三木奎吾の住宅探訪記

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。

【北前交易拠点「能登・上時国家」/日本人のいい家⑪-1】

2020-11-30 05:51:41 | 日記




一昨日「神棚」のワンピース先出し紹介の家であります。
いまは、コロナ禍での移動自粛期間。GoToには罪はないと思うのですが、
県境をまたいでの移動については、出張などはしにくい状況。
とくに開拓型の掘り起こし営業ではWEB、Zoom環境での実現は困難。
まったくビジネス環境は変わったと思わざるを得ない。
なのですが、逆に過去取材の膨大な写真データ類の整理整頓には好都合。
そういうなかから、いろいろな「いい家」が自然に浮かび上がってきます。

源平壇ノ浦合戦での捕虜、平時忠が能登に流人として流され、
その息子・平時国が家を継いで以降、「平氏」姓を秘匿して
セカンドネーム時国を姓として家を興してからの名家。
時国氏としても800年以上で、平氏の出自を考えれば1500-1600年の時間を
優に遡ることができる家格の住宅であります。
ブログ記事でも一度紹介しておりますが、シリーズの1篇として再掲。
写真の家はいまから188年前に竣工した本家・上時国家。
家という概念が、このように表現することで日本語として二重であるとわかる。
家系という概念の家と、建物概念としての家と日本人は使い分けている。
さらに建物概念としての家も、そこに生活手段は自明のこととして
備わっていることが普遍的原則だったと思う。
この時国家も鎌倉幕府初期、平家としての出自から源氏政権の迫害を受け
財力は持っていても、山中に身を隠さざるを得なかった。
3代将軍実朝が死んで源氏嫡流が途絶えたことでようやく「農地を買った」とある。
生産手段の裏付けのあるものが「家」として定住に値するということがわかる。
一所懸命というコトバは日本人に深く染み込んだ土地信仰だけれど、
具体的に農地はしっかりと耕せば、いのちを繋いで行ける生産手段。
そういうベースを確立させた上で、能登の海運上の立地条件を活かして
活発な北前船交易などで経済的繁栄を実現させてきた家系。

一方で住宅デザインとしては、「大納言」という家の家格を表現させることに
その経済力を注ぎ込んだとされている。
いま、国指定重要文化財として扱われるほどに、精緻に作られている。
玄関は2つあって、正式の「式台玄関」と通常の「大戸口」。
右側の式台玄関には唐破風が渡されて、この家の外観デザインのポイント。
左側大戸口は、生産手段としての農家の土間空間、庭に至る通常出入り口。
いかにも「格式建築」の表情を外観でも見せている。
2枚目の写真は「上段の間」の様子。壁上部が湾曲して格天井に連なっている。
枡形のなかには金箔が張られていたという。
書院造り的な様式、鄙にあるとは思えない格式建築。


そして心の字型の池を取り込んだ風格のある庭に向かって
「御縁座敷」という畳敷きの縁側空間が幅1間で広がっている。
その外側に板張りの「縁」があって、庭を鑑賞する仕様。

この建物を設計施工したのは、地元能登の宮大工「名工・安幸」。
竣工までに28年掛けたというのは、いわゆる「大納言家」の故実を
丹念に江戸末期に復元再建する工事意図から、
京都などの名建築を訪ね歩いて、その意匠の探究に精魂を費やしたのではと思う。
しかし、唐破風という平安期にはありえないデザインも取り入れた。
建築の用途としては、北前船交易での交易拠点として
耳目を驚かすような家格を表現する格式建築を見せることで、
交易での価格などの交渉を有利に運ぶ主要な目的があったかも知れない。
平安期からの名家という演出装置は、ものの価値に裏付けを与えた側面があった。
ビジネスマインドから考えれば優位な「営業戦略」とも言える。
「わが家は平家出自、平時忠公を先祖とする家柄でして・・・」という口上は
高田屋嘉兵衛らの江戸期有数のビジネスマンたちを信用させる価値があった。
住むための建築であれば28年も時間を掛けるのは不都合そのもの。
むしろ、「いや時間を掛けてホンモノを追求している」と宣伝したのではないか。
そうであれば時間を掛けることそれ自体も価値がある。
交易の「目利き」力、信用力の裏付けとして影響は大きかったに違いない。
本日はいわば建築のオモテ側のデザイン。他の側面はあす以降に。

【日本GDPは年間30兆円減予測 焦点の経済動向】

2020-11-29 05:34:53 | 日記


先週書き忘れていたけれど、日本の7-9月期のGDP速報が出た。
上の2番目の表は日経の記事からのもの。
事前には18%程度とアナウンスされていたが、21.4%と発表された。
アメリカやEUは4-6月期の「谷」が深かったので、リバウンド幅も大きかった。
日本はそこまでの巨大さではなかったのでそれなり。
で、一番上のグラフは数量物理学者・高橋洋一氏の
安倍前総理が座長を務める直近25日の自民党内経済財政研究会での
「ポストコロナの経済政策を考える」講演資料より。
安倍前総理は病気回復後、経済政策に依然強い関心を持っているようだ。
高橋洋一氏はいまの菅政権でも参与就任の近代経済学系の財務省OB。
長く安倍政権での経済政策にも関わってきた人物。
経済学領域では昔から日本の学会主流は「マルクス経済学」と言われる。
マルクス経済学では現実の経済運営をどうすべきかの判断力がないとされる。
それに対して世界標準の経済財政の現場的にはケインズ・近代系。
財務省主流とは意見を異にするとされ、自民党政権側では重用されている。
財務省の言うことだけを聞いていてはひたすら「健全財政」という均衡論に陥る。
いまはコロナ禍での世界経済の非常事態のただ中。
2019年段階の日本のGDPは540兆円。それに対して、いま直近の数値では
2020年度は対前年で30兆円のマイナスで、通常成長率からの下落率では
40兆円のマイナスになっているとされていた。
第3四半期の上昇率が見た目の大きさで目立つけれどマイナス回復には遠い状況。
いま第3次補正から2021年度予算策定が直近の未来指標になるけれど、
最低30兆円規模の手をうたないと不況から増えるとされる自殺者が
足下の月2000人台から来年半ば過ぎには月6,000人規模に増加すると予測。
自殺と経済状況には相関性が認められると。
要するに、経済が縮小しているので財政出動でそれを下支えしなければ
深刻な不況が襲ってくるというアナウンス。以下nippon.comから要旨。
〜警察庁のまとめで、2020年10月の自殺者数は速報値で2153人となった。
前年同月比で39.9%(614人)の増加。自殺者数は2010年から10年連続で減少。
20年に入ってからも1~6月までは前年同月比マイナスで推移していたが、
7月以降は4カ月連続で増加している。1~10月の累計の自殺者数は1万7219人で
前年同期より160人多い。〜


一方でこのグラフは直近の世界の人の往来状況。
Appleから発表されたデータと言うことでスマホの電波から
ビッグデータとして紡ぎ出されたものだということ。日経記事より要旨。
〜街角からは人影が消えつつある。地図アプリデータ分析した米アップルによると、
公共交通機関の利用は27日までの1週間で、1カ月前と比べて
イタリア、ベルギーで3割強、独仏で16~18%減った。
外出制限はユーロ圏の雇用の75%を支えるサービス業を苦境に追い込みかねない。
・・・厳しい規制を導入すれば経済は落ち込むが、規制をためらえば
感染拡大で経済はさらに大きな打撃を受ける。経済と感染抑止は両立できるのか。
ワクチンや治療薬が見つからないなか欧米当局は最適解を探しあぐねている。〜

こういった環境の中で個別の仕事環境を考えていく必要がある。
当面は第3次補正の規模と内容がどういうものになるのかが焦点。
単純に日本のGDPは前年540兆円からどう着地していくのか、
いま直近の景気投資マインドに大きく影響するので、注目せざるを得ません。
世界も日本も財政経済運営はいまが胸突き八丁というところでしょう。

【江戸期大工「名工・安幸」の工期28年住宅・神棚】

2020-11-28 05:36:31 | 日記

信長の家、安土城にハマっておりましたが、
きょうはまた遡って、源平合戦ころ由来の能登の旧家にタイムスリップ。
平家の配流人です。軍事の清盛とは肌合いの違う文官系の平時忠の家系。
平時忠は壇ノ浦合戦で捕虜となって3種の神器のひとつを守っていたことで
死罪を免れて能登に配流されたのだという。
その後、息子の「時国」が家を継ぎ、鎌倉幕府に配慮して
平氏の名を変えて「時国」というセカンドネームを姓にしたということ。
一族は一時山に隠れ住んでいたけれど頼朝直系の源氏嫡流政権が途絶して
ようやく追究の手が弱まり、周辺の農地を買い求めることができたのだという。
それ以来25代にわたって家が存続し続けてきている。約1000年。
ロッキード事件で田中角栄を裁いた判事は、時国家の末代の方とも。
というようなことですが、敬愛する歴史家・網野善彦さんが
この「時国家」に残された古文書類を整理された内容紹介を読んで、
北陸出張の機会に足を伸ばして写真撮影してきていた。
日本の民俗、家系というものの実質が時間を越えて迫ってくる。
なんといっても源平期からすれば1000年の時間規模。
そういう「家」があり続けていることに率直に感動させられる。
とくに北海道のように150年しか時間積層がない地域からすれば神代の感覚。
残念ですがこの上時国家、公開はこの11月29日で終了するという。・・・

この写真の「神棚」は、いま「上時国家」として残る住宅に
残され、飾られていたものです。
この国指定 重要文化財の住宅は、いまから188年前の江戸期に建てられたもの。
「名工・安幸」と名の残る大工棟梁がなんと28年かけて竣工させた。
おいおい、でありますが、時国家は北前船交易にもからみ、
活発な江戸期の経済活動に参画していたので、
このような破天荒な本物志向で住宅建築、発注したものでしょうか。
それとも、この棟梁さんはあちこち掛け持ちでなかなか工事に集中できずに
だらだらと時間が掛かったのでしょうか?
残った住宅を見ると、さすがに大納言格式といわれるほどの出来映えであり、
大工棟梁としての人生をかけた労作であった、という方が正解に近いでしょう。
多少の工事中抜け期間はあったでしょうが、作り手の気迫は継続したに違いない。
よく神棚は、その家を建てた大工が、最期のワンピースとして
手づくりで作るというように言われます。
この上時国家の入口玄関にはこの神棚と同じ唐破風が装置されていますが、
神棚に唐破風までデザインされているものは見たことがなかった。
先日、富山の宮大工の手仕事の装飾木工品をわが家にいただいたのですが、
こうした手づくり工芸品の佇まいというのは、格別に感じる。
家に装置させてみて、その時間積層がじっくりとつたわってくる。
いわば画竜点睛というようなコトバの感覚に近い。
それが最期に一点加わることで空間にいのちが吹き込まれるみたいな
そういう空気感が漂うものだと実感させられる。
で、写真整理していて、やはりこの神棚にはそういう作り手の気迫が
ジワジワと伝わってくるパワーがあると感じられるのです。
28年間も手塩に掛けて作り上げた住宅。ほぼ職業人生時間に相当する。
ちょっと気の遠くなるような時間をひとつの住宅に対して掛けて
さてどんな心境で最期のワンピースを仕上げたか、想像力を掻き立てる。
現代でこんな家づくりというのはどんな高級住宅でもありえないだろう。
そんな家の様子を写真構成でまとめますが、その最期のワンピース先出し。
あ、注連縄も手づくり感ジワジワ・・・。

【1582年5/15家康安土饗応/日本人のいい家⑩-4】

2020-11-27 05:29:02 | 日記

信長が死ぬのは1582年6月2日早朝だけれど、
それに先立つ5月15-16日には安土で家康を饗応接待している。
戦国期が沸騰点に達してそういう具体も史実に残っている。
メニューをみるとこんなご馳走を食べるのに親しい会話がない方がおかしい。
信長自身が膳を運んで饗応したとあるので歓談風景しか思い浮かばない。
そしてその接待が終了し、家康は京都堺見物に主従たった十数人で向かう。
そのさなか、家康一行の京への帰路早々に本能寺の変は勃発する。
この経緯が無関係に起こったのか、なにか関連性はあったのかナゾ。
永く織田家中軸の強い支援もなく、強勢な対武田の東部戦線をひとり守り続け
ついに武田家滅亡という赫々たる戦果を上げた同盟者を
信長は自らの本拠地と京・堺に招待して歓待したのだとされている。
この間に織田家は畿内を手中にし、さらに中国四国と版図を広げていった。
さらに徳川家の優秀な後継者・信康は信長の娘をめとっていたけれど
対武田の通牒接近を疑われ、信長から賜死の命令を受けている。
同盟を優先してわが子の死を家康は受け入れたとされるけれど、
その心事において納得していたはずがない。
遙かな後年、大坂の陣に向かう際、側近に向かって
「信康が生きていれば、年を取ってこんな苦労をしなかっただろうに」
とつぶやいた記録があるという。子への愛は普通に持っていた。
当然信長も家康の心事に思いをいたせば、平安とは思わなかっただろう。
同盟の維持は家同士の利益に叶っていたとはいえ、摩擦も多かった。
武田殲滅戦後、信長は武田領を巡察し帰路、家康があらたに拝領した
駿河を経て遠江・三河の家康領を通って安土に帰還した。
この拝領は、これまでの「同盟」から臣従への転換だったのかも知れない。
司馬遼太郎さんの記述では信長は「富士を見たことがない」というコトバを
残していて、富士を見物しながら安土に帰還したいと考えたとある。
富士は甲州からも絶景だが、やはり東海道側からの眺めも格別とされた。
当然、家康の新領土・駿河から三河遠江を横断する旅程になる。
同盟者とはいえ、他家領内を通行するというのは破格の信頼行動といえる。
やはり領土をくれてやって「臣従」させたという思いが信長にはあったのかも。
信長として家康への信頼感は政治的に表現されていると言える。
そういうなかで家康の駿河拝領御礼での安土返礼旅行。
信長が二心を疑わず家康領を通行した以上、家康として断れる筋合いはない。
しかし後の明智光秀と同様の行動を取る可能性は家康にもあり得た。
たまたまこの両者の同盟は成功した同盟関係だったから続いたとも言えるが
はたして実質はどうであったか歴史の機微ですね。



さてこの安土での饗応接待がどのようなモノであったか、
歴史ファン的にも非常に興味深い。安土信長の館での展示では
15日の「おちつき膳」と「晩御膳」のメニューが復元展示されている。
まことに山海の珍味趣向をこらした饗応膳であり、豪華そのもの。
写真は「おちつき膳」と名付けられたメニュー復元で、メニュー書きの二の膳。
きのう紹介した安土城の2階の桟敷座敷で会食したのでしょう。
1階台所とは比較的近接しているので、接遇の女性たちが座敷まで膳を運び
信長手ずからそれを家康の前に据えた、といわれる。
酒をついで、幾多の戦場をかいくぐってきた同盟を再確認したか。
「麒麟がくる」ではどうも家康がその麒麟を呼び寄せる人間と擬されている。
この信長と家康の関係が、伏線になるように思えてならない。
おっと、大河ネタバレかなぁ(笑)。・・・
メニューはちょっと文字小さいですが、ご確認ください。
食いしん坊にはたまらない料理大集合であります。う〜むハラ減ってきた。

【安土城主要間取り図/日本人のいい家⑩-3】

2020-11-26 05:36:40 | 日記

さて、いよいよ信長の「住感覚」に迫るために図面で考えてみたい。
安土城の図面について、個人利用として撮影して持っていたのですが、
図面画像はWEBで公開しているサイトも多数。こちらから引用させていただきました。
http://www.bisaikou.com/azuchi_nobunaga/nobunaga3.htm
<元図面は、安土城復元者 名古屋工業大学名誉教授 故 内藤昌氏
設計 株式会社 文化環境計画研究所
製作 京都大学 画像:安土城郭資料館撮影>

地下を含めて7層の建築だけれど、主要な居室配置は1−3階。
一番目は1階の間取り図面。
安土城の入口、玄関は右下の方に図面配置されている。
柱の間隔は1間ごとになっていて明白。で、タタミの枚数も見れば広さは想定できる。
きのうも書いたけれどこの図面は加賀藩のお抱え大工が保存していた。
図面整理は内藤昌先生を中心に行われたということ。
そういう時間経過的な翻訳作業はあったのだろうけれど、構造として
柱配置は基本的に現代と同様の作法になっているので、わかりやすい。
430年近い年月の違いがあるけれど、空間認識が共有できることは
日本在来工法というものの普遍性が強く認識される。すばらしい。
1階なので玄関の3間幅の「縁」に耐震性も考えて柱がしっかり入っている。
7層構造の1階ということで加重負担を考えて柱はきわめて密。
玄関間口が3間というのは、この巨大天主にしては狭いかもと思わされるが、さて。
玄関入ってすぐ右側に台所8畳がある。奥には収納部屋もあるので食品庫はそちらか。
水くみや食品の出入りが日常的だっただろうから、玄関に近い位置は自然。
「勝手口」のようなものがないのは天主として生活よりも象徴建築の性格か。
軍事政治の中心施設であり生活の調理より来客のための応接調理用と推定。
そうすると魚肉野菜類は城下の業者から都度、仕入れていたと思われる。
政治軍事と身近な城下町経済が結びついていただろうことも明瞭。
信長は「楽市楽座」として税負担を軽くして、流通経済を活性化させたといわれる。
城下町形成に相当の関心を持っていたと推測できる。吉法師と呼ばれた少年期、
市井を遊び歩いていたという逸話があるけれど、繁華街が大好きだったとしのばれる。
茶などを通じて堺衆などの経済人との交流も活発だった。
おっと、間取り。座敷と納戸がほぼ同数の配置になっている。
また、数カ所に「門」があるのは、軍事施設としての緊急対応なのか。
平面中央には「宝塔」のスペースのある吹き抜け空間。
収納のスペースが多いのは、活発な軍事装備品の購入備蓄の用途だろうか。
織田家は兵農を分離して、年中戦争に従事する専門職化させた嚆矢とされる。
指揮官たち以外の戦争要員の武具の類に一部はここに備えただろうか。
万が一の「立て籠もり戦」に備える必要もあったかも知れない。

続いて2階の様子であります。
こちらは中央の吹き抜け空間に向かって座敷が「桟敷」のように配置されている。
1階の「用」の間取りに対して、応接や「会議」のための空間と思われる。
吹き抜けに向かって「舞台」があるので、能などの芸能が演じられて
桟敷に迎えられた来客が鑑賞するような間取りになっている。
あす掲載しようかと考えているのですが、徳川家康を1582年5月15日に
信長は「接待」している。普通に考えて場所は新装なった安土城天主だろう。
きっと長年の同盟者に自慢もしたかった。料理メニューも豪華そのものなのだけれど、
たぶんこの舞台で能とか狂言が演じられたことは確実のように思われる。
司馬遼太郎さんの小説では信長自身が家康に「据え膳」したという。
たぶん、能舞台との対角線の最高格式の座敷に家康は着座し、
信長はその対面に着座して会食、観劇していたに違いない。
その座敷に対して1階の「台所」から膳がいそがしく配膳されたのだろうか。
同盟者とはいえ、なにも不満がないわけではないだろうから、
ある緊張状態は保ちつつ、しかし常識的「外交」として円満な会食観劇が想定できる。
「しかし信長殿、あの宝塔はみごとですな」
「おお、あれは五重塔の心柱のようにせよと命じたのじゃが・・・」
・・・というような会話が交わされていたか、いやもっと生々しい話題だったか。
「上様、武田の次は北条ですな。小田原はなかなか難攻不落ですぞ・・・」
「甲州や上州から攻め入る当方よりも、駿河のそちが先鋒役と心得られよ」
みたいな戦争計画、北条殲滅作戦を練っていたのだろうか?

続いて3階。こちらは信長の「私邸」的な空間とされている。
吹き抜け空間に面して「縁」が回っていて、しかも真ん中には「橋」が渡されている。
たくさんの座敷が個室的に区分けされている。
この時代、子どもは「乳母」がついてそれぞれ別居して育てられるので、
この私邸は完全に信長個人の用途で使われていたのだろう。
信長には子どもが十数人いたとされ手つきの女性も多く、ここは「大奥」だったのかも。
ただ、天主なので一応公的スペース、そういった場所は天主ではなく別建築と思う。
どのような用途であったか、いろいろ想像力が湧いてくるところ。
あ、2階平面には右下隅角部に「厠」とみなせる1坪スペースがある。
1階については外で用を足していたのかと思える。

通常のReplanとしての住宅取材と同様の間取りと暮らし方の関係性、
信長の息づかいもぐんと身近になって、想像力が膨らんでくる。