刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

なぜ皇位継承が男系男子だけなのか?(^_-)-☆

2022-06-17 02:11:03 | 古代史
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YouTubeに女性天皇と女系天皇に関する動画が沢山出ていましたので、女性天皇も存在しないという説をいちいちコメントしました。ほとんどが無反応ですが、この動画では、お返事いただきました。でも、下手なコメントだったせいもあり、こちらの趣旨を十分にご理解していただけなかったようなので、改めて考えてみました。いつもながら、ちょっとくどくなって恐縮ですが、お付き合いください。(/・ω・)/

標記の件ですが、古墳時代の始まりと関係あります。甕棺墓の時代に王墓は、王族のための特定集団墓の中に作られました。ところが二世紀中葉から首長単独の四隅突出型墳丘墓が出雲で出現し、日本海沿岸部に拡がります。同時に、吉備には前方後円墳のルーツとも考えられる楯築王墓が登場します。その後、近江で発祥と考えられる前方後方墳も東国で盛行します。

二世紀末(弥生後期後葉)に倭国大乱が起こります。日本列島の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて、倭国大乱の痕跡を発見しました。戦場は主として北部九州でした。大分県大野川流域から阿蘇山麓にかけて鍛冶集団の集落群が多数作られています。そして熊本県北部菊池川上流域の方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡と「うてな」遺跡にも鉄鏃が沢山住居跡から出土しています。

佐賀平野吉野ヶ里遺跡の環濠や鳥栖市・小郡市などの集落の環濠などからも鉄鏃が見つかりました。福岡市西部や糸島市の遺跡からも出土しています。菊池川の集落に山陰や畿内の土器が見つかっていますので、山陰や畿内の勢力が集まり、北部九州の倭国を攻撃したものと考えられます(「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。

北九州市以東では環濠や溝などから鉄鏃・銅鏃は出土していませんので、北部九州以外は大規模な集団戦はなかったと考えられます。つまり、北部九州にあった倭国と、それを取り囲む勢力とが戦争状態にあったということが分かったわけです。

魏志倭人伝の記述から、倭国では、七・八十年間は男王が支配していましたが、その後乱れて相攻伐したとあります。107年に後漢に朝貢した倭国王帥升(正しくは伊都国王師升)の一族が王となって倭国を二世紀末まで統治していたのが、大乱が起こることによって誰が王なのか分からなくなったということですから、上述のとおり、かなり混乱した状態だったと想像します。東夷伝韓伝でも、韓人や濊人が暴れたとありますので、伊都国王が統治していた倭国が、楽浪郡と交易ができなくなって衰退していたので乱れたと分かります。

一方、倭国に敵対する勢力は、沖ノ島経由で半島南部の鉄素材を入手しています。奴(ナーガ=龍蛇神)国の宮廷楽師だった師升らのクーデターによって滅ぼされた旧奴国、つまり狗奴国の勢力だと推理しました。狗奴国側の各地の首長に鉄製品を配布し、倭国よりも隆盛になっていったと推理しています(「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。

出雲発祥の古墳の前身はこのような時代背景で生まれたということです。つまり、出雲から丹後半島などの鍛冶集落に半島の鉄素材を持ち込み、農具・武器などの鉄製品を製造して、狗奴国側の各地に配布する鉄交易ネットワークが作られたと考えられます。鉄の元締めの王を頂点として各地の首長の系列化が進み、首長たちの権力拡大が鉄製品供給によってもたらされたことから、従来の祖霊信仰から首長霊に対する信仰に移っていったと考えられます。



つまり、先代の首長の男系男子が、偉大な祖先の霊を身に付けて受け継ぐことにより、一層の功績を期待したようです。そのために先代の首長(王)を立派な古墳に葬り、古墳上で新たな首長(王)が首長霊を身に付けるための儀礼が行われたと考えられます。これによって、新しい首長(王)に先代の権力が移譲され、家臣団を引き継ぐための儀礼でもあったと考えられます。代々、王の名を襲名したということも首長霊信仰の考え方を表すものでしょう。

山陰から北陸の集団は、師升らによって殺害された奴国最後の王スサノヲ(「宋史 王年代紀」第十八代王素戔嗚尊)の子イタケルの男系の子孫である狗古智卑狗(久々遅彦)を王と推戴するムナカタ海人族だったと推理しました。狗古智卑狗は、兵庫県豊岡市久々比神社の祭神で、上棟式の祭神でもある木霊の久々遅命または久々智神と推理しました。

スサノヲ大王は、母イザナミの実家のムナカタ海人族を率いてしばしば半島南部に渡り、鉄生産を支配していたと考えています。スサノヲのコネによって狗古智卑狗が鉄を入手できたものと推理しました。三国史記の新羅第四代脱解王は倭国の東北千里のタバナ国(丹波の奴国)出身とありますが、脱解王のモデルがスサノヲで、狗古智卑狗が脱解王の子孫の王たちのモデルとなった人物なのでしょう。

また、イタケルと同時に奴国を脱出したスサノヲの弟ニギハヤヒが、瀬戸内航路の要衝であった吉備の、倭国側に取り入って交易していた有力な在地勢力を、イタケル王の支援で討って、吉備で奴国を再興した人物だと推理しました(「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?」参照)。楯築王墓の被葬者と考えています。楯築神社の御神体の亀石(弧帯文石)が人面蛇体でした。中国神話で人類の始祖神とされた天皇伏羲と同じ人面蛇体なのです。天御中主(アメノミナカヌシ)を初代王とする奴(龍蛇神)国王は伏羲の末裔だったのです。

三世紀初頭に倭国大乱の英雄狗古智卑狗が伊都国の難升米に討たれたので、大活躍していた王を失った玄界灘を支配するムナカタ族の族長赤坂比古が難升米に懐柔されたと考えました。魏志倭人伝では女王が共立されたとしていますが、政治的な理由で難升米と帯方郡太守が卑弥呼を女王ということにしたと推理しました。実態は、ムナカタの姫巫女卑弥呼(通称ヒメゴ)の太陽神のお告げによって倭国の政治を行うことを条件で、狗奴国を裏切ったと推理しています。卑弥呼の政治を輔佐する男弟が、師升王の子孫の難升米であり、実際上の倭国王だったと推理しています(「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。

このころ政治都市の纏向遺跡が突然造営され、東海・山陰・北陸・河内・近江・四国東部、関東などの首長層の人々が集まって祭祀が行われています。最初の前方後円墳の石塚古墳が210年頃に作られます。初期の前方後円墳の属性を調べると、北部九州(奴国)、吉備(楯築遺跡)、出雲発祥のものが見られますが、九州の土器が出土してません。纏向の祭祀に九州にあった倭国の人々が参加していませんから、纏向遺跡の勢力は倭国と敵対する狗奴国(旧奴国)だと分かります。



纏向遺跡はニギハヤヒ大王の直系の王卑弥弓呼(日子御子)が旧奴国の勢力を呼び寄せて、恨みのある倭国王一族と狗奴国を裏切った赤坂比古らを征討するために作られた祭祀都市だと分かります。大型の神殿や大量の桃の種が出土していることからも分かります。

この後の話は少し込み入っていますので、ここでは触れませんが、ニギハヤヒ大王が天皇伏羲の末裔だという認識は、魏略逸文「倭人は呉の太伯の後」からも分かります。倭人の王が紀元前473年に滅んだ呉の王族だったことを意味しています。

ヤマトの大王を七世紀末に対外的に天皇と呼んた理由だったのです。



京都にある天皇家の菩提寺で祀られている歴代天皇は、初代天御中主の子孫である第十九代王天照大神尊ニギハヤヒ大王の男系男子だということです。明治になるまで女性天皇は誰一人として祀られていなかったとのことです(関裕二「持統天皇 血塗られた皇祖神」参照)。

憲法に規定された国事行為は摂政が代理でできますが、偉大な皇祖神の霊力を身に付けて国家と国民の安寧と繁栄を皇祖神に祈る宮中祭祀が天皇陛下の最も重要なお仕事なのです。天皇が即位した後に一回だけ行われる大嘗祭では、真床追衾という儀礼によって皇祖神と一体となり、皇祖神の霊力を身に付けるのです。皇祖神の男系男子が継承した男性の天皇が宮中祭祀を執り行うのが二世紀中葉から始まった首長霊信仰によるご皇室の伝統なのです。

女性天皇は藤原不比等のフェイクでした(「【日本人必見】女神アマテラスは血塗られた皇祖神!」参照)。




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【驚愕!】卑弥呼の奴婢は埋葬されたのか?(@_@)

2022-06-16 00:01:08 | 古代史
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Pontaさんから返事が参りましたので、2022-05-30 09:26:08の記事に追加します。お付き合いください(^_-)-☆

古代史に関して多くの著書のある方のとても興味深い動画に、表題の内容に関するコメントがありましたので記事にします。お付き合いください(^◇^)




セカイK1
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
卑弥呼が死に、多数の冢が作られた、径100歩に殉葬者の奴婢100余人。
とかの意味じゃないかな。
大作は漢文の用法としては大きく作るじゃなくて多数作るの意味みたい
墳ではなく冢だから小規模な墓が多数作られたんだ。


直也 草野
なるほど!こちらのほうが正しいです。

刮目天
皆さん それは違うと思いますよ(*´Д`)
どう考えても、奴婢に墓は作られませんよ。宇佐市安心院町三柱山で卑弥呼の径百余歩の円墳を発見していますが、その横の地名が血野とされていましたので、奴婢を殺した場所と推理しています。その他にもいくつか証拠がありますから。

地元の伝承では戦国時代に領主の一族の者が斬り殺された場所としていますが、そのような地名になるほどの血が流れるとは考えにくいので、史実を隠すための伝承と考えています。安心院町は卑弥呼の史実を隠すために藤原氏が手を入れた場所だと思われます。詳しくは拙ブログ「刮目天 【発見!】卑弥呼の墓」をご参照ください。色々と疑問点を教えてください。よろしくお願い致します(^◇^)

波留野うらら
秋津遺跡には、魏志倭人伝に云う宮室、物見櫓、城柵、環濠などはありますか。また、径百余歩の歩の解釈は色々あって定説はないと思いますが如何ですか。なお、古墳学の権威と云われた森浩一氏(故人)は、ヒミコの墓は「冢」と書かれ「墳」とは書かれていませんので、大規模な墓は想定できないと仰っていましたね。

刮目天
漢字源に「冢」は「かしら/おさ/集団を統率する人/おおきい/つか/大きな墓などの意味をもつ漢字」とあり、ウィクショナリーでも「塚。大きな墓。」とあります。墳は漢字源で「土地の神を祭る為に柱状に固めた土」という意味で、墳墓と書いて、そのような墓という意味です。卑弥呼のために径百余歩の大きい塚(円形墳墓)を作ったということでいいと思います(^_-)-☆

kurdt d cobain
魏志倭人伝の記述である「徇葬者奴婢百餘人」についてはこの人はどう考えてるのだろう
この記述が本当なら卑弥呼の墓の周りには100基の徇葬者の墓があるはずなんだが
日本の古墳で徇葬者が埋葬されてる古墳て無かったはずなので
それがここで見つかったら信憑性は高くなるかも


日本古代史(桂川光和)
11代垂仁以前には徇葬が存在します。
玉手山には私が卑弥呼の徇葬者の場所以外にも、6代孝安天皇の徇葬地ではないかと推測する墳丘が存在します。
次のページの下の方の形図に、一見前方後円墳のように見える墳丘があります。全長26mほどのそこそこ大きな墳丘ですが、きわめて粗雑な作りで、中心埋葬施設がどのあたりか見極められないという墳丘です。
http://lidar.sblo.jp/article/189338597.html


Ponta Kawagoe
宮崎県にある西都原古墳群に生目古墳群があり、その1号墓が丁度魏志倭人伝に記載のある大きさで、百余人の奴婢が殉葬された横穴墓もあります。

また神話にある「高千穂峰の山頂」と「生目1号古墳」の軸線を結んだ延長線上に,「天照大神が生まれたとされる聖地・阿波岐原の『みそぎ池』南端を通ることを確認」した,というあたり驚愕すべき発見もあります。


刮目天
上でも指摘しましたが、奴婢である殉葬者に墓は作られないとするのが常識だと思います。申し訳ないですが、奴婢は一人前の人間とはみられていないから奴婢なのでしょう。

Ponta Kawagoe
@刮目天
殉葬の古墳を確認されたし!
宮崎県南部には多数ありますよ。


刮目天
@Ponta Kawagoe さん 殉葬は古来からありますし、明治時代だってありましたから異常ではないですが、宮崎県で殉葬された人物は奴婢でしたか?そういう証拠があるのならば、取り下げますが、常識的に奴婢は墓に入れてもらえないと考えられますよ(^_-)-☆

刮目天
@Ponta Kawagoe さん それから記紀神話に合うように作られたものは信用できませんよ。記紀神話に合致する伝承を作るのが藤原氏の政策だったのですから。藤原氏の一族の中臣氏が神社行政を握っており、人事も藤原氏の一族を宮司とする例もあります。安心院町妻垣神社の宮司の矢野家は藤原です(矢野武夫「卑弥呼の墓発見」安心院町文化連盟 1981)。卑弥呼の墓の伝承のある奥宮一柱騰宮という磐座がありますが、一柱騰宮は他に宇佐市内に二カ所もあり、どれが本物か分からなくしていますよ(^_-)-☆

むしろ藤原氏に内緒で残っていた記紀に反する伝承が信用できます。例えば、宗像大社の「ムナカタの子がスミヨシ、その子がウサ」や住吉大社の伝承で仲哀天皇のもがりで皇后と大神に夫婦の密事があったことを残しています。仲哀天皇は父のヤマトタケルが薨去して37年後に生まれた計算になりますから、作り話だと直ぐに分かります。建国の真相を解明したら、祖父の景行天皇が実は仲哀天皇とされた尾張王ヲトヨの子建稲種であることが分かりましたよ。(2023.5.30 赤字訂正)
記紀神話は藤原氏が建国の史実を隠す目的で作られたものだと分かりましたよ(^_-)-☆

Ponta Kawagoe
@刮目天 さん、実際に見に行ってみてください!
百聞は一見にしかず。思い込みその他も一気に解消されますよ。
殉葬の何たるかも分かりますよ。


刮目天
@Ponta Kawagoe さん わたしは静岡県在住ですので、おいそれとはいけません。思い込みと言われるのであれば、被葬者が奴婢だという証拠を教えてください。もしも奴婢であるのならば、考えは改めますよ(^_-)-☆
だいたい平安時代や江戸時代だって、庶民は野ざらしだったようです。奴婢の身分で丁寧に墓に葬られるとは考えにくいというのは、それほど常識外れではないと思いますよ。ぜひ教えてください(/・ω・)/

刮目天
@Ponta Kawagoe さん Wiki「生目古墳群」には「1号墳
全長136メートル、高さ17メートルの前方後円墳。一説に当古墳群最古といわれる。畿内の箸墓古墳の2分の1の大きさの相似形と言われ、その関係に注目されているが調査は遅れており、見学は困難である。
」とありましたので、行っても見ることができません。百聞は一見にしかずと言われるあなたは横穴を見たのでしょうね。その時の様子を教えてください。それとも調査報告書に奴婢だと記録されているのですか?だったらそれを教えてくださいな(^◇^)

というところで、現在回答待ちです!とても楽しみにしています.
回答が来たらまた、お知らせしますが、皆さんはどう思われるます?(*^▽^*)

<ここから追加しました!>

日本古代史(桂川光和)
墓は作られない。墓ではなく徇葬された場所、徇葬地とでも称するような場所が存在する。

刮目天
@日本古代史(桂川光和) さん
遺体をそのまま放置するいわゆる野ざらしか、そのまま土をかけて隠したか、あるいは少しだけ掘って土壙墓にしたかですが、手厚く葬ることはなかったようです。

Ponta Kawagoe
@刮目天 さん
私は更に遠い埼玉県在住ですが、件の宮崎県の遺跡まで足を延して訪問しています。
この辺りには横穴墓が前方後円墳に寄り添うように多数見られ、埋葬されている遺骨から、年齢層や身分の構成も王族の奴婢たちと推定されています。


刮目天
​ @Ponta Kawagoe さん
そうだったのですか。わざわざ埼玉から宮崎まで調査に出かけられたのですね。

それでその横穴墓は生目古墳群1号墳の周囲に塚があるのでしょうか?それとも、前方後円墳の後円部側面に横穴が掘られているのでしょうか?

わたしも気になってネットで文献を探してみたのですが、梁 雲先生(西北大学)の「早期秦文化の起源と形成」に前秦代に、主人が愛着のある奴婢や犬・馬の殉葬のために葬った腰抗の話がありました。墓室に穴を掘って遺骸を置いた模様です。

日本では播磨国風土記の餝磨(しかま)郡の馬墓池の話がありました。尾張連の祖の長日子が死ぬ前に遺言で、お気に入りの婢(下女)と馬を葬るようにしたので、三つの塚ができたそうですから驚きです。確かめようと思いましたが、後に池に沈めたそうで馬墓池と呼んだようです。現在の姫路市夢前町とのことで、地図で確認しようとしたのですが、いくつも池があるようですが、該当のものは見つかりませんでした。どなたかご存じないですかね?

しかし、生目古墳群が前方後円墳ならば、3世紀末から4世紀以降のヤマト政権が九州の大国主と台与を討ったあとの話だと思いますので、247年に死んだ卑弥呼の墓ではないといえます。横穴墓は主人の家人らが死後に困らないように奴婢を埋葬したのでしょうね(^_-)-☆

卑弥呼の死は247年3月24日日没直前の日食のために暗殺されたと推理していますので、遺言もありません。おそらくは口封じで百余人もの奴婢が殺されたと推理しています。宇佐市安心院町三柱山の卑弥呼の墓は径百余歩で直径約150mの円墳でした。西側の原野が血野という地名になっており、そこに殺された奴婢を放置したのだと考えています。



ですから、奴婢だから必ず野ざらしというわけではないことが分かりました。少し考えを改めます。どうも有難うございました。また、有益な情報をお教えください(*^。^*)

【関連記事】
【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!


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中平紀年銘鉄刀は卑弥呼のものか?(*^▽^*)

2022-06-15 00:01:25 | 古代史
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2021-02-14 14:10:00にアップしましたが、その後判明したことを(注1)と(注2)に追加しました。お付き合いください(^_-)-☆

古代のワニ氏の拠点だった天理市櫟本町(いちのもとちょう)の前方後円墳東大寺山古墳から発掘された中平紀年銘大刀が知られています。女王卑弥呼に与えられたものだろうという説を、考古学の専門家の方々が発言されています。今日はこの話題にします。


被葬者を葬った棺の外側には、鉄刀・鉄剣・鉄槍など、多量の武器や武具が並べられていました。とくに有名な中平銘鉄刀は、全長 110cm の刀身の棟の部分に金象嵌で 24 文字の吉祥句を表し、「中平□□(年)五月丙午造作文(支)刀百練清剛上応星宿□□□□(下避不祥)」と読むことができます。銘文の冒頭に刻まれた後漢の年号、「中平」(紀元後 184 ~ 190 年)は、考古資料に記された国内で最も古いものです。
2 世紀末の中国で製作された鉄刀が、いったい、どのような経緯で奈良盆地にもたらされ、4 世紀後半に築造された東大寺山古墳の副葬品になったのか、謎がつきません。東大寺山古墳から出土した多数の鉄刀のなかには、オリジナルの鉄刀を改造して、家形や花形をした日本列島産の青銅製環頭を取り付けたものが多く見られます。


東大寺山古墳の北側500mほどに和爾坐赤坂比古神社があります。祭神は阿田賀田須命(赤坂比古命)と市杵島比売命(イチキシマヒメ)の二柱です。イチキシマヒメは宗像三女神の一柱で、厳島神社で主祭神として全国で祀られています。神仏習合で弁財天としても祀られています。刮目天はすでに卑弥呼だと突き止めています(「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!」参照)。

また、阿田賀田須命は玄松子さんのデータベース「吾田片隅命」によると以下のとおりです。
別名、阿田賀田須命。
素盞鳴尊八世孫、和邇君の租神。大国主神の六世の孫裔ともいう。
素盞鳴尊の御子・宗像三女神の七代孫とする説もあり、 「新撰姓氏録」では「宗形朝臣、大神朝臣同祖、吾田片隅命之後也」とあり、宗形朝臣の祖。大神朝臣の祖。


ワニ氏は、「和珥」を氏の名とする氏族。5世紀から6世紀にかけて奈良盆地東北部に勢力を持った古代日本の中央豪族である。和珥は和邇・丸邇・丸とも書く。とWiki「和珥氏(わにうじ)」にあります。すでに、卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう(@_@)【大発見か?】卑弥呼が日觸神社で祀られていた(^_-)-☆で、卑弥呼が日食(247年3月24日)が原因で倭王に暗殺されたことを示唆する神社だと述べましたが、ワニ氏は日本海沿岸部を拠点とするムナカタ海人族の一支族で、卑弥呼を女王に共立した卑弥呼ゆかりの一族だと考えています。藤原不比等によって日牟禮(ひむれ)八幡宮と神社名を強引に変えられたようです。

後漢末期のこの時期は、朝廷の内部抗争が続き、気候の大変化もあって民衆も相当疲弊して黄巾の乱が起こりました(184年)。三国志の幕開けの時代です。公孫氏が186年に遼東太守になりましたが、半島内では濊人や韓人が強盛になって楽浪郡が統制できなくなったと「三国志 東夷伝韓伝」にあります。

またこの鉄刀の象嵌の出来があまりよくないので洛陽で製造したものではないようです(金関恕「卑弥呼女王の共立」考古学雑誌 2017,99-2,p.133)。この銘文は「よく鍛えられた刀であり、天上では神の御意に叶い、下界では禍を避けることが出来る」という意味ですから、遼東周辺の部族に公孫氏が造って直接下賜したものだとは考えられますが、半島が乱れている時期ですので遠い倭国から後漢に朝貢して、この大刀が倭王に下賜されたとは考えにくいのです。

卑弥呼が女王に共立されたのはもっと後でしょう。

倭国大乱はこの半島の混乱と連動して起こったのだと推理しています。伊都国を王都とした師升の一族の倭王難升米と旧奴国勢力との武力抗争が大きくなったと考えています。狗奴国の官狗古智卑狗(久々遅彦、兵庫県豊岡市久々比神社の祭神久々遅命)が最前線でムナカタ海人族などの旧奴国勢力を指揮して倭国勢とかなり大きな戦闘が行われたようです。熊本県山鹿市の方保田東原遺跡(かとうだひがしばるいせき)やその周辺に鉄製武器(主に鉄鏃)製造の軍事拠点を造って、佐賀県神埼郡吉野ヶ里遺跡や福岡県小郡市付近などの倭国側の集落を襲撃した痕跡が残っています。さらには伊都国の東側の集落にも戦闘の痕跡が見られますので、范曄「後漢書倭伝」にある通り、何年もの間統一した君主がない、かなり混乱した状況だったようです。

そして、公孫氏が半島の混乱を収めて204年に帯方郡を設置しましたので、難升米王は早速朝貢し、軍事援助を受けたと推理しています。倭国は勢力を取り戻し、倭国を苦しめていた熊本の軍事拠点を襲撃して、そこで大国主の先代久々遅彦が戦死したのではないかと考えています(「【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その1)(その2)」「【謹賀新年】狗古智卑狗の霊ライン?(@_@)」「【国宝】臼杵石仏の謎?(*^-^*)」参照)。

大活躍していた王を亡くしたことで勢いを失った久々遅彦配下のムナカタ族(ワニ氏の祖)の族長先代赤坂比古を難升米王が懐柔し、の卑弥呼(イチキシマヒメ)を女王に共立したと推理しています。実態は、権力を持った女王ではなく姫巫女として、ムナカタ族の祭祀様式を倭国に導入する譲歩を倭王が行ったと考えています。このころ北部九州で盛行した甕棺墓が消えて、石棺墓などに変わっていますから、奴国以来の伝統的な祭祀様式を止めた模様です。それくらい倭国側は苦しめられていたということでしょう(注1)(2022.6.14 赤字追加)

三世紀末ですが、ヤマト政権に滅ぼされたムナカタ族は応神天皇が初代祭祀王に即位した後にヤマト朝廷から許されて、近江で製鉄や対外交易で隆盛になり、天理市櫟本町(いちのもとちょう)にも進出して大王(オオキミ)の妃を出す有力氏族になったようです。その頃に偶然半島との交易で入手したのかも知れません(注2)(2022.6.14 赤字追加)

そして七世紀後半ですが、天武天皇の長男高市皇子も母は宗形徳善の娘、尼子娘でした。

しかし、天武天皇の崩御後に藤原不比等が実権を握りました。上で述べたように日本建国の真相を隠すために、有力だった氏族の氏神を祀る神社の名前や祭神まで変更させ、歴史を改ざんしています。おそらく卑弥呼にゆかりのワニ氏の名前も、不比等が「日本書紀」日向三代の神話で天皇家をワニの近親相姦の一族だったと貶めるために作ったもので、本当は別の氏族名だったのかも知れませんよ(;一_一)

(注1)「伊都国の意味がヒントだった?」で述べたように、魏志倭人伝の地名や人名などは漢字を読み書きでき、孟子も読む教養人の伊都国男王難升米(倭国王師升の子孫)が直接帯方郡太守劉夏に書いて教えたものです。その際、漢字を読み書きできない倭人に対しては蔑む悪字を書いていることも分かりました。狗古智卑狗が最も酷い例です。よほど苦しめられた人物だったことを表しています(^_-)-☆(2022.6.14 追加)

(注2)と書きましたが、やはり倭国王(難升米の先代)が公孫氏から賜った可能性が高いと思います。238年に魏の太尉司馬懿によって公孫氏が滅ぼされたので、難升米が朝貢のために帯方郡に直接乗り込み、司馬懿に取り入るために太守劉夏と談合して、司馬懿に都合のよいように倭国の情報を書き換えたと推理しています(「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。難升米は公孫氏から与えられた中平銘鉄刀を配下のムナカタ海人族の族長赤坂比古(和邇氏の祖、卑弥呼の弟、日触使主)に下賜したと考えられます(「女王を共立した赤坂比古は?」に書いたとおり、卑弥呼の父で先代赤坂比古は既に亡くなり卑弥呼の宮室があった宇佐市安心院町宮ノ原遺跡に直径約120mの巨大円墳で埋葬されていると推理)。

投馬国へ水行してみませんか?(注2)」で推理したように、公孫氏から馬を賜っていましたが、公孫氏との関わりを魏に説明することを避けるために、240年最初の魏使梯儁(ていしゅん)が来訪する直前に、公孫氏に与えられた中平銘鉄刀と同様に、投馬国の長官弥弥(みみ)に下賜したと推理しました。「投馬(ズメ)」という国名は「馬を与える」という意味です。漢字の意味を知っている難升米がその国名として「投馬」の漢字を宛てたものと考えられます。劉夏との話で、投馬国へは伊都国からさらに二十日以上かかる遠隔地ということにしていたので、梯儁は伊都国で難升米に面会して仕事を終えたものと考えられます。行ったとしても、せいぜい隣の奴国まででしょう。奴国には列島内最大の交易センターとして那珂・比恵遺跡群を整備しており、多くの人々が集まっていた模様ですから、倭国がにぎわっている様子を見学させたかもしれません(「【検証13】奴国~邪馬台国時代の北部九州は?」参照)。


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投馬国へ水行してみませんか?( ^)o(^ )

2022-06-14 05:20:21 | 古代史
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昨晩、晩酌しながらふと思いつきましたので、赤字で追加し、(注4)として説明を追加しました。決定的な証拠ではないですが、不弥国がウミコクで宗像市周辺だという説を支持していましたよ。また、また恐縮ですが、お付き合いください( ^)o(^ )

2022-06-06 16:02:27に表題の記事を以下のとおり改訂しましたが、弥生時代から古墳時代の宗像市周辺の潟の様子などを解説した貴重な論文が「むなかた電子博物館紀要」にありました。本文でも説明しましたが、現在の様子とかなり違うので、関係部分を抜粋して(注3)に追加しました。再々投稿で恐縮ですが、また、お付き合いください(/・ω・)

2022-05-28 15:27:52に記事にしましたが、投馬国の由来について思いついたので(注2)に追加しました。お付き合いください(*^▽^*)

先日から、みならいWAJINさんと楽しい議論ができ「魏志倭人伝の渡海ルートは間違い?(@_@)」とコメント欄にアップしています。そこで、不弥国(うみこく)からの水行・陸行のルートに関して、以下のとおりブログ本文で説明しましたが、2日では無理ではないかという、とてもいい疑問を教えて頂きました。心より感謝いたします( ^)o(^ )

不弥国から投馬国(中心地は京都郡みやこ町節丸字在馬・豊津付近)まで水行2日と推理しました。長野正孝「古代史の謎は海路で解ける」(PHP新書)を参考にして、福間ー赤間、遠賀川河口ー関門海峡は潮流を利用して可能だと思います。だから魏志倭人伝の水行20日は実際の日数を10倍した過大な日数だと推理しています。卑弥呼のいた場所が宇佐市安心院町三女神社とわかったので、そこから難升米がどういうトリックをしたのかを推理したのです。

そして、疑問点に対する回答は以下のとおりですが、国土地理院の高低差を色分けできる地図を使って細かく検証してみました。今回、新たに図を作り直しましたので、これに従って少し説明致します。クリックすると綺麗な地図が出ますので、是非地図で確認しながらどうぞ!。さらに疑問点などいただければありがたいです。どうぞお付き合いください。

(2)不弥国新宮町付近から豊津まで現在の海岸線に沿って測れば、おっしゃる通り約90km近いでしょうから2日では無理と考えるのは分かります。しかし、長野正孝氏によれば卑弥呼時代の北部九州の海岸線は今よりも内陸側に入り込んでおり、玄界灘よりも穏やかな内海を航路としていたことが福間・赤間・船越などの地名から分かるとしています(上掲書 p.19 図1-1)。そうすると航路長は60km程度と考えて、潮流を利用すると2日というのは1日10~30kmということであれば実現可能とわたしは考えました。わたしは難升米が20日としたのは、2日をきりがよく10倍したのだろうと思ったのです。でも、実際は3日であっても、4日でも、それを20日と難升米が書いているのですから、10倍になっていないだけの話です。要するに邪馬台国の位置を呉の東海上で帯方郡から万二千里の場所に置きたいために過大な日数にしたと見ているから、ありそうなトリックを想像しただけなのです(^_-)-☆。



それでは、図に沿って説明します。なお、少しだけ前提となる情報を(注1)に述べましたのでご参照ください。

さて、奴国の中心都市が吉野ヶ里遺跡の4倍はあると言われている比恵・那珂遺跡群です。そこから東に百里で不弥国と書かれているので、上に書いたとおり、新宮町の浜に用意された小舟に乗って、邪馬台国への水行・陸行の旅に出発したのだと考えています。浜を北上して福津市の西郷川河口から遡り、板見坂付近の支流で福間(JR東福間駅付近)に向かい八並川で宗像の穏やかな内海に出ます(注3)。内海の南側の低丘陵に作られた弥生前期中葉~古墳時代の田熊遺跡群があります。田熊石畑遺跡は弥生時代の墳墓が見られ、古墳時代初期の遺物も出土していますので、長官の多模(タモ、タマ)らはここに居たのではないでしょうか(注4)(2022.6.13 赤字追加)


さらに内海を東に行くと釣川上流部の赤間に出ます。ここから遠賀川方面へは猿田峠を越えて鞍手町に出たのではないかと思います。新延舟川(にのぶふなかわ)という地名がありますから、そこから水路で遠賀川中流域の現在の中間市垣生公園(はぶこうえん)付近の上り立遺跡まで行き、そこで一泊したと考えられます。この付近から、かなり大げさな戸数とは思いますが、五万戸の投馬国の領域と考えています。

翌日早朝から東の通谷から船越まで行くと金山川に乗り換えて、そのまま一気に下ると洞海湾に出ます。そこから潮の流れに乗って関門海峡を通過し、南下してその日のうちに投馬国の拠点集落のある苅田町、行橋市、豊津町などのみやこ町遺跡群に到着します。あるいは、関門海峡の潮流の向きによっては、図に示したように紫川を少し遡り、城野遺跡辺りから竹馬川で周防灘に出ることもできると思います。

これで不弥国から水行二日で投馬国の中心部みやこ町遺跡群(行橋市下稗田遺跡、苅田町木ノ坪遺跡、豊津町徳永川ノ上遺跡など)に到着できると考えています。(2022.6.13 赤字追加)

なお、中間市から田川市まで遠賀川をさかのぼり、彦山川から赤村付近で今川に出るとみやこ町に行けると思います。しかし、船越からのルートの方が楽に早く行けるのだと思います。復路はこのルートの方がよさそうです(^_-)-☆(2022.6.6 青字追加)

投馬国の名称は、最初に宇佐説を学説にされた富来隆先生の「卑弥呼」(学生社1970、pp.203-207)によれば、関門海峡にあった「鞆(とも)の津・浦」から来たものと考えていましたが、どうも、みやこ町節丸字在馬の地名から来たのではないかと思われます(注2)。

現在、「京都カントリー倶楽部」がある小高い丘辺りに長官弥弥(ミミ)の居館があったのではないかと考えています。南側の麓の節丸地区に在馬古墳群があり、6号墳は6,7世紀の円墳ですので、時代は新しいですが、当時のヤマト朝廷で有力だったムナカタ海人族和邇氏の一族のものと考えられます。1号墳は墳丘径約6mです。付近に円墳6基の今村古墳群もあり、3世紀の邪馬台国時代に和邇氏の祖赤坂比古配下の武将が長官などになっていて、その故地に子孫たちが移り住んだものと考えられます。

邪馬台国への水行・陸行はまたこの次にしましょう(^◇^)

【参考記事】
【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!
【刮目天の古代史】邪馬台国の謎(´ω`*)

(注1)この行程記事は、実際は景初三年(239年)に帯方郡に出かけた倭国王難升米が魏の実力者の司馬懿の部下の太守劉夏との談合で決めたものと推理していますが(「【検証22】難升米という人物は?(その1)~(その3)」)、その後、この談合結果に基づき、正始元年(240年)に派遣された最初の魏使悌儁(ていしゅん)が作った報告書を陳寿が宮廷の書庫で見つけて、文章を抜き出したのだと考えています。この報告書には、難升米が実際の行程をベースに、司馬懿の功績を魏第一等のものにするために大げさな日程や戸数などを書いて教えた内容が残されたと推理しています。

末盧国の上陸地点は、通説では唐津とするのが多いようですが、ここでは伊万里湾内としています。停泊地は魏使の船の大きさにもよるのです。唐津湾にも停泊できるとは思いますが、魏志倭人伝には末盧国から伊都国まで陸行五百里と書かれています。したがって、唐津湾に停泊したのならば、伊都国は唐津湾から見えます。なので、荷物を小型船(丸木舟や準構造船)に積み替えて行けますので、魏志倭人伝の記述に合いません。より遠方の伊万里湾であれば記述と合致します。

魏使が乗る船についてはほとんど情報がないのですが、海洋技術の専門家遠澤 葆氏が「魏志倭人伝の航海術と邪馬台国」(成山堂書店)の中で、帯方郡の遣使が使った船は、当時の魏の船ですから、櫂走船もありますが、帆を降ろして櫂走も可能な帆走船と考えていいとしています(p.38)。ただし、三国時代の船の絵などは不明です。乗員数についても、記載が見当たりませんが、この時代よりもはるかに古い古代エジプトの帆船から考えて、中央にマストが1本あるタイプと考えているようです。

ですから、初めての朝貢国に魏皇帝の威厳を示すためには最低でも百人程度の乗員の乗るような当時の大型船が使われたものと考えられます。

そうすると、唐津湾よりも水深があり、地形的にも風に対しても安心して停泊させられるのではないかと考えられ、伊万里湾が選ばれたのではないかと考えています。

(注2)投馬国の読みは通説では「ツマコク、トーマコクなど」と言われています。しかし、投馬は日本の古くからの漢字音「呉音」で「ズマ(メ)」と読めます。投馬国の中心地を上述の在馬とすると、「在」は呉音で「ザイ」ですが、呉語 ピンイン: ze2 とあるので、在馬は「ゼマ(メ)」->「ズマ(メ)」と変化しそうです(は呉音でメ、呉語 ピンイン:ma2 mo2) 。

アズミ族が開発した土地だったので、アズミがズミー>ズマと変化したのかも知れません(安心院がアジムと読むのはアズミ族が開発した土地だったからという説があります)。

あるいは、魏志倭人伝では、倭国には牛や馬などはいないと書かれていますが、ここには当時珍しい馬が居たので、在馬という地名になったのかも知れません。Wiktionaryによると「投」と言う字には「与える」という意味がありました(例:投薬、投与)。難升米が公孫氏から貰った馬を長官の弥弥(ミミ)に与えたのかも知れませんよ。倭国の地名などは漢字の意味を知っている難升米が書いています(「伊都国の意味がヒントだった?(@_@)」参照)。馬が居ないとするのに投馬国と書くのは矛盾するようですが、そこまでは気が付かなかったのか?公孫氏との関係を説明したくなかったから、馬はいないと言ったのかもしれません。こっちの方が当たりかも(^◇^)
(2022.6.6 紫字追加)

(注3)弥生時代から古墳時代の宗像市周辺の潟の様子は、花田勝広 「宗像地域の古代史と遺跡概説」むなかた電子博物館紀要第2号2010年4月1日に詳しく書いてありましたので以下に引用します(pp.47-50)。国土地理院の地図を見ながらご参照ください(^_-)-☆

2-1-2.弥生~古墳時代の宗像潟
 弥生時代遺跡を潟から立地を見ると、田島瀧ノ口、多礼コキゾノ、河東久戸、稲元久保、須恵クヒノ浦、三郎丸、田久、田久松ヶ崎、曲香畑、曲善王寺、東郷下ノ畑、東郷登り立、田熊石畑、大井三倉、大井池ノ谷、大井和歌遺跡などが、潟周辺に位置している。この内部が後背湿地や入海となるが、唯一向手丘陵の標高4m前後(推定)に立地する釣川遺跡が位置する。これらのことから、海退が進み田久北側、稲元南側、曲北側、東郷北側を中心に広域な入海は後背湿地を含め、大きな潟を形成していたものと推察される。集落遺跡から見ると最も低いのが、5mの稲元下牟田遺跡(散布地)となる。
  古墳時代の遺跡も、同様の位置で集落が配置されており、潟の干上がりは進んだものの、景観は変化が少なかったと推定される。集落の立地は、湿地縁辺から谷奥へ水田開発に伴い、分村集落が著しく多くなり、ほとんどの平野低地部に開発が進んだのであろう。そして、古墳時代の終わりには、山麓部に群集墳が造られる。


2-2-1.福間潟
 海岸は蓑生浦と呼ばれ、和名抄の蓑生郷が、西郷川下流部に推定される。中流に神興廃寺・畦町遺跡があり、津丸郷の推定領域となっている。弥生~古墳時代の集落は、原町の香葉、福間駅東側、津丸五郎丸遺跡などが知られるが、実態が明らかでない。西郷川の下流域の氾濫原には遺跡は確認されておらず、上西郷や検見坂付近まで氾濫原がひろがっており、弥生時代から古墳時代には潟湖の存在が推定される。上流部に畦町遺跡があり、内殿・畦町周辺は集落や水田が広がっていたものと推察される。
2-2-2.桂潟
 『宗像市史』に縄文時代前期の海岸線が復元されている(下山, 1997)。弥生時代~古墳時代においても、入海が広がっていたものと推定されている。同時期の遺跡も、丘陵や海浜部に勝浦・練原・新原奴原・生家・在自遺跡などが知られる。古墳時代の集落・古墳群の様相から潟や入海の状況が想定される。農耕は、谷水田を中心とする農耕基盤と考えられる。奈良~鎌倉時代には、交通路も丘陵部をとおり、名児山越のルートである。ただし、中世には在自西ノ後遺跡が、唐坊(津屋崎中学校)と考えられることから、潟の陸地化が進んだと見られる。
 江戸時代には、塩田に広く利用されており、現在も潟が残る。留意されるのは、渡半島が塩浜から勝浦浜に続いて砂州が延びていたことで、海の中道の景観を呈していた。ところが、一部、白石浜で低い部分があり、古墳時代後半期には砂州帯を切通し、玄界灘に繋がっていたものと、私は推定する(花田, 1993)。
 このように、宗像地域の景観は現代と異なり、潟が広がっていたものと考えられる。同様な現象は、古賀地域・糸島地域・遠賀川流域でも知られる。人々の営みの中で、入海→潟→湿地→水田への変化を遂げた。宗像海人の基層部分は海と平野の基盤を持つ特性が、地理的要因から考えられる。


縄文系ムナカタ海人族は、ただ海の民として交易と漁労で生きていたわけではなく、水田稲作を受け入れて、それを生活の基盤にしていったということなのでしょう。「日本列島に集まった人々とは?」で推理したように、第一段階(狩猟採集民)の縄文系の人々が第二段階の遼河人系海人と混血して生まれた人々で、水田稲作技術を持った第三段階前期の倭人とも友好関係を持ち、非常に柔軟で生き生きした、活動的な人々だなと思います(^_-)-☆(2022.6.10 追加)

(注4)たった今気づきましたが、タマ(モ)は現在の地名田熊(タクマ)のことではないでしょうか?難升米がムナカタ族のタクマの発音をタモと聞き取って漢字の「多模」を当てたのではないでしょうか?難升米は漢字の意味が分かっていますので、「」には「まねる」という意味がありますから、「真似が得意なヤツ」という意味で漢字を当てたのではないでしょうか?多分長官はムナカタ族でしょうから、彼らの特質のことかもしれませんね。いやあ、逆に田熊という地名が、難升米が不弥国の長官タモ(タマ)に当てた漢字の名前に由来するということかも知れませんね(^◇^)(2022.6.14 追加)

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宇佐八幡の比売大神は卑弥呼だよ(^_-)-☆

2022-06-13 18:36:01 | 古代史
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日本書紀に慣れていない方のために、崇神天皇即位から応神天皇即位までの年表を作成して末尾の【付録】に掲載しました。その直ぐ上の三世紀後半(弥生終末期から古墳初頭)の鉄鏃・銅鏃の出土状況と応神紀四道将軍の話やその約160年から200年後の景行天皇・日本武尊の遠征の話が一致することが、いかにケッタイなことかがわかりますよ。お付き合いください(^_-)-☆

宇佐神宮の祭神比売大神が宗像三女神のイチキシマヒメで卑弥呼だと突き止めていますが、とても分かりやすい解説動画がアップされていたので、コメントしました。お付き合いください。


1,818 回視聴 2022/03/14 宇佐神宮に来た人はみな首をひねる【ヒメオオカミ最優遇の謎】。単なる”女神”という意味でしかない「ヒメオオカミ」の正体は一体何なのか…「都市伝説」をまとめました。
”信じるか信じないかはあなた次第―――。”

▽前回の動画を先に見るのをオススメします▽
ハチマンって何者?
6分でわかる宇佐神宮
△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△
目次↓
0:00 はじめに
1:07 謎が多い!ヒメオオカミ
4:53 ヒメオオカミ=○○説
6:56 ヒメオオカミ=○○=▲▲説
8:16 まとめ___________
宇佐神宮
宇佐市(御許山、大元神社)


刮目天
とてもいい動画をありがとうございます。
邪馬台国宇佐説はマイナーなのですが、正解だと科学的に突き止めましたよ(^_-)-☆
比売大神=宗像三女神という説は正しいのですが、これから分かるように三人の女神ではなく卑弥呼だったのです。それを隠すために日本書紀が三女神としたのですが、葦原中つ国の宇佐嶋(安心院町三女神社)に降臨した説を紹介しています。なぜ隠す必要があるのか疑問に思われるかもしれませんね(^_-)-☆

実は日本書紀は天武天皇が編纂を命じた現存する最古の正史ですから、天皇の歴史書だとほとんどの方は騙されています。でも、崩御から30年以上もたった720年に完成しています。あとを継いだとされる皇后鵜野讃良(持統天皇、女神アマテラスのモデルとされました)を後ろ盾にして権力を握ったのが藤原不比等だったのです。藤原氏が権力を維持するために、日本建国時代に活躍した先祖を持つ有力豪族を中央から排除するために、史実を神話に閉じ込めて、都合の良い話に書き換えたことが、考古学や民俗学の成果から分かりました。不比等は天皇の外戚の地位と701年に制定した大宝律令を利用して、藤原氏だけが繁栄する体制を作りました。他の豪族が祀っていた祖神の名前や神社名も強権で変えさせていますから驚きます。

卑弥呼は玄界灘を支配して半島南部の鉄資源を列島に供給していた縄文海人ムナカタ族の姫巫女、通称ヒメゴでした。4世紀から7世紀まで沖ノ島祭祀をヤマト政権がやっていましたが、日食のために殺された卑弥呼の鎮魂のためです。日本中の八幡神社や厳島神社、弁天宮などで祀られています。

宇佐神宮の祭神とされる八幡大神と神功皇后は、卑弥呼の死後に列島の大半を支配した大国主狗古智卑狗とその妃台与のことです。記紀では武内宿禰と神功皇后とされています。最終的に狗奴国が大国主と台与を討って日本を統一しましたが、二人の祟りが恐ろしいので、二人の間の子供ホムダワケ(オオタタネコ)をヤマトに呼び寄せて祭祀王にしました。のちの八幡大菩薩応神天皇のことです。仲哀天皇が父というのは誤魔化しでした。

大国主と台与も日本中で祀られています。伊勢神宮の内宮・外宮の本当の祭神はこの二人です。アマテラス女神は日本書紀の創作です。岩戸隠れの神話は卑弥呼が日食のために殺された史実を使っただけです。ほとんどの方は騙されていますが、女性天皇もフェイクであることは、京都にある天皇家の菩提寺泉涌寺で明治になるまで誰も祀られていないことから分かります。詳しくは拙ブログ「古代史の謎を推理する」をご参照ください。突然、お邪魔してとんでもない話で申し訳ありませんでした( ^)o(^ )


ちょっと、補足します。

仲哀天皇の父はヤマトタケルですが、日本書紀の記事から計算すると仲哀天皇はヤマトタケルが死んで38年後に生まれていますから、直ぐにバレるウソでした。仲哀天皇とされた人物は、狗奴国王から倭国征討軍の大将に任じられた尾張王と推理しました。
狗奴国軍が押し寄せる情報が入った時に、北部九州で日食があり(247年3月24日日没直前)、倭国王難升米が卑弥呼を暗殺しました。その情報を卑弥呼の弟赤坂比古(和邇氏の祖、日触使主)が知り、狗奴国軍に投降したので、難升米は親魏倭王の金印を持って帯方郡へ逃亡したと推理しました。(2023.5.30 改訂)



尾張王は無傷で倭国を手に入れたので、魏使張政の申し出を受けて、狗奴国王を裏切って倭王に立ったのですが、征討軍の副将だった狗古智卑狗(久々遅彦)が承服せず、千人くらいが死ぬ内戦が発生しました。

久々遅彦率いるムナカタ海人族に、赤坂比古の勢力が加勢して、尾張王を鳥栖市で討ち取ったと推理しました。九州最古級の前方後方墳赤坂古墳に葬ったと考えています。

結局、張政の進言を受けて、久々遅彦も狗奴国を裏切り、その配下のムナカタ海人族息長宿禰の姫巫女として従軍していた、13歳の台与を卑弥呼の宗女として女王に立てました。久々遅彦は、すでに支配下だった山陰から近江・北陸に加えて、卑弥呼に従うとした30国を版図に加えたので、記紀神話で大国主と呼ばれました。

父が殺された尾張王建稲種が大国主と台与と赤坂比古を討ち、狗奴国が日本を統一しました。赤坂比古は鳥栖市愛宕神社古墳(直径約140mの巨大円墳)に葬られていますが、後に神仏習合して愛宕権現とされた人物です。



景行天皇の九州遠征のルート上に発見した鉄鏃・銅鏃から、日本書紀が仲哀天皇の祖父の景行天皇の話にして誤魔化したことが判明しました。そして、ヤマトタケルの東国遠征のルート上にも矢戦の痕跡を発見しましたので、神社伝承で副将として参加した建稲種がヤマトタケルのことだったと分かりました。



同様にして二百年くらい前の崇神紀の四道将軍の遠征ルートでも戦跡を発見しましたので、日本書紀は日本建国の真相を誤魔化したことが分かりました。そして、大国主を倒して日本を統一した史実を神代で国譲り神話とし、大国主から力尽くで国を奪った英雄のタケミカズチとフツヌシを藤原氏の氏神として春日大社・鹿島・香取神宮などで祀っていますから呆れた話です。神祇祭祀を独占し、本当に建国時代に活躍した豪族を抑え、没落させるために神話を創作したのです。でも粗雑には扱っていないので、贖罪と鎮魂のためだと分かります(^_-)-☆

記紀では応神天皇は仲哀天皇と神功皇后の子となっていますが、住吉大社の伝承ではもがりに大神と皇后が夫婦の密事をしたとあり、住吉大神が皇后に常に寄り添っていた三百歳の老人武内宿禰と分かりますから、応神天皇が大国主久々遅彦と台与の子だったのです。

建国の英雄ヤマトタケルの話などは、史実を誤魔化すためのフィクションだと分かりましたが、一旦盗まれた草薙の剣が返還・奉納されたことに因み熱田神宮に伝わる、酔笑人(えようど)神事という奇妙で愉快な祭りが、暴露しているようですよ( ^)o(^ )。



【付録】日本書紀による第10代崇神天皇即位から第15代応神天皇即位までの年表

(2023.5.30 改訂)

【関連記事】
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