来し方、行く末に思いを続けて…
日記 … Kametarou Blog
教育ひとすじ半世紀 ~ わが80年の人生のスケッチ ~ (1)
「文芸和寒」といういわば和寒町の同人雑誌に載せた文書ですが、転載してみます。このブログのスペースを埋めるためという消極的な理由が主ですが。
教育ひとすじ半世紀 ~ わが80年の人生のスケッチ ~ 亀貝一義
いつどうなるか、いつわが一生を終えることになるか、そういう心境になった2017年12月末。わが80年の人生を振り返ってみたいと思い綴ってみた。恥ずかしながら、の気持ちをもちながら公開。
新潟から和寒へ
生まれは新潟市の郊外。弟とふたり。私の誕生は1937(昭和12)年9月14日。弟は1939(昭和14)年。
父は亀貝作次郎。母と私と弟を残して中支に出征(多分昭和15年)。そして昭和17年10月4日に戦死した。翌年3月末、母の実家の和寒村に引っ越す(大瀬喜三郎・ミネが母の両親)。以後、昭和35(1960)年まで大瀬宅でお世話になる。喜三郎は昭和22年ころ死。母の弟夫婦一家に寄寓する形(母の弟・私からは叔父の大瀬喜一郎は終戦後復員)。私たち兄弟は母共々援農作業に従事する。これが亀貝家の基本形であった。
昭和19年4月に和寒村三和国民学校に入学。学校まで約半里(昔、4キロは1里。2キロは半里。距離のおおよその感覚である)。小学校から和寒村立和寒中学校。片道約3キロぐらいだったか、この中学校通学も小学校のときと同じくほぼ皆勤だった。
中学校卒業後の進路について、多くの友人が高校進学を希望していたので自分も「士別高校」への進学を希望することにして一応願書は出していた。しかし母の思いもあり、私自身就職の意欲ももっていて、和寒の駅近くの木工場に就職が決まった。母の希望である「亀貝家」の独立が大きなテーマだったからかも知れない。
しかし数日間木工場に働きに行ったがそこの先輩の職員が「こんな会社に働くのではなく高校に行った方がいいよ」と言ってくれたりして、また士別高校への願書も一応提出していたので、高校進学ということになっていた。母が「まだ大瀬の実家で世話になっていなければならない」と半泣きになりながらも、高校進学を許してくれた。弟も士別高校に入った。和寒中学校時代の思い出はあまりない。皆勤ではなかったが精勤だったのではないか。成績は、悪くはなかったが特別にいいということではなかった。
昭和28年から3年間、三和から和寒駅まで歩き、そこから汽車に乗って士別高校に通学。和寒駅まで、また士別駅からの歩きを合わせて片道合計5キロぐらいだったと思う。自転車でもバスでもなかった。徒歩兼汽車通学というべきか。そして往復60分の列車内の時間は勉強と読書で活用できた。
教育ひとすじ半世紀 ~ わが80年の人生のスケッチ ~ 亀貝一義
いつどうなるか、いつわが一生を終えることになるか、そういう心境になった2017年12月末。わが80年の人生を振り返ってみたいと思い綴ってみた。恥ずかしながら、の気持ちをもちながら公開。
新潟から和寒へ
生まれは新潟市の郊外。弟とふたり。私の誕生は1937(昭和12)年9月14日。弟は1939(昭和14)年。
父は亀貝作次郎。母と私と弟を残して中支に出征(多分昭和15年)。そして昭和17年10月4日に戦死した。翌年3月末、母の実家の和寒村に引っ越す(大瀬喜三郎・ミネが母の両親)。以後、昭和35(1960)年まで大瀬宅でお世話になる。喜三郎は昭和22年ころ死。母の弟夫婦一家に寄寓する形(母の弟・私からは叔父の大瀬喜一郎は終戦後復員)。私たち兄弟は母共々援農作業に従事する。これが亀貝家の基本形であった。
昭和19年4月に和寒村三和国民学校に入学。学校まで約半里(昔、4キロは1里。2キロは半里。距離のおおよその感覚である)。小学校から和寒村立和寒中学校。片道約3キロぐらいだったか、この中学校通学も小学校のときと同じくほぼ皆勤だった。
中学校卒業後の進路について、多くの友人が高校進学を希望していたので自分も「士別高校」への進学を希望することにして一応願書は出していた。しかし母の思いもあり、私自身就職の意欲ももっていて、和寒の駅近くの木工場に就職が決まった。母の希望である「亀貝家」の独立が大きなテーマだったからかも知れない。
しかし数日間木工場に働きに行ったがそこの先輩の職員が「こんな会社に働くのではなく高校に行った方がいいよ」と言ってくれたりして、また士別高校への願書も一応提出していたので、高校進学ということになっていた。母が「まだ大瀬の実家で世話になっていなければならない」と半泣きになりながらも、高校進学を許してくれた。弟も士別高校に入った。和寒中学校時代の思い出はあまりない。皆勤ではなかったが精勤だったのではないか。成績は、悪くはなかったが特別にいいということではなかった。
昭和28年から3年間、三和から和寒駅まで歩き、そこから汽車に乗って士別高校に通学。和寒駅まで、また士別駅からの歩きを合わせて片道合計5キロぐらいだったと思う。自転車でもバスでもなかった。徒歩兼汽車通学というべきか。そして往復60分の列車内の時間は勉強と読書で活用できた。
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