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古代史ランキング
2022-02-20 07:16:44に修正しましたが、おもしろい箇所などを分かるように(注1)を追加しましたので、またお付き合いください。よろしければ、(つづき)もありますので、またどうぞ(#^.^#)
2018-09-18 17:57:39に掲載しましたが、若干分かり易くするために内容を大幅に改訂しました。しかし、「日本書紀」の内容を知っていないと難しいかも知れません。幸いにして、日本書紀・現代日本語訳(完全訳)がネットで読めますので、該当の個所をご参照ください。ヘタな長文で申し訳ないですが、どうぞ、お付き合いください(*^▽^*)
日本の古代史を考えるときに、正史その他の史書をベースにして、考古学の知見や民俗学、神社伝承などを参考に仮説を組み立てるのが普通のやり方と思いますが、文献批判の基準を正史に求めることが多く、そのために歴史の真相にたどり着けないのだと思います。
何故なら、正史は編纂当時の権力者の意向を受けて「かくあるべし」の理念で作られるので、権力者に都合の悪い歴史の事実を隠蔽し、都合の良いように歪曲・ねつ造し、真相が抹殺されているからです。
なぜそこまで言い切れるのかとお思いかもしれませんが、文献に書かれていることが真実ならば、考古学などの物証によって日本の古代史は既にほぼ明らかになっているはずだからです。たとえば、日本建国時代の三世紀の倭国のことを記録した「魏志倭人伝」の邪馬台国の行程記事に関して、多くの方は、魏から遠く離れた海上の国なので、文字を読み書きできない倭人から正確に伝えられなかったからだろうとか、あるいは書かれた漢文を正しく読んで正しく解釈すれば分かるはずと考えているようです。しかし、二、三百年かけて多くの方が研究しても邪馬台国がどこなのか、未だに論争している状態ですから、根本的に考えを見直すべきです(「変わる弥生時代観!」、「景初三年問題が謎を解く鍵でした!」参照)。
現存する最古の正史「日本書紀」についても、天武天皇が編纂を命じましたので、多くの日本人に天皇家の歴史書だと考えられています。しかし、完成前に崩御され、引き継いだのは当時の実力者の藤原不比等でした。将来に渡り藤原氏の権力を維持する目的で、日本建国で活躍した氏族の歴史を抹殺し、藤原氏に都合のよいものに作り替えています。編纂に当たった史官はシナの歴史書を読み、建国当時の有力氏族の伝承や民間伝承などを集め、真相をかなり掴んでいたと考えられますが、それを隠して建国の真相を神話の中に閉じ込めました(「日本書紀 神功皇后紀 三九年から六六年」に卑弥呼と台与の朝貢記事が注記されています)。
不比等は701年の大宝律令の制定に関わり、律令制度を利用して権力を維持しようと考えたので、神祇祭祀を手中に入れる目的で「日本書紀」の編纂をライフワークにしたようです。720年にその完成を見て、安堵して、その年に没したと思います。ですから、すでにあったと思われる伝承の上に「日本書紀 神代」で創作された神話に基づくねつ造した話にウソを塗り重ね、何が何だかよく分からないようにしています(例えば、天地開闢神話や高天原神話、宗像三女神の伝承などに一書に曰くとして諸説があるように見せかけたりしていますし、日向三代の神話やヤマトタケルの伝承などにも荒唐無稽な話を挿入しています)。そして、神話に合うように建国時代に活躍した豪族などの神社の祭神や社名を変更させたりしています。たとえば、近江八幡市の日牟禮八幡宮は日食のために殺された卑弥呼とその弟赤坂比古を祀る神社と推理しましたが、不比等が強権で社名を「日群(ひむれ)の杜」に変えさせたことが分かります(「卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう」参照)。
「日本書紀」が完成したころから平安時代くらいまでは建国の史実を朝廷の多くの人々はだいたい知っていたと思われます。天変地異は建国時代にヤマト政権を怨んで死んだ大国主久々遅彦・台与・卑弥呼らの祟りで起こると信じられていました。特に、貞観(859年ー877年)の頃とその前後には火山活動が活発になったので、噴火や地震などが起こる度に朝廷は盛んにゆかりの神社に勅使を立てて、祈祷を行い、鎮魂のために丁重に食封などを加増して神階を上げています。祟るはずのない神功皇后にも何度も鎮魂の祈祷をして、その都度神階を上げて、食封などを捧げています(後の文献「続日本後記」の承和十年(843年)4月の条と「日本三代実録」元慶元年(877年)7月の条にはヤマト建国の英雄で祟るはずのない神功皇后が祟ったので、山稜に使者が遣わされ篤く祀られたという記録が書かれている)。
奈良時代には神仏習合や道教まで導入した山岳信仰の修験道が起こり、その後は山伏による山岳修行が盛行しました。唐に渡った空海(弘法大師)や最澄(伝教大師)が帰国して密教の教団を作り、山岳信仰と結びつきました。これらは厳しい修行によって主に怨霊調伏の呪術を体得するためだと思います。これによって天変地異を抑える超能力を身につけ、病気平癒もできると信じられましたので、明治になって禁止されるまで山伏が民間医療でも活躍していました。科学万能と考えられる現代でも、神羅万象の全てが解明されているわけではありません。厳しい修行を通じて悟りを得て、超能力を身につける神秘的な修験道を実践する方も今では少なくはなっていますが、今でも修行の場である霊場でスピリチュアル・パワー・アップを期待し、あこがれて、各地の神霊スポットを訪れる方は多いのではないかと思います。
日本の古代史と日本人の信仰は密接に繋がっています。多くの人々は豊葦原の瑞穂の国をヤマトに国譲りした大国主命の本地仏である弥勒菩薩、大日如来や金毘羅権現などを祀る神宮寺などに参拝します。神社と寺院は一体だったようです。大国主は様々な別名や分身を数えきれないほど多く持って、それぞれ名前の異なる神社で祀られていますので、参拝するほとんどの方はその神様の正体が大国主だとは気づいていないと思います。台与も十一面観音だけでなく、吉祥天や白狐に乗った天女の姿の荼枳尼天(だきにてん)を本地仏として寺院の本尊とされており、神道では、伊勢神宮外宮の豊受大神、稲荷明神、白山神社の白山比咩、菊理媛などとして日本全国で祀られています。民間では古くから、大国主と台与のペアを双神型の道祖神として村人から親しまれていました(「道祖神もやっぱり」参照)。卑弥呼は宗像三女神の主神と考えられる市杵嶋姫命(イチキシマヒメ、残りの二女神タゴリヒメとタギツヒメは大国主との神婚伝承があるので台与のことです)とされた宇佐神宮、宗像大社、厳島神社などの祭神ですし、弁財天としても各地で祀られています。多くの人々に人気の恵比寿さんは大国主の子の事代主と考えられていますので、大国主とは別の神と思われているようですが、大国主の分身なのです。七福神の男性神は、福禄寿、寿老人、毘沙門天、布袋尊、恵比寿天も、勿論大黒天もすべて大国主の分身だと突き止めました(「本当は怖い七福神の謎」参照)。
現代まで多くの人々がこれらの神仏を崇敬して寺院や神社に詣でていますが、僧侶や神官以外のほとんどの人々は、その神仏の正体について気付かなかったと思います。まさに神仏習合はその正体をあからさまにしたくないということから始まったのだと思います(「卑弥呼を不比等から護った人物?」参照)。江戸時代までは伊勢神宮内宮の天照大神もへびが化身だとされていたようですから、その正体は三輪山の大物主大神(大国主)だと謡曲で暴露されていますので天照大神が男神だと気付いていた文化人などはいたと思います(「能楽が建国の真相を伝える?」参照)。
先日、尾張氏の謎を調査していて、熱田神宮に千三百年前から伝わるという酔笑人(えようど)神事、別名「おホホまつり」という奇妙な神事があると知りました。天智天皇七年(668年)の草薙神剣盗難事件に関わる法海寺開基の僧道行の話が関係していると知って、不謹慎かもしれませんがつい笑ってしまいました(注1)。(2023.1.7 赤字追加)

明治時代になって西洋列強から日本を護るために、国民の心を纏める目的で「日本書紀」の神話に基づく平田篤胤の「復古神道」を基にした国家神道が創設されました。また、神代からの歴史を国史として学校で国民教育していますので、国民の間で神話と歴史が混同されるようになっています。歴史上の実在人物の卑弥呼の正体が、創作された記紀神話のアマテラス女神だというのは、まさに発想が逆立ちさせられていますね(「実在人物「卑弥呼」の正体が架空の女神と?」参照)。
ですから、歴史の真相にたどり着くためには、頭に染みついた記紀神話や正史「日本書紀」にそった古代史の話を徹底的に見直す必要があります。正史のどこがウソでどこが本当のことを反映したものかを見極める必要があります。
長くなったので、つづきへどうぞ!( ^)o(^ )
【参考記事】
古代史の謎を推理する(^_-)-☆
(注1)法海寺の略縁起に以下のように書かれています。
「寺本(八幡)のオヤクッサン」と呼ばれ皆様に尊び親しまれている薬王山法海寺は、薬師如来を御本尊に祀り、現世利益を祈願する天台宗の古刹であり、日本三薬師[奈良 法隆寺 (一説には、信州 諏訪大社 本地仏)、三河 鳳来寺及び寺本 法海寺]の一つとされている。 法海寺の開基は、新羅国明信王(しらぎのくにめいしんのう)の太子の道行法師といわれ、 由緒は「日本書紀」巻27の天智天皇7年の条につながっている。 そこには、「沙門道行、草薙劔を盗みて新羅に逃げ向く、而して中路に雨風にあいて、荒迷ひて歸る」と道行の名前が登場している。 後世に編纂された寺伝の「薬王山法海寺儀軌」によれば、この後、この沙門道行は帰国を断念し当地に堂宇をいとなんでいた。 そして、天智天皇の御不例を当山御本尊に祈願して平癒した功によって、「薬王山法海寺」の勅額と寺田280町歩を賜った。
時に、天智7(668)年、8月3日の創建とされ、以降、淳和(じゅんな)天皇に至る13代の勅願寺として堂宇壮観、内外12院があったと伝えられている。1300有余年の歴史を裏付ける有力な事象が、その信憑性を物語っている。還したとはいえ、盗んだ犯人ですから、ちょっと、あり得ない話と言ったら失礼でしょうかね。熱田神宮の神官の方々もこの「酔笑人神事(えようどしんじ)」は心から笑える話なのでしょうね( ^)o(^ )
ここまでお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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日本の古代史を考えるときに、正史その他の史書をベースにして、考古学の知見や民俗学、神社伝承などを参考に仮説を組み立てるのが普通のやり方と思いますが、文献批判の基準を正史に求めることが多く、そのために歴史の真相にたどり着けないのだと思います。
何故なら、正史は編纂当時の権力者の意向を受けて「かくあるべし」の理念で作られるので、権力者に都合の悪い歴史の事実を隠蔽し、都合の良いように歪曲・ねつ造し、真相が抹殺されているからです。
なぜそこまで言い切れるのかとお思いかもしれませんが、文献に書かれていることが真実ならば、考古学などの物証によって日本の古代史は既にほぼ明らかになっているはずだからです。たとえば、日本建国時代の三世紀の倭国のことを記録した「魏志倭人伝」の邪馬台国の行程記事に関して、多くの方は、魏から遠く離れた海上の国なので、文字を読み書きできない倭人から正確に伝えられなかったからだろうとか、あるいは書かれた漢文を正しく読んで正しく解釈すれば分かるはずと考えているようです。しかし、二、三百年かけて多くの方が研究しても邪馬台国がどこなのか、未だに論争している状態ですから、根本的に考えを見直すべきです(「変わる弥生時代観!」、「景初三年問題が謎を解く鍵でした!」参照)。
現存する最古の正史「日本書紀」についても、天武天皇が編纂を命じましたので、多くの日本人に天皇家の歴史書だと考えられています。しかし、完成前に崩御され、引き継いだのは当時の実力者の藤原不比等でした。将来に渡り藤原氏の権力を維持する目的で、日本建国で活躍した氏族の歴史を抹殺し、藤原氏に都合のよいものに作り替えています。編纂に当たった史官はシナの歴史書を読み、建国当時の有力氏族の伝承や民間伝承などを集め、真相をかなり掴んでいたと考えられますが、それを隠して建国の真相を神話の中に閉じ込めました(「日本書紀 神功皇后紀 三九年から六六年」に卑弥呼と台与の朝貢記事が注記されています)。
不比等は701年の大宝律令の制定に関わり、律令制度を利用して権力を維持しようと考えたので、神祇祭祀を手中に入れる目的で「日本書紀」の編纂をライフワークにしたようです。720年にその完成を見て、安堵して、その年に没したと思います。ですから、すでにあったと思われる伝承の上に「日本書紀 神代」で創作された神話に基づくねつ造した話にウソを塗り重ね、何が何だかよく分からないようにしています(例えば、天地開闢神話や高天原神話、宗像三女神の伝承などに一書に曰くとして諸説があるように見せかけたりしていますし、日向三代の神話やヤマトタケルの伝承などにも荒唐無稽な話を挿入しています)。そして、神話に合うように建国時代に活躍した豪族などの神社の祭神や社名を変更させたりしています。たとえば、近江八幡市の日牟禮八幡宮は日食のために殺された卑弥呼とその弟赤坂比古を祀る神社と推理しましたが、不比等が強権で社名を「日群(ひむれ)の杜」に変えさせたことが分かります(「卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう」参照)。
「日本書紀」が完成したころから平安時代くらいまでは建国の史実を朝廷の多くの人々はだいたい知っていたと思われます。天変地異は建国時代にヤマト政権を怨んで死んだ大国主久々遅彦・台与・卑弥呼らの祟りで起こると信じられていました。特に、貞観(859年ー877年)の頃とその前後には火山活動が活発になったので、噴火や地震などが起こる度に朝廷は盛んにゆかりの神社に勅使を立てて、祈祷を行い、鎮魂のために丁重に食封などを加増して神階を上げています。祟るはずのない神功皇后にも何度も鎮魂の祈祷をして、その都度神階を上げて、食封などを捧げています(後の文献「続日本後記」の承和十年(843年)4月の条と「日本三代実録」元慶元年(877年)7月の条にはヤマト建国の英雄で祟るはずのない神功皇后が祟ったので、山稜に使者が遣わされ篤く祀られたという記録が書かれている)。
奈良時代には神仏習合や道教まで導入した山岳信仰の修験道が起こり、その後は山伏による山岳修行が盛行しました。唐に渡った空海(弘法大師)や最澄(伝教大師)が帰国して密教の教団を作り、山岳信仰と結びつきました。これらは厳しい修行によって主に怨霊調伏の呪術を体得するためだと思います。これによって天変地異を抑える超能力を身につけ、病気平癒もできると信じられましたので、明治になって禁止されるまで山伏が民間医療でも活躍していました。科学万能と考えられる現代でも、神羅万象の全てが解明されているわけではありません。厳しい修行を通じて悟りを得て、超能力を身につける神秘的な修験道を実践する方も今では少なくはなっていますが、今でも修行の場である霊場でスピリチュアル・パワー・アップを期待し、あこがれて、各地の神霊スポットを訪れる方は多いのではないかと思います。
日本の古代史と日本人の信仰は密接に繋がっています。多くの人々は豊葦原の瑞穂の国をヤマトに国譲りした大国主命の本地仏である弥勒菩薩、大日如来や金毘羅権現などを祀る神宮寺などに参拝します。神社と寺院は一体だったようです。大国主は様々な別名や分身を数えきれないほど多く持って、それぞれ名前の異なる神社で祀られていますので、参拝するほとんどの方はその神様の正体が大国主だとは気づいていないと思います。台与も十一面観音だけでなく、吉祥天や白狐に乗った天女の姿の荼枳尼天(だきにてん)を本地仏として寺院の本尊とされており、神道では、伊勢神宮外宮の豊受大神、稲荷明神、白山神社の白山比咩、菊理媛などとして日本全国で祀られています。民間では古くから、大国主と台与のペアを双神型の道祖神として村人から親しまれていました(「道祖神もやっぱり」参照)。卑弥呼は宗像三女神の主神と考えられる市杵嶋姫命(イチキシマヒメ、残りの二女神タゴリヒメとタギツヒメは大国主との神婚伝承があるので台与のことです)とされた宇佐神宮、宗像大社、厳島神社などの祭神ですし、弁財天としても各地で祀られています。多くの人々に人気の恵比寿さんは大国主の子の事代主と考えられていますので、大国主とは別の神と思われているようですが、大国主の分身なのです。七福神の男性神は、福禄寿、寿老人、毘沙門天、布袋尊、恵比寿天も、勿論大黒天もすべて大国主の分身だと突き止めました(「本当は怖い七福神の謎」参照)。
現代まで多くの人々がこれらの神仏を崇敬して寺院や神社に詣でていますが、僧侶や神官以外のほとんどの人々は、その神仏の正体について気付かなかったと思います。まさに神仏習合はその正体をあからさまにしたくないということから始まったのだと思います(「卑弥呼を不比等から護った人物?」参照)。江戸時代までは伊勢神宮内宮の天照大神もへびが化身だとされていたようですから、その正体は三輪山の大物主大神(大国主)だと謡曲で暴露されていますので天照大神が男神だと気付いていた文化人などはいたと思います(「能楽が建国の真相を伝える?」参照)。
先日、尾張氏の謎を調査していて、熱田神宮に千三百年前から伝わるという酔笑人(えようど)神事、別名「おホホまつり」という奇妙な神事があると知りました。天智天皇七年(668年)の草薙神剣盗難事件に関わる法海寺開基の僧道行の話が関係していると知って、不謹慎かもしれませんがつい笑ってしまいました(注1)。(2023.1.7 赤字追加)

明治時代になって西洋列強から日本を護るために、国民の心を纏める目的で「日本書紀」の神話に基づく平田篤胤の「復古神道」を基にした国家神道が創設されました。また、神代からの歴史を国史として学校で国民教育していますので、国民の間で神話と歴史が混同されるようになっています。歴史上の実在人物の卑弥呼の正体が、創作された記紀神話のアマテラス女神だというのは、まさに発想が逆立ちさせられていますね(「実在人物「卑弥呼」の正体が架空の女神と?」参照)。
ですから、歴史の真相にたどり着くためには、頭に染みついた記紀神話や正史「日本書紀」にそった古代史の話を徹底的に見直す必要があります。正史のどこがウソでどこが本当のことを反映したものかを見極める必要があります。
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古代史の謎を推理する(^_-)-☆
(注1)法海寺の略縁起に以下のように書かれています。
「寺本(八幡)のオヤクッサン」と呼ばれ皆様に尊び親しまれている薬王山法海寺は、薬師如来を御本尊に祀り、現世利益を祈願する天台宗の古刹であり、日本三薬師[奈良 法隆寺 (一説には、信州 諏訪大社 本地仏)、三河 鳳来寺及び寺本 法海寺]の一つとされている。 法海寺の開基は、新羅国明信王(しらぎのくにめいしんのう)の太子の道行法師といわれ、 由緒は「日本書紀」巻27の天智天皇7年の条につながっている。 そこには、「沙門道行、草薙劔を盗みて新羅に逃げ向く、而して中路に雨風にあいて、荒迷ひて歸る」と道行の名前が登場している。 後世に編纂された寺伝の「薬王山法海寺儀軌」によれば、この後、この沙門道行は帰国を断念し当地に堂宇をいとなんでいた。 そして、天智天皇の御不例を当山御本尊に祈願して平癒した功によって、「薬王山法海寺」の勅額と寺田280町歩を賜った。
時に、天智7(668)年、8月3日の創建とされ、以降、淳和(じゅんな)天皇に至る13代の勅願寺として堂宇壮観、内外12院があったと伝えられている。1300有余年の歴史を裏付ける有力な事象が、その信憑性を物語っている。還したとはいえ、盗んだ犯人ですから、ちょっと、あり得ない話と言ったら失礼でしょうかね。熱田神宮の神官の方々もこの「酔笑人神事(えようどしんじ)」は心から笑える話なのでしょうね( ^)o(^ )
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