刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

日本は女系天皇の国なのか?(; ・`д・´)?

2022-06-11 14:45:37 | 古代史
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いつもよく見る【歴史本紹介〕動画にいい話題があったのでコメントしました。お付き合いください(*^▽^*)


お邪魔します。著名な歴史学者の著書のご紹介、ありがとうございます。今、古代史の見直しが急速に起こっているようです。それは現存する最古の正史と言われた日本書紀が本当の天皇の歴史書なのか?という懐疑派の声が再び説得力を持ち始め、従来の考え方が崩れてきているからです(たとえば、関裕二「持統天皇 血塗られた皇祖神」などは説得力があります)。それでも学会は従来の説を肯定的に捉えているようです。でも、もう限界に来ていると思います。

つまり、天武天皇が正史編纂の詔勅を出しましたが、完成は崩御の30年以上後です。その時の権力者は藤原不比等でした。藤原氏が権力を握り続けるために行った仕上げが日本書紀の完成でした。不比等は完成を見て安堵し、その年に亡くなりました。詳しくは拙ブログで記事にしましたので、よろしければご参照頂き、ご意見を下さい。どうも突然、失礼しました(*^▽^*)




ここで紹介された持統天皇(高天原広野姫天皇、鵜野讃良=アマテラス女神)は孫の文武天皇(記紀神話天孫降臨のニニギノミコト)に譲位しました。不比等は娘を嫁がせて外戚として権力を振るい、政治を私物化するために701年に大宝律令を制定しました。さらに、三世紀の日本建国で活躍した先祖を持つ有力な氏族・豪族を抑え、没落させるために、神祇祭祀を掌握する目的で神代の話を創作し、日本書紀編纂によって藤原氏に都合のよい制度を完成させました。不比等とその子孫の藤原氏は神社の祭神名や社名や由緒まで、日本書紀に合うように書き変えさせるなどしています。詳しくは「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!」の記事をご参照ください。

藤原氏にとって不都合な日本建国の史実を隠すために大国主の国譲りなどの神話を創作し、その中で遠祖とする氏神を活躍させています(例えば、国譲り神話の英雄タケミカズチ・フツヌシなど)。また人皇時代では、建国の史実をねつ造したことが考古学、民俗学、シナの文献研究などの成果から判明しました(「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。

例えば、魏志倭人伝に登場した伊都国は、その深い意味を知っていたある倭人が魏に書いて教えたものでした。これによって暴れん坊の神スサノヲの高天原からの追放劇は、倭国王帥升(正しくは師升)による奴国滅亡の史実を神話化したものだったと分かりました。日本書紀の編纂者らが高天原が奴国だったことを知っていた事実が仲哀紀に登場する「儺県(なのあがた)」から判明しました(詳しくは「伊都国の意味がヒントだった?」などを参照)。

高天原は日本書紀の中で、神代と持統紀の二カ所しか登場しないことからも鵜野讃良を皇祖神アマテラス女神としたことが分かります。日本最初の元号は645年の大化元年と日本書紀にありますが、なんとこの年が鵜野讃良の生まれた年でした。日本を女系天皇持統が創始した国だと示唆するために、大化の年号が後で作られたと分かります。大化の改新の詔についても、中央集権化は蘇我氏が行ったことも分かって来ていますし、外国の使節の前でのクーデター乙巳の変もあり得ないので、作り話と分かります。記紀神話の天孫降臨やその後の日向三代も不比等の時代の実在人物をモデルとしたものなのです。その後も藤原氏はそれを利用して、ライバルを抹殺して権力を握り続けたのですから、不比等は悪の天才と言えます(@_@)

 

また、多くの方は考古学と矛盾する神武東征神話を信じていますが、建国の史実を誤魔化すために作られた神話だということが、仁徳天皇の話からも分かるのです(「【発見!】仁徳天皇の怖い秘密?(;一_一)?」参照)。



これだけ怪しい話やねつ造の証拠があるにもかかわらず、多くの方は天皇家の歴史書だという思い込みで好意的に解釈しているようです(;一_一) 

江戸時代までは、天照大神は男性神で、その正体はヘビだということはかなり知られていましたが(「アマテラス大神はヘビだった?」参照)、明治時代になって記紀に基づく国史を国民教育しました。そのために、戦後も多くの日本人は何となく日本の歴史だと受け入れています。現代の日本国民の約8割が、女性天皇さらには女系天皇を容認し、期待しているとの怖ろしい調査結果があります。



しかし、記紀に登場する女性天皇は、持統天皇も、その前の二人の女帝もすべて実在しないということが分かりました。天智天皇から飛んで、孫の光仁天皇(桓武天皇の父)から歴代の天皇を、京都にある天皇家の菩提寺泉涌寺で祀っていますが、明治になるまで女性天皇は誰一人祀られていないとのことです。江戸時代の二人の女性天皇の肖像画は明治になって作られたものを飾って仏事を行っていることも分かっています。

日本書紀は天皇の歴史書ではなく、藤原氏のために創られたデタラメな歴史書だったのです!

ですから、このような伝統国家の日本を壊しかねない、弊害のある歴史書は、できるだけ早く史実に基づく歴史書に正しく書き替える必要があります。取り敢えず、日本建国の真相までを科学的な手法で解明しましたので、この成果を使って残りの時代の歴史を解明することができると思います。






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「呉音」はいつ日本に入って来た? (^◇^)

2022-06-09 00:28:57 | 古代史
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前回「日本列島に集まった人々とは?」の中で、日本に呉音が定着した時期について述べました。wiki「呉音」#歴史には明確ではないとされていますので、少し調べてみて、以下のとおり加筆修正しました。

280年、西晋により呉が滅ぶと、倭人を頼って呉人(倭人O-47z)が列島に流入してきたと見られます。7-8世紀に漢音(長安付近の音韻)が伝わるより前にすでに日本に定着していた漢字の読みは呉音と言われるものですから、前10世紀ごろから列島に来た倭人(呉人)が漢字のもとになった文字(西周・春秋時代の金文)の発音を伝えたものではないでしょうか?

渡部雅史「大和朝廷成立の謎」幻冬舎2012 で以下の説を列挙していました(pp.26-36 筆者の要約)。
①紀元前五世紀に呉が滅亡して、列島へ呉の流民が来たという説
②紀元前三世紀、徐福が呉の人を連れてきたという説
③三国時代の呉から伝来したという説
④百済から伝わったとする説


最後の説は、日本書紀応神紀に漢字が百済の王仁(わに、古事記では和迩吉師、わにきし)により伝えられたとありますので、列挙されているようです。しかし、日本への漢字の伝来ですが、既に弥生中期から後期には硯石や木製組机などの出土から倭人が文字を使っていたと分かっています。さらに、糸島市三雲遺跡に楽浪土器が集中して出土しており、華僑や外交使節が居住していたと考えられ、彼らと交流して漢字を読み書きでき、さらに会話もできる倭人が居たとわかります。魏志倭人伝の地名や人名は倭国王だった難升米が魏の帯方郡太守に書いて教えたことまで掴みました(「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。



そして、Wiki「呉音」で、「学際研究者の藤井游惟は、呉音は呉地方の方言音ではなく「朝鮮音(百済音)」であり、白村江敗戦で大量亡命してきた百済人の子孫による「日本語訛りの朝鮮音」が定着したものだとしている[2]。」との説が紹介されています。

しかし、すでに紀元前11世紀ころから江南の倭人(呉人)が半島南部に展開しており、その後前10世紀には列島に流入しています。「渡来人は異民族とは限らない?」で述べた通り、百済人の多くは倭人であると推理していますので、663年の白村江敗戦で大量に百済人が列島に亡命したのは、百済人の多くが倭人であったためだと考えられます。ですから、現在使われている日本の呉音が江南で話されたものと少し変化していたとしても、半島で他民族との交わりの中で方言化したものと考えられます。

なお、ウィクショナリーで漢字の読みを調べると、三世紀の魏志倭人伝において、例えば、卑弥呼(姫御「ヒメゴ」)は呉音で「ヒミク」、漢音で「ヒビコ」、末盧(松浦「マツラ」)は呉音で「マツル」、漢音で「バツロ」で、あまり明確ではないようです。

伊都は呉音で「イツ」、漢音で「イト」とあり、漢音の方が正解のようですが、漢字を読み書きできる難升米が意味を考えて書いていますので、彼は漢音を宛てたということなのでしょうか?しかし、通説ではまだ漢音が伝わっていないとされていますので、古くからの地名や人名は、やはり呉音で漢字を宛てたのだと思います。

安本美典「倭人語の解読」勉誠出版2003に、漢字を万葉仮名で読んだ一覧表が掲載されていますが(pp.230-233)、上古音で卑弥呼は「pieg.mie'r.hag」、末盧は「muat.hlag」、伊都は「Ⅰer.tag」となっていますので、その響きはとても違和感があり、古代ではそのように発音されていたのであれば、呉音はどこに行ったのでしょうか?(´ω`*)。


今のところの結論は、やはり最初に述べたように弥生前期から列島に来ていた江南の倭人の発音が、現代にも呉音として残っているということにしておきます。この件で、詳しいことをご存知の方はぜひ、お教えください。よろしくお願い致します。

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伊都国の意味がヒントだった?(@_@)

2022-06-04 00:01:30 | 古代史
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以前にもブログで指摘しましたが、魏志倭人伝の版本は原文ではないのですが、原文に忠実に読むべきと主張する以下の動画を見つけたので、コメント入れようとしました。が、余りにも長くなったので、記事にしました。お付き合いください(*^▽^*)


考古学はなぜ邪馬台国を見失ったのか
@古賀達也@20220501@キャンパスプラザ京都@29:01@DSCN9512 2022/05/04


12世紀の版本に邪馬壹国とあっても魏志倭人伝の原本に邪馬壹国とあったのか、邪馬台国を版本の元にした写本の段階で邪馬壹国としたのかは議論の分かれるところです。

しかしこの問題は邪馬台国が発見されたことで決着しました。その場所を言う前に、最も重要な事実を多くの方が見落としていたことが大きいと分かりました。

従来、魏志倭人伝に登場する倭国の地名や人名は、漢字を読み書きできない倭人の発音を魏の役人が聞き取り、韻書の冒頭の字の漢字を宛てたとされてきました。しかし、最近、北部九州で以前は砥石と見られたものが硯石と分かり、列島内でも石が数多く発見されていました。弥生後期後半の福岡市雀居遺跡では木製の組み机一式が出土していますし、当時の倭人の中で文字が使われていた証拠なのです。

そして、伊都国(糸島市)三雲遺跡番上地区で、その当時の楽浪土器が集中して出土しており、シナ人の居住区と見られています。ですから、漢字を読み書きできる倭人もいたはずですし、シナ語を話す倭人もいた可能性があります。日本書紀では四世紀の応神紀に伝来したと書かれていますが、不比等らのフェイクでした( ^)o(^ )

上で述べた決定的な証拠というのは、魏志倭人伝に、刺史のような役割で、女王へ貢物を検査し間違いなく届ける役目の一大率が置かれた場所が「伊都国」と書かれていたということだったのです。伊都国に男王が居たというのもヒントですかね(^_-)-☆

伊都国というのはとても深い意味のある国名で、魏の役人がそれを知って書いたものではないことは明らかなのです。

Wiktionary「伊」にその語源が以下のとおり説明されています。

「人」+音符「尹」。「尹」は、手で神杖を持った様を表わす象形文字。伊は神の意志を伝える聖職者。治める人の意を表す。調和をさせる様、殷初期の伝説の宰相伊尹(いいん)に因み嘉字とされ、人名、地名に用いられる。



永初元年(107年)後漢安帝に160人もの生口(奴隷)を献上して朝貢した倭国王帥升の記事が范曄「後漢書」にあります。しかし、後の時代の文献に後漢書の原本から引用した部分の誤写も色々とあり、そこから原本では「倭面土国王師升」の可能性が高いと思われますが、さらに白鳥倉吉は「面」は「囬(回)」の誤写とみて回土(ウィト)国としています。師升はウィト(イト)国王だったのです。

そして師姓が中国古代の宮廷祭祀や宴席で楽器(小型の銅鐸のようなものなど)を奏でる楽師の官位を表すことが文献から分かります。つまり師升の出自は聖職者で、それが倭国の王として認められるために朝貢した人物だと考えられます(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。

魏志倭人伝に「其国、本亦男子以為王、七八十年、倭国亂、相攻伐暦年(その国ももとは男王が居たが、七・八十年すると国は乱れて攻め合いが何年も続いた)」とあり、范曄「後漢書」にも「何年も主(あるじ)が居ない状態だった」と、卑弥呼が女王に共立されるまでの倭国大乱の様子が書かれています。

ですから帥升王は伊都国に王宮を置いていた倭国王であり、七・八十年間は師升の一族の男王が倭国を統治していたが、倭国と、ある国が攻撃しあって、倭国が大いに乱れたとあります。二世紀末の後漢では、宦官と豪族らの権力争いが続き、しかも天候不順で張角の黄巾の乱などで中国大陸は混乱していた模様です。半島でも韓人や濊人が暴れ、伊都国王の倭国は楽浪郡との交易が停滞して徐々に衰弱していたわけです。

それでは倭国が「相攻伐暦年」とある相手は誰でしょうか?

そのヒントが伊都国という国名にありました。伊尹は孟子・尽心上篇で、放蕩を重ね国政を乱した主君太甲を追放したことで評価が議論された人物でした。

師升王が登場する前は、建武中元二年(57年)後漢の光武帝から「漢委奴国王」の金印を賜った奴国王が倭国を支配していたはずです。ですから師升は奴国の宮廷楽師をしていた人物で、クーデターを起こして奴国王を殺して倭国を奪ったと推理できます。上で述べた朝貢は倭国王として認めてもらうためのものだったと推理できます。

殺された奴国王は誰でしょう?

高天原から追放された乱暴者の神スサノヲでしょう。宋史 王年代紀に書かれた第十八代王素戔嗚尊です。日本神話の高天原は奴国王が支配していた倭国のことだったのです(注1)。

ですから、師升は伊尹と似たような事績だったので、師升の王都を伊都国としたということです。

そうなると、師升の事績を知っていた人物が伊都国と書いて魏に教えたと分かります。

もう一度言いますが、魏の役人が倭人の発音を聞いて書いたものではないのは明らかです。
魏の人が倭国の内情をそこまで知っていたとはとても考えられません。

では、いったい誰が書いたのでしょうか?

景初二年(248年)8月に司馬懿によって公孫氏が滅ぼされ、明帝曹叡が直ぐに楽浪郡と帯方郡へ予め用意した軍船を派遣し、両郡を抑えた模様です。そして明帝が12月に重体になり、司馬懿が慌てて面会し、明帝の子曹芳(少帝)の後見役(太傅)として後を託されました。明帝はそのまま崩御しました。そこで司馬懿は直ぐに、部下の劉夏を帯方郡太守として派遣し、公孫氏の配下だった倭国王を懐柔して、朝貢させるように指示したと推理できます(注2)。

司馬懿は、公孫氏が降伏を申し出ても許さず、公孫氏一族と数千人の部下全員の首を刎ね、首都襄平では15歳以上の男子を皆殺して遺骸を山のように積み上げた京観を作ったと記録されています。

ですから、その噂を聞いた倭国王は、次に攻め滅ぼされるのではないかと震え上がったと思います。劉夏から朝貢するように命令を受けて、景初三年(239年)6月に朝貢のために帯方郡に「大夫難升米」を派遣しました。洛陽へは喪が明けた12月に司馬懿から呼ばれて、少帝に面会しました。

明帝崩御後の魏の朝廷の一番の実力者は、大将軍の曹爽でした。父の曹真が西域の大国だった大月氏国王を朝貢させて、王には親魏大月氏王の金印が授けられました。曹真はライバルの蜀を挟み撃ちにする戦略上の大功績をあげて大司馬(軍の最高指揮官)に就きましたが、直ぐに病死したので、曹爽がその跡を継いで軍を掌握していました。



司馬懿としては公孫氏を滅ぼして遼東郡と朝鮮半島を支配したので、ライバルの呉を東方海上から挟み撃ちにする位置に倭国があると思われていたこともあり、倭国を朝貢させて曹真を上回る功績にしたかったということです。

そのために難升米は、倭国を、大月氏よりも遠くにある、女王に統治されるエキゾチックな東夷の大国とすることによって、倭国に朝貢させた司馬懿の功績を持ち上げる談合を劉夏と約半年かけて綿密に行ったと推理できます。

大月氏国の王都カーピシー(現在のアフガニスタン、バグラーム)まで万六千三百七十余里とされていたので、倭の女王が都とするところ邪馬台国まで、帯方郡から万二千余里とすれば、洛陽から帯方郡の直ぐ北に置かれた楽浪郡まで五千里とされていたので、合計万七千余里として、大月氏国よりも遠い場所に置くことができます。しかも大月氏国は十万余戸で洛陽と同じですから、倭国はそれよりも大きい国とするために、邪馬台国七万余戸、投馬国五万余戸、奴国二万余戸、その他合計約十五万戸としたと分かります。

より遠くの大国が皇帝の徳を慕って朝貢したというのは皇帝の評価になります。しかも戦略上重要な位置にある国であれば、それを実現した司馬懿の功績は魏の朝廷から曹真を上回るものだとされます。後代の文献でも東夷の朝貢は司馬懿の功績と記されています。

正始元年(240年)少帝から正式に使者悌儁(ていしゅん)が派遣され、親魏倭王卑弥呼に金印紫綬と鏡百枚などの数多くの立派な賜り物が詔書と一緒に届けられました。難升米は卒善中郎将に叙されました。

ここで、通常ならば女王に直接面会して詔書などを渡すはずですが、邪馬台国へ水行一月、陸行一月と余りに遠い場所に住むとされた女王はほとんど人に会うことはないので、卑弥呼の政治を輔佐する男弟が悌儁と面会し、女王の代理で対応したと考えられます。この男弟にも伊都国の男王にも官位は授けられたとは書かれていません。

しかし、正始六年(245年)に突然、「倭の難升米」に黄幢(魏の正規軍の旗)を帯方郡太守を通して与えたと記録されています。

そして、正始八年(247年)に新任の帯方郡太守が着任したので、卑弥呼は使者を派遣しました。狗奴国との抗争を報告したので、二人目の魏使張政が派遣され、難升米に詔書と黄幢を渡し、激文を作って口頭で命じたとあります。

そのすぐ後に、「卑弥呼、以って死す云々」とありますから、張政が到着した時にはすでに死んでいたと読めます。ここでは死因は分かりませんが、「倭の難升米」が倭国の軍を掌握する人物だったことが分かります。つまり、難升米が卑弥呼の男弟とされた人物だと分かります。最初「大夫難升米」とあったのが「倭の難升米」と書かれたことを考えると、難升米は固有名詞ではなく役職名かも知れません。

そして、ここで重要な発見をしました。当時は漢字のニンベンを省略するのが流行だったようです。金印には「倭」を「委」と書いています。また、1948年に室見川河口近くの西鴈で「高暘左 王乍永宮齊鬲 延光四年五」と書かれた文鎮状の銅片「室見川銘板」が発見されています。延光四年は125年です(注3)。その内容から聖職者だった師升王が作らせたものだと分かります。ここでも二文字「左」と「乍」が該当します。前者は「佐(たすける)」、後者は「作(つくる)」です。

難升米の「難」は鬼やらい・神やらいの意味の「儺(な)」だったのです。疫病神のスサノヲを追放した故事を意味する漢字だったのです。儺升は師升のことでした。さらに「米」は「め」と読み、頭目(かしら)という意味のようです。ですから難升米は師升王の一族の長、伊都国の男王だったということです(「卑弥呼は伊勢神宮に眠っているのか?」参照)。

回土(イト)国を伊都国と書いて帯方郡太守に教えた人物です。

彼は漢字を読み書きでき、孟子も読む教養人だったのです。

そうであれば、他の国名や人名などにも彼の感情などが籠った漢字が使われているはずです。

例えば、狗奴国は、自分の祖先師升王(祖父か曾祖父?)が滅ぼした奴国を貶める意味で狗コロの奴国と書いたものだと分かります。狗古智卑狗ほど酷い名前はないでしょう。「智」という好い字が入っていますが、古い知恵という意味ですから、よほど苦しめられて頭に来た人物だと分かります(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」、「【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その1)(その2)」参照)。

難升米はムナカタ海人族の王狗古智卑狗(久々遅彦)を討って玄界灘を支配する族長(先代)赤坂比古を懐柔しました。卑弥呼(姫巫女、通称ヒメゴ)の太陽神のお告げを聞いて政治を行う条件で味方につけたと推理しました。漢字を読めない人々をバカにして付けた名前です。卑弥呼が女王というのは、魏の朝廷の人々に注目されるように劉夏との談合で決めたフェイクです。そして邪馬台国というのはヤマコクに住む台(女王)の国という意味です。ヤマコクは宇佐市安心院町のことで、和妙抄で野麻郷と宇佐市史にありました。

倭国王は伊都国に居ましたので、司馬懿が考えていたような戦略上重要な場所ではありません。なので、倭国大乱の時代から、海に面して物騒な不弥国(ウミコク、宗像市付近)から野麻国(安心院町三柱山三女神社)に疎開していたムナカタ族の姫巫女(卑弥呼)を倭国の女王と言うことにしました。卑弥呼の居城を呉の東方海上で帯方郡から万二千里の遠い場所にあるとしたということです。しかも人にはほとんど面会しないという設定にしたのですから、魏使たちは卑弥呼の政治を輔佐する男弟とした本当の倭国王難升米に伊都国で面会するように命令されたということでしょう(注4)。

だから当時の倭人に邪馬台国はどこ?と聞いても誰も知らないはずですよね。(^◇^)

逆に、卑弥呼の居場所「邪馬台国」の場所が分かったので、難升米らのトリックを推理しました(詳細は「投馬国へ水行してみませんか?( ^)o(^ )」参照)。


(注1)古事記によれば「八百万の神々は、一緒に相談して、スサノヲにたくさんの贖罪の品物を科し、またその鬚と手足の爪を切って、高天原から追放した」となっています。つまり、師升によって拷問を受けて殺され、財産をすべて奪われた史実を表しています。金印が志賀島から見つかっていますので、その金印の在りかを白状させるために拷問し、スサノヲも知らないので殺され、師升らは後漢に倭国王と認めてもらうためにスサノヲの部下を160人連れて奴隷として献上したのでしょう。

(注2)中平紀年銘鉄刀が東大寺山古墳から出土していますので、後漢の「中平」(紀元後 184 ~ 190 年)年間に公孫氏から倭国王に贈られたものだと考えられます。卑弥呼が貰ったという説がありますが、まだ倭国大乱の時期ですので伊都国に居た男王が貰ったはずです。それが和邇氏の古墳から出土しています。倭国王は、公孫氏を滅ぼした魏に239年に朝貢していますので、卑弥呼の一族の和邇氏に下賜したものだと推理できます。和邇坐赤坂比古神社の祭神がイチキシマヒメですから卑弥呼のことでした(^_-)-☆

(注3)当時の倭人は漢字を読み書きできないというのが定説でしたので、北京大学の鑑定では清朝の贋作という結果ですが、三つの字体を組み合わせて作られていますので北京大学の誤判定です。当時のものと最初に注目した古田武彦氏が詳しく述べています(「【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆」参照)。

(注4)でも、二人目の魏使張政は卑弥呼の墓を見たかもしれません。彼は非常に危険な立場だったのをうまく切り抜ける才能のある人物でしたので、ずっと後ですが、下級役人から帯方郡太守まで出世したと思われます(「【検証23】魏使張政って?!(*^▽^*)」参照)。


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天皇陛下はニギハヤヒ大王の男系男子?(^_-)-☆

2022-06-02 00:59:50 | 古代史
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mash1125様の「世界の街角」ブログ「弊Blog『出雲の神奈備山と弥生遺跡』のコメントについて」(2022-06-01 07:12:15) の中でわたしの質問コメントを紹介していただきました。

ようやく帰宅して、落ち着いてブログを書けるようになりましたので、私見を記事にします。お付き合いください(*^▽^*)

最初、吉備で見られ、大和の唐古・鍵遺跡や纏向遺跡で見られるようになる弧文や弧帯文は龍蛇神(ナーガ)の文様だと思います。

ですから、ルーツは北部九州の奴(ナーガ)国です。西暦57年後漢光武帝より賜った金印の紐が蛇ですし、奴国の那珂、列島内の那賀や中、長の付く地名などはすべてナーガを信奉する江南系倭人(アズミ族)が入植した土地に付けられているようです。

つまり、ヤマト王権の基層に江南系の習俗があります(「弧帯文は龍蛇神(ナーガ)の文様だった!」参照)。

それではなぜ、北部九州の奴国からヤマトに王権が移ったのかを考えると、107年後漢安帝に160人の生口を献上して朝貢した倭国王帥升(注1)による倭国乗っ取りの史実があったと推理しました。師升はその名前から奴国宮廷楽師だったと分かります(詳細は拙ブログ「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。最後の奴国王は、記紀神話で高天原を追放された乱暴者の神スサノヲで、宋史 王年代紀第18代王素戔嗚尊だったと考えられます。

初代奴国王は、紀元前4世紀初頭に吉武・高木遺跡に移り住んだ人物で、魏略逸文「倭人は太伯の後」から前473年に滅んだ呉の王族だと推理できます。つまり列島最初の王墓の被葬者は天御中主(アメノミナカヌシ)なのです。天御中主はナーガを信奉する部族の長という意味です。

師升らのクーデターによって奴国王スサノヲが殺され、500年ほど倭国を支配した奴国が滅亡したと推理しました。江戸時代に志賀島で発見された金印はその時に持って逃げたスサノヲの部下のアズミ族が隠したものでしょう。同時に王の弟ニギハヤヒと王子イタケルも奴国から逃亡し、スサノヲの母イザナミの一族(米子を根拠地とする縄文系ムナカタ海人族)に助けられたと推理しました。



イタケルとその直系の子孫(狗古智卑狗)はムナカタ海人族の王に推戴され、父王スサノヲが支配した半島南部の鉄資源を入手し、鉄製武器をニギハヤヒに供給します。ニギハヤヒは伊都国の師升王の倭国側に着いた裏切り者の吉備の勢力を討ち、主要な交易ルートであった瀬戸内航路の支配権を握って隆盛になり、奴国を再興しました。第19代王天照大神尊です。ヤマト王権を成立させた物部氏・尾張氏の祖の天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊と先代旧事本紀にありますから第19代王と同一人物です。楯築王墓の被葬者と推理しています。楯築神社の亀石と呼ばれる御神体が、中国神話の人類の始祖神天皇伏羲と同じ人面蛇体なのです。ニギハヤヒ大王の男系男子が七世紀末ごろ天皇と呼ばれることになります。天皇は龍蛇神(ナーガ)の奴国王の末裔だったのです。



3世紀末にヤマト王権が成立する過程は図に示すものと考えています。日本は古の倭の奴国で間違いありません。平安時代に神社の祭神を通常正一位までの神階でランク付けしていますが、備中国吉備津彦命には特別な「品位」という神階が与えられています(注2)。大和朝廷の藤原政権は日本書紀によってニギハヤヒ大王を吉備津彦として隠したことを自ら白状しています「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?」参照)。

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆




神武東征神話ではニギハヤヒが先にヤマトに降臨しており、日本書紀では長髄彦、古事記ではトミのナガスネヒコまたはトミヒコと言う、ニニギを最初撃退したヤマトの豪族でニギハヤヒの義理の兄としていますが、ニギハヤヒがナガスネヒコを斬ってニニギを即位させた話にしています。トミはトビ(ヘビ)のことですから大国主を示唆しています。大国主がニギハヤヒの末裔(狗奴国の勢力)に殺されて、その後大国主の子がヤマトの祭祀王(初代天皇)になった史実を示唆する話としています(「大国主はトビヘビだった」参照)。

結局、こう言う話でヤマト王権の成立に関する考古学の成果を説明できると思います。

拙論は、分かっている事実(考古学、民俗学などの成果)を矛盾なく説明できる一つの有力な仮説だということなのです。
つまり、事実を説明できる仮説はいくらでもあるかも知れません。その仮説群の中のどの仮説がより多くの謎を解明できるのかによって仮説の優劣を判定することができますよ(*^▽^*)




(注1)他の文献では倭面上国王師升とも書かれ、後漢書原本に倭の回土(ウィト)国王師升とあったと考えられます。

(注2)ちなみに品位が与えられた残りの神は、淡路国伊弉諾尊、豊前国宇佐八幡大神・八幡比売神です。伊弉諾尊は皇祖神です。八幡大神は応神天皇とされていますがその前は大国主久々遅彦(狗古智卑狗)です。八幡比売神は卑弥呼ですが、記紀では宗像三女神イチキシマヒメです。大国主の妃で応神天皇の母神功皇后のモデルの女王台与を二女神タギリヒメ・タギツヒメとして加えて誤魔化しています。


最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
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