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古代史ランキング
YouTubeで精力的に情報発信されておられる方のいい動画にだいぶ前でしたが、たくさん議論できました。もう一度読み返して、また以下のコメントしましたので、おつきあいください(#^.^#)
歴史は何のために学ぶのか。この疑問を持ったことがある方は少なくないでしょう。仕事では直接使うことはほとんどないですよね。
過去を学ぶことで未来に活かせると私は考えています。教養という意味でも社会で必要な知識でしょう。
先人たちはどのような暮らしでなぜそのような文化が形成されたのか。面白いことばかりです。
こういった考えから、このチャンネルでは社会人の方が、ゆっくり楽しく歴史上の偉人のことを学べ、更に、そこから日常でも役立てられるような動画を作っています。
このチャンネルを通して学び、役立てられる人が1人でも多くなるようにチャンネル運営を頑張っていきます。応援してもらえると嬉しいです。
ほぼ毎日17時に動画を配信中 にっぽんぽん 運営 山本陽太
刮目天
たびたびお邪魔します(;^ω^)
みなさん、卑弥呼の謎で盛り上がっていましたが、魏志倭人伝と、後はこれを引いた文献だけですからいまだに謎だということです。ですが、いつまでも謎のまま存在させることはできないと、陳寿はヒントをくれたのですよ(^_-)-☆
それに気づかないのは日本書紀が原因だったのです。日本に漢字が伝わったのは応神天皇の時代とあるのを鵜吞みにしているから、当時の倭人は漢字を読み書きできないので、倭国の地名や人名・職名などは、魏の役人が倭人の発音を聞いて韻書の冒頭の字をあてたというのがほとんど定説になっていたようです。
でも、冷静に考えると、西暦57年(弥生時代後期)には国宝金印が倭の奴国王に授けられています。当然、詔書もおくられて、それに対する返事も倭人が書いているはずです。それができないような倭国王に最高位の金印を送るはずないですよ(^_-)-☆
この時代に出土した、当初、砥石と思われていたものが硯の欠片だったと最近分かってきました。すでに福岡市雀居(ささい)遺跡では木製の組み机一式が出土していますし、伊都国では三雲遺跡番上地区に楽浪土器が集中して出土しており、華僑が居住していたと考えられ、伊都国の王族らも当然交流していたはずですから、倭人全員ではないですが、一部には漢字は使われていたはずです。
そして107年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升[范曄後漢書の原本は現存しないのですが、現本を引いたと思われる史書から倭の回土(ウィト)国王師升というのが正しい]は名前から考えてシナ人ですから、シナ語を話せたと考えることができます。あの徐福が連れてきた楽師の子孫だったのです(拙ブログ「徐福は龍神(奴国王)が招へいした?」参照)。
でも素直にそう考えられないのは日本書紀の間違った刷り込みがあるからなのです。
考古学よりも文献を重視する間違った姿勢なのです。
魏志倭人伝にも伊都国の一大率が女王への外交文書や貢物をチェックして間違いなく届ける役割とあるので、文書を読み書きできないと務まりません。
その他にも、交易は大倭という高官が監督し、租税も取ったとあり、実際に権という計りの分銅が出土しており、十進法が使われていたと分かっています。このように、弥生時代は水田稲作と金属技術が導入された日本の産業革命の時代なのです。次の古墳時代前期とそれ程そん色のない文化程度だったと分かるのです(詳細は「変わる弥生時代観!」参照)。
そして、魏志倭人伝の行程記事に現れる倭国の地名などが、漢字を読み書きし、更にシナの古典まで理解する教養人が魏側に書いて教えたことが分かる証拠が、「伊都国」という深い意味のある国名なのです。これを魏志倭人伝で紹介していることから分かるのです。詳しくは拙ブログ「伊都国の意味がヒントだった?」をご参照ください。これによって謎の多い日本の古代史は一気に解明が進みました。ちなみに卑弥呼の正体も、邪馬台国の場所も分かりました。是非、これに関して皆さんのご意見をお聞かせください(#^.^#)
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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でも、冷静に考えると、西暦57年(弥生時代後期)には国宝金印が倭の奴国王に授けられています。当然、詔書もおくられて、それに対する返事も倭人が書いているはずです。それができないような倭国王に最高位の金印を送るはずないですよ(^_-)-☆
この時代に出土した、当初、砥石と思われていたものが硯の欠片だったと最近分かってきました。すでに福岡市雀居(ささい)遺跡では木製の組み机一式が出土していますし、伊都国では三雲遺跡番上地区に楽浪土器が集中して出土しており、華僑が居住していたと考えられ、伊都国の王族らも当然交流していたはずですから、倭人全員ではないですが、一部には漢字は使われていたはずです。
そして107年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升[范曄後漢書の原本は現存しないのですが、現本を引いたと思われる史書から倭の回土(ウィト)国王師升というのが正しい]は名前から考えてシナ人ですから、シナ語を話せたと考えることができます。あの徐福が連れてきた楽師の子孫だったのです(拙ブログ「徐福は龍神(奴国王)が招へいした?」参照)。
でも素直にそう考えられないのは日本書紀の間違った刷り込みがあるからなのです。
考古学よりも文献を重視する間違った姿勢なのです。
魏志倭人伝にも伊都国の一大率が女王への外交文書や貢物をチェックして間違いなく届ける役割とあるので、文書を読み書きできないと務まりません。
その他にも、交易は大倭という高官が監督し、租税も取ったとあり、実際に権という計りの分銅が出土しており、十進法が使われていたと分かっています。このように、弥生時代は水田稲作と金属技術が導入された日本の産業革命の時代なのです。次の古墳時代前期とそれ程そん色のない文化程度だったと分かるのです(詳細は「変わる弥生時代観!」参照)。
そして、魏志倭人伝の行程記事に現れる倭国の地名などが、漢字を読み書きし、更にシナの古典まで理解する教養人が魏側に書いて教えたことが分かる証拠が、「伊都国」という深い意味のある国名なのです。これを魏志倭人伝で紹介していることから分かるのです。詳しくは拙ブログ「伊都国の意味がヒントだった?」をご参照ください。これによって謎の多い日本の古代史は一気に解明が進みました。ちなみに卑弥呼の正体も、邪馬台国の場所も分かりました。是非、これに関して皆さんのご意見をお聞かせください(#^.^#)
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