少し昔にボルシチがロシア料理かウクライナ料理かで揉めて、料理屋のアカウントを袋叩きにして、削除に追い込み、店名まで変えさせるというナンセンスな事態が起きた。
元は「ロシア料理とパンの店 ××」だったものが「スラヴ料理とパンの店 ××」に変わっていた。
この料理店は、スタローヴァヤ(食堂)を意識したという。
これは、自分だったら店名について以下のように提案する。
特定の国や民族名を出さずに、そこの地名+××(店舗名)にすればいいんです。
「西武東伏見 ××食堂」
そうすれば円くおさまると思います。
地名というのはそういう意味ではとっても便利である。スタローヴァヤは食堂を意味するので、何の遜色もない。(*伏見というと京都と勘違いする人も出てきて、別の意味でボコされる)
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先日は、厚木市の中津川と荻野川にある台地を走る国道412号沿いを実踏してきた。
この台地は、冬営に適する場所が幾つかありそうであった。しかし400年前の*カネディアン🔱に直接聞き取り調査した訳ではないので妄想でしかない。
《カネディアン🔱: 金田(カネダ)地区という蒙古集落に定住する人達の祖先。》
牧民は基本的に世帯単位で勝手勝手に動き、定住村落などを作らず、離散した形で生活をしている。営地は各世帯主が決めるものである。
厚木市内は地図で見た限り冬営地に適した箇所が非常に多く見える。
北西の風を防げる山と、その近くに河川などが多い。
バス会社のバスルートを表示して遊んでいた。バス会社の地図を見ると何をどう解釈したら良いのか解らない。
iPhone の地図は、高低差は全く描かれていないが、山と川と緑地が省略される事がなく書かれている。
バス会社のバスルートマップは、主要な川以外は重要視されておらず、荻野川などは灌漑農業用水並みに細く描かれている。
何処が山なのか解らないほど、山に色が塗っていない。主要な山には山を表す記号と名称が書かれている。緑色の土地は、公園かゴルフ場か墓地などである。しかし、拡大すると等高線があるのが分かる。そして、ランドマーク的なものや目的地が目立つように書かれている。
自分は、山と川などを基準に見ており、何の川と何の川の間に何番の国道や県道が走っているのか?道の行き止まりはどこか?地形はどうなっているのか?という目線で地図を見ている。
バス会社の等高線は有難い。
厚木のバスは面白い。本厚木駅前では様々な行き先のバスがあり何処へ向かうのか。
今日は厚18系統の上飯山行きに乗る。小鮎川沿いの県道60号を行くバス🚌。終点、上飯山迄行く。地形などを見てみたいからである。
上飯山は温泉地♨️である。この路線の地域も、田地などではなく、平地、台地である。戸室周辺には小山があり、ここの山陰も冬営出来そうである。橋場のバス停辺りから山勝ちになっていく。
この道をそのまま行くと清川村に行く。
猿🐒だの熊🐻だの亥🐽だの、獣被害が凄い地域だ。
小鮎川が流れている。鮎が獲れるのだろう。
小山付近の開けた地。ここは小鮎川からも近く、これも冬営には良いような気がする。
この開けた地から、横断歩道を渡ったすぐ近くに、石がゴロゴロ置いてある。かつて*石囲いだったものの残骸だろうか?
《石囲い: 遊牧民の冬営地にあると云われる石囲い。この石囲いは家畜の糞や薪を囲うものである。糞や薪は家畜の防寒用の燃料になる。》
道祖神の石碑を写真に収めていないが、道祖神があった。道祖神があるという事は「古道」。いつの時代からあるのかは解らないが、近年新規開拓された道ではない。ここには人の往来があった。県道60号は古道だったのか?
以前実踏した「上三増」に行く県道65号も道祖神があり、古道である。
「道祖神がある道は古道」というのは「アキドチャンネル」のアキド氏から得た情報。
牛はどのくらいの勾配迄耐えられるのだろうか?山羊はどんな急斜面でも選り好みせず、歩行出来る。馬は、日本馬(和種馬)は、山岳地帯向きの脚質の種の骨格があれば、山岳地帯も乗り越えられる。モンゴルのモウコウマよりも遥かに日本に適した馬だ。
家畜がある程度の勾配に耐えられて、古道というものが有れば、カネディアン🔱は何処にでも行ける。厚木近郊の、水菜(もみじクッキー)の左半分の山のどん詰まりから抜け出る事が出来る。
家畜は機関車ではないのでそこまで難しく考えなくて良いのではないか。彼らは、自分が考えるよりも遥かに日本の地形に適している。
木曽馬などは蒙古草原馬だけではなく、*タルバン系高原馬のルーツもあると言われている。
《タルバン系高原馬: 現在の中国西部に存在していたと言われる馬で、漢の武帝の頃、汗血馬、千里馬、天馬などの駿馬を得た頃に中国に入ってきたとされている。》
高台に登る急な坂を見つけて登る。
畜舎発見。匂いからして牛。
敷地内の犬が吠える。大丈夫。犬は繋いである。言いたい事は沢山あるのだろうが、人間(主)に密告したりはしない。自分は牛を泥棒するつもりはない。
ここは北西の風を防げるような気はする。この日は南風が強かった。高台に開けた地が広がる。
近くに小鮎川がある。
高台に広がる土地
この高台にも石囲いの残骸を妄想させられる石群がある。
少し高台に神社を見つける。赤いので稲荷神社だと思うが、登って見てみた。狐が祀られていたので稲荷神社だった。
ファミマを見つけた。遠出先で出会した自販機やコンビニの存在は本当に嬉しい。
しかしこの店良い景観立地にある。
これでは太る街道まっしぐらだ。健診で空腹時血糖値が高く糖尿病一歩手前だと言われた。普段から甘いものや穀物をそんなに食べないのに。歳もあるし体質もあるな。
遺構の話に戻る。遊牧遺構との出会いは、超越者による采配が大き過ぎる為、自分の思い通りには行かない。
遊牧民もそれと同じで、自分で計画して放牧地、営地を選択するが、モンゴルとは違う日本の自然環境下や社会環境下では自分の思い通りにならない事の方が多かった。以前の記事ではカネディアン🔱牧民の気まぐれに振り回されているように感じていた。しかし、それは逆で、牧民自体が日本の自然環境の気まぐれに振り回されていたのではないかと思える。
モンゴルの環境に於ける牧民について書かれた文献は、ほとんどアテにならない。牧民自体がモンゴルと同じにしようとしても、それが叶わなかった事が伺える。
だから、遊牧遺構を敢えて探そうとはせずに、そこら辺を散策して、運良く遺構が見つかれば良いという程度にする。カネディアン🔱牧民の判断で全てを決めた事である。
自分が考えて、当てられる事などはほとんど無い。
言い方を変えると、個人の考えている事を言い当てるのと同じくらい難しい。
カネディアン🔱個々人の家庭の事情により、違うのである。
カネディアン🔱は一括りに出来る集団ではない。一括りにした方が幕府とか行政にしたら扱い易かっただろう。
ここは「宮の里」という場所に近い。そこへ行ってみる。
定牧場がよく見える。牛舎から、牛の声が聞こえた。
普段、ここで牛を放牧しているのだろうか?
水が溜まっている所がある。牛が飲む水だろう。
宮の里地区は高台にある。こんな事はスマホの地図には書いてない。宮の里は、飯盛山(メシモリヤマ)⛰️と言われた山であった。これは江戸時代から言われ始めた。平安時代には印山と言われていたようである。石碑に書いてあった。
飯盛山にしても印山にしても倭人がつけた名前だ。これでは、この世にはまるで倭人しか存在しなかったかのように思える。しかし、カネディアン🔱牧民も実在していて、この山と関わりがあったのかも知れない。
まずは公園へ。公園などに入る時、不審者に見られるのではないかと気になる。
公園に*テングリ(天神)を祀るオボーがあるだろうと安易に考えている。
《テングリ: 遊牧民が信仰する天の神》
確かに公園のある場所と、テングリを祀るオボーは必ずしも同じではない。寧ろ神社仏閣の方がテングリを祀るオボーがあるに相応しい所だ。
この地区(飯盛山)のいちばん高い所を目指す。
高い場所からの景色。
それでも自分は遊牧遺構を探そうとする。無駄な努力。
ここが徒歩で行かれる範囲内での宮の里地区で最も高い場所。先日行ったまつかげ台よりも標高が高そうである。
もしテングリを祀るオボーがあるとすれば、この崖の上である。
熊野神社⛩️があった。必ずしも神社仏閣というのは山の一番上にあるとは限らない。
鳥居の位置。
参道ではなく、駐車場に面している。
すぐ隣の稲荷神社⛩️。由来などが書かれている。
宮の里地区の山を降りて、荻野運動公園の脇を通る道を通って、荻野川を渡り、国道412号に辿り着く。
荻野川を渡る前に、石囲いの残骸のような石群があった。
国道412号沿いにはこのような石群が全く見当たらなかった。
以前訪問した、上三増(カミミマセ)地区にも石がたくさん転がっていた。
上三増訪問の記事
↓
上三増での石は、かつて庭石🪨として使われていたが、住む人がいなくなり、家が解体されて無くなってしまったが庭石だけが残って端に寄せられているという印象を受ける。
しかし、この県道60号線にたまにある石群は、敷地のような場所ではなく、ランダムに、そこらへんに転がっているので庭石🪨ではなさそうである。
本当にカネディアン🔱が使った、冬営用の燃料を囲う石だったのでは?と思えてしまう。石群がある場所が、冬営に適した、風が避けられて水の近い場所が多かった。
今更ながら、カネディアン🔱は本当にここに存在したとしか思えない。
石は何百年でもそこに在り続ける。この辺りは、開発が進んでいない地域で、爆撃機の戦火も免れている。
かつては綺麗な囲いだったのかも知れないが、他人が持って行ってしまったのだろう。
他の場所にも妙な石群があったのかも知れないが、宅地開発などで撤去されてしまった。
この石の成分などを調べれば、何処から持ってきた石なのか解るかも知れない。そういう事が出来るのが研究機関である。自分にはどうする事も出来ない。
家に帰って一日の散策を振り返った。
遊牧遺構は偶然出逢えればそれでいい。と考えていたが、写真を見直して、石群を見て、遊牧遺構に出逢ってたやん。と初めて気がつく。
この散策と何も関係がないが、モンゴルに*カナダ型🏹🔥ではないか?と思われるオボーがあった🇲🇳
(カナダ型オボー:倭国カナダ地区🏹🔥にあるものと同じ型のオボー)
(🐫本当はダルハン型🏹🔥と書きたいが、このオボーも“ダルハン🏹🔥”という都市も互いにモンゴル国🇲🇳に存在する。紛らわしさを回避する為、“カナダ🏹🔥”という倭国にある地区名称を使う。倭人が作ったわけではないので“カネダ”とはいわない。倭語読み→カネダ、蒙古語読み→カナダ)
*カナダ:モンゴル国領土内にこの地名があれば、更に紛らわしさ回避する為に別の名称を考えなければならない。”カナダ(Kanada)”或いは”カナタ(Kanata)”という地名は、ロシアの沿海州に実在する。ネットで得た情報なので信憑性に欠くが、”カナタorカナダ”は、メルキト部族の言語でいう、一時的な近隣共同体、一時的な村落共同体、モンゴル語でいうところの”ホト”と似たような意味である。
ホトもカナタも、ゲルなどの移動式住居がある特定の季節に於いて、集中する傾向にある場所を意味する。メルキト部族は、チンギス・ハーンの時代が始まる頃のモンゴル族の怨讐部族である為、自分としてはこの”カナダ”という名称に少なからず抵抗を覚えてきた。
金田(カネダ)という倭語名称を、モンゴル語に変えたが、それが怨讐メルキト部族のところの言う”村”のような意味になってしまう事が何とも遺憾である。だから早くカナダというメルキト語に替わる意味の語を見つけたかった。蒙古族も敵が多い。
メルキト部族の残党が沿海州にいるような気がしてならない。メルキト語のような地名が残っているということは、その可能性が高い。
カナダホトを読みで訳すると、村村という意味になってしまう。
色々とねじれが起こる為、自分も頭の中がごちゃごちゃになる。自分が遊牧民の戦争に巻き込まれているような錯覚に陥る。
廣田千恵子先生の続き文章。
《引用: chieko_hirotaインスタ》
廣田千恵子先生は、『カザフ刺繍』の著者であり、モンゴルのバヤン・ウルギー県などをフィールドワークする。モンゴル国在住のカザフ人と主に関わる。
廣田千恵子先生、このオボーと出会ってくれて、撮影してインスタに掲載して頂きありがとうございます。
オボーの形にはある程度の地域性があるらしい。
だから“ダルハン型オボー”と言ってしまうと、ダルハン地域型のオボーという解釈が出来る為、問題になる。
このオボーのある場所が分かれば、カネディアン🔱の故郷がある程度特定出来るかも知れない。
床部が円形で、周囲に雑草が生えているのに円の中には生えていない。実際円の下には大きな石が複数埋まっている様であった。
松とその他の木が植えられているが、松は浅根性で、岩に直接生える事もある。寧ろ松は岩のような場所でなければ生きられない。
周囲の雑草が枯れている。この枯れている範囲がこのオボーの本当の大きさ。
往時は石堆が高く積まれていたのかも知れない。
廣田千恵子先生が撮影したオボーを見た瞬間、カナダオボーと似てると直感した。
似ていると考えた理由を後日書くつもりである。先生は自分とは違い、モンゴルをフィールドワークしている研究者である。
自分は廣田先生のインスタの文章をモンゴルを知る手がかりとしている。
しかしこのオボーが”カナダ”などというメルキト部族の言葉と丸被りする名前で呼ばれてしまう事は不憫である。
カネディアンという名称も考えものである。まるでメルキト人のように思えなくもない。
長文のご精読ありがとうございました😊