身近な自然となかよくblog (旧「菊名エコクラブblog」)

自然環境と調和した持続可能な社会を!

都市に住む現代人であっても地球への敬意を大切に。 松田 照之

重要なこと(1)

2018年05月26日 08時20分32秒 | 6-2.思ったこと・考えたこと
今年の3月から、このblog「町なか自然教室 菊名エコクラブ blog ~ 身近な自然に学び、自然の仲間たちを大切にしていこう! ~」に新しい記事を頻繁に書き込んでいます。
私は長年、自然環境保全活動に関わってきたので、その分野からの切り口にはなりますが、近年本当に世の中おかしくなってきていると強く感じ始めたためたためで、自分に何かできることをしたいと思った結果です。

その基本となる考え方は3月13日と14日の記事に載せましたが、もう一度振り返ってみたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

自然は元々、小川や池、雑木林や草っぱらなど、町なかの色々なところにもありました。
小川には在来種の小魚や水草、池にはアシ原やトンボやカエルたちが、雑木林には様々な高さや種類の木々や草花のほか、カナブンやルリタテハなどの昆虫たちが、また草っぱらにはバッタやイトトンボなどが見られたものです。
しかし都市化、市街地化がさらに進んで行くにつれて、こうした身近な自然や生きものたちは姿を消していきました。
そして人々は、町の便利さや人工的なものの方を大切にするようになり、身近にある人工的でないもの、自然やその中に棲む生命ある生きものたちに関心を示さなくなったどころか、嫌うようにさえなっていったのです。

それでは、このようになったからといって町(都市、市街地)に、それまで当たり前に見られていたような自然(身近な自然)は、もう必要ないのでしょうか。
多くの人が町に自然はいらないと答えるでしょう。
実際に、そういう言葉を何度も耳にしていますし、多数あるいは目立つと思われるこうした声が反映されてきたこともあって、町なかから自然がなくなってきているということがうかがえます。
しかし、いるか、いらないかという二者択一にするのはおかしく、そこまでして徹底的に町なかから自然を排除してしまうのは、いかがなものかと考えます。

便利で華やかな町の生活で、私たちがなかなか認識しづらくなってしまった、でも、とても大切なこと。
それは、私たち人間も地球上の生命の一員であり、自然環境なくしては生きられないということです。
水、空気、気候・天候、食物、薬草、物の材料、景色、昔からの慣習、文化など、自然は私たち人間か生存し、生活していく上で、あらゆる基盤となってきました。
それは、これからも変わることはありません。
そのことは町に住む私たちも忘れてはならないことで、こうした自然の営みと私たちとの繋がりとを体験を持って何度でも再認識できる場所としても、身近な自然は私たちの生活圏の中に必要だと考えます。

町(都市、市街地)は便利ですが、それだけでは成り立つことはできません。
近隣の県の山林や田畑から水や農作物が運ばれてくるから、成り立つことができるのです。
そして、自然の中に棲む生きものたちも同じように、こうした自然の恵みを受けて生きているということも一緒に覚えておきたいことです。
もし身近に山林や田畑、その他の身近な自然が残っているとしたら、それが町なかであっても大切にしなければいけないと思います。
町に住む私たちがすっかり忘れてしまい、振り返えろうともしなくなってしまったこと。
それは自然の営みに対する畏敬の念と、自然の恵みへの感謝、そして、そこに生きる限りある生命を持った生きものたちへの優しい眼差しです。
そしてこうした感性や考え、見方を持つことは、お年寄りや子供を大切にしよう、両親を敬おうというのと同じくらいに、人としての基本的なことではないかと考えています。

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次回のblog更新予定

2018年05月16日 18時46分01秒 | 6-2.思ったこと・考えたこと
こちらのblogの次回の更新予定は、今度の金曜日の夜を予定しています。
それまでにできればします。

内容は
「2018年5月6日に行ったおたまじゃくし救出(2)お家ビオトープの勧め」を予定しています。
5月12日(土)の活動報告もしないといけませんし、自宅の庭の植物たちの様子も変化があり、載せなくてはと思っております。

プールのヤゴ救出については、篠原園地での日程は決まっています。
その他のプールについては、プールの管理会社がまだ清掃日の日程を調整中だということで、決まっておりません。

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勉強のし直しが必要だと感じたので・・・

2018年05月05日 12時55分53秒 | 6-2.思ったこと・考えたこと
建設コンサルタント業界で環境アセスメント関連の仕事をしていた時に、川崎市が良い資料を作っていたのを見たことがあるのを思い出しました。
私はこれらの資料を日々読み込みながら、環境影響評価書を作成していたのです。
連休の間の平日、川崎市役所に行って、これらの資料の最新版を入手してきました。

横浜市による「里山ガーデン」やその手法に大変疑問を感じ、自然環境保全について正しい情報を勉強し直さなくてはと思い始めましたが、これらの資料の読み込みから取り掛かっていきたいと思います。
これは、おかしいと思っていることを追求していくよりも、まず先に正しいことの確認の方が優先だと考えたためです。

勉強したことは環境に関する情報発信として、こちらのblog「町なか自然教室 菊名エコクラブ blog ~ 身近な自然に学び、自然の仲間たちを大切にしていこう! ~」に少しずつ掲載していくつもりです。
必要を感じたら現地に取材に行くかもしれません。
みなさんにも参考にしていただけたらと願います。


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失われていく種の多様性

2018年04月29日 12時22分19秒 | 6-2.思ったこと・考えたこと
植物や地面の少ないことが原因で起こるヒート・アイランドという都市や市街地特有の環境問題。
その解決策として期待されるのは、やはり緑化なのですけれども、緑化をしたからといって元の緑が戻ってくるわけではないのです。
そこに生育する様々な木々や草花などの植物から緑が構成されているのに、緑化がそれらと同じ植物で行われるわけではないからです。

元の緑を戻す方法が全くないわけではありません。
植物の移植や、植生移植という土ごと移植する方法、土に種子が埋まっていることを見込んで行なう表土移植、そしてその地域に生育している植物の種子を集めて育て植える方法など、いろいろとやり方はあるものなのです。

小さな野の草花を含めて元々あった緑を守るために、そこまで行なうケースは少ないようです。
今回の写真の場所でも、元々生育していた自然の植物たちは守られませんでした。
しかしながら、それをやっていかないと種の多様性が失われ、私たちの身近から次々と生きものたちが絶滅していくということに留意すべきではないでしょうか。


緑はそこに生育する様々な植物たちから構成されています。
・和紙の原料の一つで、初夏に橙色の綺麗な実を成らせるコウゾ
・秋になると青黒い実を成らせるツル性植物のアオツヅラフジ
・マメ科の植物で、赤い鞘から黒い豆が目玉のように飛び出る様子のかわいいトキリマメ
・長いツルを伸ばし秋に赤い実をつけるサルトリイバラ
・日本の美しい果実という意味の学名が付けられているムラサキシキブ


上の写真と同じ場所の現在。
生育地の土手が崩れる恐れがあるということで、土手に生育していた植物は一掃されました。
緑化ブロック工法(緑化用のブロックに植物を植える緑化工法)によって緑化は行われましたが、使用されたのはサツキでした。

以前の記事に書いたことの繰り返しになりますが、自然は元々、小川や池、雑木林や草っぱらなど、町なかの色々なところにもありました。
これらは元々、一まとまりの里山と呼ばれる環境で、人が自然と共存してきた場所でした。
しかし都市化、市街地化がさらに進んで行くにつれて、こうした身近な自然や生きものたちは姿を消していきました。
町に住む私たちがすっかり忘れてしまい、振り返えろうともしなくなってしまったこと。
それは自然の営みに対する畏敬の念と、自然の恵みへの感謝、そして、そこに生きる限りある生命を持った生きものたちへの優しい眼差しです。

私たち一人一人の心にそうしたものを取りもどしていこうとする意志がなければ、温暖化とか緑の減少、生きものたちの絶滅といったことに改善策を立ててもどうにもならない気がします。



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緑化と花壇づくりの違い

2018年04月28日 08時00分29秒 | 6-2.思ったこと・考えたこと
緑化は緑のないところ、緑の必要なところに緑を定着させるために行ないます。
緑とは植物すなわち木や草花のことで、木や草を植えたり、種子を吹き付けたりするのです。
定着させることによって様々な効果を得ることが目的なので、枯れてしまって定着させられなかったら、その緑化は失敗。適切な緑化ではなかったということになり、経費が無駄になってしまいます。
この場合、補償として植え替えが行われることがあります。

緑化によって得られる様々な効果は、今私の頭に思い浮かぶだけでも次のとおりで、これらがそれぞれ緑化の目的となります。
これらの目的からも、緑すなわち植物が様々な機能を持っているということがわかるでしょう。

・緑の景観の形成
・緑陰の形成、緑陰による夏場の暑さの軽減
・根による土壌流出防止
・窓などの外側に植えることによる目隠し機能
・防音防風防塵(音や風、埃の飛散を和らげる)
・小鳥や昆虫たちを呼び寄せることによる生きものたちの賑わいの形成
・剪定や雑草むしりなどによる植物や土とのふれあい
・緑化に使用される植物の種類によっては花も咲かせますから花も楽しめます

私は花を否定するわけではありません。
個人的にはチューリップも好きですし、育てています。
けれども、植物によって得られる重要な機能の多くは花ではなく、緑の葉を中心に幹や枝、また根など植物全体によって得られるということが重要な着目点となります。
その機能とは主に実用的な環境調節機能です。

一方、花壇は、植え替えが前提となっています。
花壇に使用される花の多くは一年草であり、多年草であっても花を咲かせた翌年は綺麗に花を咲かせてくれないので、季節ごと一年ごとに植え替えが必要となるからです。
花壇の草花は基本使い捨てなのです。
苗や球根の値段はバカになりませんから、花壇を続ける限り多額の経費をかけ続けなければなりません。
花を育てることはガーデニングとして市民権を得ていますが、彩り鮮やかな景観の形成が大きな目的であり、植物の持つ様々な機能を求めるものではありません。

・花による彩り鮮やかな景観の形成
・植え替え作業、雑草むしり、枯葉や花殻の除去作業による植物や土とのふれあい
・根による土壌流出防止(効果としてはあるが、それ自体を目的としてはいない。年に1~2回植え替えをするので、その点では効果は弱い。)
(・セイヨウミツバチの吸蜜による蜂蜜の生産)・・・花壇では花以外の生きものを排除するケースが多いので()付けとしました。

緑化の緑と比べると花壇の効果や目的は限定されていることを考えると、花壇は花の少ない緑化の緑に彩りを添えるくらいの程度で行なうのがベストというのが私の考えです。
工法的な技術で、花で緑化のような効果を引き出すにしても限度がありますし、何より経費がかかります。
また環境問題は現代社会の大きな問題となっており、その改善は重要な課題。向き合う必要があります。
その場合、改善策として期待されるのは花壇というよりも緑化であり、緑の回復であると考えます。

まとめると
⓵目的、効果、機能
⓶経費(対費用効果)
⓷環境問題
の三つを総合的に考えて、広い面積で花壇を何年も継続するのは、いかがなものかと思います。


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本当に守られるべき横浜の自然 横浜エコ・シティ構想とグリーン・ネットワーク

2018年04月25日 10時25分46秒 | 6-2.思ったこと・考えたこと
横浜市は、原産地が外国の園芸草花で花壇を作り、それを自然(自然環境)と位置付けてグリーンネックレスとして繋ぎ、自然環境保全施策としてガーデン・シティ横浜を推進していくとしています。


横浜市は園芸植物を植えた花壇を自然と位置づけ、グリーン・ネックレスと名付けて、ガーデン・シティ横浜を推進しようとしています。

「里山ガーデン」の事例に見るように、本当の意味での野の花たちは花のうちに数えられず、森も花壇づくりのために切り開かれていってしまうのでしょうか。また、自然の植物も園芸植物も区別なく、自然に植物が生えているところに植えられていってしまうのでしょうか。
私は、これから横浜の自然が、木々が、野の花たちがどうなっていってしまうのか、森に棲む小動物のような気持ちになっています。
これからどうなっていくのかが、とても不安で、森の仲間たちと肩を寄せ合いたいような気持ちでいるのです。

園芸植物を植えて作られた花壇は、決して自然ではありません。緑化としても横浜元来の自然環境に調和しているものとは言えません。
横浜市がかつて目指していたはずなのは横浜エコ・シティでした。
その中でグリーン・ネットワーク(緑の回廊)は、郷土の森の樹種や草花によるもので、人ばかりでなく野鳥や昆虫などの通り道にもなるというものでした。
現都筑区や緑区などで見られるこうした事例こそ推進していくべき内容だと考えるのですが、横浜市はどうしてこうした素晴らしい構想を捨ててしまったのでしょう。
大変残念でなりません。


かつて横浜市は横浜エコ・シティ構想を持っていました。
その事例の一つが都筑区で見られる街づくりです。
こちらの方を目指すべきだと私は考えるのです。
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緑とお花とはちがいます

2018年04月24日 16時03分09秒 | 6-2.思ったこと・考えたこと
緑化は緑のないところ、緑の必要なところに緑すなわち植物を定着させるために行なわれます。
植え替えは定着させることができなかった場合に補償として行なわれます。
植物を定着させられない緑化は適切な緑化(良い緑化)とは言えず、緑化の失敗を意味します。

これに対し、花壇づくりは植え替えを前提として行なわれます。
なぜならある花というのは基本的に種類によって季節限定のもの。そして多くが一年草だからです。
そのため、苗は使い捨て。根があるために切り花よりは長く生育してはいますが、緑化の緑と比べたら、その命の短さは切り花のようなものです。
苗や球根の費用はバカにならず、毎年また年中植え替えを行なっていたら、多額の経費がかかるはずです。

緑とお花、緑化と花壇づくりとはちがいます。混同ぜずに明確に分けて考えないといけないと思います。
緑を定着させようというのではなく、使い捨ての花を広い面積に大量に植えること。・・・入場料等を徴収する民間企業のアミューズメントパークなどなら理解はできるのですが、市として多くの税金を投入して行なうことには、疑問を感じずにはいられません。
決して使い捨てでではない緑化を中心に行い、花壇づくりはそれに花を添える程度の必要最小限に抑えてほしいと個人的には考えます。
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「里山ガーデン」と里山

2018年04月23日 16時57分16秒 | 6-2.思ったこと・考えたこと


これは緑区で公開されている「里山ガーデン」内にある谷戸のエリアに設置された説明パネルです。
「里山ガーデン」と名付けられていますが、会場で里山についての説明パネルを見つけることはできませんでした。
しかし、この写真のパネルが里山についての説明に一番近いと思われます。

周りを森に囲まれた浅い谷状の地形を谷戸といいますが、その森や湧き水、田畑などの周辺環境も含めた全体の環境を里山といいます。里山には地域の歴史や文化、豊かな自然としての大きな価値があるのです。

では、なぜその里山の一部を壊してまで、里山ガーデンを整備する必要があったのでしょうか。
谷戸の手入れは必要かもしれませんが、それ以前にこうした全体の環境が残った里山に価値があるとパネルでも説明されているではないですか。

このエリアとこの説明パネルがあったから、まだ救いですが、会場の奥の方の小さなパネルで、どれだけの人が見てくれたでしょうか。
この内容こそ、里山ガーデンの中心に持ってくるべきではなかったかと考えます。

「里山ガーデン」が公開されたのは、昨年の今頃、全国都市緑化フェアでのことでした。
しかし会場は都市的環境ではなく豊かな里山が残された場所です。都市緑化ということなのに都市的環境で行なうのではなく、このような里山の一部を壊してまで行われたことに憤りを感じます。
逆に都市的環境であっても、そこも昔は里山的な環境であったはず。都市緑化の一部に里山の環境を復元したものも取り入れて、つり合いが取れるくらいだと思います。

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里山ガーデンって何か変

2018年04月23日 12時53分06秒 | 6-2.思ったこと・考えたこと
里山ガーデンという名前を目にしたのは、昨年の今頃のことです。
ポスターの内容を見てみると、里山に自生する野の花や樹木たちをガーデン仕立てに見せるというものではなく、里山に園芸植物を大量に持ち込んで広い花壇を作っているというものでした。
私は、これに非常に違和感を感じ、考えると頭がおかしくなりそうなので、気にしないようにしていました。


里山ガーデンという名の緑区にある緑地(?)に行ってきました。


「里山ガーデン」(緑区に所在)とは、里山という豊かな森を切り開き、園芸植物を植えて作られた広い花壇でした。


背景の森林と比べると花壇の緑の量は圧倒的に少ないです。
森は木陰をつくり、林内や林床の小動物や野草たちを保護してくれます。その点、花壇はお花が綺麗なだけです。
緑の量や、その働きにおいては、森林の方が優れています。その森林は年々減少しているので保全される必要性があるはずなのですが・・・。

里山ガーデンが公開されるというのは昨年行なわれた「全国都市緑化フェア(in横浜)」(確かこういう名称だったと思います)でのこと。
ひろくPRされていたので知ってはいました。
開催期間を終え、もう無くなったものと思っていました。
ところが、まだある様子。
さすがに、放っておけない気持ちになりました。
それには理由が二点ほど理由があります。

⓵里山ガーデンフェアは横浜市民税で行なわれている?
もし横浜みどり税(市民税の内訳の一つ)で行なわれているとしたら、私は黙っておけない気持ちがあります。
なぜなら横浜みどり税というのは、もともと市民の森を買い取るために導入されたものだからです。
横浜市の緑被率は年々減少しています。その中にあって、私有地の緑によって、何とか緑被率が確保されている状況なのです。
私有地の緑として大きな役割を担っているのが市民の森です。
駅前の小さな花壇に「この花壇は横浜みどり税の助成を受けて作られています」とのパネルが掲示されているのを見たことがあります。
このような小さな花壇ならまだ仕方ないと思えますが、里山ガーデンのような大規模な花壇を作るのに一体どれだけお金(税金?)を使っているのでしょう。
ほんらいの目的でないことにお金(税金?)を使うというのは納得いきません。早く市民の森を買い取るなり、もっと質の高い緑を確保してほしいと思います。

⓶里山の緑の重要性
これまで各種テレビ番組でも書籍でも、また環境に関わる講演や資料・論文などでも述べられてきているのですが、里山というのは日本人が日本の自然と共存しつつ自給自足的な生活をしてきた環境で、その歴史は大変古く、弥生時代の始まりのころからとも、縄文時代から始まっていたのではないかという話もあります。そして、その循環型のライフスタイルは持続可能であることが大きな特徴です。
持続が不可能であると言われている現代日本社会のライフスタイルの中で、里山の環境や、私たち日本人がその中で暮らしてきたライフスタイルを見直す必要があると言われているのです。
必要なのは里山に花壇を作り出すことでなく、里山の環境を保全し、その大切さを来場者に広めることのはずです。

このような理由で、放っておけない気持ちになり、足を運び、この目で見てきました。
そして、私としては次のような結論に達しました。

★★★里山を切り開いて花壇をつくるのは本末転倒★★★

そこは竹林やスギ植林もありましたが、樹高の高いシラカシが主体となった、成熟した照葉樹林となっていました。
ガーデンの園路を歩くと、園路沿いにはコナラの実がたくさん芽生えていました。
ホウチャクソウやキンランも確認しました。
キンランは神奈川県のレッドデータ(絶滅が危惧される生物リスト)で絶滅危惧Ⅱ類となっています。
里山ガーデンというのは、緑豊かで絶滅危惧種も生育している森を切り開いて作られたものだということが見てわかりました。
このような質の高い緑を壊して、園芸植物を植えるなんて本末転倒だと思います。
もしも「森なんていらない野草なんてなくていい。そんなものつまらないから綺麗なお花畑を作ってほしい。」という市民の多くの声があったとしても、そういう意見を本当に反映させたら、ますます自然を壊し生きものたちを絶滅させていくということを市は認識すべきではないかと思います。
市は、市民が「自然の森林や野草なんてつまらないから失くしてほしい。」「昆虫類や両生類なんて気持ち悪いから絶滅させてくれ。」と言えば、本当にそのとおりにしてしまうのですか?
環境問題のこと、森林や里山の重要性、そこに生育生息する動植物などのことについて楽しくPRしつつ、啓蒙啓発していくべきではないでしょうか。
近隣には四季の森公園や新治市民の森など、優れた公園や市民の森があるというのに一体どうしてしまったというのでしょう。
里山環境を活かして運営している、これらの事例を参考にしない手はなかったと考えますし、こうした場所で里山環境を保全するために懸命に活動している人たちがいらっしゃるというのに、逆の方向性の内容となっていることが非常に残念です。
どんな緑を守るべきなのかをしっかり認識していただきたいですし、跡地こそはそのような場として有効に活かしてほしいです。


舗装された園路沿いの地面には、あちこちにキンランが咲いていました。
キンランは神奈川県で絶滅危惧種となっています。
その他ホウチャクソウも生育していましたし、コナラもたくさん種から芽生えていました。
「里山ガーデン」はこうした植物たちを潰して整備されたようです。緑アップと言っている横浜市ですが、本末転倒なことは間違いなさそうですね。
なんでこんなことをしたのか理解が困難です。仮に「自然の森林は失くせ!」「野草なんか滅んでかまわない!」などと多くの市民からの声があったら、市は本当にそのとおりにしてしまうのでしょうか?


谷戸の環境や生きものについての説明パネルが設置されてはいました。
ただ「里山ガーデン」の入り口の広場やメインの花壇周辺には、このようなパネルはなく、奥の谷戸のエリアまで入っていかないと見ることはできませんでした。


パネル1

パネル2

パネル3
谷戸についてのパネルはあったのですが、里山についての説明パネルはみつけられませんでした。
探せばあったのでしょうか?

最後に・・・
来場時に現地の概観を眺めた後、受け付け本部(?)にて「里山ガーデンということですけども、里山に生えている野草は見られないのですか?」と聞いてみました。
「ここはお花を楽しんでいただく場所となっていますので。」とのことでした。
野草の花は花のうちに含まれていないみたいなのがおかしいと思ったので、重ねて聞くと「キンランが外周路に咲いています。」と教えてくれました。
会場のスタッフさんに責任はないと思うので、強く疑問を投げかけはしませんでした。
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私について

2018年04月14日 10時53分20秒 | 6-2.思ったこと・考えたこと
私は市民活動、ボランティア活動として自然環境保全関連のことをしています。
それで金銭的な利益があるわけでもないし、人気が出るわけでもありません。また、大きな成功を収めているわけでもありません。
ただ、自然環境、特に自分の生まれ育った地域の身近な自然環境を大切に思っていて、自分自身もそれらに囲まれて生活していたいですし、後世に残るようにもしていきたいと思う一心でやっているだけです。
自然環境というのは、地球の命そのもの。
地球は水と緑の生命の星ですし、それは人類にとっても重要な財産であると確信しているからです。

なぜ、そんなことをしているのか。
それは自分を内面から突き動かす、生まれ持ったネイティブ・スピリット(原住民魂)のようなものがあるからです。
インディアンと呼ばれるアメリカ原住民や日本のアイヌなど、世界各地の原住民は、その土地で自然環境と調和しながら長く平和に暮らすための理念や知恵ともいうべきものを持っています。
僕は知恵まで持っていませんが、その精神は持っていると自分自身で感じています。

こうした活動をしている人々の中にも、成功を収めている人はいます。
そうした人をを見ると、自分も成功したいなぁとは思うものです。
とはいえ、そういう面に関して、ひどく不器用なのが自分でも残念に思う時があります。
でも、今日も自分にやれることをやるだけです。
それしかありません。
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昨日、ショックで悲しかったこと

2018年04月11日 07時44分38秒 | 6-2.思ったこと・考えたこと
昨日スーパーに買い物に行き、ショックで悲しく感じられることがありました。

暖かくなってきたから、季節的に植物を育てたり庭のお手入れをする人が多くなってきたからだと思うのですが、じょうろや肥料を販売してるコーナーがありました。
で、その中に殺虫剤や除草剤もあったのです。
野菜を育てるのに葉を食べるい芋虫、毛虫(これらはチョウ・ガ類の幼虫なのですが)を殺すための農薬をかける。・・・それはわかります。
でも害虫の中にカタツムリ、アリ、コオロギまでが取り上げられていたんです。
なんでカタツムリが、アリが、コオロギが害虫なんですか?!

私ははこんな殺虫剤など買い求めようとはしないし、今までホームセンターでしか見たことなかったような気がするので、それほどは気になっていませんでした。
しかしながらスーパーで売られていて、一般の人たちに普及していることを知って、ショックとともに悲しくなったのです。

●カタツムリ・・・陸生の巻貝で有名な童謡もあるくらい、日本人はカタツムリに親しみを感じて来たのではないですか?
森林が少なくなってる市街地では空中湿度が少ないため、食害を出すような大きさまでカタツムリは育たないと思うのですが。

●コオロギ・・・秋に秋らしく虫の音を奏でてくれるコオロギをなんで殺してしまうのですか?コオロギが人にどんな害を与えるっていうのですか?日本人はこうした秋の虫や虫の音に親しみを感じてきたのではないですか?

●ムカデ・・・人家に入って部屋の隅に隠れてて、噛みついたり人に害を与えるような大きなムカデは今はまず見かけません。
小さなムカデや、草食性のおとなしいヤスデを殺そうというのでしょうか。

●ナメクジ・・・確かに気持ちのよい生きものではないかもしれません。でも、家にもいますが、健康な植物に害は出さないはずです。

●ダンゴムシ・ワラジムシ・・・なんで、彼らが害虫!?
落ち葉などを土に帰してくれる、大事な土壌動物だと思うのですが・・・。

人家といえども一歩戸外に出れば、庭なども戸外。大空や大地と繋がっています。
そこには昆虫だって飛んで来るし、小鳥だって飛んでくるはずです。
それがいけないことなんですか?
日本人は元来農耕民族で、里山で自然と共存した持続可能なライフスタイルを持っていたはず。
その中で、いろいろな生きものたちに親しみを感じてきたはずなのですが・・・。

私も昨日は仕事が休みで、庭の手入れをしていました。
ダンゴムシもいたし、ワラジムシもいました。小さなムカデやヤスデもいましたし、トカゲも見かけました。
それを見て我が家の土壌は健全だと思いました。
このように、身近に生きものたちがいることを私は正常な環境と感じ、嬉しくなります。

限りある命を持つ生きものたちを殺しまくることに関し、こうした殺虫剤等を使用する人たちは何も罪悪感を感じないのかなと思うと、とても悲しく、また恐ろしくなります。
温暖化などよりも、こうしたことの方が生きものたちを滅ぼし、生物多様性を失わせる環境問題の原因となっているのではないでしょうか。
こんな日本、日本人になってしまったことを大変残念に思います。
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私のやっていること

2018年03月25日 14時24分57秒 | 6-2.思ったこと・考えたこと
私の物事の見方や価値観は、里山で自然と共存して暮らしてきた昔の日本人のものと同様のものだと思います。
あと5日あまりで3月も終わりますが、3月11日は東日本大震災があり、原発事故のあった日でした。
今年で7年目になります。

この日以来、いろいろな人が、便利ならそれで良いという生活を見直そう、自然に帰ろうと訴え動きました。
この本「日本の七十二候を楽しむ -旧暦のある暮らし-」もその中から生まれた本の一つ。
あとがきには以下のように記されています。


日本の七十二候を楽しむ -旧暦のある暮らし-(文・白井明大、絵・有賀一広、2012年3月東方出版(株)発行)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
地も、海も、私たちのまわりを包む豊かな自然のすべてに、感謝こそすれ、それらを汚していいはずがありません。自然を汚すことは私たちを育んできた故郷と文化を汚し、いのちの源を傷つけるのと同じことです。
・・・・中略・・・・
昔ながらの暮らしに教わることがたくさんあります。古来人が何を大切にしてきたか、自然からどれほど恩恵を受けて生活を営んできたか、何に暮らしのよろこびを覚え、どのように収穫に感謝してきたか…。そうしたことを知り、伝え、受け継いでいきたいという思いが、この本を生み出す直接の動機となりました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私も同じ思いを持っています。
私の活動は、こうした書籍の出版という文化的なものとはまた違って、泥臭く地味なものかもしれません。
しかしながら、町に残された里山の環境が断片的に残ったような町なかの小さな自然を大切にと訴えるとともに、それらとふれあい、この中に書かれてあるのと同様の、その喜びを体験を持って知ってもらい、伝えていくものです。
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ウグイスカグラの木の下で・・・会下谷そして菅野先生との思い出

2018年03月21日 19時31分08秒 | 6-2.思ったこと・考えたこと
 ここ数日載せている写真のウグイスカグラの木が生えているのは、私の住む菊名の隣町、篠原にある会下谷公園です。
 会下谷と書いて「えげやと」と読みます。
 私が会下谷のことを知ったのは1983年の始め頃のこと。高校生活を終わろうとするころでした。会下谷の生きものたちのことを研究されたという菅野徹先生のことが、雑誌で取り上げられていたのです。


会下谷の四季の様子がまとめられた絵本「雑木林の1年 (たくさんのふしぎ傑作集)」福音館書店,1992年10月

 篠原にそんなに色々な生きものたちのいる自然があったなんて! 隣町にこのような先生が住んでいらっしゃったなんて!中学生時代を篠原の学校に通っていた私は、放課後に時々友人たちと遊んでいた雑木林が、その会下谷だと知って驚きました。
 この記事は切り抜いて大事に持ち歩いていました。そんなある日、偶然にも菅野先生と出会う機会がありました。記事に菅野先生の顔写真が載っていたため、そっくりの顔をしている人が同じ電車の中に乗っていたのに気が付いたのです。
 「失礼ですが、菅野先生ではないですか?」と声をおかけしたのが、それからの長いお付き合いの始まりでした。

 菅野先生は2015年の10月にこの世を去られましたが、地元商店街の小さな食堂で一緒に食事をしたり、ご自宅にお邪魔したり、地元に散在するように残る自然を散策したり、色々な思い出があります。
 その一つがこの会下谷での思い出。このウグイスカグラの木の下で、一緒にウグイスカグラの実をつまんで食べた思い出です。


菅野先生最後の著書「町なかの花ごよみ鳥ごよみ」草思社,2002年3月


 先生と知り合った当時、会下谷はマンション開発による消滅の危機にさらされていました。トラスト運動(募金を募って、土地を買い取る運動)も進められていたのですが、マンション開発を回避することができず、残った一部が現在の会下谷公園なのです。
 なお菅野徹先生は、この会下谷の雑木林の研究で、1987年に朝日森林文化賞を受賞されています。


まだ谷戸らしい姿が残っている昔の会下谷と壊されていく様子。
以前、菅野先生からお借りした写真を元に作った資料から引用しました。
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ウグイスカグラを見守っていきたい

2018年03月20日 15時00分06秒 | 6-2.思ったこと・考えたこと

写真:今年はウグイスカグラを今まで以上に見守っていきたい

 ウグイスカグラの花が咲いたり、実が成ったりするのを見るのを私は毎年楽しみにしています。
 なぜなら花がピンク色で星型をしていてとてもかわいいですし、実もとても綺麗でかわいいからです。ウグイスカグラのこうした様子を見る時、春が来たり初夏へと季節が移って来たということなどを感じます。
 そして花も実も終わるころになると、今年も会えて良かった。花や実を見せてくれてありがとう。また来年までさようならといった心境になるのです。
 例年、花の咲く時期と実の成る時期に写真を撮りに行きます。けれども時期を外して、見逃してしまうこともありました。
 そんなこともあるので今年はもっと頻繁に通い、確実にウグイスカグラを見守っていきたいと思います。


写真:2018年3月20日のウグイスカグラ


写真:ウグイスカグラのそばからは積もった落ち葉からウラシマソウが芽を出していまた

 すでに3回通っていますが、ウグイスカグラの周辺の様子も含めて変化が見られます。
 たとえば、1回目2回目は見られなかったのに、3回目にはウラシマソウという野草が積もった落ち葉の中から芽を出していました。ウグイスカグラ自体もわずかに葉が大きくなっています。
 このように花の咲く時期だけ、実の成る時期だけに見に行くというのではなく、もっと頻繁に通うと周辺の他の植物たちの様子も含めてその過程を楽しむことができます。

 まだまだ、最低でも実が見られなくなるころまで通い続けるつもりでいますが、この3回目までの体験をとおして気が付いたことがあります。
 それは年にたった一度だけ目的の花だけを見るために足を運ぶのでなく(それが外国であったり遠方ならば話は別ですが)、その過程や周りの植物たちの様子も楽しみ、それらを大切に思ってこそ、自然を愛でると言えるのではないかということです。かつての日本人もこのように自然とふれあいながら里山で暮らしていたのではないかと思います。
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自然とのふれあいと野外生活

2018年03月19日 09時51分02秒 | 6-2.思ったこと・考えたこと
間に別のお話も挟んできましたので、ここ何日かでお話してきた自然と自然の大切さについて、いったん整理していきたいと思います。

3月13日・・・町に自然(身近な自然)は必要ないか
3月14日・・・里山・農村から都市化・市街地化への過程で
3月16日・・・自然環境とは何か

などの記事でお伝えしてきたように、自然環境とは自然の(野生の)生きものたちの営みが繋がりあった集合体の形成された場所で、町では雑木林、小川、池、草っぱらという形で断片的に残っていますが、元々はそれらは里山と呼ばれる一まとまりの大きな自然環境でした。
このように全体の環境を一つとして捉えると自然環境ということになりますが、生きものを中心に捉えると、それは生息環境・生息場所という言い方ができます。


そして、人に生息環境という言葉を当てはめるのはおかしいかもしれませんが、里山こそが私たち日本人の生息環境と言っても過言ではないのです。
生息環境とは、ある生物が自然の状態で(人に餌や肥料を与えられたりすることなく)生きていける環境を備え、実際に生息している環境・場所のこと。これを最近の言葉でいうとビオトープとなります。
ビオトープとは決して、一から人の手で作った小さな池のことばかりではありません。


日本人は自然の摂理を理解し、それらが自分たちの生きていくのに大切なものだとよくわかっていて、里山の環境を大切にしてきました。
そのため外国人、特に西洋の方々から見て、日本人は自然を愛でる民族だと言われます。
しかしながら、里山の暮らしとその環境の大切さをすっかり忘れてしまった日本人。
自然を愛でる民族だったのは、もう過去の話と言わざるを得ないところまで来てしまっていると思います。


現代のようにどんなに便利な生活になっても、私たち日本人元来の生活のしかたとその環境とを忘れずに、時にはそういった体験をすることが、とても大切に思います。
一つは四季をとおして自然とふれあうこと。日本には四季があり、それに沿って自然環境も生きものたちも様々な様子を見せてくれます。そうした自然や生きものたちと年間をとおしてふれあうのです。


もう一つはキャンプなどの野外生活をしてみることです。ご家族、お友だち、その他の仲間の方たちと。また時には一人で。
持ち出すものは必要最小限。
不便な野外での生活は、町での便利な生活では決して体験することのできない、大切な感覚を取りもどさせてくれるはずです。
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