静岡駅からすぐ近く、サールナートホールの3階にある静岡シネ・ギャラリー。
静岡県にある数少ないミニシアターのひとつ。
コロナの影響で苦しんでいるシアターが多いなか、なんとか生き残って上映を再開してくれていました。
シアター入口には監督の堀潤さんの記事の数々が。
こういう心遣いはなんだかうれしい。
シアターの方たちの思い入れがわかります。
平日の昼間、コロナの影響も残るせいか、館内はじゅうぶんなソーシャルディスタンス。
座り心地の良い柔らかな椅子にもたれて上映を待ちます。
「わたしは分断を許さない」
堀さんの想いが強く現れたタイトル。
これは、ジャーナリスト堀潤が世界中を駆け抜け、人々に寄り添い、見聞きを続けた取材記録を紡いだモノ。
香港。自由を求める人々と警察との激しい衝突のシーンから、映画は始まる。
奇しくも「国家安全法」が導入されたばかりの香港。昨日のニュースが頭をよぎる。
目の前で警官が民間人を撃つ映像。
堀さんは出会ったひとりの学生の声を聴く。
「真実を見極めるためには、主語を小さくする必要がある」
堀さんの言葉の真意は?
福島から沖縄へ移住した女性のこえ。
難民申請をする男性のこえ。
そこには大きなメディアからは伝わってこない、当事者たち個々の、ちいさな、そして強くて変えられない真実と思いがある。
あちら側とこちら側では、見え方が違うように、人の思いも意見も変わるのだ。
ガザ。避難して暮らす少女のゆめ。
ボランティアとして活動する女性のこえ。
シリア。長く戦争がつづく国。
ジャーナリストの安田純平さんは長い間シリアで拘束された。
(危険な地域でへ自ら入ったのだから自業自得だ)という声が多く聞かれたのをよく覚えている。
あの時、わたしはどう思っていたんだっけ?
「伝えなければならない」と語る彼に
「なぜ?伝えなければならない?」と聞くシリア人記者。
安田さんはこう答えた。
「遠くの国の戦争だけれども、遠くで誰かが死んだことに何も感じない人は、近所で誰かが死んでも何も感じないと思うから」
安田さん自身のこえを聞いたのは私はコレが初めてだという気がする。
わたしは大きなメディアだけを信じ、小さな個人の思いを見ていなかったんだ。
そこには安田さんの正義が、きちんとあった。
日朝交流をはかる学生たちのこえ。
同じ若者でも、考えは双方向だとは限らない。
だからこそ、語りあう。
沖縄。基地に揺れるまち。
座りこむ人々と、排斥する警察。
どちらも沖縄のひと。
福島。家も仕事も失った女性のこえ。
「賠償金たっぷりもらってるんだろう」
心ない声を浴びせられた彼女は
「お金なんかいらないから生活を返してほしい」
と涙をうかべる。
こんなメディアばかりの時代なのに、知ろうとしない限り入ってこない情報だらけ。
大きな主語でしか語られていないからだ。
福島は。生業訴訟は。原発は。。。
そこにはそこに暮らす人々がいて、それぞれの苦悩が、考えが、真実が、正義が、想いが、そして未来があるのに。
ひとくくりの報道ではわたしは何も知り得ない。
小さな主語を探して、見つけて、知って、考えなくっちゃいけないのに。
たとえば堀さんが小さな主語(だれか)にスポットを当ててくれていようとも、それを受けとる私がそこからきちんと考えなければ「分断」は止まらない。
走馬灯のように流れてゆく情報を、きちんと掴んで消化する力を養わなければならない。
多角的に見て、考え、(行動することは難しくっても)ときには発信したり、一歩踏み込んでみたり、わたしなりの答えを探してゆこう。
何が正しいのか。
誰が正義なのか。
答えはどこにあるのか。
わからないから考えないんじゃぁなく、
わからないからこそきちんと知って、
考えて見極めなくっちゃならないんだ。
ちいさな主語からおおきな物語が生まれるように。
(おわりに)
まちにミニシアターがあるおかげで、この映画を観ることができました。
コロナの影響で休館が長らく続き、苦しいシアターが多いとのこと。
色々な対策を講じたうえでの再開に、本当に感謝です。
となりまちとはいえ車で小1時間の距離。
決して近くはないけれど、大切なまちの財産を守る意味でもなるべく多くの映画を観に行けたらなあ、と思っています。
今後も楽しみな作品が、たくさん。