三木奎吾の住宅探訪記

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。

【縁側➡出窓・ペアガラス 大正15年北海道住宅進化】

2020-08-10 06:24:50 | 日記




8日に北海道中央部、上富良野開拓記念館を撮影見学してきました。
北海道の建築好事家Tさんからの情報。
タイトルのような「寒冷地住宅開口部」の歴史上、面白い位置にある建築。
なんですがまず、この建築に至る背景歴史のやや長めの「前振り」から。

この記念館は大正15年の建築で当時は上富良野は明治30年の
三重県伊勢地方からの集団移住全8戸の入植から、約30年ほどの経過時点。
当時は当地で産する豆類が東京大阪の「市場」で高値で取引されたとされ、
出荷産地である上富良野は、「豆景気」の好景気に沸いていたとされる。
〜大正3年にヨーロッパのバルカン半島から勃発した第一次世界大戦は、
一般には「豆景気」と呼ばれる好況を生じさせた。
3年8月の開戦当初はヨーロッパはもちろん東アジアの海上輸送も不安になり、
事態の進展にたいする見通しもたたなかったから、輸出は停滞し物価は低落し
一時は恐慌状態を呈したが、やがて戦局の推移が見通されるようになると、
4年から回復に転じ、5年にかけて好況が訪れた。
農産物を中心とする海外輸出は急激に増進し、生産物価格は高騰し、
3年以降農産物が豊作だったこともあって農村は異常な好景気につつまれた。
これは西欧諸国間の豆類の輸出入が中絶或いは激減したことが要因。
「連合国」側の一員であった日本からの輸出が激増したためである。
豆景気は上富良野の経済もうるおした。〜<上富良野百年史より要旨引用>
なにやら現代の「新型コロナ禍」の状況にも相通じるような世相。
たぶんこうした「世界規模の経済変動」は今次事態でも想定できるのでしょうし、
まったく違ったカタチで「現に」いま進行してもいるのでしょう。

で、そうした状況から地域の有力者であり三重県からの士族移住であった、
吉田氏の当主・貞次郎氏は上富良野村長でこの住宅を建築。
豆景気を受けて、予算を掛け当時の最先端の住宅を建てたものでしょう。
当時のひとびとの「建築技術の興味のありか」が偲ばれる。
わたしの最近の「住宅技術探索」で「出窓」が特徴的に寒冷地北海道で進化した
そういう痕跡に徐々に気づき始めております。
先述の好事家Tさんともこの想定の線で探索方向を共有している。
明治10年代建築の現存する「永山武四郎」邸ですでに「出窓」はあるのですが、
開拓から60年経過の、94年前の寒冷地木造住宅の先端的作りよう。
ここでは、基本は「和風」生活様式が継続しつつも、
洋室が玄関脇にしつらえられて「和洋折衷」が意図されている。

上の写真は3間続きの和室側から「開口部」を見た様子。
和風建築の基本の「縁側」に向かって障子で結界され「書院」も造作。
で、上の特徴的な外観写真と開口部仕様になっている。
外観写真では手前側南面に対して縁側的な大開口が確認できる。
左端には雨戸収納の「戸袋」がありますが、木製板戸ではなく
代わりに「ほぼガラス製」の引き戸が「縁側」全面4間半に配されている。
その右手端には洋室開口部として「出窓」が連続している。
ほぼ全部がガラスで覆われているような外見になっている。
上から2番目3番目写真が、出窓と縁側部の「2重ガラス」化状況。
和風建築in北海道の「進化」として、日本建築独特の「半外部・縁側」が
寒冷気候にはムリと悟られ、しかし「縁側造作技術」による現地対応を図った。
和室から縁側大開口を見渡す日本的生活様式を寒冷地で実現させるため
木製板戸に代わってガラス建具が導入され、さらに外部との間に
ガラス建具が内側にも造作され「2重ガラス」空間が実現している。
さらに建築技術的にはその延長線上で「出窓」も2重ガラス仕様の端緒として、
あるいは見方を変えれば「縁側」のミニチュア化として採用された。

すぐに気付くのが以下のポイント。
外部建具の「ガラス引き戸」は雨戸の代わりで「戸袋」も用意されているけれど、
積雪時期に果たして満足に機能したかどうか。
そして季節の良い時期にも、戸袋に「仕舞われる」ことはあったのかどうか?
戸袋内の確認は不可能でしたが、移動収納させる以上金属レールはないでしょう。
そして内側のガラス引き戸も全開放ということは出来なかったハズ。
そのように考えるとこの「開口部」は2重ガラスの「窓」だったと思える。
建築思想的にそれが純化しているのが隣の「出窓」、という解釈。
ガラス建具は北海道開拓期で苦闘する家屋でもいち早く導入されている。
木と紙と土の建築という日本建築古来の素材では寒冷地住宅の素材たり得ず
高価なガラスが、いわば先端的建材として北海道民に受容されたことを示している。
要するにガラス窓は「家をあたたかくする」ために、高価であっても
合理的選択として多くの北海道民に選別支持されたのだと言われる。
輸入最初期の当時のガラス建材最大出荷先が北海道だったことは事実。
北海道で住宅建築技術進化が開口部で急速に展開した、
そういう痕跡をこの建物は表現している。そう思われてならない。
みなさんのご意見をお聞かせ下さい。よろしくお願いします。


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