身近な自然となかよくblog (旧「菊名エコクラブblog」)

自然環境と調和した持続可能な社会を!

都市に住む現代人であっても地球への敬意を大切に。 松田 照之

自然環境とは何か

2018年03月16日 10時52分04秒 | 6-2.思ったこと・考えたこと
そもそも自然環境とは何なのでしょう。
一言で言うとしたら、自然の生きものたちの集合体です。
もう少し詳しく言うと、色々な生きものたちのそれぞれの営みが繋がりあって成り立っている一まとまりの場所で、それはその土地の地理的な成り立ちと深く関わっているものです。

自然の生きものたち、言い換えると野生の生きものたちは、人間がエサや肥料を与えたりと世話をしなくても、他の生きものたちと繋がりを持って自力で生きています。
このことが自然環境においては非常に重要です。
私が自然が大切だというのは、これらの繋がりこそが自然の生産力、循環力、さらには復元力・再生力となっていて、人間もその恩恵を受けているからです。

具体的な自然環境としては前にも挙げたとおりです。
たとえば、小川には流水性の小魚や水生植物の生育・生息環境となっていますし、池は止水性の水生植物やトンボやカエルたち生育・生息環境に、雑木林は様々な樹木や草花の生育環境となっているとともに、カナブンやルリタテハなどの昆虫たちの生息環境となっています。また草っぱらはイネ科植物の生育場所となっているとともにそこがバッタやイトトンボの成虫の生息場所となります。
このように地面や水底が植物の生育する基盤となり、そうしてできた森林や草地には、それぞれ森林性の鳥類や昆虫類、草地性の鳥類や昆虫類が生息したり飛来したりします。

私たちの町に残されていた小川や池、雑木林や草っぱらこそが、断片的ではありますが、それぞれ自然環境なのです。
これらも元々は断片的ではなく繋がっていました。
里山と呼ばれる一まとまりの大きな、人と自然とが共存する場所だったのです。
人に生息環境という言葉を用いるのはおかしいかもしれませんが、この里山こそが私たち日本人元来の生息環境のようなものと言っても決して過言ではないと思います。
山にある森からは木材や燃料や山菜などを採取し、山の裾野や谷の小川沿いには池や田畑を作って食物を得ていました。
このように自給自足の生活をしていた里山こそが、日本人元来の生活圏・生活環境であったことに間違いありません。
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悪者扱いということについて

2018年03月16日 10時33分26秒 | 6-2.思ったこと・考えたこと
「悪者扱い」ということについて一つ大事なことを言い忘れていました。
僕は自分が悪者扱いされていると感じる時がしばしはあります。
ここ最近もそうでした。
しかしながら僕は生きものを嫌いな人を「悪者扱い」しているわけではありません。
好き嫌い。そこまでは人の自由だからです。

虫は気持ち悪い。草の茂みは汚らしい。そのように感じる人がいらっしゃることについては、ちょっと寂しいなとは思いますが、それまでの話です。
しかし、ここから先が問題。近所の公園にカエルが生息していて気持ち悪いから駆除してくれとか、同様に草の茂みが汚らしいから防除してくれなどと管理者等に訴えるところまでしてしまうことが問題だと思うのです。
ここまでしたら、僕もそれは違うんじゃないの?となります。
なぜならそれらは野外に普通に存在するものだからです。
普通にあるものを認められなくなってしまっている社会の風潮に、僕は問題を感じます。


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町(都市・市街地)では悪いこと扱い?

2018年03月15日 10時25分28秒 | 6-2.思ったこと・考えたこと
町(都市・市街地)にも身近な自然を残したり回復させたりして、大切にしていく必要がある。
このように訴えると丸で悪いことをしているかのように扱われることがあります。
冷たい態度を取られたり、突っぱねられたり、みんながこう言っているのになんでお前だけ違うことを言うんだ?・・・という感じを受けます。
町(都市・市街地)では自然を徹底的に排除し、綺麗に整然とした街並みに整備していくことが、正義となっているような状況もあるのでしょう。

しかし、本当にそうだとしたら環境問題なんて提起されないはずなのです。
いったい何が原因で環境問題となっているのか、考えていくと、やはり人間が悪いのです。
このように言うと、人間の存在を否定していることになると言われるのですが、そうではありません。

オゾン層の破壊や地球温暖化の原因として言われていること。それは人間自身が悪いというよりも、私たちの暮らし方が悪いということができます。
生物多種多様性の破壊ということも地球規模の大きな環境問題として取り上げられていますが、それもまた私たち人間自身が悪いというより、水と緑の生命の星、地球の生命たちを滅ぼし、その生息環境を壊しているという暮らし方が、問題となっているのです。

それはどこか遠い国だけで起こっていることではありませんし、国内のどこかの地方だけで起こっていることでもありません。
それは地球上の至るところで起こっていて、私たちの住む町も例外ではありません。
町(都市・市街地)には自然はいらない。
自然の生きものたちなんて気持ち悪いだけだし、そんな生きものたちの生息環境なんて汚らしいだけ。
こうした見方が反映されることによって、元々あった生きものたちの生息環境が破壊され、生きものたちを滅ぼしているということをみんなに気づいてほしいと思います。
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里山・農村から都市化・市街地化への過程で

2018年03月14日 09時55分04秒 | 6-2.思ったこと・考えたこと
今は町(都市、市街地)になっていても、そこも元々は山林だったり農村だったりしたはずです。
なぜなら木を伐り山を切り崩し、田畑を埋め立てたりして、都市化、市街地化が進められてきたからです。

私の住む町、菊名(横浜市港北区)もまた同じです。
今でも一部が残っていますが、昔は菊名池という大きな池(農業用のため池)があり、そこから川(農業用水路)が流れていました。
周辺や下流部の田畑を潤す、この池と川を軸とするようにして菊名は成り立っていました。
川には水車小屋があり、丘には秋になるとリンドウの咲く、のどかな里山、農村だったと聞いています。

都市化、市街地化が何十年にも渡って進められてきて現在に至るように、里山が次第に市街地化されていくのです。
「ここは町だから自然が残っていてはいけない。綺麗にしなくてはいけない。」という言葉を時折耳にしますが、元々里山、農村であったにも関わらず、そこまで徹底して自然を排除しようとすることに疑問を感じます。
反対に、町で自然が少なくなっているから残していく必要があるということも言えます。

繰り返しになりますが、何より自然の営みと私たちとの繋がりとを体験を持って何度でも再認識できる場所としても、身近な自然は私たちの生活圏の中に必要だと考えるのです。
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伝えていくことの大切さ

2018年03月14日 05時20分16秒 | 6-2.思ったこと・考えたこと
町に住む私たちがすっかり忘れてしまい、振り返えろうともしなくなってしまったこと。
それは自然の営みに対する畏敬(驚きと敬い)の念と、自然の恵みへの感謝、そして、そこに生きる限りある生命を持った生きものたちへの優しい眼差しです。
前回の文書の最後、このように綴って締めくくりました。

こうした感性や考え、見方を持つことは、お年寄りや子供を大切にしよう、両親を敬おうというのと同じくらいに、人としての基本的なことではないかと考えています。
私の経験でいうと、昭和40年代から平成の初期にかけては、このような感性、考え、見方を持つ大人たち、お年寄りが確かにいらっしゃいました。
私の両親もまた、そうした年配者の一人でした。
今はもう宅地になってしまいましたが、近所に湧き水(滲出水)の残る場所がありました。春から秋にはスギナやセリなどが緑に茂り、たまり水にはトンボが飛び交いながらキラキラ光る水面に産卵している様子がよく見られました。
母はここが「これからも残っていればいいなぁって思いながら、いつも見てるのよ。」と言っていました。

自然や生命ある自然の生きものたちに対するこうした思いは、本人の経験から生まれるものでもあるでしょうけれど、その一方で、親の代から子供の代へと伝えていくことも重要なのではないかと考えます。
私は㈶法人日本自然保護協会認定の自然観察指導員として、自然観察会などをとおして、こうしたことをお伝えてきましたが、やはりこのような活動は大切だと改めて思うのです。

しかしながら、以前よりも都市化、市街地化に拍車がかかり、以前よりも厳しい状況になってきていることは確かです。
勉強をし直すなどして自分を高めるとともに、これまでのやり方にプラスして、何か新しいやり方、活動を生み出す必要があるのではないかと感じています。
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町に自然(身近な自然)は必要ないか

2018年03月13日 14時50分04秒 | 6-2.思ったこと・考えたこと
自然は元々、小川や池、雑木林や草っぱらなど、町なかの色々なところにもありました。
小川には在来種の小魚や水草、池にはアシ原やトンボやカエルたちが、雑木林には様々な高さや種類の木々や草花のほか、カナブンやルリタテハなどの昆虫たちが、また草っぱらにはバッタやイトトンボなどが見られたものです。
しかし都市化、市街地化がさらに進んで行くにつれて、こうした身近な自然や生きものたちは姿を消していきました。
そして人々は、町の便利さや人工的なものの方を大切にするようになり、身近にある人工的でないもの、自然やその中に棲む生命ある生きものたちに関心を示さなくなったどころか、嫌うようにさえなっていったのです。

それでは、このようになったからといって町(都市、市街地)に、それまで当たり前に見られていたような自然(身近な自然)は、もう必要ないのでしょうか。
多くの人が町に自然はいらないと答えるでしょう。
実際に、そういう言葉を何度も耳にしていますし、多数あるいは目立つと思われるこうした声が反映されてきたこともあって、町なかから自然がなくなってきているということがうかがえます。
しかし、いるか、いらないかという二者択一にするのはおかしく、そこまでして徹底的に町なかから自然を排除してしまうのは、いかがなものかと考えます。

便利で華やかな町の生活で、私たちがなかなか認識しづらくなってしまった、でも、とても大切なこと。
それは、私たち人間も地球上の生命の一員であり、自然環境なくしては生きられないということです。
水、空気、気候・天候、食物、薬草、物の材料、景色、昔からの慣習、文化など、自然は私たち人間か生存し、生活していく上で、あらゆる基盤となってきました。
それは、これからも変わることはありません。
そのことは町に住む私たちも忘れてはならないことで、こうした自然の営みと私たちとの繋がりとを体験を持って何度でも再認識できる場所としても、身近な自然は私たちの生活圏の中に必要だと考えます。

町(都市、市街地)は便利ですが、それだけでは成り立つことはできません。
近隣の県の山林や田畑から水や農作物が運ばれてくるから、成り立つことができるのです。
そして、自然の中に棲む生きものたちも同じように、こうした自然の恵みを受けて生きているということも一緒に覚えておきたいことです。
もし身近に山林や田畑、その他の身近な自然が残っているとしたら、それが町なかであっても大切にしなければいけないと思います。
町に住む私たちがすっかり忘れてしまい、振り返えろうともしなくなってしまったこと。
それは自然の営みに対する畏敬の念と、自然の恵みへの感謝、そして、そこに生きる限りある生命を持った生きものたちへの優しい眼差しです。
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別ブログ「ネイチャー・コンタクト」に新しい記事を掲載しました

2017年08月18日 15時31分39秒 | 6-2.思ったこと・考えたこと
このブログ「町なか自然教室 菊名エコクラブ blog ~ 身近な自然に学び、自然の仲間たちを大切にしていこう! ~」のブックマークのところから飛べます。
タイトルのとおり、「ネイチャー・コンタクト」に新しい記事「雨の中決行 雲の中に見えた箱根の大文字焼き」を掲載しました。

http://blog.goo.ne.jp/hareteru_001
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転職します

2017年07月10日 05時10分07秒 | 6-2.思ったこと・考えたこと
嵐が来ました。
環境が一変し、悲しいことや辛いことがありました。
悲しみは今でも続いています。

けれども嵐は上昇気流も起こしてくれました。
僕はこの気流に乗って、別の世界へと飛び立って行きます。

・・・10年間勤務した会社を辞め、今週から全く別の業界へと転職します。



ここのところ自分自身の人生や家庭の方に力を入れざるを得ませんでした。
これからもその傾向は続くと思います。
多少影響は出るかもしれませんが、活動も今までどおり続けて行きます。


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イヤな夢を見て夜中に目が覚めました・・・

2017年07月10日 02時11分41秒 | 6-2.思ったこと・考えたこと
大勢の人々で賑わう公園で、
誰かが「この植物を植えたいのだけど・・・」と言い出す。
テレビのレポーターのような人が、その人にマイクを向けて話を聞き、
「それは良いことですね。」みたいなことを言う。

僕は手をあげ「そこには元々~~が生えているのに、新に植物を植
えたらなくなってしまいます。~~を守っていきましょう。」と
必死で訴える。

周囲の人々の中には、聞いてくれている人もいらっしゃるようなの
ですが、人混みの雑踏の中に空しく消えていく様子・・・。


似たような夢は時々見るのですが、夜中に目を覚ますのは初めてです。
過去に起こった出来事、今起こっている出来事が、心の奥底で僕を苦
しめているようです。

僕は自分の住む町の自然を愛しています。
共存しようとする意思を持っています。
ですが今までを振り返ると、なかなかうまくいかないように思えて
なりません。

みのまわりの多くの自然が失われ、多くの生きものたちが姿を消して
来ました。
それが無念でならないのです。

自分の家庭のこと、人生のことはとても大切で、ここのところは特に
それらに重点的に取り組んで来ました。
これからまだ先もそうしていく必要があります。

でも、そのために自分のやって来たことをやめてしまうわけにはいき
ませんね。
自分の人生にも、自然を守っていくことに繋がる活動にも、力を尽く
していきたいと思います。


それから、こんな記事を見つけました・・・。
https://lm.facebook.com/l.php?u=http%3A%2F%2Fcatfish777.com%2Fchange-coco%2F&h=ATMgDqf3Mzd6jwvJKv3D3hoYpIAVm0WCGUVFDSCzyxpH9TO-kZIbmMuvlqmm2mVvyydUYzJEgg-0dG3wfPP-QIGA0xAZWvPpDTFfaVxuoGJ4Okb4BEYFACS1Eqk3MK0V&enc=AZP0AajNg_xMS72tEh02Y7IKveOrfIqGHNC6JGFG88pB4IIvpUQR-lToG0YNBKz2AyLp7DdMJavo8B7eX9ZAs0uywLzkiiIJWTONPSGdw-CAHedANT7OnutI8eVEpu2vDaI7GvZcj-nTzTXI5xJpR4Ytm_m8clctA_7p16jgRl9zvg&s=1
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クリスマスツリー

2016年12月25日 07時47分25秒 | 6-2.思ったこと・考えたこと

あるビルに飾られているクリスマスツリー


ふもとには汽車が走っていたり、雪だるまも。


人々もいて、その向こうにはノウサギが。


シカもいて、


キツネもいます。

これらのふもとにある模型と比べると、対比的に巨大なクリスマスツリー。
まるでこのツリーが神で、ツリーに付けられた装飾の一つ一つが、その神から生まれた生命で・・・。
そのように僕の目には映りました。
宗教的にはクリスマスツリーにはちゃんとした意味があるので、そういう意味でのとらえ方ではありませんが。

この世界は人間だけが住んでいるのではありません。
そして人間も自然の一部で、自然がなければ生きていけません。
本当は地球の全ての生命たちを大切にしていかなければならないのです。

この模型のような自然と人とが調和した世界を創りだして、いや取り戻していきたいです。
たとえ少しでも。
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「里山アカデミー」の示す方向性と篠原園地

2016年06月08日 21時16分53秒 | 6-2.思ったこと・考えたこと
都市公園の中にも、昔からの自然を残している公園があります。
しかしながら都市公園だからという理由で、せっかく生えている野草たちが雑草扱いされたり、小鳥たちに運ばれて種子から育った小さな木々たちも、野草たちと共に刈り取られたりしているのです。

ですが篠原園地では、自然の緑すなわち在来の木々や草花を大切にしていこうという方針ができ、高木はもちろん、低木さらに草花にも植物の名札を取り付けることとなりました。


5月21日の活動での作成中の様子。このように篠原台町の子供たちに植物に名前を書いてもらいました。


書き終わった植物の名札。子供たちの個性溢れる手書きの植物の名札が並びます。
6月19日の日曜日、朝10時からの篠原園地愛護会(準備会)の活動で、これを取り付けます。


こうした流れの中で、四季の森公園で始まった「里山アカデミー」は、これからの都市公園のあり方の一つの方向性を指し示していると見て取れます。
それは自然環境を資産とし、それらとふれあって楽しむ場所というあり方です。
しかも、それによって集客が促進されることが求められています。
「里山アカデミー」は、その実現に向けて大きな柱となるはずのものです。

都市化(住宅密集地化)が進むに伴って壊されていく自然。その中で残っている自然もまだあります。
それを都市公園だからという理由でなくしてしまうのではなく、大切にしながらふれあって楽しむ。
このことによってこそ、自然と共存したより良い町づくりに、少しでもつながるのではないでしょうか。
そうなることを期待して楽しみながら、今後も受講や自然ガイドを頑張っていきたいと思います。

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自然の大切さ

2016年03月29日 17時38分41秒 | 6-2.思ったこと・考えたこと
前回、自然観察会の大切さについてお話しました。
これは当然のことではあるのですが、自然は大切なものという大前提に基づいています。

私たちは経済という人間社会でのシステムの中で、お金を稼ぎ、企業の作った商品やサービスを購入するという形で生活しています。

こうした中でばかり過ごしていると、そういう視点でしか物事を見れなくなってきてしまうものです。
しかし、世界は経済だけで成り立っているわけではありません。

たとえば、広い空、その空を流れる雲、雲から降る雨、地球を覆う大気、上空を流れる気流・・・。
誰かがサービスとして用意し、動かしているものですか?
ちがいますね?

経済というのは人間社会の中だけでの話。
朝がきて、夜がくる。太陽が照り、星が耀く。風が吹き、雲が流れ、雨が降る。
雨は大地を潤し、野の草花や木々が芽吹き、花を咲かせ、実らせ、葉を落とす。
緑の森や草原の中で昆虫や小鳥たち、獣たちも育つ。

こうした自然の働き、恵みがあるからこそ、私たちも生きることができる(生命を維持することができる)のだということを忘れてはなりません。
農業や水産業も、この自然の恵みを享受して成り立っています。
一番元となっているのは、こうした自然の恵みで、それは人間が作っているのではなく、自然から享受しているのです。

生き物たちは、それぞれ陽光や小川の流れといった生き物でない自然環境や他の生きものたちと関わりを持たなければ、生きていくことはできません。単独で生きることなどできないのです。
それは私たち人間も同じです。

自然(自然環境)は、生きものたちに命を保ち育つための恵みを与えてくれるもの。
だから大切なのです。
そして生きものたちは、例え一匹の昆虫でも、限りある命を一生懸命に生きている。
だから大切にしたいと感じるものです。

こうした自然の恵みは私たちのすぐ身の回りにもあり、その恵みを受けて、身近にいる自然の生きものたちも生きています。
その様子をその現場で体感することでしか、私たちは、自然環境が私たち人間はもちろん全ての命あるものを生かす働きを持っているということ、そして命あるものを大切しようとする気持ちを本当に理解することはできないでしょう。

だからこそ、その現場である、身近な自然が大切なのです。

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自然観察指導員として僕の役割だと思っていること

2016年03月24日 09時22分07秒 | 6-2.思ったこと・考えたこと
倒木や大きな石が投げ込まれていた、篠原園地のビオトープ池。
21日、月曜日の祝日に倒木などの撤去作業と掲示物の貼り付けを行いました。
でもまだ、ビオトープ広場やビオトープ池に関して、説明が不十分な気がしてなりません。
今まで自然観察会などで説明はしてきていますが、その情報が十分に行き渡っていないために、こんなことをされたのだと思うからです。
そういうわけで、今度の土日曜日辺りに説明書きの掲示物を強化します。

私たちは、自然や自然の生きものたちに無頓着になりすぎています。
都市の中で経済活動を行って生活しているので、それに慣れきってしまい、自然や自然の生きものたちを全く気にかけなくなっているのです。
そんなことしなくても生活していけるし、かえって都市的な環境の整備や経済活動の邪魔になるからです。

そんな中で僕がこのような活動をするのは、「このまま、その方向に突っ走り続けているだけでは、まずいんじゃないの⁉」という強い疑問があるからです。

例え1匹の虫でも命があって、死んだら生き返りません。
自然も壊したら元に戻すのは、まず無理です。

私たちは都市的な環境を整備したり、経済活動を行うに当たって、こうした虫や生きものたちをたくさん殺し、また、多くの自然を壊しているのです。
けれども多くの人たちは、そんなこと気にも留めません。
気に留めないから目の当たりにしても目に入らないし、また、それに対して心を痛めることもなく、良いこととさえ思っていらっしゃる人がどれほど多いか・・・。

それを「そうとは言い切れないのでは?」と一石を投じ、このような自然や生きものたちに対する視点を変えていただけるようなきっかけを提供する。
せめて、少しでも関心のある方に、お伝えして、自然を楽しんでいただきたい。
それが自然観察指導員としての僕の役割だと思っています。


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箱根に行ってきました

2008年09月13日 17時32分05秒 | 6-2.思ったこと・考えたこと
みなさん、ごめんなさい。
6月に4ヶ所の野外プールで「ヤゴを救出しよう!」を行なって以来、
活発に活動はしていませんでした。

この夏、地元のプールで監視員監督(現場責任者)をすることとなり、
1日ほぼ12時間労働が標準。
休日は不定期な上、変更も時々ありといった状況で、疲労が積み重なっていました。
このため、菊名エコクラブの活動はできませんでした。

プールの期間が終わったため、やっと遅いお盆休み(夏休み)がとれ、
先日、箱根まで湯治に行ってきました。
宿泊した旅館は硫黄泉の露天風呂付きで、夜は星空を見ながらお湯につかり、
朝は朝日を浴びながらお湯につかり・・・とすっかり癒されました。

今月下旬から活動を再開する予定で、早速そのための準備にとりかかります。
いつも活動に参加してくださるみなさん、お待たせしてすみません。
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緑、緑と言うけれど・・・(1)

2006年09月06日 13時13分50秒 | 6-2.思ったこと・考えたこと
 独り言だと思って聞いてください。ちょっと私が疑問に思ったことです。
 でも、自然や環境のことを考える参考になれば幸いです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 自然の象徴としてよく「緑」ということばが使われるけど、なんかおかしいと思う。
 緑だったら何でも自然なのだろうか?良好な環境なのだろうか?・・・そうじゃないだろうと思うのだ。
 なぜなら緑にだって、自然の緑と自然じゃない緑があるではないか。
 昔から町に残ってる小さな雑木林の緑と、花屋(園芸店)で買ってきたガーデニングの緑と比べれば、雑木林の緑が自然の緑だということがわかるはずだ。
 花屋で売られている緑は、国内のどこかの地方で育てられたり、外国から輸入されてきたもので、昔から地域に生き続けている草木たちとは違うからだ。

 「緑」という言葉は簡単で扱いやすい。特に「緑とは~~である。」というような定義などがあるわけではない。そのため、人はそれぞれに色々なイメージを思い描く。しかし、そんな「緑」をこのまま緑の保全とか自然環境の保全に適用するのはとても危険だ。
 なぜなら、そのために「緑の保全」の名の下に、元々あった自然の緑が壊されて、自然ではない緑に置き換えられてしまうことがあるからだ。

 もし、本当に「緑」を保全しようというのならば、「緑」がなくなることによってどんな問題が生じるのか、また、どんな「緑」を守るべきなのか。・・・そういうことをきちんと手順を踏んで、検討しなければならないはずだ。
 今、そういった手順を抜かした「緑」の保全があちこちで行われている様子が見てとれる。・・・私はそのことを心配している。
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