三木奎吾の住宅探訪記

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。

【生業の個性が色濃い古民家/日本人のいい家⑰-4】

2021-01-12 05:32:38 | 旅行




長野・伊那の旧三澤家住宅その4回目・最終回です。
上写真3点は切妻の妻側外観と、平入り入口側の「ミセ」とオオエからダイドコロ方向。
オオエという独特の言い方ですが、主たる居室であって、
この多機能な生業が表現された家の中心にある空間。
現代のように労働と居住が分離して人間の生存装置だけになった家ではなく
いかにも暮らしと生業が一体となった空間が古民家。
空間の「濃密感」において現代とは隔絶している。
江戸期はエコロジー的に究極的な社会だったとされますが、
人間が存在する基盤としての生業が非常にコンパクトに機能実現されている。
現代の言葉で言って究極的な「エコハウス」そのものであると思う。

それぞれ生業に対して過不足なく必要な機能を満たし、
またそれぞれの機能・個性に対して完成度高く実現している。
この三澤家の間取り図で言えば、上座敷・座敷とそのエントランスである
式台玄関空間は、旅籠として社会規範の格式条件を満たしている。
真ん中の「ミセ」では、薬業としての製造販売・事務の機能を満たしている。
建物裏手には製薬専門の倉も存在して江戸・東京にまで製品出荷する
独自の薬品商品を加工製造していた。このミセから全国への販売が企図され、
柳行李を担いでの薬行商組織の本社機能を果たしていた。
そしてその利潤から広大な農地を購入取得しての大農家の機能を
間取り図下段の土間通路部分が果たしていた。
多くの小作との「やりとり」が同様に「ミセ」で管理され、
この土間通路を通って奥の収納倉庫に収められていた。
高級なコメブランドについては、市場価格が高まる翌年夏場までしっかり収容され
大阪のコメ市場で価格が高まったら市場投入されたのだという。

そう考えれば、旅籠機能も人の流動とともに得られた「情報」の
有力な伝播媒体として目的的に営まれた側面もあったに違いない。
オオエからダイドコロ・納戸といった空間はそれらを
コントロールし、有機的に機能させるこの家の中核空間。
まことに多様で機能的に民の生き方・暮らしを支えている古民家。

今日、コロナ禍の猛威によって現代人の生き方も変容を迫られている。
情報通信・電波という公共財の価値が飛躍的に高まって
ステイホームでのテレワークが大きな社会変動の主要な要素に変化しつつある。
そう見返してみれば、これらの古民家群には多様な民族の知恵が
ぎっしりと詰まって生き延びてきているのだと感じられる。
空間への先人の想像力に、大いに学びたいと思っています。


English version⬇

[Old folk house with a strong personality of living / Good Japanese house ⑰-4]
A group of local livelihoods that actively functioned the economy during the Edo period. Space imagination full of vitality is a distant thunder in modern times as the wisdom of the people.・ ・ ・

This is the 4th and final episode of the former Misawa family residence in Nagano and Ina.
The above three photos are the appearance of the gable on the gable side, and the direction from Oe to Daidokoro with "Mise" on the flat entrance side.
It's a peculiar way of saying Oe, but it's the main room,
The space in the center of the house where this multifunctional livelihood is expressed.
Not a house where labor and residence are separated and only human survival equipment is used as in modern times
An old folk house is a space where living and living are integrated.
The "denseness" of the space is isolated from the present.
It is said that the Edo period was the ultimate ecological society,
The function of living as a foundation for human existence is realized very compactly.
I think it is the ultimate "eco-house" in modern language.
Each of them fulfills the necessary functions for their livelihood,
In addition, each function and individuality has been realized with a high degree of perfection.
Speaking of the floor plan of the Misawa family, it is the upper tatami room, the tatami room and its entrance.
The entrance space of the ceremony table meets the formal conditions of social norms as a hatago.
The "Mise" in the middle fulfills the functions of manufacturing, sales, and clerical work as a pharmaceutical industry.
There is also a store specializing in pharmaceuticals behind the building, and products are shipped to Edo and Tokyo.
It processed and manufactured its own chemical products. This Mise is planned to be sold nationwide,
It played the role of the head office of a pharmaceutical peddler organization that carried Yanagiyuki Lee.
And the function of a large farmer who purchases and acquires a vast agricultural land from the profit
The soil passage in the lower part of the floor plan was fulfilled.
"Interaction" with many tenants is also managed by "Mise",
It was stored in the storage warehouse in the back through this dirt passage.
High-end rice brands will be well accommodated until the summer of the following year when market prices rise.
When the price rose in the rice market in Osaka, it was put on the market.
If you think so, the Hatago function is also the "information" obtained with the flow of people.
There must have been an aspect that was purposefully operated as a powerful transmission medium.
Spaces from Oe to Daidokoro and storage rooms
The core space of this house to control and function organically.
An old folk house that is truly diverse and functionally supports people's way of life.

Today, the violence of the corona wreck is forcing a change in the way modern people live.
The value of public goods such as information communication and radio waves has increased dramatically.
Teleworking in stay homes is becoming a major component of major social change.
In retrospect, these old folk houses have the wisdom of diverse ethnic groups.
It feels like it's packed tightly and survived.
I want to learn a lot from the imagination of my ancestors in space.

【日本人のいい家⑩/特別編「信長・安土城」-1】

2020-11-24 06:30:48 | 旅行


歴史的住宅を探訪しての「日本人のいい家」シリーズですが、
過去に「安土城天主 信長の館」を探訪していたことが思い起こされて、
GoTo自粛の札幌市民、その写真整理で連休最終日を過ごしておりました・・・。
住宅研究で城とはと思われるでしょうが、城は広義では「住宅」に分類される。
宮殿建築・宗教建築・住宅というように建築史学では分類されるようで、
城郭というのは、宮殿とは言えないし、もちろん宗教建築でもない、
いわば権力者の「住宅」の特殊形態というような分類だそうです。
〜2009年見学した国立歴史民俗博物館企画展示
「日本建築は特異なのか」企画展示図録冊子より。〜
であるならば、住宅と歴史探究では城郭も範疇に入ってくる。
「そうか」と今更ながら気付かされた次第であります。
もちろん庶民住宅ではないので、そういう意味ではあくまで「広義」解釈。
しかし、豪農とか江戸期庄屋階級の住宅も取り上げている。
日本史のなかで信長さんの占める人気度を考えれば、
ということで、安土城をテーマにしてみたいと思います。
かなりの長期「シリーズ」になりそうではありますが(笑)・・・。
天主外観図は建築史家・内藤昌氏の復元模型とのこと。

信長と建築というと、やはり安土城が掉尾ということになるでしょう。
住んでいた時間はほんの2−3年ということですが、
かれの趣味生活や「大切にしていたもの」などが推し量れるのは「空間」。
この安土城は明智光秀の反逆の結果、灰燼に帰してしまって、
ながくナゾとされてきたけれど、近年「安土城郭調査研究所」なども設立されて
相当に研究が進展してきているようです。

住宅なので、まずは基本的な「配置図」ということになりますが、
かれは武将であるので広域図。政戦の要因から琵琶湖のほとりが選ばれた。
大きな地図で見ればかれが実効支配していた領域のほぼ中央に位置し、
政治工作の中心地・京都までは55kmほどで現在でも「中山道」が通っている。
この時期、東は甲斐を抑え家康領地の駿河、北は越前、
西は岡山県西部にまで領域を広げているので、まさに中心に位置する。
いまは陸になっている周辺にまで、琵琶湖の湖上交通が利用できたし、
少し南下すれば街道が通っていたので、交通の利便性は高い。
安土城はかれを常に悩ませてきた甲斐・武田家との長篠合戦で
勝利を手にした翌年、1576年に起工され始めたという。
で、完成入居は3年後の1579年で、さらに3年後1582年に本能寺で死ぬ。

工事には領域から建築業者が大量に徴発されたということ。
建築工事として考えたらその規模は空前絶後だったに違いない。
イケイケドンドンの織田家の威信をかけた大工事。さぞや活況を呈したに違いない。
安土の土木工事は、滋賀県坂本村の「穴太」の石工によって石垣が築かれた。
この工事の実績からか、高級土木工事で穴太衆の名声が高まったとされる。
信長らしい難行土木工事指令を見事にこなしきったのだろうと推定。
一番上の写真は、「修羅」による巨石搬入の様子のジオラマであります。
発注者信長へ「これでどうだ」の工事衆の男意気か(笑)。

とても1回ではムリですね(笑)。
大量のデータ類を整理しながら、じっくりまとめていくことにします。
さわりのさわり程度ですが、本日はここまで。あした以降へ。