「青い目の人形」のこと(NO1)

先日、私は退任の挨拶で次のように記しました。
「1990年に更なる意義を求めて別の教育活動に転身すべく同校を辞し、93年にフリースクールを立ちあげました。そしてここで新たな目標を見つけた子どもたちの進学先である札幌自由が丘学園三和高等学校を、私の出身地の和寒町の熱烈な協力を得て開校したのが2009年でした。4月25日の開校式で、子どもたちが演じた『青い目の人形』の舞台など忘れられない思い出です」と。

また昨年7月に、学園だより「希望の樹」NO156 に次の記事を書きました。
「私の出た小学校は和寒の三和小学校です。今から90年以上前から半世紀以上もの間理科室の教材にまじって『うずもれていて』1953年9月に全く偶然に発見された『青い目の人形』がありました。約1万5千体、アメリカの子どもたちが日本との友情を祈って贈ってくれた人形でした」。(「青い目をしたお人形はアメリカ生まれたのセルロイド…」という歌の主人公です)。

ところが日本がアメリカに戦争をしかけることになって、この人形はほとんど壊されました(敵国の人形は壊してしまえ!と)。しかし三和の校長先生たちはこっそりこれを隠し通したのでした。

現在、全国でこのような「運命」をたどった青い目の人形は195体あるのだそうです。三和小に眠っていた人形も和寒の宝物として大切に保存されています。


私にとってこの「青い目の人形」はきわめて重要な意味をもっていました。もっとも私が小学校を卒業したのは1950年だったから話としても耳にすることはあり得なかったのですが。
しかしどういうわけか分からないのですが、上の童謡はずっと以前から(多分小学校在学のころから?)耳にしていたと思います。
「青い目の人形」 野口雨情作詞、本居長世作曲 ((https://www.youtube.com/watch?v=VjcRfcTJnFg)。
この歌と対比できるのだろうか、同じ作詞家作曲家によって創られた童謡「赤い靴」があります。

高岡美知子という人が「人形大使(もうひとつの日米現代史)」という400ページを超える本を書いています(2004年3月。日経BP社から)。
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