刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

投馬国出雲説はどうなの?(@_@)

2024-01-16 21:23:17 | 古代史
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YouTubeで活発に魏志倭人伝の解釈について奥の深い情報発信されている方の記事を見つけましたので、いくつか教えていただきました。結論が異なるので不快にさせてしまったかも知れませんが、寛大な方で丁寧にご教授いただきましたので大変理解が進みました。改めて心から感謝いたします。ちょっと冗長かも知れませんが、全やり取りを掲載しますので、お付き合いください(#^.^#)

岡上佑の古代史研究室
季刊・邪馬台国 144号に、拙論「史料批判からみる邪馬台国所在地論争への結論」が掲載されました! 史料批判をベースに明快な論理で、邪馬台国論争に結論を出しています。人それぞれ結論は違うのかもしれませんが、切り口は非常に新しいことは確かだとおもます。参考になるところもあると思いますで、是非、一度読んでみてください!


刮目天
情報ありがとうございます♪画像見て大体読めました。とてもシンプルに纏められていますので共感できるところが多いので、敬意を表してアマゾンで発注しましたので明日到着予定です。
到着後にもう一度質問させていただくかもしれませんが、取り敢えずお聞きしたいことは以下の点です。
ここで挙げられた幾つかの先行文献の種本はどう考えられているのでしょうか?つまりこれらの先行文献の編纂者が直接倭国に行っていないと思われますので、邪馬台国までの行程記事は最初の魏使梯儁の報告書に基づくと考えられます。この件について何か情報があればお教えください。よろしくお願いいたします!


岡上様
コメント有難う御座います。もちろん、それも考えていますね! 三国志巻三十、烏丸鮮卑東夷伝 の構成から推測していくことが可能になります。


なるほど!でも半島と倭国の一部の状況は帯方郡太守が把握していたとは当然考えられますが、伊都国あるいは奴国辺りまでは半島人から伝聞で分かると考えてもいいですが、それ以遠は倭人から直接聞かないことには分からないと考えるのが妥当な感じです。大魏書に行程情報があるならばまだ魏使梯儁が派遣される前のようです。そうなると魏略に情報があったのか?或いは王沈魏書と言うことになりますね。岡上さんは後者から陳寿が情報を得たと考えておられるので図に矢印の線を描かれたのでしょうか?王沈魏書に書かれていた於投馬国は陳寿は採用していない理由は何でしょうか?お手数でもまたお教えください!

明日、拙論読んでみてください。10ページほどの分量しかないですので、ご質問の内容に全て答えるものではありませんが。。。 読んでおもしれけば、「魏志倭人伝の探究」と「魏志倭人伝の究明」の二冊も通読されれば、ご質問の件への回答もほぼ全て説明されているかとおもます。両方ともアマゾンのKindleで読めます。(プライム会員なら無料です。)

了解しました。それでは本が届いてからまたお聞きするかもしれませんが、その時はよろしくお願いいたします。有難うございました(;^ω^)

はい、有難う御座います!

今晩は!労作に頭が下がります。とても勉強になります。陳寿は王沈魏書を淡々とコピーに近いことをしただけとのご評価ですが、一つだけ卑弥呼を絶賛する詔書はほぼ全文掲載されているのは腑に落ちません!王沈になかった部分と思いますが、どう考えるべきでしょうか?お教えください!

拙論を読んで頂きまして有難う御座いました! 魏書に例外的に詔書全文が残った理由というのも、考えています。当時の詔書の草稿を描いたのは、中書郎ですが、朝貢当時の中書郎こそ、王沈その人であった可能性があります。結論だけというのは、あまり言いたくないタイプな厄介な性格なのですが、せっかく季刊邪馬台国にてを出していただき、海のものとも山のものとも知れない論考を読んで頂きましたので、ご回答差し上げます!

早速お返事ありがとうございます。そうであれば王沈も詔書を載せていたと考えられますね。でも陳寿がご指摘の編纂態度であれば、全文削除はなくても簡略表現出来たと思います。
やはり東夷伝の中にあって倭人伝は陳寿にとって、パトロンの張華を喜ばす目的が強くあったので二千文字も費やしたと言うことは否定できないと思います。
その他、於投馬国を陳寿が投馬国としたことは陳寿の間違いとは言えないと思います。何故なら、これを出雲国と発音することは於をイと読むのは後代の唐音ですので自明ではないようですから。
もう一つ、私が考古学データを調べた限り、邪馬台国時代に中国地方西部より東側の地域で北部九州の外来土器は出土していないからなのです。ですから邪馬台国吉備説や畿内説は考古学の成果を無視するものなのです。どうも色々と教えて頂き有難う御座いました!またよろしくお願いいたします。


コメント有難う御座います。
①ご指摘のとおり、張華は大切なパトロンですが、東夷伝に詔書を載せるとどうして張華は喜ぶのですか? もっと現実の西晋の政界のことを調べてみることをお勧めします(張華と陳寿の関係はもっと生々しいです)。
②イズモというのは、エズモとも言いますよ。母音の音韻推測はむつかしいです。
③考古学的なことは、小論とは関係ありません。別個の学問です。
結局、「考古学的に九州だから九州だ(考古学的に畿内だから畿内だ)」 という立場から一歩も動かないのであれば、本論を読んで頂いた意義というは、かなり薄まるということですね。ちょっと厳しい言い方になってしまって申し訳ないですが、考古学は考古学、文献は文献、考えは柔軟に持ちましょうということです。


貴論文の結論には異議がありますが、申し上げたとおり、勉強になる貴重なものだと思います。恐縮ですが、長くなりそうなので、拙ブログにて後で記事にします!お時間があれば覗きに来てコメントいだければ有難いです。どうぞ宜しくお願いします!

有難う御座います、 是非ブログの方で読ませてください。楽しみにしております♩


ということで、折角コメントを頂いたので上の①~③に対する意見を以下に述べます。

陳寿のパトロンの張華は西晋の朝廷の実力者で権力闘争の渦中にあった人物のようですから、配下の陳寿に西晋創業者を称揚する三国志、そして魏志倭人伝を書かせたことは張華の行動に大義名分を与えるはずです。陳寿の死後に張華らの働きで私撰だった「三国志」を書写する詔勅が出て正史に格上げされました。

陳寿と張華とのこのような関係はかなり前に岡田英弘「日本史の誕生」(弓立社1994年)で知りました。岡田先生の「千三百年前の外圧が日本を作った」という内容はインパクトがありましたので、邪馬台国研究に対する新たな切り口となると確信しました。さらに大好きな古代史作家関裕二さんの著作を読み耽り、現存する最古の正史「日本書紀」の欺瞞にも気づかせていただき、十数年前の定年後のライフワークとして古代史解明を始める切っ掛けとなって現在に至っています。現在では渡邉義浩さんなどの活躍によって陳寿の曲筆の観点からの研究が急速に広がったものと思っています。

陳寿と張華との生々しい関係はほとんど承知していませんが、陳寿が単なる佞臣ではなく、歴史家の意地を示した事例に気付きました。すでに1982年に孫栄建さんの「邪馬台国の全解決」(六興出版)が出版されて「魏志は春秋の筆法で読めるか」というテーマが話題となったようです。新たに論考を加えて2018年に「決定版 邪馬台国の全解決」(言視舎)が出版されましたのでこれも入手しました。すでに魏志倭人伝の謎の行程記事を司馬懿の部下の帯方郡太守劉夏に書いて教えた大夫難升米が本当の倭国王(倭国王帥升の子孫の伊都国男王で一大率、卑弥呼の政治を補佐する男弟)であることを別の角度から突き止めていたのですが、それを支持する内容でしたので驚きました(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?(@_@)」参照)。

つまり、陳寿はある程度邪馬台国の所在地や卑弥呼の正体に気付いていて春秋の筆法の「微言大義の原理」によって歴史の真実を後世に残したということなのです。それを理解していたのは孫栄建さんが見抜いた天才范曄しか居なかったわけです。陳寿が二度出現させた奴国によって、水行・陸行でたどり着く七万戸の邪馬台国と女王卑弥呼については、実際は書かれた内容と違うということを伝える目的だったと理解できるのです(pp.13-178)。范曄は狗奴国の本当の位置を理解し、魏志倭人伝の女王国の東の倭種の国をそのまま狗奴国に関する記事に書き換えているのです(下図参照)。これは、邪馬台国の位置を考古学や民俗学の成果から導いた結果と見事に合致するのです。



②於投馬のそれぞれの発音をウィクショナリー日本語版で調べました。
「於」呉音 : ウ、オ 漢音 : オ(ヲ)、ヨ 唐音 : イ(ヰ)
「投」呉音 : ズ(ヅ) 漢音 : トウ
「馬」呉音 : メ 漢音 : バ

倭人は呉の人ですので呉音が通常使われたと思いますが、実は上で述べた通り倭国王難升米が倭国内の地名や役職名などを書いて教えたものなのですが、楽浪郡の華僑を三雲遺跡番上地区に居住させ交流して、孟子や史記を読む教養人であったことが分かります。ということは華僑の漢音に親しんでいたと考えられます。例えば、伊都は呉音では「イツ」ですが漢音は「イト」です。卑弥呼の「呼」は呉音では「ク」漢音では「コ」です。ですから、於投馬を漢音で読めば「オ(ヲ)ヨ・トウバ」となり「イズモ」とは全く違う発音になるのです。

ただし、漢字の意味を先に考える例もあり、ややこしいのです。投馬は「馬を与える」の意味です。公孫氏から馬を頂いたようですが、貴少な馬を魏使が目にすると公孫氏からの贈り物であることを説明せねばならないので急遽投馬国の長官弥弥「みみ」に下げ渡したと推理しています(2024.1.17 赤字訂正)。そして倭国に馬は居ないと記録させたと見ています。投馬国の治所が福岡県京都郡みやこ町節丸字在馬付近だと考えています(詳細は「投馬国へ水行してみませんか?( ^)o(^ )」参照)。

もうひとつ、難升米は倭人の発音する呉音を、意味のある漢字で置き換え漢音で発音しているのです。邪馬台は、魏台が魏の明帝を指す例があり、ヤマ国に住む女王卑弥呼を意味します。そして「ヤ」に「邪」、「マ」に「馬」を充てて貶めたのです。その際「マ」は「バ」に変化したのは意味を優先させたということなのです。

難升米が卑字を多用しているのは漢字を読めない無教養で尊敬できない人物や敵国である狗奴国の王卑弥弓呼と官狗古智卑狗です。狗奴国の前者はヒコミコの誤写、後者はククチヒコですが、卑字をこれほど多用した例はありません。智という嘉字がありますがその前に古があるので古臭い知恵という意味にとれます。倭国大乱で難升米がかなり苦しめられた人物だったのです。狗奴国は敵対する旧奴国に対してイヌころの奴国という意味で付けたと見ています。

卑弥呼が不弥(うみ)国(宗像市田熊遺跡群)で生まれたムナカタ族の姫巫女イチキシマヒメだと突き止めています。倭国大乱時に海に面した危険な場所から要害堅固な山城で多くの兵士に警護された安全な野麻(やま、和名抄の郷名)国に疎開したと推理しています。宇佐市安心院町宮ノ原遺跡の三女神社が卑弥呼の宮室と突き止めています。その西約500mに径百余歩(直径約150m)の円墳「三柱山古墳」が卑弥呼の墓です。ここにはいろいろと伝承が残されています(詳細は「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎」をご参照ください)。



③考えは柔軟にということは賛成です。邪馬台国問題は考古学の成果と魏志倭人伝などの関係史料の知識・解釈だけでは万人が認める場所に邪馬台国の所在を求めることができないことは、すでに日本の邪馬台国論争が江戸時代に始まって以来、数百年の歳月が経過することによって証明されているようです。

問題解決には文献史学の分野だけではなく、考古学・民俗学や、最近では分子生物学など数多くの幅広い学問分野に跨る広い知識が必要で、それぞれの分野の深い知識を獲得するには相当の時間と努力が必要です。しかし、幸い、それらをインターネットを通じて簡便に入手でき、得られた成果によってようやく解決できる条件が整ってきたようです。ただし、文献解釈は文献史学者に任せろとか、従来のセクト的な発想ではなく、従来とは全く違う柔軟で横断的な発想が問題解決に求められています。

一言で言えば、邪馬台国問題に限らず、古代史に謎が多い理由は、関係文献とそれに関係する事実、つまり考古学などの成果、これらの不整合・不一致で起こっているということに気付く必要があります。

岡上さんが「もし魏志における陳寿の曲筆の上に邪馬台国の位置があるものだとすると、文献的な探索行為自体が無意味となるので、このことは重大である。」と前置きされて、①「佞臣的記述と正反対の傾向が随所に見いだされる」「陳寿にとって、正史の末節にすぎない東夷伝にて遠回りに司馬氏を殊更に称揚する必要はない」、②「魏志倭人伝に残る倭国への「万二千里」旅程については、魏志に先行する魚豢(ぎょかん)の「魏略」に既に記述がある」として「陳寿曲筆論」への反論を述べられています。しかし、上の方の①で述べたように陳寿が歴史家のプライドを示した個所はあると考えていますが、詔書のほぼ全文を陳寿が掲載しているのも、「万二千里」も魏志倭人伝に残されているのも事実ですから、「陳寿曲筆論」は消えることはないと思います。上で述べた岡上さんの前置きについても、文献に書かれている内容から直接正解に至るわけではなく、事実と矛盾する文献の内容から筆者が隠した、あるいは筆者の種本が隠したものを推理して正解に至ることができるのです。それ故、文献的な探索行為自体が無意味という指摘は当たらないのです。

文書に隠された目的を見抜くことから仮説が生まれます。最初は空想でも、夢でも、何でもいいのですが、その仮説をすでに知られた事実で何度も検証し、修正や拡張などをすることによって、一定のスパンの事実群を説明する蓋然性のある仮説を構築できます。その手法は発見的推論法として知られるアブダクションと呼ばれるものです。詳細は「【刮目天の古代史】古代史を推理する」をご参照ください。



邪馬台国探究のための哲学と方法は?(その1) (その2)


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日本と大陸・半島とは古くから一体だった‼(;^ω^)

2024-01-14 11:20:17 | 古代史
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ごめんなさい、完成前にあっぷしてしもた(;^ω^)
とてもいい動画を見つけましたのでコメントしました。お付き合いください!( ^)o(^ )




刮目天
とても参考になる動画を有り難うございます!半島南部に縄文人がいたことは犬を埋葬していたことから想像していましたが、Y-DNAが分かったので確信しました!
縄文人が、紅山文化の人とは三内丸山遺跡の遼河人と接触したとばかり考えていましたが、半島南部で接触したので、日本に蛇信仰が発生したようですね!



それから三千年前頃にはO1b2の中のO-47zが多いです!江南の倭人ですよ!O1b2からO-47zを除いた人は山東龍山文化の人たちで殷王朝を建てました!末期に箕子朝鮮を建てましたので、一部は半島の南部に遊びに来たかもしれませんが、そこで倭人や縄文人と交流したようです!
詳しくは「日本民族とその周辺民族の父系のルーツ」「日本列島に集まった人々とは?」「半島の古代史(漢四郡まで)」などをご参照ください。お邪魔しました!




(藤尾慎一郎「数値年代とDNAがもたらすこれからの弥生時代研究」考古学雑誌105-2、2023.3 p.99より引用)

@JIRO-FX3150さん
あくまで自分の推論の1つです。
東北北海道沖縄にいたD1a2系の縄文人(アイヌ語系)と、西日本にいたO1b2-47Z系(日琉祖語系???)の2種類の縄文人がいて、後者の縄文人が紀元前5000年頃から半島を北上し、遼河流域の人と7:3の割合で混血し、現代日本人とよく似たDNAになる。
その後南下し、紀元前2000年頃まで黄河下流で生活していたが、紀元前1500年ごろに海を渡って半島南部に移住し、紀元前1000年ごろに日本列島に渡来?
ただ日本人の核ゲノムは西遼河流域に似ているという中国の論文あるけど、Y-DNAにN系統が少なすぎるのが、どうも胡散臭い。
最近中国の研究論文を引用してる研究家が多いけど、現代中国人のゲノムは95%以上が東アジア系で、日本人も90%が東アジア系+10%が縄文ってなってるけど、もう少し細分化しないと意味がないと思います。
それに中国の歴史勉強してたら、さすがにそれは可笑しいだろって思います
大陸は国境がないので、トルコやモンゴルや中央アジアやシベリアなどの遊牧民族が中国北部を征服して少数でも子孫を残せば時間が経つにつれて何千万人というY-DNAが増えるはずだけど、現在や中国は黄河や長江にO2系がほとんどなので、毛沢東が文化大革命それらの少数民族を大虐殺でもしてない限り矛盾します。
あと高句麗人の人骨や言語も知りたいけど北朝鮮も都合の悪いことは公開しないでしょうね。


@MIDORI-TV603さん
遼河文明は最初はN系統でしたが、紅山文化以降は寒冷化でN系統が南下して黄河文明に行ってしまいます。夏家店上層文化ごろに代わりにツングース系のC系統が入ってきて、N系統が少ない日本でもモデル化できるようになります。
日本はC系統は元から居たし、N系統は三内丸山に帰化した人々もいますが、現在青森で7%位です。
N系統は黄河文明で殷王朝を作ったことになっていて、殷が滅亡すると親族が朝鮮の北側に国を作って亡命してきます。K国ではこの時もN系統が増えたんじゃないか、と思います。
朝鮮の建国神話の地を紅山文化にしたいので、こういう言い方をしているんだと思います。言語の方は、実際と全く違うと思います。ただ、核ゲノム分析が進んでいるので、まあいいか、と考えています。


刮目天
O-47zは縄文時代には列島ではなく江南に居て水田稲作と漁労を行っていた倭人と呼ばれる人たちですよ!三千年前の周の成王の時代に古文献に登場し半島南部や海南島や更にマダガスカルにも進出した痕跡があります(詳細は「東鯷人(とうていじん)って?(^^)/」参照)。倭人は原始夏人O1aの支配下にあり、支配者に従順という特徴から名付けられたようですよ!現代本土日本人男性の約25%が江南系倭人をルーツとしています。主に弥生中期以降に列島で縄文系海人ムナカタ族と混血してどちらも倭人と呼ばれるようになります。

弥生中期初頭紀元前4世紀に半島南部を経由して呉王族が福岡市早良平野に展開し、奴(ナーガ=龍蛇神)国の初代王天御中主と呼ばれます。天は海(アマ)、中はナーガですから江南のナーガを信奉する海人族(アズミ族、白水郎)の王という意味ですから原始夏人がルーツと考えられます(ただし、長い年月で別の血筋に変わってもおかしくないとは思います)。記紀神話で最初に高天原に降り立った神とされてますが皇祖神です!初代から三代までの王族の墓が日本最初の王墓吉武・高木遺跡です。三種の神器が出土しています!地名で那珂、那賀、長柄、中山などは安曇族の開発した場所につけられています!


【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?記紀神話は吉武高木遺跡に降り立った呉王族の史実を隠しました(^_-)-☆

第17代奴国王イザナギノミコトがムナカタ族の姫イザナミと結婚して王族レベルで混血しました。そしてその長男が第18代王素戔嗚尊で、奴国宮廷楽師師升らの反乱で殺されて奴国が滅亡します!反乱を逃れたスサノヲの王子イタケルの子孫が2世紀末の倭国大乱で活躍し倭国王を苦しめます!魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗(大国主の父、豊岡市久久比神社祭神久々遅彦)ですよ!久々遅彦が戦死して玄界灘を活動域とする赤坂比古が狗奴国王を裏切って倭国王に懐柔されます!卑弥呼は赤坂比古の娘宗像女神イチキシマヒメだと突き止めました!詳細は「刮目天の古代史 倭国大乱が分かれば邪馬台国も分かる!(^_-)-☆」を参照してください!お邪魔しました

刮目天
@MIDORI-TV603 さん 黄河文明(ヤンシャオ文化)は遼河人が作ったと言われていますが、殷(商)王朝はその前の夏王朝(原始夏人O1a)を倒した山東龍山文化の担い手のO1b2*(O1b2から倭人O-47zを除く)の人たちです。その末裔が箕子朝鮮の人々ですよ。現代朝鮮民族の約1/3が殷(商)人系ですよ。詳しくは「日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!(^_-)-☆」をご参照ください(#^.^#)

【関連記事】
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆神話は藤原不比等が創作したのですよ( ^)o(^ )


中国神話は日本人の神話だった?
7.記紀と日本人の信仰の謎⑤




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倭面土国=邪馬台国の前身か?!(^_-)-☆

2024-01-12 23:23:52 | 古代史
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いつも勉強させていただいている武田晴樹さんの「 燃え盛るように熱い日本古代史」にとてもいい動画がアップされたので、いつものようにコメントしました。いきなり突拍子もないような話でしたので、驚かれたようです。よろしければお付き合いください(#^.^#)




刮目天
とてもいい視点だと思います。北部九州は甕棺墓文化圏でしたが、邪馬台国の登場によって箱式石棺墓文化圏に吸収されたという事実は、邪馬台国の成立を考える上でとても重要なヒントを与えてくれます。奴国王が北部九州を支配していた時期は甕棺墓が盛行していましたが、遠賀川付近から東側では箱式石棺墓です。宗教上の違いは明らかに民族の違いを表しています。甕棺墓は揚子江下流の渡来文化です。それ以外は列島に固有の縄文系文化と考えられます。

ですから、邪馬台国が成立以前は倭国王帥升(倭面土国王師升)は渡来系祭祀、成立後は縄文系祭祀に変わったのです。

倭面土国はどこかは明らかです。

57年に光武帝より金印を賜った奴国王から政権が交代したということですから、考古学の成果から本格的な王墓のあるのは伊都国しかありません。白鳥庫吉先生のご主張のとおり面は回の俗字の誤写と見て回土国(ウィトコク)と見るのが正解です。

そして、それが魏志倭人伝で伊都国という歴史的事実を示唆する国名に書き換わっていることから邪馬台国問題も日本建国の過程もすべての謎が解けたのです。

もう少しいうと、伊都国と書いた人物は師升王の後継者「儺升米」だと分かります。「」は追儺という意味ですから奴国王を追放して倭国を乗っ取った人物を意味します。「師」姓は周王朝以前から宮廷楽師の官位を意味する姓です。「米」は頭目(かしら)の意味で師(儺)升王の後継者という意味なのです。伊都国に居た本当の倭国王です。

でも伊都国に倭国王が居ては司馬懿の功績を持ち上げるのに面白くないので、縄文海人族ムナカタの姫巫女の居た場所(宇佐市安心院町宮ノ原遺跡三女神社、日本書紀の三女神降臨地の葦原中ツ国の宇佐島)を邪馬台国としたのです。難升米は人前に出ない女王の政治を補佐する男弟としたのです。邪馬台国への行程記事は司馬懿の功績を称えるために難升米が帯方郡太守に書いて教えたのです。詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」をご参照ください。

@takedaharuki
ありがとうございます。倭面土国=伊都国説も確かに多いです。みなさん、結構、詳しいです。びっくりです。

驚ろかしてスイマセン(;^ω^)
邪馬台国問題はこれだけ長い間多くの人が議論しても決着しないという事実から、魏志倭人伝の記述からは特定できないということが証明されているのです。 ですから、記紀から推理するしかないのです。

しかし日本書紀も権力者に都合の悪い史実が隠されていますので、日本書紀に添った内容の仮説を立てても事実、つまり考古学や民俗学の成果とは一致しません。

逆に事実に矛盾する部分から真相を表す仮説が作れます。それをさらに事実によって検証すると蓋然性のある仮説が生まれます。

第三の推論法と呼ばれるアブダクションによってヤマト王権誕生の過程の推論から邪馬台国も特定できたのです。
詳しくは以下の関連記事などをご参照ください。

【関連記事】
倭王帥升(すいしょう)は何者だ?(´・ω・`)

伊都国が鬼払いの発祥地か?(^_-)-☆


倭国大乱が分かれば邪馬台国も分かる!


王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆神話は藤原不比等が創作したのですよ( ^)o(^ )


【刮目天の古代史】古代史の謎はアブダクションで解明できる!(^_-)-☆

【検証22】難升米という人物は?(その1)(その3)


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日本の神話だけ他の国と何かが違う…?(@_@)!

2024-01-04 23:38:50 | 古代史
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日本神話に関する以下のとてもいい動画を見つけました(約16分)。ちょっと意地悪なコメントになって削除されるかもしれません。申し訳なかったですが、日本人の人の好さにつけいる悪徳の権力者らの欺瞞に気付いてもらいたいので、敢えて嫌なコメントをしました。よろしければお付き合いください(#^.^#)


記紀神話って江戸時代にできたって知ってます?

日本書紀は天武天皇が編纂を命じたので学校でも天皇の歴史書だと習っています。でも、完成したのは天武天皇崩御の34年後なんです。当時の権力者は藤原不比等でした。正史を創ることによって藤原氏に都合の悪い建国時代の歴史や父鎌足や自分がやった悪事を隠すために、史実を神話に閉じ込めて、その後の歴史も改ざんしています。

古事記は9世紀の朝廷で日本書紀を講義していた学者多人長(おおのひとなが)が突然表に出してきたものです。正史にも完成した記録も書かれておらず、正史が古事記を参照した形跡もないのです。日本書紀が隠した史実を藤原氏に気付かれないように暴露する目的の暗号書だったのですよ。暗号を解けば謎の4・5世紀が分かるようになっています「詳細は【刮目天の古代史】今年の大発見第1位!(^_-)-☆」参照)。

江戸時代まで古事記はほとんど読まれていなかったのですが、本居宣長が発掘して絶賛したのを平田篤胤が影響されて復古神道を作ったのです。江戸時代までは神仏習合、修験道や道教などに影響された今と全く違う神話が語られていたのです(斎藤英喜「読み替えられた日本書紀」角川選書 2020)。

明治維新で西洋列強に対抗する必要から国民をまとめるために神仏分離令が出されて、廃仏毀釈が日本全国で起こり、多くの神社の中で祀られていた仏像や寺院までもが破壊され、僧侶は強制的に還俗させられたのです。記紀神話に基づく国家神道が創設され、学校で国史が教えられたので、戦後の日本人も記紀神話や記紀の話がなんとなく日本の歴史だと思い込んでいるのです。

それに気付けば、第三の推論法「アブダクション」という手法によって、考古学や民俗学などの成果から日本の古代史を推理して、蓋然性のある仮説が得られます。それによってヤマトの建国過程が分かり、邪馬台国まで発見できました。詳細は「倭国大乱が分かれば邪馬台国も分かる!(^_-)-☆」にありますので、よろしければご覧ください(;^ω^)



【おまけ】

日本には「長い物には巻かれろ」ということわざがあります。古代から「倭人」と呼ばれていたのは、いろいろ説がありますが、支配者に従順という意味がホントだとつくづく感じています。

面倒は嫌だという気持ちも強いのかも知れませんが、基本的に「お人好し」なので、日本人同士「腹を割って話せばわかる」という仲間意識もあるのだと思います。

こういう「倭人の気質」を悪用して利益を得るのが狙いの連中がこの30年以上、日本の政治を牛耳ってきました。

具体的には述べませんが、政治腐敗が昨年末から特に目立つようになっています。このまま行くと日本の民主主義は崩壊し、この秋の紙の保険証廃止の閣議決定などは序の口で、WHOパンデミック条約の批准など、次から次へと政府主導で国民から自由・人権を奪う恐怖政治が待っている予感です。

とにかく、大手メディアも加担して国民を騙している罪務症主導の「国の借金」キャンペーンは官製詐欺です!

通貨発行権を持つ政府が発行する自国通貨建て国債の累積残高で財政が破綻することは原理的にあり得ません。

国債の償還は利子を含めて新規国債発行で賄っていることを隠して、「将来世代にツケを回すな!」とデタラメを言って、虚偽の財政危機を煽っています。不景気の時期には暫定税率ゼロにすべき消費税も減税すらせず、ガソリン税のトリガー条項凍結の解除もやらずに、物価高で国民を苦しめています。その一方で、海外に莫大なカネをバラまいているのです(「これで岸田政権の海外バラマキ18兆円超え、安倍政権と合わせると78兆円超え。」)。そして自民党政権の30年の失政による国民貧困化が生んだ少子化に対して「異次元の少子化対策」という名目で、実質的にほとんど効果を期待できない政策を目玉にしています。また、さらに国民を苦しめる増税を目論んでいるようです。国民の支持がなくても続けようとするタチの悪い政権を早く辞めさせないと確実に怖いことになりますよ。

このような状況で、2024年は震度7の能登半島地震で始まりました。二度あることは三度ある!まともな統治能力のない政権の時に起こる大災害が起こりました。この政権でさらに四度目の大災害があれば日本は完全に消滅するかも知れません!縁起でもないこと言うな!は日本人特有の言霊信仰という迷信です。さっさと対策をすればいいだけなのです。

自然災害大国の日本は、ご存じとおり日本国民ができる限り被害から免れる防災対策と、被害を受けてもできる限り軽減させる減災対策が重要なのです。そのために政府は防災・減災の公共投資を絶えず行ってもらわないとこの日本に住み続けることができなくなります。最近の被災状況を見ていると建設業を衰退させたので復興が大きく遅れるようです。被災者の生命を護るための緊急医療や食料・生活支援や復興建設のための建設業などの能力アップも行う必要があると思います。

すべては予算が必要ですので、日本経済を成長させて、必要な対策を行い、より安全で安心な社会を作ることが政府の最も大事な仕事だと思います。

経済規模=名目GDPが大きいほど一度に発行できる国債が増えるのです。民間プラス政府のネットの資金需要が名目GDPの5%くらいが、過度なインフレが起こらない良好な状態になるようですPBに代わるべき正しい指標「ネットの資金需要」)。

他の先進国並みに経済成長させれば必要な対策の予算を増やせるのですから、

偽りの財政均衡論(PrimaryBalance)で経済成長させない愚かな政策はもう止めさせましょう。

政府の黒字はみんなの赤字です


前自民党衆院議員で党内で消費税減税勢力の旗頭だった安藤 裕(あんどう ひろし)先生に日本経済のかじ取りをお任せしたら日本は立ち直れると思います!国民に寄り添うまともな考えの政治家がまだまだ数多くいますので是非とも活躍していただき、明るい未来にしていただきたいと思います。日本は、今年が正念場のようです。今の利権政治家たちに政治を任せたら日本の未来はありませんから!


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倭国大乱が分かれば邪馬台国も分かる!(^_-)-☆

2024-01-03 15:01:33 | 古代史
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いい話題を有難うございます。倭国大乱がいつ、どこで起こったのか?、どの勢力とどの勢力が争ったのか? 原因は何か?をきちんと把握すれば、ヤマト王権の成立までの歴史が判明し、邪馬台国問題も解決します。ご説明いただいた魏志倭人伝の記述に基づく倭国の戦乱の年代観をはじめ、大半は全く同じ意見です。

倭国大乱の時期は2世紀末から3世紀初頭に卑弥呼が共立されるまでです。桓霊というのは、後漢滅亡の原因となった王朝の混乱の時代の代名詞でしょう。これにより後漢の半島支配が緩み、伊都国王の倭国の、楽浪郡との交易が停止したので奴国比恵・那珂遺跡の交易センターでの交易も廃れて倭国が衰退した時期です。一方、反倭国勢力が半島南部の鉄の流通ネットワークを作り、それが台頭して倭国大乱が起こったという話だと思います。続きは長くなるのでブログにしました。よろしければ「刮目天の古代史 倭国大乱が分かれば邪馬台国も分かる!(^_-)-☆」をご参照いただき、ご意見を頂戴できれば幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。



伊都国王は107年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升の一族ですが、57年に光武帝から志賀島で発見された金印を賜った奴国王の倭国との関係ですが、これは范曄後漢書の原本に書かれたと白鳥庫吉が推理した回土国(ウィトコク、面土国の誤写説)が魏志倭人伝で伊都国と書き改めたことから判明しています(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。

倭国大乱ですが、少なくとも北部九州およびその周辺の合計30か国もが戦乱に関与していますので、大乱で間違いないと思います。

その30国は卑弥呼が対外的に倭国女王とされた倭国のことですが、漢書地理誌にあったように、弥生中期には列島には100余国あったはずですから残りの70国ほどの倭種(=倭人)の国々が存在していたと考えられます。その中の、女王に対抗する反倭国勢力が狗奴国王卑弥弓呼に従う勢力です。狗奴国王は帥升らの反乱を逃れて吉備を平定して奴国を再興した大王の子孫です。宋史 王年代紀第十九代王天照大神尊、先代旧事本紀の天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)で日本書紀の饒速日命(にぎはやひのみこと)です。倉敷市楯築王墓の被葬者と推理しました(詳細は「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?(*^▽^*)」参照)。

そこで狗奴国の位置ですが、倭国大乱で大活躍した狗奴国の官狗古智卑狗が、倭国の南にある熊本県北部の菊池川沿いの勢力とみると、3世紀初頭の女王共立でこの地は女王の倭国に吸収されたとみることができます。

その根拠は卑弥呼の時代3世紀半ばまでの纏向遺跡の外来土器を調べると九州の土器がほとんど出土していないからです。その代わりに吉備、東海、山陰、北陸、河内、近江、関東など、九州の倭国の東方の国々の首長クラスが纏向遺跡に集まっているのです。ニギハヤヒ大王の子孫の狗奴国が反倭国勢力の盟主と見ることができます(注1)。

弥生後期後半(2世紀末、倭国大乱の時期)の集団戦に使われる鉄鏃・銅鏃の出土状況をみると伊都国や奴国を含む北部九州の倭国から中国・四国・山陰などの東方の遺跡の住居跡などで全国的に広く出土しています。


(左クリックでMyMapにジャンプします)



特に大野川流域や阿蘇山麓にかけて鍛冶集落が数多く営まれており、半島南部の鉄素材(板状鉄斧)が、沖ノ島経由で北九州から大分県と熊本県に大量に持ち込まれて、鉄鏃が数多く出土しています。菊池川沿いの方保田東原遺跡(かとうだひがしばるいせき)に鉄鏃などの鉄製武器を供給する軍事拠点がこれらの遺跡群だと考えられます。そして方保田東原遺跡に山陰や畿内の土器が出土していますので、狗古智卑狗がこれらの兵士を指揮する狗奴国側の最前線基地で、倭国側の佐賀平野・筑後平野・福岡平野・糸島平野を攻撃した模様が分かります。それらの集落の環濠や溝の中からいくつか見つかっており、その他の列島各地の地域にはほとんど見られませんから、倭国大乱の痕跡と見ることができます(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。



それが何らかの原因で女王卑弥呼が立てられることによって上で述べた反倭国勢力だった熊本・大分も倭国に吸収されたわけです。倭国大乱で活躍した狗古智卑狗は大国主の父久々遅彦(豊岡市久久比神社の祭神、上棟式の祭神、日本海沿岸部を根拠地とする縄文海人ムナカタ族を束ねる王で最後の奴国王スサノヲの子孫)です。公孫氏が半島の混乱を治めて204年に帯方郡を設置したので、倭国が息を吹き返して菊池川の基地を襲ったので狗古智卑狗が戦死したと推理しました。王を喪って途方に暮れていた玄界灘を活動拠点とするムナカタ族の族長赤坂比古(和邇氏の祖)が倭国王に懐柔されて、姫巫女卑弥呼(宗像女神イチキシマヒメ)の太陽神のお告げによって政治を行う条件で狗奴国を裏切って倭国と狗奴国が対立したと推理しました。卑弥呼は宇佐市安心院町の要害堅固な山城(宮ノ原遺跡)で兵士に厳重に警護されて住んでいました。卑弥呼の墓は日本最大の円墳「三柱山古墳」です(詳細は「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!(^_-)-☆」参照)。



しかし大和盆地にはこの時代にも戦争の痕跡がありませんし、纏向遺跡は防御性のある環濠集落でもない3世紀初頭に突然現れた宗教・政治都市なので、247年の卑弥呼の死後に九州の倭国の勢力が大和盆地に押し寄せてヤマト王権を成立させたという邪馬台国東遷説は成り立ちません。

倭国の東側の反倭国勢力が纏向遺跡に結集して、九州の倭国に押し寄せて、最終的に倭国が滅ぼされてヤマト王権が纏向遺跡で成立したというのが考古学の成果から分かる事実です。

現存する日本最古の正史「日本書紀」は天武天皇が編纂を命じたので天皇の歴史書だと学校でも習っているのですが、考古学や民俗学などの成果と矛盾する内容ですので、編纂当時の権力者だった藤原不比等が藤原氏の権力を将来に渡って維持するために史実を都合よく歪曲し改ざんしたことが分っています。ですから、神武東征神話などの正史の内容をそのまま仮説にしても事実とは一致しません。むしろ一致しない部分から逆に史実を表す仮説を推理して、検証していくと真相が分かってきます。詳しい考え方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する」をご参照ください。



(注1)倭国の玄関口の伊都国に居た一大率が外国からの女王への貢物をチェックして間違いなく届ける役目があると魏志倭人伝に明記されています。伊都国だけでなく九州の人々が纏向遺跡に来た痕跡がほとんどないのですから、ここから見ても、纏向遺跡が邪馬台国ではないことは明らかなのです。





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鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有
弥生時代後期後半と終末期~古墳初頭のデータを公開しています。以下のリンク(1)及び(2)をクリックしてください。
(1)後期後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況(by 刮目天)
(2)終末期~古墳初頭の鉄鏃・銅鏃の出土状況(by 刮目天)






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