント(1724-1804)は、人間は目的そのものだ、という意味のことを主張した。つまり人間は「手段」ではない、というのである。人間は人間であるが故に価値をもっている、という意味だろう。この哲学者カントは世界で初めて平和のために国際的な組織を提案している(今の国際連合)。
植松某がもっている人間に役立つ者と役立たない者といった差別選別の思想は今から200年以上も前に問題視する先達者がいたことを知っていたい。宗教関連の先人の中に同じようなヒューマニストはいたはずだ。例の「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」といった親鸞もやはり同じだったと思う。
しかしそうは言ってもなかなか人間の心から差別思想はなくならないのが問題だ。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 財務省職員、... | 死をもって告... » |