かんちがい

、かも知れないけど、思いついたことを書いていく、ヤマサキタカシの日記です。

俳優が声優をやると「棒」に聞こえる理由を考察する

2022年09月03日 | Weblog
8月は、なんだか全くやる気が起きなくて、とうとうブログをお休みしてしまいました。
休日に食べる量を少し減らしたりして、最近はわりと元に戻ってきたような気がします。

今回は、俳優さんがアニメなどの声優に起用された時に、あれ、なんだか抑揚がないかなぁと、いわゆる「棒」に聞こえてしまう理由について、ふと思いついたことがあったので、書いてみようと思います。
ただ、ディズニーなどのアニメーションは声優の声を先に録って後から絵の表情をつけたりと制作手法が異なるようなので、おそらく今回のブログは日本のアニメにしか当てはまらないかもしれません。


朝はいろいろ準備をしながらラジオを聞いていることが多いのですが、今週は黒木瞳さんの「あさナビ」という短い番組に、落語家の春風亭一之輔さんが出ておられました。

そこで、落語家は登場人物を演じ分けるのに声質は変えない、男でも女でも子どもでもご隠居でも声質はほぼ同じで、語尾や表情や仕草などで演じ分ける、という話をされていました。

落語家の 春風亭一之輔さんが語る、聞く人に魔法をかける、落語家の声の使い方 | あさナビ | ニッポン放送 ラジオAM1242+FM93

毎日、さまざまなジャンルのプロフェッショナルをお迎えして、朝の活力になるお話をうかがっていく「あさナビ」。ナビゲーターは女優の黒木瞳さんです。...

あさナビ | ニッポン放送 ラジオAM1242+FM93

 

(下の方の「落語の稽古」というところで触れられています)

これを聞いて、おお、そう言われるとそうだよなぁ、と、新たな発見なのでした。

落語は、噺家が一人で状況などを言葉で説明しながらストーリーを綴っていくものですから、噺家の仕草などの視覚情報はあるものの、物語を理解するためにかなりの部分で聞き手・受け取り手の「想像力」が必要とされます。

そこへ、登場人物を演じ分けるのに声質を変えてしまうと、その想像力をフル活動させている最中には、かえって「雑音」になってしまうのかもしれないなぁと思いました。


そこでアニメファンとしては、アニメの方へ気が向いてしまいます。

アニメとは何かを考えると、諸説あると思われますが、元の根っこにあるものは「マンガに動きと音をつけたもの」と言えるかもしれません。

多くの手法が生まれたり技術が発達していくにつれ、アニメはアニメとして発展を遂げたわけではあります。


そしてマンガとは何か、と考えると、「象形文字」や「記号」の発展したもの、と言えるかもしれません。
これは別に私が考えたわけではなくて、手塚治虫さんが「マンガ記号論」として提唱したと言われています。

例を挙げて考えてみると、サザエさんに出てくるタイ子さんは、美人キャラとして認知されているのではないでしょうか。
サザエさん公式ホームページのキャラクター紹介でも、「美人でおしとやか」と紹介されています。


※画像はサザエさん公式ホームページより

冷静に絵だけを見て考えてみると美人なのかどうか、よくわからなくなってしまいますが、まつ毛が長い、とか、鼻筋が通っている、などの(日本人が)美人と感じる要素、「記号」が詰め込まれているため、タイ子さんを美人、と認識してしまうものと思われます。


それを踏まえてアニメの声優について考えてみると、声で演技をする際にも、「記号」化したほうが違和感なく聞こえるのではないか、という予測が立ちます。

ツンデレ美少女はこういう感じ、とか、ガタイのいいおっさんはこんな感じ、とかの「記号」というか「お約束」です。

そのような「お約束」の元に演技した方が「記号」としての絵に乗っかった時に、受け取り手としては違和感なく物語に入れるような感じが、あるような気がします。
もしかしたら日本独自のものなのかもしれませんが。

もちろん声優さんにも個性があり、全く同じものにはならないわけですが、それでも「型」「お約束」「記号」に則った上での個性、ということになりそうです。
別に声優さんに個性が足りない、というわけではなく、俳句でいえば5・7・5で表現しなければならない、みたいな制限という感じでしょうか。

そして必ずしも物語の登場人物が「型」を持ったキャラクターとは限らないので、そのような時にどのような演技をするか、という悩みも声優さんにはありそうです。

その「お約束」はあくまでもアニメの中だけのことであり、普段の生活ではアニメの「お約束」に沿って会話をすることはあまりありませんが、一部のアニメファンは普段からアニメのような言葉遣いや抑揚を実生活の中でも使用してしまうため、周りからすると、ちょっとめんどくさい人だな…ということになってしまうのでござるよ。



そして俳優さんがアニメの声優に起用された時に、俳優さんはそのような「お約束」の勉強や訓練をしてきたわけではないので、演技としてはアニメの「お約束」から逸脱したものとなってしまい、あれ、なんかちょっと違う、という違和感が、「棒」と言われてしまうものなのだと思われます。
そして、アニメファンであればあるほど、「お約束」に接する濃度が濃いはずなので、違和感はより強いものとなっていくものでしょう。

しかし、ジブリだったり、新海監督だったり、細田監督だったり、俳優を声優に起用しがちな方々の作品を見てみると、背景が絵画というか実写というかという感じで描きこまれていたり、キャラがめっちゃぬるぬる動くとか、「絵」として見た場合も「記号」としてのマンガ・アニメから逸脱したものとなっています。

というわけで、物語に引き込まれていくうちに、俳優さんの声優としての演技にも違和感を感じなくなっていくような気がします。

俳優さんの声優起用には、従来のアニメとは違ったものを作り上げたいという、制作者の意図も込められているのかもしれません。
(まぁ、知名度を利用した集客目的という大人の事情もあるのかもしれませんが…)

器用な俳優さんや、プライベートでアニメが好きという俳優さんなどは、アニメの「お約束」に沿って演技できる方もいるのだと思いますが、そのような制作者の意図があるならば、演技としても現実感のあるものを求められるのかもしれませんね。


また、テレビアニメでも「記号」にとどまらないような作り込まれた作品も多く存在するので、もしかしたらアニメの声優さんもこれからは徐々に、演技の手法などの移り変わりがあったりもするのかもしれません。

3Dアニメにはどんな演技が合っているのか、などの問題提起も起こりそうです。

まぁ個人的にはザ・記号って感じのベタなアニメも、消えないで残っていってほしいなぁと思います。



ここまで書いて冷静に読み返してみると、なんだかごく普通のようなことを大袈裟に書いてしまったというか、どこかで読んだものも多く含まれているような気がしますが、ご容赦くださいませ。

最後まで読んでいただきありがとうございました!


「蜘蛛の糸」から分断社会を考察する

2022年07月10日 | Weblog
このブログを途中まで書いたところで、安倍元首相が銃撃されて亡くなるという事件が起こり、事件の背景もまだよく分かっておらず、今回の内容はタイミング的にどうなのかなと思いました。

個人的な安倍元首相についての印象は、公共事業などの財政政策だけでなく、金融政策にも手を入れたということで、景気もそれなりに良くなって、コロナ前においては、わりと若者たちには就職しやすい世の中になっていたのではないかなと思います。

ただ我々40代の低所得者層には、目に見えたり実感できる恩恵というのが、あまりない感じがするので、個人的にはそれほど思い入れがあるわけではない、というのが正直なところです。

とはいえ、功績を残されたというのは明らかだと思います。
誰に対してもご冥福は祈らないことにしているので、「お疲れさまでした」と申し上げます。

そして、あってはならない事件というのはもちろんなのですが、犯人が40代ということで、同年代ということもあり、なんだかやるせないものも感じます。

というわけで、あえて普段通り、今回のブログを上げようと思います。

〜〜〜

マイケル・サンデルという、ハーバード大学の教授さんがいらっしゃいまして、「実力も運のうち 能力主義は正義か?」という本を、昨年、岡田斗司夫さんが紹介していて面白そうだったので、買ってはいたのですが、難解でなかなか読み進まず、先日ようやく読み終わりました。



というか、途中から、この人わりと繰り返しが多いなぁということに気づき、途中からかなり斜め読みをして、新しい単語が出てきたらちょっとペースダウンをする、という方法をとったらすんなり読むことができました。

失敗小僧というYouTuberの方の動画をよく見るのですが、長い動画が多く、めっちゃ頭の良い方だとは思うのですが、わりと繰り返しの部分が多く、それが逆に何かをしながら聞くのにはちょうどいい、という面がありまして、それに近い感じなのかもなぁと思いました。

というわけで読み終えた記念に、以前のブログでちょっとだけ触れた点について、今回は再び取り上げてみようと思います。

芥川龍之介の「蜘蛛の糸」は、おそらく国語や道徳の教科書で読んだことのある方は多いと思うのですが、今回はそのネタバレを含みますので、念の為、ネタバレがヤダという方はここでブラウザバックしてくださいませ。

また、「蜘蛛の糸」は仏教の経典ではなく小説なので、「御釈迦様」は実際の御釈迦様というよりも何かのイメージ・メタファーとして解釈します。
このブログにおいて仏教を批判・揶揄しようという意図はありませんので、ご理解ください。

あんまり考えもまとまりませんが、とりあえず書いてみます。



アメリカでは、ドナルド・トランプが大統領に当選した時に「分断社会」というものが浮き彫りになり、そしてジョー・バイデンが当選した時のゴタゴタでその分断の溝の深さというものが、さらに明らかになってしまいました。

日本ではそこまでは明確に表れてはいないものの、「上級国民」や「親ガチャ」といった言葉がネットをにぎわすなど、静かに水面下で分断が進行している様子が伺えます。

そして新型コロナによって世界的に分断の溝は深まっているようです。

サンデル教授はその「分断社会」について、グローバリズムと能力主義に要因があるとし、警鐘を鳴らしています。

日本の状況もつまみながら簡単にまとめると、

グローバリズムによって、全ての人の人生において成功する権利があるとされ、全ての人に平等にその機会が与えられるべきだとされてきた。
そのため、大学については、学力試験など、家柄・人種ではなく学生の能力に重点をおいた選考方法がとられるようになってきた。
そして、難関校に入学するためには非常な努力が必要とされるため、合格した人たちは家柄などではなく、自分の努力・能力が成功を導いたのだと考える人が多くなってきた。
しかし実際には、低所得の家庭で育った場合、入試の土俵にすら上がれないことも多々あり、仮に合格したとしても、学業中に長時間バイトをする必要があったり、のちに奨学金の返済に苦しむこともある。
そして「成功は努力した結果」「失敗は努力が足りなかった報い」という論理のもと、低所得の要因は自分にあると労働者本人でさえ思っているため、労働者階級は自尊心を失い、やり場のない怒りが渦巻いている。

こうして高所得者と低所得者の間の溝が深まってゆく。

というものでした。


以前、「蜘蛛の糸」を子どもの時に読んだ解釈と、現在読んだ解釈が、異なるものになってしまったということを、ちらっとブログに書きました。

それがサンデル教授の主張と重なる部分があったので、今回はもう少し詳細に書いてみようと思います。



必要ないかも知れませんが「蜘蛛の糸」のあらすじを書いてみます。

御釈迦様は極楽からふと地獄をのぞいてみた時に、極悪人カンダタを見つけます。カンダタは生前、殺そうとした蜘蛛をやっぱり踏みつぶすのをやめたという善行を一度だけ行っていたため、それを思い出した御釈迦様は救い出してやろうと蜘蛛の糸を極楽から地獄へ下ろします。カンダタはこれ幸いとその糸を昇り始めるのですが、疲れてふと見下ろすと、他の地獄の亡者どもが同じ糸を昇っているのを目にします。糸が切れるのを恐れたカンダタが、おまいら下りろ!とわめいた瞬間、糸はぷっつり切れてしまいましたとさ。



もううろ覚えになってしまいますが、小学校の授業で「蜘蛛の糸」を勉強したときは、「さぁみなさん、カンダタはこの時どうすれば良かったと思いますか?」と、カンダタの浅ましさに焦点が当てられ、自分も特に疑問は抱かなかったと思います。

「みんなで一緒に昇ればよかったのだと思います」とか「そもそも極悪なことをしてきたカンダタが悪い」といった意見が出たような気がするけどどうだろう。

しかし、40歳を過ぎてから再び「蜘蛛の糸」を読んだ時、最後の段落が妙に引っかかる、というか、芥川龍之介の「悪意」のようなものを感じました。

御釈迦様は悲しそうな顔をしました、で終わってもいいと思うのですが、最後にこのような段落が付け加えられているのです。

引用〜
しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんなことには頓着致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様のお足のまわりに、ゆらゆらうてなを動かして、そのまん中にある金色のズイからは、なんともいえないよい匂が、たえまなくあたりへ溢れております。極楽ももう昼近くになったのでございましょう。


これを読むと、なんだか、「蜘蛛の糸」は上級国民と低所得者の話のように感じてしまいます。

天国の住人(高所得者層)は、前世で善行(学生時代の努力)を積んできた結果を当然の報いとして受けている。とはいえ、御釈迦様の慈悲深さ(能力主義)によって、天国(成功)への道は、地獄の住人(低所得者層)にも開かれている。が、実質その道は蜘蛛の糸のように細いもので、かえって地獄の住人(低所得者層)を混乱させる結果ともなる。といっても、天国の住人(高所所得者層)の世界には何ら影響はなく、両者の溝が埋まることはない。

という、考察というか、うがった見方ができてしまいます。


まぁよく考えれば、例えば江戸時代は士農工商なんて制度があったりして、子供の頃から、とにかくサムライにはペコペコしなくてはいけない、とか、まさに分断社会というか、分別社会だったわけです。
ここ4、50年が少し異常、というか、通常ではなかったというだけで、もしかしたら社会は通常運転に戻りつつあるだけ、なのかもしれません。

しかし、「一億総中流」なんて言葉もその昔あったそうで、日本では皆同じ給食を食べ、同じ制服を着て、人類皆平等、と教育されてきたわけですが、いざ社会に出て、実際の世の中は平等じゃないんですよ、と言われても、なかなかすぐに適応できる人たちばかりではない、というところがあります。



もちろん、士農工商の制度よりも、個人個人の能力が認められる世の中の方が良いとは思います。
そして、能力がある人が成功する。これもいいでしょう。

しかし、能力のない人は、その能力のなさに応じた低レベルな生活を強いられなければならないのか。
また逆に、低レベルな生活を送らざるを得ない人は、能力がなかっただけ、ということになってしまうのか。

ここへきて、行きすぎた能力主義による弊害、というものが明らかになってきてしまったようです。

しかし、ガチガチの階級主義や、行きすぎた平等主義の弊害も明らかになっており、バランス、というのが重要になるのかもしれません。



サンデル教授は本の中で、こうすればいいのではないか、という解決策を幾つか書かれているのですが、ここでは逐一書き出すことはやめておきます。

一つだけ興味深いと思う点を、自分の言葉も混じっちゃいますが、挙げておきます。


トランプに投票した白人男性労働者に共通していた意識は、「置いていかれた感」ではないか、ということです。

世界をまたにかけ、目の飛び出るような収入を得ているビジネスマン、そして日に日に強くなっていく女性たち。

そういったグローバリズムやフェミニズムとの対立図式を打ち立てたトランプが、彼らの人気を集めたのではないか、という考察でした。


そこで、サンデル教授が重要だと考えるのは、「誰かの役に立っている感」だ、ということです。

元マネーの虎の高橋がなりさんの人生相談の動画を時折見ていたのですが、「人に喜ばれることが人間にとっての幸せなので、自分がやりたいことよりも、人が喜ぶことを仕事にしろ」とがなりさんもよく言っていて、近いものがあるなぁと思いました。

ただ、残念ながら、数字として考えてしまうと、「どれだけ人の役に立っているか」のものさしは、お金、ということになってしまいます。

先日、「底辺の職業ランキング」というものが炎上していましたが、例えば、保育士さんと比べて大企業のCEOは、100倍、1000倍人の役に立っているのだろうか。
逆に言えば、CEOに比べて保育士さんは1000分の1しか人の役に立っていないのか。



少し極端な表現になりました。もちろん、雇用を生み出すということも大事なことです。



「労働」と書いてしまうと、共産主義っぽく聞こえてしまうのですが、ただ、資本主義が「労働」を少々ないがしろにし過ぎてしまった感も否めません。

労働者たちが尊厳を取り戻すことが、必要なのではないかという、サンデル教授の考察でした。



日本においては、労働者たち、と一括りにはできないかもしれません。
「置いていかれた感」のある人たちには、非正規雇用、とか、引きこもり、とかも入ってくるのかもしれません。

最近は引きこもりとニートが同義語のようなってしまっていますが、引きこもりの人たちは、かつて労働意欲があったものの、社会とうまくいかず、引きこもらざるを得なくなってしまった人たちが多くいるのではないかと思っています。

そういった人たちが尊厳を持って生活できるようにするには、さらに至難の業かもしれません。



サンデル教授の具体案に興味のある方は、実際に本を読んでいただければなぁと思います。
大学入試の案なんかはぶっ飛んでて、それはどうかと思いつつも面白かったです(笑)


というわけで、日本とアメリカの状況がごっちゃになっちゃったり、自分の言葉が混ざっちゃったりして、まとまりがなく申し訳ございませんでした。
読み返してみると、もうちょっと書き足すこともあるような気もしますが、今回はここまでにしておきます。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました!


本の情報
「実力も運のうち 能力主義は正義か?」
著者:マイケル・サンデル
訳者:鬼澤 忍
早川書房



最近見た作品の感想

2022年06月09日 | Weblog
昭和生まれの私としては、どうしても「お恥ずかしい話」という枕詞を付けたくなってしまうのですが、今年の5月病はちょっときつい感じで、先月はどうにもやる気が起きませんでした。

先月はインスタの方で陶芸作品の写真を上げたので、ブログはお休みしてしまいました。

原因はいろいろ考えては見たのですが、精神的なものだけでなく身体的・年齢的なものもあるのだと思いますが、結局のところよく分かりませんでした。

6月になってちょっと元気になってきたという気もするし、これが通常という諦めの気持ちもあり、とりあえず見た作品の感想などをダラダラと書いてみようと思います。



今期アニメでは、「パリピ孔明」を見ていました。
三国志に登場する「諸葛孔明」が現代の渋谷に転生して、歌手を目指す女の子の手助けをする、という話です。
第一話は、孔明はあくまでも「軍師」として計略を練っており、「信長の野望」派の私でさえも、うおおおおおお!という感じで、これはおっさんホイホイのアニメですなぁ、と思っていました。

が、5話あたりで孔明が自分でラップをし始めてしまったので、なんか思ってたのと違うかなと思って最近は見ていません。

でもオープニングは結構好きでした。
ハンガリーの男性歌手の曲のカバーみたいですが、ああ、なんかそういえば高校の頃 Ace of Base 流行ってたよなぁ、大きな声じゃ言えないけどオレも結構好きだったんだよなぁと、ふと思い出しました。




あとは「SPY×FAMILY」を見ています。
以前1巻だけ無料みたいなやつでマンガの方を読んだことがあって、アーニャは「超能力者のすごい女の子」というイメージでした。

が、アニメだと、アーニャは人の心が読めるけれど、基本はアホのガキ、という設定が分かりやすく感じました。
今のところは面白いのでボチボチずっと見ている感じです。




韓国映画は、「オールドボーイ」がトラウマでしばらく見ていなかったのですが、ここのところはちょいちょい見ていました。
その中で「EXIT」という映画は、かなり面白かったです。
ダイハード×クリフハンガー×サマーウォーズという感じで、「ぼくが考えた最強の映画」という感じでした(褒め言葉)
監督もしかしたら同年代だろうなぁと思って調べてみたら、一個上でした(笑)




というわけでなんとなく「ダイ・ハード」を見返してみたのですが、アラン・リックマン亡くなっちゃったんだよなぁとか、ブルース・ウィリス引退しちゃったんだよなぁとか、色々感慨深いものがあったものの、細かい伏線が綺麗に回収されていて、やっぱ名作だなぁと思いました。

映画に関してはどうしても、最近のものより昔のものの方が「単純に」面白いものが多かったと思うのですが、やっぱ思い出補正の老害入っちゃってますかねぇ?



とりとめのない感じになりましたが、今回はこの辺で。
読んでいただきありがとうございました。

原子力発電について思うこと

2022年04月03日 | Weblog
これまで、政治的な内容には触れてこなかったので、今回は、書くかどうか迷いました。

白黒はっきりつける物言いは苦手なので、結局何が言いたいのか不明瞭な感じになってしまいましたが、まぁ酔っ払いがくだを巻いていると思って読み飛ばしてください。


先日、「チェルノブイリ」というHBO制作のドラマを見ました。

3月の上旬に、チェルノブイリ原発の電源が失われた、というニュースを聞いて、これまでチョルノービリがウクライナにあることを知らなかったので、ちょっと見てみようかなと思いました。

創作なども含まれてはいるようですが、サスペンス要素もあったりして、なかなか面白く見ることができました。



とはいえ基本的には実際にあったことを元にしているので、ドラマ最終回の最後に、登場人物の実際の写真とその後、について流れるのですが、その中に「彼女は今もキエフで息子と暮らしている」というのがあって、え… となってしまいました。
作品は2019年のものです。


今回は戦争について書くことが目的ではないので、別の機会に。書けるかどうかはわかりませんが。



先日3月22日に、東京電力管内で電力不足が予想され、警報が出される、ということがありました。

それを機に、原子力発電の再稼働を求める声が大きくなってきたような気がします。


個人的にはこれまで、やっぱり再稼働するしかないんじゃないのかなぁ、くらいに考えていました。

が、今回このドラマを見て、考えが変わるまではいかないけど、ちょっとあまり強くは言えないような気になりました。

この機会に、私が原子力発電について、現時点で思っていることをまとめてみようと思います。



チョルノービリ原発事故は、原子力の持つ強大なエネルギーもさることながら、漏れ出た放射能の恐ろしさについても知らしめるものとなりました。

私は、以前ステージ1の舌癌になったことがあり、治療をしてからこの3月で5年になります。
(詳細は舌がん治療というカテゴリでブログにまとめたので、こちらをご覧ください。)

治療法としては、小線源放射線治療というものを選択し、それは放射線を帯びた針を患部に何日か刺して、癌細胞の根絶を目指す、というものでした。

針を刺している間ももちろん大変だったのですが、退院してから一ヶ月がめちゃめちゃ大変でした。

舌が白いグジュグジュしたもので覆われて、しかも痛みを伴うので、固形物や刺激物はしばらく食べることができませんでした。

5年経った今でも舌の右側は少し変形したままで、ふとした時に痛むこともあります。

それが、予告編でもチラッと映っていましたが、事故で大量に被曝してしまうと、全身がそのような感じになってしまうということだと思うので、考えただけでもゾッとしてしまいます。


というわけで、原子力発電の近くに住んでいる方々は、場合によっては、津波から逃げるのと同じくらいの素早さで、着の身着のまま避難することが求められることもあることでしょう。

福島の事故を思い出しますが、今でも帰宅困難地域が解除されていない地域もあるようですね。

私も大学時代は、日本海側の原子力発電所から車で1時間ほどのところに住んでいたのですが、割と遠く感じていても、原子力立地給付金というものが出ていました。
(格安の下宿だったので、大家さんの収入となっていたようですが(笑))

そのような給付金が出ているとしても、割に合うと感じるかどうか、ですよね…



あと、私が一つ気になっているのは、現在の人類の原子力についての技術が、どれほど信用できるのか?というものです。

これはちょっとSF脳入っちゃってると思うので、話半分に聞いてください。


「原子力発電」って、どんな仕組みで発電していると思いますか?

私はずっと、「なんか知らんけど「原子力のすごい力」で発電してるんでしょ?」と思っていました。

間違ってはいないのですが実際のところは、「核分裂のエネルギーを利用してお湯を沸かして、その水蒸気で発電機を回している」ということになります。
だいぶ端折った感じになりますが。

私は一応電気系の学生だったのですが、これを知った時にちょっとした衝撃でした。

原子力の平和利用ってお湯を沸かすことだったのかよ!という気持ちになりました。

それの何がいけないの、と言われると何も言えないのですが、夢のエネルギー原子力なのだから、なんかさ、もっとさ、こう、ないの?みたいな気になりました。


なぜそんな気になるのかを考えてみたところ、おそらく、映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の影響ではないかと思い当たりました。

バック・トゥ・ザ・フューチャーと言う映画は、タイムトラベル物としても良くできていますが、もう一つ、タイムトラベルに必要な膨大なエネルギーをどのように賄うか、というテーマもあります。

物語当初は「1.21ジゴワット」という電力を得るために、プルトニウムを使っているという設定でした。
おそらくこのせいで、原子力発電は「原子力のすごい力」で発電しているのだという刷り込みができてしまったのだと思います。

でも今考えると、次元転移装置もすごい発明ですが、デロリアンに乗るような小型原子炉の発明も相当すごいですね。


映画のラストでドクが未来から戻ってきた時には、ゴミを燃料にタイムトラベルが可能となっています。

大学時代に、原子力系の研究室にいた先輩が「あれは核融合なんですよ〜」と嬉しそうに語っていたのを思い出します。

核融合といえば、授業で先生が、「核分裂エネルギーはせんべいを割った時に飛び散るカケラで、核融合エネルギーはおにぎりを握った時に手につくご飯粒」と言っていたのも思い出します。

数式なんかは全くと言っていいほど覚えていないのに、そういう文学的な言い回しは覚えているみたいです(苦笑)

ただ、核融合発電が実用段階になっても、しばらくはお湯を沸かして発電することになりそうです。


核反応から直接電気を取り出す方法も、研究は行われているようですね。

いずれ、ゴミで発電できるような時代が来るのでしょうか。


というわけで、人類も原子力でお湯を沸かしている間は、まだまだだなぁと思うわけですよ(個人の感想です)

まぁSFの見過ぎでしょうね。
自分で書いていて少し恥ずかしくなりました。


一応、現時点での思いをまとめると、個人的には電気代が安くなるのなら原発を再稼働して欲しいけど、近隣の住人の方々のことを考えるとあまり強くは言えない、という感じになります。
とりとめがなくて申し訳ございません。
政治の話と言いながら、結局最後はSFの話になってしまいました(汗)


Dr.STONEじゃないですが、科学の進歩への人類の努力はあきらめたくないところです。

が、なんか最近は、正直もうこれ以上生活が便利にならなくてもいいかな、とちょっと思ってしまうところもあります。
歳ですかね。


最後に、舌癌を治療してから5年が経ちました。
現在のところ再発などはありません。
同じ病院の耳鼻科と放射線治療科の二つに半年に一回通院しているのですが、耳鼻科の方はおそらく今月の通院で、もう来なくていいと言われそうです。

ガンは5年がまずは一区切りというところもあるようで、ご心配くださった方々、どうもありがとうございました。

ガチでカッコいいと思う民謡4選

2022年03月12日 | Weblog
最近、世界は大変なことになってしまっているようで、普段通りブログを更新するのも少しためらってしまうところですが、私は神様ではないので手の届く範囲というのも限られているわけで、今回のことは残念ながら私の手は届かないことのような気がするので、いつも通り淡々と日常を送りたいと思っております。

とはいえ、世界が平和であることは願ってやみません。


今回は、いつもとは趣向を変えて、日本の民謡について書いてみようと思います。
と言っても、変にナショナリズムを煽ろうという意図はないので、ご了承ください。


私は「アジャラカモクレン」という4人組のフォークユニットを組んでおりまして、連絡用のグループLINEというものもあります。
が、連絡用というよりは雑談用、というのが実際のところで、メンバーのおすすめの曲の動画などが時折貼られたりしております。

そこで話がトラディショナル音楽の話題になったので、日本の民謡について語りたいところだったのですが、LINEだとめっちゃ長くなって迷惑をかけてしまいそうなで、一旦ブログにまとめることにしました。

というわけで、どちらかというとメンバーにあてて書くという体裁を取りますので、音楽理論など、多少は噛み砕いて説明しようと思いますが、一般の方には少々わかりづらいところもあるかもしれませんが、ご了承くださいませ。

と言っても、私もそれほどガチで音楽理論を学んでいるわけではありませんので、分からないところもありますし、間違っているところもあるかもしれません。
また、ガチの民謡ファンというわけではなく、ちょこちょこ聞いてみた中で、お、これいいなぁと思ったものをご紹介していく、という感じになります。

じっくり取り組みたい課題なので、追記なり改訂なりをしていこうかなとは思っております。

あと、長文になりますので、面倒な方は読み飛ばしていただいて、貼った動画だけでも聞いていただけると嬉しいです。



私が日本の民謡に興味を持ち始めたのは、音楽の専門学校に通っていた15年ほど前でしょうか。

何という講義のタイトルだったかは忘れたのですが、音楽の様々なジャンルについての講義だったような気がします。

ちょっと変わった先生だったのですが、突然、なぜ演歌はカッコ悪いのか、ということについて話し始めました。

私自身は、カッコいいと思う曲もあるので、さすがにそこまで否定しようとは思いませんが(笑)、ジャンルとしてみた場合には、まぁ確かに残念ながら、好きかというとそうでもありません。

ただ、演歌に対して感じていた「違和感」について、その先生の話のスジは、一本通っていると思ったので、納得できるところは多くありました。


まず、日本の民謡は、アメリカのブルースと同じ「ペンタトニックスケール」が多く使われていること。
(もちろんそうでない曲もたくさんあります)
※ペンタトニックスケール(五音音階)
スケールとは、音階のことです。義務教育で習う西洋音楽の音階は、ドレミファソラシの、1オクターブを7つの音で分けるものですが、ペンタトニックは5つの音で分けるものです。
世界には様々な種類の五音音階が存在しますが、今回このブログで単に「ペンタトニックスケール」という場合には、ブルースでよく使われるドミ♭ファソシ♭というマイナーペンタトニックのことを指すこととします。


その先生がいう演歌のおかしてしまった間違い、とは、
・ミ♭の音のためにマイナーコードを当ててしまったこと。
・シではなくシ♭なのに、ドミナントモーションを無理矢理当てはめてしまったこと。
※ドミナントモーション
めっちゃ乱暴にいうと、卒業式などの「起立!礼!着席」に使う、「♪チャーン♪チャーン♪チャーン」の、礼〜着席の部分です。何というか、終わっったぜぇぇぇという、キッチリ決まった感じを受ける音の響きです。
ドから半音下がったシの音が、その響きに重要な役目を果たしています。

それに対してブルースは、
・西洋音楽的には不協和音となってしまうが、ミ♭に対してもメジャーコードをあて、むしろその不協和音の響きがカッコいい。
・西洋音楽では帰結するときに、ドミナントコードの次はトニックとほぼ決まっているが、ブルースはドミナントの後にサブドミナントコードがくることで、フワッとした印象となり、不思議な響きをもつペンタトニックスケールには合っている。

ということだそうです。

要は、西洋音楽と別の文化であるアフリカの音楽が、アメリカに渡り西洋の音楽理論と出会ったが、取り込まれることなく時に型を破りながら逆に取り込み、ブルースというカッコいい音楽が生まれた、という話です。

まぁブルース好きじゃない人は何のこっちゃという話ですが。
あと、ジャズについてまで触れると話が長くなるのと、私自身がそれほど詳しくはないので、ここでは一旦置いておきます。


ともかく、演歌を否定することが目的ではなく、日本の民謡について、西洋音楽的なアプローチではなく、ブルース的なアプローチを取ってみるのも面白いかもね、くらいに聞いていただけると幸いです。



そこでその講師の先生が、民謡はカッコいい、と連呼していました。

民謡なんて、ばあさまがNHKののど自慢とかで歌ってるやつだろう?とか思っていたのですが、試しに改めて少し聞いてみたところ、確かにこれはブルースじゃねぇか!と目が覚めるような思いがしたというわけです。


では、私がガチでカッコいいと思う民謡を、今回は4つ挙げたいと思います。


①安里屋ユンタ
最初はジャブという感じで、沖縄民謡をあげてみようと思います。

この曲はメジャーのミュージシャンもカバーしている、有名どころです。

音楽を特別好きではない一般の方でも、「沖縄の民謡はカッコいい」という認識の方は多いのではないでしょうか。

それはいわゆる「琉球音階」というものによるものと思われます。
琉球音階は、ド(レ)ミファソシという音が使われているものが多いようです。

先に述べた”演歌の過ち”と比べてみると、
・ミ♭ではなくミなので、普通にメジャーコードを当てることができる。
・シの音があるので、普通にドミナントモーションを適用できる。
という、西洋音楽(現代音楽)と親和性の高い特徴があることが分かります。

違和感のない現代アレンジが可能であることに加え、ラの音が無い事によるエキゾチックな感じが、現代の日本人にも広く受け入れられている要素ではないでしょうか。

とここまで「琉球音階」についての考察をしましたが、「安里屋ユンタ」にはいわゆる「琉球音階」は使われていません(笑)

ドレミソラという五音音階が使われています。
「蛍の光」とか「アメージング・グレース」でも使われている、素朴な感じのする音階ですね。
中国あたりの影響を受けているのでしょうか。
音楽用語ではメジャーペンタトニックと呼ぶらしいです。


ただ、このドレミソラという音階、キーを1音半(半音三つ分)上げて弾いてみましょうか。
ドを一音半上げるとミ♭で、レを一音半上げるとファで…とやっていくと…

ミ♭ファソシ♭ドですね。
あら?先程のマイナーペンタトニックと構成する音が同じではありませんか?

どの音を基準とするかで、受ける印象が全く違うものになるという、なんとも不思議なことです。


貼ってみるのは、二胡のような楽器が入っているアレンジのものです。
以前図書館で借りたCDにこのアレンジの曲が入っていたのですが、YouTube上ではなかなか見つからず、でもなんとか見つけることができました。

個人的にはこのアレンジが一番好きなんですよねぇ。
(ちなみに、このチャンネル、沖縄民謡ってこんな感じだったっけ?という曲がたくさんアップされていて興味深かったです。
バリのガムランか?と思うような、やっぱり東南アジアの影響も大きいんでしょうね。)

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安里屋ユンタ - 唄:多嘉良美子

東芝 [TP-4042]

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②ソーラン節

民謡は、民衆の労働歌が歌い伝えられてきたものが多く存在する、というところも、ブルースと背景が似ているかもしれません。

先の「安里屋ユンタ」も、厳密には1934年に標準語版として作曲された「新安里屋ユンタ」というバージョンで、元々は田植え唄だったとウィキペディアに書いてありました。

ソーラン節も、ニシン漁に携わった労働者たちの唄が元になっている、ということです。


憶測にはなりますが、昔はミュージシャンはカタギではない扱いだったわけですが、代わりに、人々は歌いながら仕事をしていたのかなぁと思うと、なんだか胸が熱くなるものがあります。



最初に民謡のCDを買った時、全国のベスト盤みたいなものだったのですが、やはり曲順は北から南へという順番になっており、一曲目が北海道民謡のソーラン節でした。

現在では様々なアレンジの「ソーラン節」が出されていますが、そのCDの曲を聞いた時に、あれ、ソーラン節ってこんな感じだったっけ?カッコ良くないか?と、民謡を見直した曲でした。

初代 浜田喜一さんという方が唄われていて、エンエンヤーをヤー⤴︎としゃくり上げる唄い方がめっちゃカッコよかったので、そのバージョンをYouTubeで探していました。

が、探しているうちに、下に貼るバージョンに行き着きました。

正直、聞いた方の8割、9割は「なんじゃこりゃ?」って感じになると思うバージョンなので、迷いましたが、今回のブログは「オススメの民謡」ではく、「ガチでカッコいいと思う民謡」なので、これにします。

初めてモーターヘッドを聞いて、ふふってなった時のような、めっちゃカッコいいと思います。

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ソーラン節 / 初代 大船繁三郎 Shigesaburou Oufuna "Souran Bushi" Japanese Traditional Folk Song

歌;大船繁三郎
尺八;倉部竹王
掛声;大船繁勇

北海道の民謡
録音年は不明

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③八木節

この曲も割とメジャーで、様々なアレンジのものが出されていると思います。
なんとなくコメディなイメージがあるのは、ドリフのせいだと思います(笑)

これに関しては、まぁとりあえず聞いてくれよ、という感じです。

いやもう、普通にソウルでファンクでロックですよ。
唄というより叫び。めっちゃカッコいい。

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1932年 八木節 "Yagibushi" 中村久太郎 (三代目 堀込源太)『国定忠次 (下)』Japanese folk song "Minyo" 78rpm 民謡 日本 盆踊り 俚謡 SP盤

八木節 三代目 堀込源太『国定忠次 (上)』https://youtu.be/06z1EY3W6F0
八木節 二代目 堀込源太『乃木将軍』...

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④磯節
賑やかな曲と、汗臭さが漂ってきそうな(笑)曲が続いたので、最後はゆったりした曲を。

私は千葉県民なのですが、お隣茨城県の民謡です。

「ハァ〜サイショネェ」という合いの手がツボなので、この曲を選びました。

花街でも唄われていたということで、なんだか昼ビールがしたくなる曲ですね(笑)

貼ってみるのは、なんとなくまぁ最後くらいね、可愛い人が唄っているものを選びました(笑)

でも少し色々探しながら聞いてみたら、芸者さんが唄ってるような気怠い感じの小唄バージョンとかもあったりして、それも結構いい感じでした。

OGPイメージ

磯節

平成26年度磯節全国大会優勝者の谷島明世さんによる磯節です。

※磯節について、詳細は、下記リンクからご覧ください。
http://www....

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私が民謡にもう少し目を向けようと思ったのは、以前にブログでも書いたのですが、10年ほど前にイギリスのスコットランドを旅行したことも大きなきっかけになっていると思います。

観光地や大きな通りでは、バグパイプを吹いているストリートミュージシャンがあちこちにおり、素直に自国の伝統音楽を誇りを持って演奏できているのは羨ましいなぁ、と思ったのでした。

せっかく日本の民謡もカッコいいので、自分でもなんとかやってみたいなぁという気持ちもあります。

ただ、私自身は千葉県のベッドタウンで生まれ育ったので、今から民謡を習いに行くというよりは、今自分の中にあるものでなんとか形にならないかなぁと考えております。



それでは、長文を最後まで読んでくださり、ありがとうございました!

そして、リンクを貼らせていただいたチャンネルの方々と演者の方々、ありがとうございました!!