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三木奎吾の住宅探訪記

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。

【具に候えば見る心地に候/信長の光秀「報告」評】

2020-12-31 05:41:29 | 日記


きのうの続篇・戦国末期の織田家中内部消息資料解析であります。
細川藤孝当主時の細川家収蔵文書からの明智光秀消息。
戦国期の消息を伝えてくれる資料にはいろいろあるでしょう。
比較的に客観的と思われる「多聞院英俊の日記」など、
今日で言えば一種のメディアとも言えるような情報記録媒体もあった。
現代のメディアでも多分にそのメディアの主観的意見も多いことを考えれば、
この時代の記録文もそれほど遜色なく信頼可能と思える。
後の世の人間にして見れば、現代のウォールストリートジャーナルと人民日報を
なんとか総合吟味して、真実の現代史を解明するのに似ているように思える。
しかしなんといっても、直接的消息を伝えてくれるのは当事者間の手紙のやり取り。
毎日戦争に明け暮れる時代、とくに織田家のように多方面作戦を展開すると
本拠地にいる信長と、各地域の担当武将との情報交換は必須だっただろう。

わたしが大きく惹かれたのが信長から光秀に宛てられた書簡のこの一節。
1574(天正2)年7月29日日付のものであります。
1582(天正10)年6月2日が本能寺の変なのでその8年前の主従関係。
この年当時すでに幕府・義昭将軍は信長に反乱を起こして鎮圧され
京都政局から放逐され幕府直臣100名以上が義昭の鞆下向に同行している。
一方で、細川藤孝ら多くの幕臣が京都に残り信長側に転じた。これらの旧幕臣は、
明智光秀の与力となり幕府の組織を引き継ぐ形で京都支配に携わることとなっていた。
すでに浅井朝倉連合軍は撃破されていたが、武田信玄上洛の動きと併せ
対本願寺一揆との泥沼戦争など戦国騒乱の最佳境段階であったと言える。
信長からの細川藤孝への文書では繰り返し「光秀とよく相談せよ」と書かれていて、
光秀は義昭将軍の空隙を埋める役割を担い、京都政局の管掌と畿内での
織田軍の全権を把握する立ち位置にあったことがわかる。
政治的には光秀はまさに旧幕府と織田家の繋ぎの中核にあったと思える。
信長自身は伊勢長島での一揆との泥沼戦争中であり、光秀の方は
大阪の本願寺勢力との「根切り」戦争の渦中にあった。
この段階で信長の光秀への信認は極点まで高まっていると思える。
「具に(つぶさに)候えば見る心地に候」という光秀の戦況報告への激賞ぶり。
まさに信長にとって「俺の目で見ている」と深く実感できる主従関係。
見方によっては、光秀は信長の家来というよりも旧幕府勢力を束ねて
信長本軍と「同盟関係」にあったと見て取ることも可能ではないか。
織田家中でもっとも早く近江坂本に居城構築を許された事実は象徴的。
きのうも触れたように天下という実質エリアが「畿内地域」というのが当時常識であり
畿内地域はほぼ全域が光秀の担当領域。朝廷対策から幕府対策まで
有識故実がメンドく腹の底の知れない権謀術策がうずまく京都=天下「政局」で
結果として織田家が幕府を滅ぼしてもなお政局の主導権を握り続けたのは
明智光秀の存在なしに成立しなかったのではないか。

こういう役割は織田家の他の重臣、たとえば柴田勝家とか丹羽長秀、
さらに木下藤吉郎などにはまったくムリな相談だったことは疑いない。
畿内情勢を占有的に織田家の立場でハンドリングできる能力者は、
織田家家中で、ただ光秀一人だったのが現実の姿だと思われる。
だから信長は、「具に(つぶさに)候えば見る心地に候」と心境を吐露した。
そう言われた光秀は深く自負するところ大だったに違いない。

この主従関係の時点から8年後、
本能寺の変は勃発する。信長は本能寺を襲った軍が明智光秀と告げられたとき
「是非に及ばず」と語ったという伝承がある。
光秀が襲ってきたのであれば、用意万端、自分の死は絶対免れないと悟ったと。
信長と光秀、この関係には強く興味を惹かれるものがある。・・・






【細川家文書から「麒麟がくる」を推理する】

2020-12-30 05:51:13 | 日記

図は元総理の細川護熙氏の細川家が公開している美術館、
「永青文庫」の季刊誌の最新号から。
ことしは「麒麟がくる」が放送されたので、明智光秀の素性を探る意味で
盟友にして織田政権下での配下・細川藤孝の細川家が所蔵する資料は
いろいろな意味で注目されていた。
そしてそのことは細川護熙氏の自筆原稿からも窺われ、
NHK側に氏から再三「明智光秀を取り上げるべきだ」と働きかけていたとのこと。
永青文庫では満を持して、細川家に伝わる信長からの書状など、
明智光秀の実像に迫る一級資料の公開が行われる「ハズ」だった。
しかしこれもまた、明智光秀の日本史への意趣返し的報復なのか、
世情を混乱させるコロナ禍が社会を覆い、
永青文庫が企画した「新・明智光秀論〜細川と明智 信長を支えた武将たち」展は
当初の4/25−6/21の予定が中止されざるを得なかった。
それがようやく2020年11月21日(土)~2021年1月31日(日) 開催された。
まことに光秀の怨霊の祟りか、と日本史好きとしては慄くばかり・・・。
この季刊誌自体、発行は4/25となっている。
で、興味深くその内容を吟味させていただいております。

わたし的にはこの情報開示を見て、いわゆる畿内地域の当時の政治社会動向と
織田家がそれを制圧していく過程で明智光秀の果たした役割の生々しさを再認識。
畿内地域こそが「天下」だという当時の社会常識からして、
信長の「天下布武」という政治軍事スローガンと、
その実現のために大車輪の活躍をした明智光秀像が垣間見えた。
細川家収蔵資料から浮かび上がってくるのは、信長がいかに光秀を信頼し
その情報把握能力の高さ、カミソリのような切れ味を信認していかかが伝わる。
考えてみれば織田家政治軍事組織中で、複雑極まりない京都と畿内を
制圧できる戦略戦術を企画立案できるような人材は皆無だった。
戦乱により衰微していたとはいえ、曲がりなりにも「政局」の中心であり
朝廷権力と室町幕府政権もそこに存在する中で、
すべての関係性を整理整頓して、織田家の政治目的を完遂させるには、
相当の状況把握力、政治コントロール能力が不可欠だっただろうことは明らか。
新興の政治軍事勢力であった織田家が、それまでの阿波・三好氏とは違って
本当に天下布武を実現できたことの根拠をよく考える必要がある。
織田家はそのような「道案内」「先導的指導者」として光秀を得たことが、
いかに巨大な利益になっていたことかが、マジマジと実感される。

そしてその明智光秀が信長を殺した後、
なぜ細川藤孝が光秀からの勧誘に応じなかったのか、
その決定的書簡文書も今回の展示会では公開されていた。
明智と細川はなぜたもとを分かったのか、細川氏的には一族の帰趨を決する局面で
なぜそういう決断に至ったのかという消息がうかがえる。
・・・それにしても、最初の会期が中断され、
また今次の開催も時間を同じくしてコロナ禍が猖獗している。
本能寺の変と明智光秀の怨霊・・・闇は深いと驚かされる思いであります。

【ニッポンの正月 注連飾りアラカルト】

2020-12-29 16:49:36 | 日記



お正月まであと2日。いよいよ押し迫ってきた年末時期、いかがお過ごしでしょうか?
ことしもコロナウィルス禍の最中ではありましたが、なんとか年中無休でブログ書き。
まぁ、一回書くのを休むとクセになるので継続し続けております。
誰のためと言うよりも、いまや書くこと自体が習慣化。
そのためには健康にも留意しなければならないことから、
自分自身の「長生き」のための大きな手段にもなっている(笑)。
現実的な実利に繋がっているようにも思えております。
書くためには、考える作業が前提になるので頭の体操としても有益。
で、ことしはワケあって複数箇所で年末に大掃除+片付け作業。
片方はようやく一段落が付いて、明日からわが家の方も着手する予定。

写真は日本各地の注連飾りのあれこれが展示されていたもの。
ことしは注連縄についても、いろいろ探究させてもらいました。
いつも見ている北海道神宮の注連縄にふと気付いて、その造形に驚き
しかも古い写真を整理していたら、津軽の岩木山神社の注連縄がクリソツだった。
おいおい、と思い起こして、その北海道神宮の注連縄を作っている
富良野神社社中を訪れたりもしました。
想像したとおり、富良野の周辺には津軽からの移住者が多く、
そのかれらの伝承の注連縄づくりが北海道での最古参級ということで、
晴れて北海道神宮に奉納されるようになったのだという。
米作が民族に根がらみになっている日本人として、
この注連縄、注連飾りというものはルーツを表現するDNA伝承なのでしょう。
いくつものデザインの注連飾りに、その地域固有のアイデンティティが込められている。

現代では、ほぼ一様な注連飾りが大型スーパー、AEONなどに
所狭しと並べられてますが、
上の写真のような個性表現の方が深く染みわたるように思われてなりません。

【古民家でみつけた「蓄熱囲炉裏」工夫】

2020-12-28 06:52:07 | 日記

写真は江戸期に建てられた宿館建築パブリックスペースの囲炉裏。
旅宿者は、広い土間に面したこの囲炉裏で迎えられる。
囲炉裏は周囲が土間に開放された板敷きスペース境界にある。
土間からそのまま板敷きに腰を掛けるようにもできる。
いかにも融通無碍な接遇装置と言えるでしょう。
こういった囲炉裏の切り方はけっこうたくさん見てきたけれど、
こちらで意表を突かれたのは、その基壇として石が積み上げられていること。

ご存知のように石には「蓄熱性」があることが知られている。
自然素材だけで建築が作られていた時代、石の効用についても
先人の知恵は現代人と遜色ないレベルだったと思われるので、
この「設備仕様」はかなりの「温熱環境的工夫」なのではないかと思える。
たぶんこの建築の目的性格から言って、この囲炉裏はほぼ常時焚かれていた。
いつ何時来客があっても「あたたかく迎える」ということが求められた。
その目的に対して先人はこのような建築仕様を用意したと思える。
常時火が熾されていれば、基壇分の石に常時熱供給されて
それが持っている蓄熱性から、石基壇全体から輻射熱が放散された。
それがWELCOME装置としてこの宿館の決定的差別化になったのではないか。
もちろん断熱性や気密性のレベルの低さはやむを得ないけれど、
なぜか日本では普及しなかった「オンドル」「ペチカ」のような知恵の
端緒的な形態をそこに見ることができると思われる。
今日の「高断熱高気密住宅」でも壁面・床・天井などの面からの輻射は
住宅の温熱環境で決定的な意味を持つ。
直接的な囲炉裏火の放射熱に加えて、床面からジワジワとくる輻射熱。
旅人にしてみれば、このような建築仕様は
「あの旅宿はなにより、あたたかいわ」という評判に繋がったのではないか。
加えて言えば蓄熱と放散は除湿にも繋がったはずでそういう便益もあった。

実際に囲炉裏に火が点けられていたわけではないので
実証性は確認できませんでしたが、
これは結構な温熱・除湿効果があったのではないか。
そう見ると板敷きの床面に基壇部分接続部分で熱変形とおぼしき形跡も。
たとえて言えばレンガで作る「ペチカ」にも似た温熱工夫だったと思える。
このような他事例も研究発掘してみたいと考えておりますが、
みなさんのご意見はいかがでしょうか?


English version⬇

[Ingenuity of "heat storage hearth" found in an old folk house]
The photo shows the hearth of an inn building public space built in the Edo period.
Guests are greeted in this hearth facing the large dirt floor.
The hearth is located at the boundary of the boarded space, which is open to the soil.
You can also sit on the board as it is from the dirt floor.
It can be said that it is a very flexible reception device.
I've seen quite a lot of ways to cut the hearth like this,
What surprised me here was that the stones were piled up as the foundation.

As you know, stones are known to have "heat storage".
In the era when architecture was made only from natural materials, the utility of stones
It seems that the wisdom of the ancestors was at a level that should be dismissed, so
It seems that this "equipment specification" is a considerable "thermal environment device".
Perhaps because of the purpose of this building, this hearth was almost always burned.
It was required to "welcome warmly" no matter when and when there were visitors.
It seems that the ancestors prepared such architectural specifications for that purpose.
If the fire is constantly burning, heat will always be supplied to the stones on the base.
Due to its heat storage, radiant heat was dissipated from the entire stone platform.
That may have been the decisive differentiation of this inn as a WELCOME device.
Of course, the low level of heat insulation and airtightness is unavoidable, but
For some reason, wisdom such as "Ondol" and "Petika" that did not spread in Japan
It seems that the introductory form can be seen there.
Even in today's "highly insulated and airtight houses", radiation from surfaces such as walls, floors, and ceilings
It has a decisive meaning in the thermal environment of a house.
In addition to the direct radiant heat of the hearth fire, the radiant heat that comes from the floor surface.
For travelers, such architectural specifications
It may have led to the reputation that "that lodging is warmer than anything else".
In addition, heat storage and dissipation should have led to dehumidification, and there was such a benefit.

Because the hearth was not actually lit
Demonstration could not be confirmed, but
I think this had a good heat and dehumidifying effect.
If you look at it that way, there are signs of thermal deformation at the base connection on the wooden floor.
It seems that it was a thermal device similar to "Petika" made of bricks.
I would like to research and discover other cases like this,
What are your opinions?

【美神のプロポーション/日本人のいい家⑮】

2020-12-27 06:24:45 | 日記

建物というのはあらゆる人に分け隔てなく素性をさらす。
その姿カタチで、本然を伝えてくれるものだと思います。
同時に、その内部には「機能」を実現する空間を持っている。
その両方でわたしたちのために役立つものでしょう。

写真はよく見学に訪れている日本民家園に収められている
「蚕影山祠堂」(コカゲサンシドウ)であります。
わたし的にこのお堂、ひと目見たときからときめかせていただいている(笑)。
不思議な感じで、まるで「ひとめぼれ」そのもの。
祠堂という名付けの通り、蚕の紡ぎ出すふしぎにリスペクトした建築。
ということで建築の「施主」はいのちのありがたさ、そのものであるのかも。
そういった由縁が見る者のなにかを刺激するのかも知れません。
しかし造形する立場からして見て、巧みに丸、三角、四角が絶妙バランス。
そして造形素材は自然に帰る木、萱だけで構成されて
まるでいのちそのままで訴えかけてくる。
この建物は「入れ子」構造で内部にも、本体の小型建築が仕舞い込まれている。

川崎市教育委員会の簡要な説明が公開されています。
〜養蚕の神「蚕影大権現」を祀る宮殿と、それを安置する覆殿より構成される。
もと川崎市麻生区岡上の東光院境内に祀られ、人々の信仰を集めていたが、
養蚕の衰退とともにお堂の維持が困難になったため、岡上の養蚕講中より
昭和44年に川崎市に寄贈された。翌45年、祠堂を日本民家園に移築し、
それを機に覆殿は復原修理された。〜というのが来歴。
〜棟札によると、宮殿は文久3年(1863)に再興されたことが判明し、
造営には岡上村講中のもの38人が助力した。大工(番匠)の名は
字が掠れて読めないが、4字のうち2字目は「海」であり、
岡上の大工鳥海氏の先祖ではないかと推察される。〜
この建築年代は横浜の開港による外国交易の活発化で
日本は「生糸」の生産輸出で盛り上がった時期に相当し、
横浜にいちばん近い川崎市の当該地域では、盛んに生産されたとされる。
その経緯を伝えるように養蚕講中(女人講中)38人が助力して造立された。
蚕を飼って糸を生産するのは、女性たち主体の経済行為。
祀られているのが蚕の精霊とでもいえる金色姫という女神なので、
わたしのひとめぼれには大いにワケがあるのかも知れない(笑)。
ちなみに金色姫というのは、インドの女神で4度の苦難を乗り越えて
蚕となって女神になったとされる養蚕のシンボル。
したがって、そのような来歴、施主たちの思いを踏まえて大工鳥海氏は
命がけで、美神を建築表現したに違いない。

●入れ子の中身の宮殿は、間口2尺、奥行3.28尺、隅木入りの春日造形式の
小規模な社殿で、向拝の正面に軒唐破風を付ける。総欅の素木造り。
両側面の板壁と腰壁に嵌め込まれた立体的な浮き彫り彫刻では
蚕神である金色姫の物語を表わしている。
●覆<サヤ>殿は桁行15尺、梁間9尺で、正面に入母屋造・茅葺の妻をみせた
妻入建物であり、背面を寄棟造にする。簡素な建物のなかにも
意匠を凝らしているのが窺える。建立年代は宮殿とほぼ同時期と推定。
建物の絶妙なプロポーションに強く惹かれて
その素性にも探究を迫って見たけれど、時間を越えて
はるかに魅了されるような小建築だと思い続けている次第です。