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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

天智天皇とは何者だ?( その4 )

2024-08-11 15:02:01 | 古代史
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前回(その3)の最後に「そうすると先述の敏達天皇皇后で押坂彦人大兄皇子の母の広姫は、本当は百済王の血筋かも知れません。」と書きました。初めての方は日本の皇室は渡来人の末裔なのかと不快に思われるかもしれませんが、百済はもともと倭人国でした(「半島の古代史だ!(漢四郡まで)」参照)。

百済24代東城王(生年不詳、在位:479-501年)は即位当初は新羅と同盟して高句麗の南下を抑えるなど王権と国力の回復に努めましたが、晩年の499年に大干ばつで国民が飢えても助けず、民二千人が高句麗領へ逃亡するも、臣下の諫言を聞かずに宴会にふける暗君になったようで501年に臣下に暗殺されました。国人が東城王の異母兄の嶋君を立て、武寧王が即位したと三国史記に記されています。武烈天皇が倭国軍を送って新羅を抑えたことを「【わかった!】隅田八幡神社人物画像鏡のなぞ(^_-)-☆」で述べました。

実は、この事件は、武烈天皇と伯済国の倭人嶋君(武寧王)が謀略し、東城王を討って百済を乗っ取ったと推理しています(詳細は「【衝撃】百済王のなぞ?いつ・誰が背乗りした?」参照)。理由は、倭国へ鉄素材を供給する伽耶諸国を新羅が併合しようと伺っていたので、武烈天皇はそれを食い止めるために倭国に忠実に従う武寧王を擁立したのだと推理しています。

五世紀末の雄略天皇は半島経営のために強い中央集権を目指して、皇位継承のライバルをほとんど抹殺してしまいました。武烈天皇の父やその弟は命からがら丹後半島そして播磨に逃げたので命が助かりました。

雄略天皇崩御後に半島情勢が一段と厳しくなったようです。武烈天皇は履中天皇の子孫で、雄略天皇と同じ初代ヤマトの大王(祭祀王)応神天皇の子孫であるのですが、履中天皇の父仁徳天皇の母方がニギハヤヒ大王の子孫尾張氏だったのです。三世紀の建国時代に確執のある息長氏が母方の雄略天皇とは敵対関係にありました。皇位継承者が少ないので大倭(ヤマト)の豪族たちが話し合って、両勢力を和解させるために武烈天皇を立てたと推理しています。ですから雄略天皇崩御から武烈天皇即位までは空位だったと考えています(「【わかった!】隅田八幡神社人物画像鏡のなぞ(^_-)-☆」参照)。

このような背景で武寧王が登場しますが、506年武烈天皇が後継者を決めずに崩御し、大倭(ヤマト)はまた混乱しました。大伴氏などの豪族が応神天皇系の安閑天皇・宣化天皇を次々に立てます。しかし、ニギハヤヒ大王の嫡孫の龍蛇神国王(欽明天皇の先代)が九州の物部氏を後ろ盾にして512年から513年にかけて任那四県を百済武寧王に割譲します。応神天皇系のヤマトの豪族らが反発し、武内宿禰の後裔で波多氏の支族近江毛野が軍6万人を率い、九州遠征したとあります。この武力衝突に発展した事件が筑紫君磐井(?ー528年)の反乱だと推理しています。

勝敗が決着せずに、物部麁鹿火(あらかい)の軍が送られて激戦の末、磐井が死んで子の葛子が死罪を免れるため糟屋屯倉(現・福岡県糟屋郡・福岡市東区)をヤマト朝廷に献じたということになっています。

しかし、筑紫君磐井は尾張王の九州遠征に従軍して筑紫を占領した吉備出身のニギハヤヒ大王の子孫の物部氏か尾張氏の一族と推理していますので、物部麁鹿火と戦うはずありません。磐井が敵対するはずの新羅から賄賂を貰って倭国軍の半島侵攻を妨害したという日本書紀の話は全く信ぴょう性がないのです。

したがって、ヤマト勢が磐井勢に押し返されて、勝利したニギハヤヒ大王系の崇神・垂仁天皇の子孫の勢力が大倭(ヤマト)入りして、539年に欽明天皇(509-571)をヤマトの大王に立てて倭国の混乱を収めたと推理しています。

つまり継体天皇は実在の天皇ではないと推理していますので、欽明天皇は継体天皇の子ではなくニギハヤヒ大王の嫡孫の龍蛇神国(奴国)の大王です(「天智天皇とは何者だ?(その2)」参照)。欽明天皇の前の安閑・宣化天皇も同様に継体天皇の子ではなく、スサノヲ大王系の応神天皇の子孫と考えています。

欽明天皇が571年に崩御し、敏達天皇(538?-585?)が即位します。600年に隋の文帝に朝貢したアメノタリシヒコです。文帝が崩御して煬帝が即位した604年の直前に日本書紀で蘇我馬子とされた用明天皇(?-587)に討たれたと推理していますので日本書紀の没年は誤魔化しだと考えています(詳細は「【わかった!】アメノタリシヒコの正体」参照)。

百済の武寧王が523年に亡くなって、聖明王(?-554)が即位します。新羅とは伽耶諸国の領有問題があり、欽明天皇に援軍を要請しましたが、同時に外交で新羅とも再び同盟関係を築き、連携して高句麗の侵攻を抑えました。wiki「聖王(百済)」によれば、551年に漢山城(京畿道広州市)付近を奪回したが、553年に同地域は新羅に奪われてしまった。同年10月に王女を新羅に通婚させているが、554年に新羅と管山城(忠清北道沃川郡)で戦っている最中に、孤立した王子昌(後の威徳王)を救援しようとして狗川(忠清北道沃川郡)で伏兵に襲われ戦死した。とあります。

威徳王(525?-598?)も聖明王と同様に、シナの王朝に朝貢して冊封下に入り、倭国や伽耶諸国と連携し、高句麗と新羅に対抗します。wiki「威徳王(百済)」によれば、561年7月には欽明天皇の援軍や任那と呼応して新羅に攻め込んだが、新羅の策略にはまり敗北して撤退している。[4]任那はこのころ滅亡し、伽耶諸国は完全に新羅に属するようになった。とあります。

百済はこのような厳しい情勢の中で倭国を頼みの綱として敏達天皇に后を差し出したと考えられます。敏達天皇の皇后広姫は年代的に威徳王の王女ということになります。二人の間に生まれた子が天智天皇の祖父の押坂彦人大兄皇子です。

ところが(その3)で述べたとおり押坂彦人大兄皇子は生年没年不詳の謎の人物なのです。そして押坂彦人大兄皇子の妃が敏達天皇の皇女とされた異母妹の糠手姫皇女とありますが、これも(その3)で述べたとおり本当は武寧王の血筋の耽牟羅国の王女ではないかと古事記がそっと教えてくれました。ですから、天智天皇の父とされた舒明天皇(田村王)もやっぱりウソです。本当は百済の属国であった済州島の耽(牟)羅王に立てられたと推理しています。

そうすると、糠手姫皇女が生んだ多良王ですが、百済王(久多良王)という説がありますので、百済義慈王と同一人物と考えられます。義慈王の父である武王(580?-641)と押坂彦人大兄皇子が同一人物ということです。

武王は父の法王(?-600)が死んで即位したことになっていますが、その経緯がとても不可解なのです。

威徳王が598年に亡くなって、弟の恵王(?-599)が王位について、翌年死にます。そしてその子の法王がまた翌年600年に死んで、武王が即位するのです。どうも何か隠されているようです(;^ω^)

恵王は「三国史記」では聖明王の次男ですが、13世紀末に作られた「三国遺事」では威徳王の子で聖明王の孫ということですので不審な人物です。

法王は恵王の長男となっています。法王は仏教を篤く信仰したとあります。

ところが656年完成の「隋書」百済伝に「(威徳王)死、子余宣(法王)立、死、子余璋(武王)立。」とあります。恵王は無視されて法王が威徳王の子となっていますので混乱します。

どうやら恵王と法王親子は敏達天皇よって次々に暗殺され、押坂彦人大兄皇子を百済王(武王)に就けたと考えられます。おそらく新羅に奪われた任那を奪還するためだったと推理できます(詳細は「任那(みまな)の正体は?」参照)。

そうすると、(その3)で述べたとおり糠手姫皇女が生んだ王子がもうあと一人います。中津王(なかつみこ)です。中津王は「中」がナーガですから、龍蛇神国王という意味です。中大兄が龍蛇神国王の嫡子という意味ですから中津王が中大兄つまり天智天皇のことだと分かります。

天智天皇はニギハヤヒ系大王の敏達天皇の孫で、その皇太子だった押坂彦人大兄皇子(百済武王と同一人物)の子だったということです。

日本書紀は日本と百済の深い関係、つまり天智天皇が百済武王の子だった話と、敏達天皇の百済王粛清を隠すために歴史を改ざんして誤魔化したのだと推理できます(^_-)-☆

ややこしい話ですので、系図にしました。どうぞご覧ください(;^ω^)



そうすると、もう一つ謎があります。

押坂彦人大兄皇子と、渡来人のような正体不明の漢王(あやのみこ)の妹大俣女王(おおまたのひめみこ)との間に茅渟王(ちぬのみこ)がいます。この人物もまた生没年不詳で謎の人物です。

日本書紀で皇極(斉明)天皇とした宝皇女(たからのひめみこ)と、乙巳の変(645年)の後に大化の改新の詔をした孝徳天皇(596-654)の父です。『新撰姓氏録』左京皇別に見える百済王(百済親王)と同一人物とする説があります。もしこれが本当ならば茅渟王と百済義慈王(599-660)が同一人物ということになります。そうすると茅渟王は天智天皇の同母兄で、その子宝皇女(たからのひめみこ)は天智天皇の母ではなく姪で、孝徳天皇は天智天皇の甥ということになりますね(@_@)

しかし、孝徳天皇の生まれ年が596年ですので、父であるはずの義慈王が599年生まれですから矛盾します。孝徳天皇はもっと後に生まれていないとつじつまが合いません。孝徳天皇の生まれ年が誤魔化されているのかも知れませんが、今のところよく分かりませんので、茅渟王と義慈王とは別人と見た方がいいですね(;^ω^)

ついでですが、日本書紀で中大兄の母宝皇女の父茅渟王は天皇ではないので宝女王(たからのひめみこ)あるいは宝王が正しいはずです。これは天智天皇の生母と推理した糠手姫皇女を古事記では宝王であると暴露していますので、同じ名前なのです。日本書紀の編者は名前の偶然の一致から中大兄の本当の母を隠すためにすり替えて、中大兄が宝皇女と田村王(舒明天皇)との子という創作をしたのだと思います。図のとおり宝皇女は天武天皇の生母と推理していますから、日本書紀は天智天皇と天武天皇を兄弟に見せかけたのです(「天智天皇とは何者だ?( その1 )」参照)。

なお、天智天皇の兄と推理した百済義慈王の事績についてはwiki「義慈王」に詳しくありますが、晩年に唐・新羅の連合軍との戦いに敗れた百済滅亡の様子が以下のように記されています。

義慈王は捕虜として妻子とともに長安に送られた。660年11月1日、洛陽に滞在中だった津守吉祥、伊吉博徳ら日本の遣唐使一行が、捕虜となった義慈王ら百済の王族・貴族の50人(『旧唐書』では58人)が護送されるのを目撃している。義慈王は同年のうちに唐で病死したとされるため、それから年末までの2ヶ月間に死亡したと推測される。「金紫光禄大夫・衛尉卿」の爵号を贈られた。また、隆には司稼卿の爵号が贈られた。

百済は早くから中国江南政権に朝貢しており、建康に都を置いた国家に朝貢使節を送って冊封を受けていた[7]。義慈王の墓は、江南政権の呉と陳の各々最後の君主だった孫皓と陳叔宝の傍らに作られている。孫皓と陳叔宝の降伏後、中国は西晋、隋において統一されたが、江南政権と関係の深かった百済最後の王を江南政権最後の君主(現在の洛陽市かその近くに葬られた[8])の傍らに葬ることで、唐は西晋や隋に続く天下統一をアピールしようとした[7]。


唐の敵国であるにもかかわらず百済義慈王がここまで手厚く葬られたのは、春秋時代に滅んだ由緒ある呉の王族の天御中主の末裔だと知られていたからなのかも知れませんね(^_-)-☆

この後、天智天皇が百済復興のために強力に支援しました。しかし663年の白村江の敗戦で、半島の百済国は完全に消滅します。百済人は日本に帰化しますが、六世紀初頭の百済武寧王の時代から日本と百済は、龍蛇神国(奴国)の本家と分家の関係であって、両者は一体だったという推理でした(^_-)-☆

日本書紀が隠した大きな秘密のひとつですが、いかがだったでしょうか?

もう一度系図を見直していただき、何かお気づきのことがございましたら遠慮なくコメントくださいネ(#^.^#)


最後までややこしい話にお付き合いただき、感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

初めての方は【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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天智天皇とは何者だ?( その3 )

2024-08-08 19:59:27 | 古代史
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【わかった!】アメノタリシヒコの正体!で600年に文帝に朝貢した人物がニギハヤヒ系大王敏達天皇で、607年に煬帝に朝貢したのが604年の文帝崩御の直前に敏達天皇を討ったスサノヲ・大国主系大王用明天皇であると推理しました。そして、敏達天皇の皇太子「利歌彌多弗利」(ワカタラシヒコの誤記)が押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)のことですが日本書紀では舒明天皇の父となっていますので、天智天皇の祖父ということになります。

ところが不思議なことに、この人物とその周辺の人物が謎だらけなのです。日本書紀は何か重要なことを隠しています。すでにご存じのとおり、京都にある天皇家の菩提寺泉涌寺でお祀りしている最初の天皇が天智天皇なのです。初代天皇ではありませんので何か言えない事情があるはずです。先に日本書紀による天皇の系譜(29代~48代)を示します。



敏達天皇四年春一月九日、息長真手王(おきながのまでのおおきみ)の娘である広姫(ひろひめ)を立てて皇后とした。
一男二女をお生みになった。
第一が押坂彦人大兄皇子、またの名は麻呂古皇子(まろこのみこ)という。舒明天皇の父。

この月に、一人の夫人を立てた。

<中略>
そして、糠手姫皇女(ぬかてひめのみこ)、またの名は田村皇女(たむらのひめみこ)、舒明天皇の母をお生みになった。(『日本書紀・日本語訳「第二十巻 敏達天皇」』より)

とあり、舒明天皇紀には父である押坂彦人大兄皇子に触れず、舒明天皇が崩御して皇后の宝皇女が即位した皇極天皇紀の冒頭で以下のように書かれているだけです。

天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)は敏達天皇の曽孫で、押坂彦人大兄皇子の孫であり、茅淳王(ちぬのおおきみ)の娘である。
母を吉備姫王という。
(『日本書紀・日本語訳「第二十四巻 皇極天皇」』より)

その後押坂彦人大兄皇子はどこにも登場しません。

古事記の敏達天皇(沼名倉太玉敷)のところで、以下の文章があるだけです(『古事記・現代語訳「下巻」』より)。

息長真手王の娘である比呂比売(ひろひめ)命を妻としてお生みになった御子は、忍坂日子人太子(おしさかひこひとのひつぎのみこ、押坂彦人大兄皇子)、またの名は麻呂古(まろこ)王、次に坂騰(さかのぼり)王、次に宇遅(うじ)王の三柱である。
<中略>
この天皇の御子たち合わせて十七柱の中で、日子人(押坂彦人大兄皇子)が異母妹の田村(たむら)王、またの名は糠代比売を妻としてお生みになった御子は、岡本宮で天下を治めた天皇(田村皇子舒明天皇)、次に中津(なかつ)王、次に多良(たら)王の三柱である。

驚くことに、押坂彦人大兄皇子は、生年も没年も不詳なのです。舒明天皇の父で天智天皇の祖父なのですよ(@_@)

そう言えば、アメノタリシヒコの妻「雞彌(キミ)」は敏達天皇の皇后広姫のことで、息長真手王の娘とあるのですが、息長真手王の素性がよく分かりません。【わかった!】アメノタリシヒコの正体!の中で、継体天皇の曽祖父の意富富杼王(おおほどのおおきみ、生没年不詳)の弟息長沙禰王の子という文献があるとwiki「息長真手王」にありますが、意富富杼王は、応神天皇の皇子稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ)の子ですが、その母息長真若中比売は、架空の人物である日本武尊の曽孫なのです。恐らく息長真手王もニギハヤヒ大王の子孫の尾張氏の系統だと考えられます。記紀の神功皇后のモデルの倭国女王台与が息長氏の祖であることを隠すために創られた系図だと思いますと書きました。押坂彦人大兄皇子を産んだ敏達天皇の皇后広姫の素性もとても怪しい話なのです。皇后陛下の出自ですよ(@_@)

そこで、舒明天皇の皇后宝皇女(皇極・斉明天皇)も、日本書紀の中で天武天皇の皇后とされた鵜野讃良(天智天皇皇女、持統天皇)が皇后で即位したことにしたので、敏達天皇の後の皇后額田部の推古天皇即位と同様に、皇后即位の前例のために創作されたと考えていますので、宝皇女は天智天皇の母ではないのです(万葉集研究家渡辺康則氏の説)。おまけに日本書紀で天智天皇の父とされた舒明天皇も架空の天皇なのです。田村皇子は存在したとは思っていますが、父は天皇ではないので皇子ではなく田村王ということでしょう。

そうだとしたら天智天皇はいったい誰の子供なのか、両親は誰なのかが謎なのです(@_@)

そうなんですよ!

一番怪しいのは祖父とされた押坂彦人大兄皇子です。古事記は三柱の王(田村王、多良王、中津王)を紹介していました。田村王は舒明天皇ですが、母親の糠代比売(糠手姫皇女)が敏達天皇の皇女であれば、敏達天皇の皇太子の押坂彦人大兄皇子が異母妹を妃にしているのはいかにも不自然です。

そして、日本書紀では田村皇女ですが、古事記では糠代比売の別名が田村王として皇女ではないと真相をばらしているようです。済州島の古名の耽牟羅(たむら)を連想します。糠代比売は耽牟羅国の王女ではないかと思います。wiki「耽羅」によれば、「『三国史記』では耽羅が476年に百済の文周王に朝貢し[14]、498年に百済の東城王に服属した[15]とあるように、498年以後は百済に朝貢していた。」とあります。

そして、日本書紀の天智天皇三年に六月、嶋皇祖母命(しまのすめみおやのみこと、天智天皇の祖母糠手姫皇女)が薨(こう)じた。「日本書紀・日本語訳「第二十七巻天智天皇」より)という記事がありました。嶋は武寧王の諱斯摩(しま)で、名が嶋君ですから、百済武寧王の血筋という意味にとれます。武寧王の百済と血縁関係がある耽牟羅国の王女と推理できます。

そうすると先述の敏達天皇皇后で押坂彦人大兄皇子の母の広姫は、本当は百済王の血筋かも知れません。

(つづく)


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天智天皇の漢風諡号が悪いのは何故?(@_@)?

2024-08-07 21:29:31 | 古代史
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#とてもいい動画を見つけたので、早速コメントしました。まずは動画をご覧ください!よろしければお付き合いください(#^.^#)

天武天皇と古代日本 ほんとうのところはどうだったの? 〜氣で観る日本史
日本学研究所@YouTube


とても勉強になる話をありがとうございます。

天智天皇と天武天皇は兄弟ではないことは天皇家の菩提寺泉涌寺の話から分かります。泉涌寺で祀られた天皇が正統であることが分かります。でもこれは、驚かれるかもしれませんが、記紀神話が作られた江戸時代以降なのです(詳細は「刮目天の古代史 卑弥呼と天照大御神が同一人物?」参照)

それではなぜ、天皇家の始祖に天智玉に因む悪い名前を付けたのかですが、漢風諡号は奈良時代末期の文化人で、天智天皇の子大友皇子の曽孫淡海三船が付けたものと言われています。普通は自分の祖先に悪い諡号を付けるはずないのですが、三船は当時の人々の歴史観に従ったのだと思います。つまり、本来、正統な皇統はスサノヲ・大国主高野御子の子孫の初代応神天皇の末裔だという考えです。

しかし、スサノヲの弟ニギハヤヒ大王系の天智天皇の孫光仁天皇の時代に皇統が変わって今上天皇に至ります。ですから日本が建国される二世紀から三世紀に恨みを持って亡くなったスサノヲ・大国主などの祟りを朝廷も多くの人々も大変畏れています。ヤマトの大王は主に彼らの鎮魂祭祀が大きな仕事である祭祀王なのです。

三船は天平勝宝8歳(756年)に朝廷を誹謗したとして、衛士府に禁固され、間もなく放免されているようなのですが、天智天皇の漢風諡号の件とかかわりがあるかも知れませんね。

祟りというのは祟られた側に何らかの問題があるのですから(^_-)-☆

多くの皆さんは、日本書紀は天武天皇が編纂を命じたので天皇の歴史書だと思われていますが、ご指摘の天智・天武の関係でも分かるように、崩御34年後の720年に完成させた当時の権力者藤原不比等による勝者の歴史書なのです。藤原氏に不都合な史実は神話を創って誤魔化し、歴史は相当改ざんされています。

先に完成したとされる古事記は9世紀に突然表に出てきたもので、正史にその記録もないですし、日本書紀が参照したと分かる痕跡すらないのです。日本書紀が隠した史実をそれとなく暴露するための暗号書なのです。(2024.8.29 赤字追加)

これを解いて考古学や民俗学の成果によって古代史の真相がかなり解明できました。詳細は「刮目天の古代史」をご参照ください。失礼しました(;^ω^)

【関連記事】
天智天皇とは何者だ?( その1 )(その2)

血塗られた女帝の秘密(*´Д`)

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)






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神武天皇が存在したと言う証拠?(@_@)?

2024-08-03 00:54:32 | 古代史

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【ゆっくり解説】神武天皇が存在したと言う証拠
にっぽんぽん【ゆっくり日本史解説】@YouTube

多くの皆さんは、現存する最古の歴史書「古事記」・正史「日本書紀」が天武天皇が編纂を命じたということから天皇の歴史書だと思い込んでいます。

しかし、日本書紀が完成したのは崩御後34年です。時の権力者は藤原不比等なのです。藤原氏に都合の悪い史実を隠すために神話を創作し、歴史を改ざんしたことが、事実、つまり考古学や民俗学などの成果から判明しています。

また、古事記は9世紀に突然、表に出てきたもので、正史に古事記の記録はないですし、日本書紀が古事記を引用したと分かる箇所も、痕跡も見当たらないのです。古事記は日本書紀が隠した史実をそれとなく暴露する暗号書なのです。暗号を解くと空白の四世紀も倭の五王の謎も解けました。(2024.8.29 赤字追加)

神武天皇を登場させたのは、単に皇統を長く見せるためではなく、不比等が本当の初代応神天皇の史実を隠さねばならなかったからなのですよ。卑弥呼を隠さねばならない理由と同じです。話はつづきますが長くなるので、詳細は後でブログにします。

よろしければ「刮目天の古代史 卑弥呼と天照大御神が同一人物?」などをご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)


ヤマト王権が成立したのは考古学の成果から三世紀末頃だと推理できます。
纏向遺跡発祥の前方後円墳が全国各地で営まれ、古墳時代が始まるから分かります。

纏向遺跡は三世紀初頭の卑弥呼の登場に合わせて突然できた祭祀に特化し、各地から首長クラスの人々が集まった南北約1.5km、東西約2kmの大規模遺跡です。周囲に水田などがなく、大型建物跡や掘立柱建物が多数あります。祭祀に用いた大量の桃の種が出土しています。近隣の集落から物資が運搬される水路と考えられる幅5m深さ約1.2mの大溝が南北に二本在ります。

吉備を平定したニギハヤヒ大王(奴国を脱出したスサノヲの弟、楯築王墓の被葬者と推理)の嫡孫の卑弥弓呼(ひこみこ、狗奴国大王、記紀の開化天皇)が、邪馬台国連合倭国の成立で半島の鉄の供給が止まったことにより、防御面を考慮して大和盆地東側に王都を遷し、旧奴国の勢力を集めたと推理しました(「纏向遺跡は狗奴国(旧奴国)だったのだ」)。

【卑弥呼の死の直前の状況】


先代の卑弥弓呼大王が亡くなり、新たな大王(記紀の崇神天皇)がようやく倭国追討軍を派遣する決断をしました。狗奴国大王と同じニギハヤヒ大王の血を引く尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト、記紀で仲哀天皇)を大将とし、スサノヲ大王の子孫で日本海沿岸のムナカタ海人族を束ねる出雲・丹後王国の王久々遅彦を副将として倭国に押し寄せました。久々遅彦は先代王日高彦の子高野御子、豊岡市久久比神社の祭神で木の神ですから木霊イタケルの子孫で、王の襲名です。記紀の五代の天皇に仕えた三百歳の白髪・白髭の武内宿禰ということにされています。

247年の卑弥呼の死後に、遠征軍が到着したところ、突然の卑弥呼の死を知った弟赤坂比古(和邇氏の祖、玄界灘を支配したムナカタ海人族)が戦意喪失したので倭国王は半島に逃亡したと推理しました。無傷で倭国を手に入れた尾張王が倭王に立ったので、それに不服だった久々遅彦と千人が死ぬ内戦になったと推理しました。かつての部下筋で従弟だった赤坂比古が久久遅彦に加勢したので尾張王が討たれ、久々遅彦が13歳の台与(記紀の神功皇后のモデル)を外交上女王に立てて、狗奴国を裏切り倭国王になります。

列島内のほとんどの勢力が久々遅彦の傘下になり倭国が隆盛になります。久々遅彦は記紀で大国主とされた人物です。内戦に勝利した後に宇佐市安心院町の卑弥呼の径百余歩(直径約150m)の日本最大の円墳「三柱山古墳」へ弔問に訪れ、さらに南側の妻垣神社の奥宮一柱謄宮でも祭祀を行っています(注1)。また、安心院町佐田地区の米神山で日本一立派なストーンサークル佐田京石などを作って父祖への感謝の祭祀を行い、佐田川の葦を刈り取り、水田として最初の国造りを行います。ここが神話の豊葦原の瑞穂の国です。

父を殺された尾張王建稲種命(熱田神宮祭神)は大国主所縁の丹後半島や鳥取市青谷上寺地遺跡を襲撃し、兵士に護られていない集落の住民を無差別殺戮しています。そして大国主の本拠地とする九州に遠征し、最初は撃退され、宮崎県児湯郡川床遺跡で約200名の兵士を埋葬しています。南九州で狗奴国の援軍を得て、油断していた大国主久々遅彦・台与そして赤坂比古を討ち、仇討ちを成功させます。日本書紀に詳細に語られた景行天皇の九州遠征のルート上で、尾張勢が好んで使用する銅鏃などを集落の環濠や溝などで発見しました(「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)(その4)」参照)。この史実はさるカニ合戦の民話の元になっています(「抹殺された尾張氏の謎(その1)(その3)尾張と言えばカニだ~わ!)参照)」。

尾張王建稲種命は九州の支配を参戦した物部氏の祖に任せ、纏向遺跡に凱旋します。直ぐに大国主傘下を鎮撫する命令を狗奴国大王より受け、遠征に出発し、途中で流れ矢に当たって戦死します。子の尾綱根命が列島各地を平定して、狗奴国が日本を統一します。記紀の崇神天皇の四道将軍や日本武尊の遠征ルート上で矢戦の痕跡が見られますので、270年頃の史実だったと分かりました(「【検証19】日本建国のための戦いだ!」参照)。



そして、大問題が起こります。280年に西晋によって呉が滅亡し、恐らく呉の難民が畿内に来たのだと思います。呉の紀年銘青銅鏡(平縁神獣鏡)が山梨県鳥居原狐塚古墳(赤烏元年238年銘)と兵庫県宝塚市安倉高塚古墳(赤烏七年244年銘)で出土しています。大国主・台与の倭国が魏・西晋に朝貢していますので、狗奴国は呉と同盟していたのかも知れません。

狗奴国は西晋の冊封国の倭国を討ったので、西晋に追討されることを怖れ、パニックになったようです。大国主・台与の祟りだと思った卑弥弓呼大王は、恐らく南九州(大隅正八幡宮)に落ち延びていた大国主と台与の子ホムダワケを探し出し、呼び寄せて両親を弔わせたと推理しました。そして狗奴国を邪馬台(ヤマト)国と呼ぶことにし、ヤマトの大王(邪馬台国の後継者)として応神天皇を即位させました。母台与を箸墓で、父大国主を桜井市外山(トビ)の桜井茶臼山古墳で改葬したのだと推理しています。

応神天皇は、日本書紀では仲哀天皇と神功皇后の皇子としていますが、仲哀天皇は景行天皇六〇年の翌年に即位した成務天皇四八年に31歳で立太子とあり、父の日本武尊は景行天皇四〇年薨去ですから、仲哀天皇は父が死んで38年後に生まれた計算になります。杜撰な作り話ですから応神天皇の本当の父大国主を隠すための架空の天皇とわかります(^_-)-☆

崇神天皇から応神天皇即位までの約350年の話は三世紀後半の日本建国の史実を隠すために創られたのです。



それでは何故、神武天皇を登場させたかについてですが、単に、建国の史実を隠すためだけではなく応神天皇即位後の二人の天皇の史実を隠す目的だったことが分かりました。二人とも卑弥呼の弟赤坂比古の子孫でした(「謎の世紀と倭の五王の謎(その1)から(その3)」参照)。富雄丸山古墳の被葬者は応神天皇の皇太子菟道稚郎子(ウジノワキノイラツコ)と推理しました。天皇に即位していたのですが、異母兄の大鷦鷯(オオサザキ、仁徳天皇)に暗殺されたと推理しています。これを隠すために聖帝と持ち上げています(詳細は「【発見!】仁徳天皇の怖い秘密?」参照)。



そのために、応神天皇崩御後の皇太子菟道稚郎子と大鷦鷯が即位を譲り合い、菟道稚郎子が自殺するという奇妙な話とそっくり話を神武天皇崩御後に創作して、こういうことはよくある話だとしています。日本書紀はあり得ないような話には必ず前例を創作していますから、直ぐに気が付きますよ。

神武東征も応神天皇の史実をファンタジー化しているのです。先にヤマトに降臨したニギハヤヒが義兄のナガスネヒコを斬って神武天皇を即位させた話にしています。

これは上で述べたニギハヤヒ大王の子孫の尾張王建稲種命が大国主を討って、初代応神天皇が即位したという話が基になっていたのです。ナガスネヒコは古事記ではトビヒコであると暴露しています。つまりトビはヘビのことです。出雲地方では大国主の化身とされています。富雄丸山古墳の富雄はトビ(大国主)の尾(子孫)という意味です。丸山は和邇氏の円墳を指します。つまり和邇氏腹の大国主の孫、菟道稚郎子のことなのです(「富雄丸山古墳に隠された大きな秘密?」参照)

そして、大国主はヤマト政権が最も畏れた神なのですが、大国主の父日高彦と祖父八束水臣津野命(以下、八束命)は日本建国の立役者だったので、日本書紀は徹底的に隠しています。出雲・丹後王国で生まれた首長霊信仰が後の古墳時代の考え方の底流になり、天皇即位儀礼に引き継がれています。

八束命は出雲国風土記の国引き神話の神です。祖父の奴国大王スサノヲのゆかりのムナカタ海人族を出雲に集めて父イタケルを大型四隅突出型墳丘墓西谷三号墓で弔い、王位継承儀礼を行ったと推理しています。半島南部の鉄を配下に供給し、鉄のネットワークによって結束させて出雲王となりました。記紀神話では豊玉彦であり、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)のモデルでもあります。

日高彦(倭国大乱の英雄、魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗)は西谷九号墓で父八束命を弔ったと推理しています。とその子大国主高野御子の出雲・丹後王国三代の王の史実が、記紀で日向三代神話として誤魔化されています。神武天皇の父ウガヤフキアエズは大国主のことなのですよ(「出雲・丹後王国三代が建国の立役者だった!」参照)。



それじゃあ一体、「日本書紀」とは何なんでしょうか?

はい、答えは「血塗られた女帝の秘密(*´Д`)」の中にありますよ(;^ω^)

【関連記事】
ヤマト王権のルーツは吉備そして奴国だった(^_-)-☆
纏向遺跡の初期前方後円墳のルーツを調べるとやはり吉備にたどり着きます。楯築遺跡は双方中円墳という形式の古墳とされていますが、間違いなく前方後円墳のルーツです。それは特殊器台とその表面に描かれた弧帯文が証拠です(「弧帯文は龍蛇神(ナーガ)の文様だった!(^_-)-☆」参照)。


王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)





(注1)日本書紀では神武東征で母玉依姫の墓所を訪れ、ウサツヒコとウサツヒメに歓待され、ちゃっかりと藤原氏の祖神天種子命がウサツヒメを娶る話を創作しています。だいたい日本書紀や神社などに登場する男女のペアの神様は大国主と台与のことですよ。アソツヒコ・アソツヒメなどなどです(^^♪
一柱謄宮の場所の伝承があと二つありますよ。史実を隠すために、あいまいな話にしたのだと思います(;´Д`)


最後まで読んでいただき、感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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【検証26】建稲種命の終焉の地は?(@_@)?

2024-08-02 00:00:39 | 古代史

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#2023-09-24 21:46:09に記事にしましたが、YouTube動画「【ゆっくり解説 】高尾山古墳の謎!!存在が奇跡の古墳...」を見つけましたので、コメントしました。その後分かったことを若干追加しました。よろしければ、またお付き合いください(#^.^#)

#2023-09-20 21:45:02に記事にしましたが、早くお届けしたい「せっかちな質」なので、毎度、読みにくい文章で申し訳ありません。いつものとおり、掲載後に見直しして、少しだけ文章を付け加えました。お手数ですが、再度お読みいただけるとうれしいです。どうぞよろしくお願いいたします( ^)o(^ )

九州遠征で大国主らを討った尾張王建稲種命は、「空白の150年」に何があったのか?(その6)で見たとおり、東海道を遠征し、大国主傘下の人々を狗奴国に従わせました。纏向遺跡に凱旋して卑弥弓呼大王(記紀の崇神天皇)に直接報告していたとしたら、恩賞を貰ってその後も建稲種命が狗奴国ヤマトの政治を仕切っていたと思われますが、その後活躍した話が見当たりません。

愛知県春日井市「内々(うつつ)神社」の由緒によるとに、東国の平定を終えた日本武尊が内津峠に差し掛かった時、早馬で駆けてきた従者の久米八腹(くめのやはら)から副将軍である建稲種命が駿河の海で水死したとの報告を受けた。それを聞いた日本武尊は「ああ現哉々々(うつつかな)」と嘆き、その霊を祀ったのが内々神社の始まりという。とあります。

熱田神宮の社伝でもヤマトタケルの副将として遠征に参加したことになっていますが、前回見たようにヤマトタケルは建稲種命の史実を誤魔化すために「日本書紀」で創作された建国のスーパースターです。また、「吉良の幡頭神社は、矢作川から流れてきた建稲種の遺体を村人が葬って祀ったことが創祀とされ、幡頭は建稲種が水軍の幡頭(はたがしら)をつとめたことから来ているという説がある。」と名古屋神社ガイド タケイナダネ《建稲種命》(2023.4.9)に紹介されています。しかし、建稲種命が駿河の海で水死したということであれば、矢作川から遺体が流れてくるはずもないのでこの伝承の内容そのものには信ぴょう性が無いように思います。何か物証が残っていないか検討しました。遠征軍の大将が戦死したのかは確かではないですが、どこかで亡くなっているとしたら3世紀後半の前方後方墳に葬られているはずですから調べました。この時代の候補は二つあります。(1)長野県松本市弘法山古墳と(2)静岡県沼津市高尾山古墳です。

(1)弘法山古墳 東日本最古級の3世紀末から4世紀中葉頃築造の前方後方墳である。松本市南西部の中山の先端(弘法山、標高約650m)にあり、墳丘長66m、後方部幅33m 、前方部幅22m 、後方部の高さ6m 、前方部の高さ2m 、葺き石が部分的に認められたが埴輪の設置や周濠などは認められなかった。wiki「弘法山古墳」にあります。また、「天井石はない。箱形の木棺に埋葬されていたものとみられる。内部からは「上方作鏡」銘の四獣文鏡1面、銅鏃1、鉄剣3、勾玉、ガラス小玉738、鉄斧1、鉄鏃24、S字状口縁台付甕などが発見された。」とありますからS字甕や銅鏃の副葬から尾張王のものと考えられます。

上記の通り、弘法山は中山の北端にあります(松本市のリーフレット参照)。吉備中山に備前一宮吉備津彦神社と備中一宮吉備津神社が配置され、ニギハヤヒ大王を祀っていることが分かっていますから、ニギハヤヒの子孫の建稲種命を示唆しているようです。この中山には6世紀の古墳が多く営まれており、弘法山の東の棺護山(かごやま)は尾張王の祖神天香語山命を連想します。弘法山と同時期築造の中山36号墳から東海系の土器が出土していますので、これも尾張王族のものと考えられます。『先代旧事本紀』「国造本紀」に須羽国造(すわこくそう)が見られ、「山梨県北杜市に鎮座する諏訪神社中社や『甲斐国史』の伝承では、崇神朝に建沼河別命が西域の地に封ぜられ、その孫の大臣命が諏訪国造に任命されたという。」とwiki「須羽国造」にあります。崇神天皇の伯父大彦命の子建沼河別命は前回述べたとおり建稲種命を隠すために登場させた人物なので、この地は尾張氏が支配下に置いたようです。
 
(2)高尾山古墳 発掘調査報告書に東国最古級の前方後方墳とあり、以下のような概要です。
①愛鷹山末端の標高約20mの尾根上に築造。
②主軸をほぼ北に向ける墳丘長62.178mの前方後方墳、前方部南東側に土橋、南側の周溝が他に比べて狭い。
③主体部は舟形木棺?、棺底に水銀朱。
④主要な副葬品は「上方作系浮彫式獣帯鏡」(破砕鏡)1点、槍2点、鉄鏃32点、鉇1点、勾玉1点。
⑤主体部周辺の墳丘盛土に、パレススタイル壺、S字甕、大廓式土器。
⑥周溝から祭祀に伴う大量の土器。在地の大廓式土器、廻間Ⅱ式高坏、同ヒサゴ壺、同器台、S字甕、北陸系甕など。
⑦造営~埋葬の時期は230年代~250年代。

その他の時期
①前方部に造営直前の弥生時代後期後葉の住居址。
②前方部周溝周辺に律令時代末期の住居址、高台付坏・坏・鉢・甕。


(左クリックでGoogleEarthにジャンプします)

この地区は、狩野川黒瀬橋の袂に関東玉造郷の碑のある玉造神社があり、対岸に玉砥石が展示された一里塚公園があります。さらにその北側には地元で山王さんの名で親しまれている沼津日枝神社があります。主祭神の大山咋神(オオヤマクイ)は相殿に祀られている大国主の分身ですから、弥生後期後葉から大国主の傘下のムナカタ海人族が一帯を治めていたようです。

御幸町遺跡の溝から銅鏃が2個、住居跡から銅鏃4個が見つかっています。高尾山古墳はその北方約3kmくらいの愛鷹山山麓にあります。棺の底に水銀朱が見られるとありますので、尾張王の可能性があります。尾張勢が用いるS字甕が古墳に置かれていることなどからこの地で尾張勢と大国主傘下の在地勢力との戦闘が行われた模様です。

下に北部九州から東北までの土器の編年並行関係を示した図に刮目天の年表を重ねた図を示します。これを見ると東海西部の廻間(はさま)Ⅱ式高坏は240年~280年くらいのものです。そして、東海地方東部の大廓式土器も見られるので(注1)、地元の豪族も葬儀に参加したということを示しますから、建稲種命の率いた尾張勢が敵対していた在地の豪族を平定したことを示しているようです。

なお、高尾山古墳の横に熊野神社(東熊堂)があります。元は古墳上にあったようです。祭神は伊弉諾尊と伊弉冉尊ですから尾張王の祖神ニギハヤヒ大王の両親を祀っています。また、沼津日枝神社の境内に分祠された高尾山穂見神社があり、祭神は保食神(うけもちのかみ)ですから伊勢神宮外宮豊受大神です。その正体は建稲種命の軍勢に伊都国で討たれた女王台与(記紀の神功皇后のモデル)です。平原王墓の被葬者と推理しています。大国主に次いで各地で卑弥呼とともに畏れられています。丹後王国の史実を隠す目的で丹後半島でも豊受大神台与の伝承を作って誤魔化していますが、この地は元々出雲・丹後三代の地盤だったので、大国主傘下の勢力を鎮撫するために尾張王建稲種命が遠征したのです。この史実を隠すために、上で述べたとおり、記紀では日本武尊(ヤマトタケル)の東海遠征の話になっています。(注2)。
 
したがって建国の英雄の尾張王建稲種命は静岡県東部の沼津の地で戦死した模様です。上述のとおり、伝承では帰路に駿河の海で溺死したとありますが、史実は建稲種命が尾張勢を率いて大国主傘下の御幸町遺跡の溝で矢戦の痕跡の銅鏃が2個出土していますので、敵の流れ矢が当たったようです。そして、敵が降伏した後に亡くなったようです。高尾山古墳に葬られたと考えられます。東海西部、近江、北陸、関東の外来土器が出土していますので、建稲種命を弔うために多くの人々が葬儀に参加したようです(^_-)-☆。



そして、纏向遺跡の近くの天理市西山古墳が前方後方墳です。物部氏の氏神を祀る石上神宮(いそのかみじんぐう)の南西約500mに在ります。wiki「西山古墳」によれば、墳丘は前方部を西に向けた3段構築の前方後方墳で、全長183メートル、後円部の幅94メートル 高さ16メートル、前方部の幅72メートルですから、日本最大の前方後方墳です
下段が前方後方形で、中段から上は前方後円形となる特殊な墳形をもつ。
とあり、ヤマト王権のシンボルの前方後円墳を意識していることから建稲種命を建国の功労者として崇神天皇が造らせたのではないかと思います。上で推理したとおり、建稲種命は東国平定の途中で亡くなっていますので、後継者の尾綱根命が父のやり残した仕事を完成させたので、尾張王の継承の儀式も西山古墳で行われたと考えられます。また崇神天皇から恩賞として、諏訪から信濃地方の支配も任されたものと考えられます。したがって弘法山古墳は、尾張王の一族が赴任して、祖神を顕彰し、この地を無事支配できるように加護を祈ったものと考えられます。弘法山古墳の北側には有賀稲荷神社が鎮座していますから、お稲荷さんも女王台与です。そして弘法山の南1kmあたりの中山にはやはり日吉神社がありましたよ(^_-)-☆

【関連記事】
鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有
2世紀末の倭国大乱や3世紀後半の日本建国の戦いの痕跡を発見していますので、未だの方はぜひMyMap「終末期~古墳初頭の鉄鏃・銅鏃の出土状況(by 刮目天)」を参照してください(;^ω^)


(注1)沼津市ホームページの高尾山古墳(たかおさんこふん)の説明によれば、以下のとおりです。
近年改めて墳丘内の盛土構造と土器の出土状況を再検討した結果、墳丘内部で出土する土器は古墳築造前に当該地に存在した集落に伴うものである可能性が高いことが判明し、現在では古墳の築造と被葬者の埋葬年代について時間差はほとんどないものと推定され、古墳の築造時期については被葬者の埋葬時期である大廓Ⅲ式期かその少し前と結論付けられている。
従って下の土器編年並行関係図(東海東部の「大廓Ⅲ式期かその少し前」)と年表から高尾山古墳の築造と埋葬は270年頃と考えられるので建稲種命を被葬者とするこの推論を支持しています。


(左クリックで拡大)

高尾山古墳ガイドブック(PDF:5,094KB)
出土遺物に関する解説動画(沼津市公式YouTubeチャンネル 【完全版】)

【短縮版】約17分に圧縮されていますので、お急ぎの方は取り合えずこちらでどうぞ( ^)o(^ )

(注2)富士市の高尾山穂見神社の祭神は天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)とありましたので、日向三代神話のニニギとコノハナサクヤヒメの子山幸彦です。ですから保食神(うけもちのかみ)というのは誤魔化すためなのです。五穀豊穣、養蚕の神ですのでホホデミでしょう。古事記に天津日高日子とあり、日高彦(ヒダカヒコ)とも呼ばれた実在人物です。「大谷さんは日高見国の王子だったの?!(注5)」で見たように八束水臣津野命(以下八束命)の子の日高彦(古事記の天之冬衣命)のことで、大国主の父先代久々遅彦(狗奴国の官狗古智卑狗、記紀の武内宿禰)のことです。久々遅彦は豊岡市久久比神社の祭神で木の神ですから木霊イタケルの子孫、つまりその父が奴国大王スサノヲ(107年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升、正しくは、奴国宮廷楽師だった師升に討たれた最後の奴国王)ですから、その子孫で、だいだい日本海沿岸部を根拠地とするムナカタ海人族を束ねる王の襲名です。

消された出雲・丹後王国の謎!(その1)八束命の話
消された出雲・丹後王国の謎!(その2)日高彦の話


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