無味乾燥な

つまらぬ話でございます

目的を忘れないこと

2020-03-01 21:52:44 | 日記
トレーニングジムも含めて出歩きを禁じられて、録画して溜めていた映画を観て過ごす。
「ニュースの真相」。終盤で、主人公が、査問委員会に言う。何故事実を問わないのか、行動した目的が事実の追及にあったにも関わらず、事実の検証はなく、その処理の方法の責任追及についてだけになるのはどうなのか。
中村哲さんは、「議論は無用」、"just practice" と言った。

ウィルスのことは、それが原因で亡くなった方の数が問題なのであり、分母の数はわからないのであるから、確率に意味はなく、途中経過である進行形の対処法の是非をどうこう言うことには全く意味がない。巨大津波と同じく、後から検証して、その段階での方法の科学的な評価をするべきであって、今どうこう言うことはダメだ。
供給されるべきは、罹患したらどうなるかであって、個人個人の心配度合い、余裕というものに影響される不確実な罹患者数ではない。全数検査しない我が国のスタンスは、これが根拠だと言えばいいのにそう言わないのは他に理由があるのだろう。従来からあるmhlwの欠陥が、その「他の理由」にある。
結界ではない人間の作った区域内での数など全く意味がない。長たちが、全国放送で私はちゃんとやってますよ、と言う機会を提供しているだけで、結局のところは、国でちゃんとしてくれというだけである。少しズレるが、自分たちの仕事を、直営でやるよりも民間委託のほうが有益だと平然と言える人たちだからそんなものである。コストでいえば、直営>(同じ行為+利益)が成り立つのであれば、民間のコストはどこで吸収するというのか?低賃金と買い叩きが正しいことなのか?
テレビで途中経過で方法論にぐだぐだコメントしても意味がなく、「専門家」ならば、ひたすらに死に至らないようにすることを考え、実行しなければならないのである。
治療できる薬を作ること、治癒の方法だけが必要であり、できるまでの間は、今ある医学的な統計(疫学)によって導き出した分母を利用して、罹患した場合の亡くなる確率はこれぐらいだと伝えるのがよいと思う。

現在の我が国は、公共の福祉という目的の為に制度を作るが、実施において目的はどこかに行ってしまい、勝手に作った面倒なフォーマットにこだわることに終始してエネルギーを浪費してしまう。情報公開が前提であるから、フォーマットに合わせないと自分の落ち度になると考えるところで止まってしまい、何のためにやっているのか分からなくなるのである。日頃そんなこればかりやっている公務を担っている人達に、先々のことを考えることなどできるわけがない。国会での政府対野党の不毛なやりとりも背景にあるのだろう。
最も大きな問題は、国際的にこの流れがあるように見えることである。国内の報道が、自分たちのフォーマットに合うところだけ切り取っていて、私はそれしか見ていないのかもしれないが。

単なる個人の感想である。

自転車で海まで行った。この光景に希望を感じた。