三木奎吾の住宅探訪記

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。

【リアルとWEB、そのコミュニケーション乖離】

2020-08-31 06:16:03 | 日記

やむを得ない状況から、WEBを利用しての「会合」が盛んになっている。
社内での連絡とか、お互いをよく知り合っているメンバーでの会合などでは、
それがWEBに移行しても、それほどの「距離感」は感じられない。
しかし、初対面に近い人間同士の「会合」においては、
ずっと「緊張状態」が融けない場合が多い。
結局は多数参加の場合、一方通行的な「授業形式」セミナーが多くなってしまう。

普段からの日常的な「コミュニケーション」で、性格などの詳細を把握していると
その「ベース認識」があるので、多少面接ツールに変更があっても、
なんとか「乗り越えられる」ことが証明されつつある。
お互いにそういった「基礎的コミュニケーション」があれば、
「ツッコミ」も入れやすくて、すぐに「座が馴染む」瞬間を創出することができる。
そういった「呼吸」感が、実は非常に大切な要素を締めているのだとわかる。
いわば「ホンネと建前」みたいなもので、
「ここだけの話だけれど・・・」みたいな部分が、一気に「座を盛り上げる」。
公式的というか建前的な話というのは、本当は「会合」の中核的意味ではなく、
その話題を巡っての、ホンネの部分を知りたいと考えて人は会合に参加する。
人間コミュニケーションの中核的な意味合いはそれではないか。
こういった基礎部分が形成されていない会合では、
「間違えちゃいけない」みたいなプレッシャーで固まってしまう部分が大きい。
即興性は許されず、いわば公式的情報発出の壁に閉じこもることが一般的。
しかし、そういう「WEBセミナー」はたぶんあっという間に意義がなくなる。
貴重な時間をそういうことに費やすのは耐えられないムダと認識されるだろう。
そういう公式的情報であるならば、「検索」すればすぐに入手できる。
人間が集まって情報交換しようという動機は、
そうした情報には「収まりきらない」部分の情報を得たいということが大きい。
「あの人、こんなことを言っているけれどホントはどうなの?」
っていう興味が強くて、そこを知りたいがために人は貴重な定点時間を
占有されることを受容して参加するのだと思う。

こういう情報交換の「あらたな環境」がはじめられてからまだ数ヶ月あまり。
初期段階を越えて、これから本格的にコミュニケーション環境の進化が
始まっていくように思われますね。
さて本日もリアルな会合が予定されています。徐々にではありますが、
ようやく再開されるような情勢になって来た。やっぱりリアルは楽しい(笑)。

【83年前の「テレワークボックス」電話室】

2020-08-30 07:13:08 | 日記


写真は、以前訪問したことのある旧小坂家住宅(きゅうこさかけじゅうたく)。
東京都世田谷区瀬田にある歴史的建造物。「瀬田四丁目広場」として公開されている。
棟札には「昭和12(1937)年10月2日上棟」とされる。
清水建設の前身の「清水組」の施工になる建築とされているけれど、
太平洋戦争の真珠湾奇襲が1941年12.8。同時代にこのような建築があった。
実業家・政治家の小坂順造(1881年ー1960年)の別邸として建てられた。
小坂は長野市の生まれで、信濃銀行取締役、信濃毎日新聞社取締役社長などを
歴任したほか、衆議院議員、貴族院議員を務めている。
そういった人物なので、国家の枢要の機密にも関わったりもしていたのだろうか?

過去取材の住宅写真を整理整頓していて、
なにげに「電話室」という空間の写真を収めていたものを再発見。
建物のなかでの配置としては、オモテと裏の境界的な廊下コーナーに位置し
使用人室にも近く、情報への感度が重視されて即応性の高い角位置。
いかにも電子媒体情報と、住宅の関わりを象徴しているような間取り。
電話という装置と住宅建築の「関係事例」として面白く思えた。
この「電話室」には入ってもみたけれど、
タタミ半畳分の「内法寸法」空間だけれど、やや大ぶりに感じられた。
たぶん1m四方以上くらいの感覚があったように思う。
こういう「空間記憶」というのは、けっこう持続するものだと思う。
そこそこの「充足感」のある広さであって、しかもガラス建具などで、
「そこはかとない」外部との応答性も確保されている。
今日的な住テーマである「テレワークスペース」に似つかわしいと直感。
もちろん完全な個室で収納なども充実していた方が、
「書斎」的な、情報ストックを大量に必要とする職種にはやや手狭かもしれないが、
家事とのアクセスという意味では、かえって新鮮な配置性格を感じる。

内部の棚などは「電話室」としての専用性がうかがわれ、
現代のノートPC、プラスアルファとしての配置収納には不都合も感じられるけれど、
人間居住サイズで考え、また他の「家事動線」との応答性も考え合わせると
過不足のない「ほどよさ」が強く感じられる。
とくにドア建具のすりガラス、上部の「すき間」、椅子背面のすりガラスなど、
採光と空気循環性では相当よく考えられていると思われる。
検討すべきなのは、壁面利用での「収納力強化」があるだろう。
そこに情報整理や人間生理対応のモノ収納が確保されれば、悪くない。
このような「テレワークボックス」という発想は、十分に現代に活かせるのではないか。
これくらいを「最小限機能空間」として基本設定して、
これを夫婦2人、プラスアルファとして住宅設計に「織り込んで」いく考え。
この程度のスペースであれば、現代住宅に応用させていくことは考えやすいし、
なによりも他のスペースと調和させやすいと想像できる。
まさに「立って半畳寝て一畳」に現代「働いて約半畳」空間のプラス。

まことに「温故知新」という思いが強くなっております(笑)。
「テレワークボックス」、どうでしょうか?

【ポスト安倍政権のニッポンへ】

2020-08-29 05:53:10 | 日記

本日はトピズレであります、住宅ネタはお休み。
ものごとにははじまりがあれば、必ず終わりもある。
さしも長かった「安倍政権」というものがついに終了することになった。
個人の健康問題からの結論なので外部からはなにも言えない。

ま、一般的な政治評論の類はヤマほど出てくるのでしょう。
先進国でドイツのメルケル政権に次いで長かった政権を持つ国から
ニッポンはこれから「離脱」していくことになる。
安倍政権支持不支持に関わらず、ニッポン国・国民はこのことに等しく遭遇する。
日本人的心性から考えて、政治的に追い詰められた結果でない政権交代の場合、
どのような「世論動向」になっていくのか、ということに強く興味が湧く。
このような「政権交代」でいちばん近しい事例は佐藤栄作退陣劇だろうか。
しかし、かの時代とは日本の国際的立場はまったく違っている。
一番に考えられるのは、次の為政者が背負うことになる国際関係「遺産」。
すでにして、国内対応だけからの「国際的外交方針」の変更は許されない。
日米基軸の同盟関係についてそれを逆走させるような「反米的」スタンスは
このキビシイ国際状況で選択肢としてありえない。
この局面で日本が現在の国際的位置を変更すれば世界の不信を呼び、
そのこと自体が国際緊張を高めてしまうだろう。責任ある国際的立場位置。
対トランプ政権、対米外交は相手がどう変わるのかによっても
大きく変動が考えられるけれど、その「相方」が定まらない段階で日本自身が
政権選択の事態になるというのは、想像を超えた事態といえるかも。
理性的に考えれば、トランプにしろバイデンにしろ支持・旗幟を鮮明にはできない。
まさか親中の方向に舵を切る選択はあり得ない。
尖閣への中国のあからさまな「攻撃」に唯々諾々とし対中シンパシーを持つような
そういった外交政策を日本がとれば、アメリカにとっては危機的事態。
責任ある地域の安全保障の観点から見て、ありえない。
国際的パワーバランスを壊す選択は日本にとって最悪だろう。
為政者がだれに代わっても日本の現在の国際的スタンスに変動があってはならない。
たぶん、この要素がいちばん継続されるべきポイントになるのではないか。
少なくとも対米・対中の位置取りでは、現政権の政策の継続が不可欠。
もしこれを忘れた政権選択になるとすれば、日本は世界情勢の中で漂流する。
中国はそれを強く希求するだろうが、それは日本の自滅だろう。

内政問題は別に、少なくとも「外交的継続性」は絶対に保守すべき日本の「国益」。
日本の国際的立場、安全保障についての継続性は非常に肝要だと思われます。
ニッポン国全体として、ぜひ賢明な政権選択を期待したい。

【日本の美意識の象徴:松花堂弁当】

2020-08-28 05:16:37 | 日記


久しぶりに「お弁当」をいただいた。
わたしは料理大好き男子なので、彩りとかも含めてすばらしい仕事に目がない。
こういう美感演出に、いつも率直に感動させられてしまいます(笑)。

松花堂弁当というのは、たぶん日本独特の食文化ではないかと思う。
懐石とか、京料理とかの美意識が反映されていった末に
プラスチックパッケージも含めて、ジャパンスタンダードを形成したのでしょう。
世界の食文化の中でも、これだけ「目で楽しめる」ものは少ないのではないか。
プラスチックパッケージのマザーは塗りが施された容器だろうから
伝統が現代技術で変容を見せているということで、
そのことも日本文化の対応力の底力を感じさせる。
プラスチックということでの「邪道」感は生活史的にも止揚されている。
よく見ると「視覚」のタテヨコ構成比率はおおむね5:3。
それが全12個の小枠に分割されて構成されている。
この「みた目」が食べる人の心理に与える影響というものも奥行きがありそう。
で、肝心の料理・食材には、そのバラエティの豊かさで感動させられる。
ごはんも通常のお米とモチ米の2種類が使われているけれど、
炊き込みご飯、お寿司系統、おにぎり系統、デザートのおはぎと手が込んでいる。
おかずも、エビチリソース、サケ。お肉も上段右から2つ目の枡に鶏肉料理。
野菜料理も天ぷらのかぼちゃ、きんぴらゴボウ、ニンジン、レンコン、
サヤエンドウ、青物煮浸し、カブの漬物と多彩な食材そろい踏み。
まったく日本人に生まれて良かった感が満載であります(笑)。
よく30品目を1日に食べることが推奨されますが、
これ1食ですでに越えているのではないだろうか?
自分でこれだけの料理をひとりで作るとなると気が遠くなりますが、
食事のバランスとしては、ここまで出来れば最高。
人間のカラダが欲する日本人の自然な食欲欲求を満たすバラエティは、
まさに山海自然に恵まれたこの列島風土の多様さを感じさせられる。

で、本題は「色・カタチのバランス」であります。
ご飯がメインスターとして、円形のデザインでまとめられているので、
その他の食材群も、形態としてはなんとなく円形を意識している。
そういった楽しさも演出しつつ、なんといっても色合いがいい。
料理を作る時、感覚でいちばん動員されるのは「色彩感覚」だと思う。
もちろん素材が持っている色彩を引き出してその素を活かすのが基本。
食材が本来持っている色合いをベースにして、
それらのハーモニーがどうであるか、
色彩的に多様性を演出できているかどうかが、キモだと思う。
栄養素のバランスも、彩りの「ほどよさ」を考えればそれが最適解と言われる。
食材はそれぞれ、その栄養素を「色彩」で伝えているのだ、とされるのですね。
ニンジンが赤いのはそのような意味合いがあるのであって、
白っぽい、緑っぽいなかに赤い色が入れば、栄養的にもバランスが取れるのだという。
けっして人工のあざとさを感じさせない素の風合いの交響楽。
結果として、こういう松花堂弁当では「全体としての」四季感も表現される。
おいしさを封じ込めた缶入りの「お茶」も味わいながら、
いっとき、三昧の世界を楽しませていただきました。ごちそうさまでした。

【明治の永山邸・「手づくり」の暮らしのいごこち】

2020-08-27 04:47:42 | 日記


すっかり明治初年建築の「永山武四郎」邸がシリーズ化であります(笑)。
現代の住宅と比べてサイズはむしろ小ぶりで
主要居室も4つだけの平屋住宅ですが、その分、使い手の息づかいもみえて
好感を持てる住宅だと思います。
このところ、発表できる住宅以外でも「住宅取材」を多数行っております。
やはりどんな住宅も面白みがあって興味が尽きません。

写真は建物全体の主要居室である座敷に南面した縁側の東側奥にある
トイレに接続した「洗面」であります。
配置的には、正面の開口は完全に南面した「一番いい場所」。


外側から見るとこの開口部は「ガラス建具」ではなく、外部は木で桟組みされて
室内侵入を防いで、外光の取り入れに紙障子建具を使った、
いわゆる一般的な和風住宅の開口部仕様。
室内の用途造作も、洗面としての機能をしっかりと満たしていて
人間サイズの「使い勝手」に対してやさしく対応している様子が伝わる。
これらの内外部の仕上げすべてが大工造作による手づくり。
洗面ボウル部分はサイズにピッタリな金物ボウルが据え付けられている。
現代住宅では、こういう部分はすべて既成建材が用途を果たすので、
イマドキの大工さんにこういう仕上げを頼んだら、大変なことになる。
しかしこういう視覚的な「感触」は非常に「人にやさしい」と感じさせてくれる。
なんというのか、作ってくれた人の「思いやり」のようなものが伝わってくる。
使用する人間はご主人だけでなく、いろいろな体の寸法の家人・客人。
そういった人間サイズについて大工職人の「手作業」ルーティン化がされて
「ほどよく」なっていたことは明白ですが、つい最近のコロナ禍から
ここで石鹸を使って手を洗ってみたいと、強い衝動を覚えてしまった(笑)。
なんか、そういうふとした動作のために費やされた労を思わされる。
現代の仕様と違うのは水道蛇口がないこと。
「あ、そうか、この時代は「水道」がないだろうから、水を甕に入れて
この左の平面に置いていたものだろうか」みたいな想像力が働いてくる。
その水くみ作業は毎日のことであり、家族が暮らしを維持するのに、
家事を分担してみんなが労と楽の両方を共有体験していた。
そのような暮らしようって、作ってくれた人や維持してくれている人への
自然な感謝の気持ちがごく普通に芽生えるのではないだろうか、と。

現代的な利便性、既製品選びという「合理主義」は当然だと思うけれど、
たまにこういった「手づくり感」と出会うと、
その失われた部分に深いリスペクトといたわりを感じさせられた。