来し方、行く末に思いを続けて…
日記 … Kametarou Blog
りゅうちぇるさんの死について思う
私はこのりゅうちぇるさんというタレントについて、今問題になっていることを除けば全くと言っていいほど知識・認識はない。だけどこの1,2日のネットなどで指摘されていることについて一言言わないわけにはいかない気がしている。
実に無数の誹謗中傷がなされて、これらが彼を死においやったのだ、という論調だ。私は、そうなのだろうと思う。そして、一般に言われる誹謗中傷を行った人たちやマスメディアの責任を問う気持ちも人後に落ちない。
自分の単純な印象や感想を、あたかも客観性をもった指摘(つまり有意義の指摘)として「攻撃」「批判」に使う。それが攻撃された人にどういうキズを与えるか、を考えない。時には、その批判・攻撃が、それを受けた人を大いに傷つけることがあったとしたら「成果」があった、と錯覚しているのではないか、と思いたくなる。
多様性を尊重しよう、自分らしく生きよう、個性を表現することにためらうことはない、私はそう思う。そして、もう一面、「あなたがそういう生き方をして他から批判・攻撃されたならば、断固として反撃しなさい」と言うべきだと思う。
その昔、いじめられたら、「お前なあ、いじめられたらいじめ返すぐらいの根性をもてよ」と、いじめた人への批判よりも、まず我が子を叱咤激励したのではなかったろうか。今はいじめるものを批判・指導・教育する。それは全く正当だ。いじめを根絶しなければならない。しかし、今の世の中、強い立場の者から、弱い立場の者への、「いじめ」に近いことが無数にある。
私たちは、弱い立場の者は自分を守るために、強い立場にある者への反抗をもつ必要があるのではないか。だからりゅうちぇるさんが、死を選ぶのではなく、自分を攻撃したり嘲笑したりした者へ、反論したり反抗したり抗議したり、の態度をはっきりと執って欲しかった。そう思うのは一面的なのだろうか。よく言われる「自分らしく生きる」ことは、それを中傷したり嘲笑したりする者への毅然とした態度をとることで担保されるのではないだろうか。それを支援することができなかった今の社会の問題点をも議論したい。
実に無数の誹謗中傷がなされて、これらが彼を死においやったのだ、という論調だ。私は、そうなのだろうと思う。そして、一般に言われる誹謗中傷を行った人たちやマスメディアの責任を問う気持ちも人後に落ちない。
自分の単純な印象や感想を、あたかも客観性をもった指摘(つまり有意義の指摘)として「攻撃」「批判」に使う。それが攻撃された人にどういうキズを与えるか、を考えない。時には、その批判・攻撃が、それを受けた人を大いに傷つけることがあったとしたら「成果」があった、と錯覚しているのではないか、と思いたくなる。
多様性を尊重しよう、自分らしく生きよう、個性を表現することにためらうことはない、私はそう思う。そして、もう一面、「あなたがそういう生き方をして他から批判・攻撃されたならば、断固として反撃しなさい」と言うべきだと思う。
その昔、いじめられたら、「お前なあ、いじめられたらいじめ返すぐらいの根性をもてよ」と、いじめた人への批判よりも、まず我が子を叱咤激励したのではなかったろうか。今はいじめるものを批判・指導・教育する。それは全く正当だ。いじめを根絶しなければならない。しかし、今の世の中、強い立場の者から、弱い立場の者への、「いじめ」に近いことが無数にある。
私たちは、弱い立場の者は自分を守るために、強い立場にある者への反抗をもつ必要があるのではないか。だからりゅうちぇるさんが、死を選ぶのではなく、自分を攻撃したり嘲笑したりした者へ、反論したり反抗したり抗議したり、の態度をはっきりと執って欲しかった。そう思うのは一面的なのだろうか。よく言われる「自分らしく生きる」ことは、それを中傷したり嘲笑したりする者への毅然とした態度をとることで担保されるのではないだろうか。それを支援することができなかった今の社会の問題点をも議論したい。
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