来し方、行く末に思いを続けて…
日記 … Kametarou Blog
教育ひとすじ半世紀 ~ わが80年の人生のスケッチ ~(5)
母の病、妻との出会いなど
母は札幌移住後2年ほどしたら、精神的に変調を来した。公営住宅の隣近所に行って嘆くなど平常ではあり得ない行動をとるようになった。最初厚別の「ひばりが丘病院」に入院。その後、札幌南区の「平松病院」、そして80年代後半からは北区の「荒木病院」で過ごすことになる。
母の発病は何がきっかけだったか分からない。多分、父の戦死、和寒でのくらしでの気苦労、そしてわが家の独立でようやく苦労から解放されることによって得た「安心」が精神の変調の遠因になったのではないか、などと想像している。2006年6月93歳で苦労ばかりの人生を終えた。
母は一生のうち、「幸せ」を感じ取ることができた期間はどのくらいだったろうか、と悲しくなる。多分、結婚して父といっしょに暮らし、私たち兄弟ふたりを生んだ4,5年間(昭和15年頃父は出征)だったのではないだろうか。
私教祖運動の中で、妻になる高松莞子と知り合った。たしか研究委員的な仕事を共通でやっていて、そこから私的な関係を深めることになったのではないかと思う。1964年の夏からの交際だったが、数か月して「結婚」を約束した。結婚式はささやかな集会所で行おうと二人は話し合ったのだが、当時札幌北斗高にいた私の先輩にあたる人たちは、「派手にやろうよ」というようなことを進言してくれたこともあって、今はない「ローヤルホテル」(中島公園横)を会場にして1965年4月5日に披露宴を開催。そして新婚旅行は函館の湯ノ川温泉。
2017年の末で、結婚52年になる。この間、特に激しいけんかをするなどもなく仲のよい夫婦であると思う。3人の子どもに恵まれた。
教師生活20年を超えると「人生ただ教師だけでは物足りない」などという考えを持つようになり、違う道を考えたこともあったが、結局は自分の能力や現に行っている教育の仕事の意義などを考え「教職一筋」を貫くこととなった。
母は札幌移住後2年ほどしたら、精神的に変調を来した。公営住宅の隣近所に行って嘆くなど平常ではあり得ない行動をとるようになった。最初厚別の「ひばりが丘病院」に入院。その後、札幌南区の「平松病院」、そして80年代後半からは北区の「荒木病院」で過ごすことになる。
母の発病は何がきっかけだったか分からない。多分、父の戦死、和寒でのくらしでの気苦労、そしてわが家の独立でようやく苦労から解放されることによって得た「安心」が精神の変調の遠因になったのではないか、などと想像している。2006年6月93歳で苦労ばかりの人生を終えた。
母は一生のうち、「幸せ」を感じ取ることができた期間はどのくらいだったろうか、と悲しくなる。多分、結婚して父といっしょに暮らし、私たち兄弟ふたりを生んだ4,5年間(昭和15年頃父は出征)だったのではないだろうか。
私教祖運動の中で、妻になる高松莞子と知り合った。たしか研究委員的な仕事を共通でやっていて、そこから私的な関係を深めることになったのではないかと思う。1964年の夏からの交際だったが、数か月して「結婚」を約束した。結婚式はささやかな集会所で行おうと二人は話し合ったのだが、当時札幌北斗高にいた私の先輩にあたる人たちは、「派手にやろうよ」というようなことを進言してくれたこともあって、今はない「ローヤルホテル」(中島公園横)を会場にして1965年4月5日に披露宴を開催。そして新婚旅行は函館の湯ノ川温泉。
2017年の末で、結婚52年になる。この間、特に激しいけんかをするなどもなく仲のよい夫婦であると思う。3人の子どもに恵まれた。
教師生活20年を超えると「人生ただ教師だけでは物足りない」などという考えを持つようになり、違う道を考えたこともあったが、結局は自分の能力や現に行っている教育の仕事の意義などを考え「教職一筋」を貫くこととなった。
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