三木奎吾の住宅探訪記

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。

【土蔵開口部に見る職人魂/日本人のいい家⑫-4】

2020-12-11 05:45:42 | 日記



福島県福島市・上飯坂という地域に建っている堀切邸記事なんと4日目。
いろいろとオモシロいテーマが次々と湧いてくる古民家であります。
蔵がいくつもある広大な敷地の地方有力者の住宅。
この福島市地域に根付いて440年以上で最古の建築・米蔵は築245年。
江戸時代中期「土蔵建築」の開口部のクローズアップ篇。

開口部の仕様というのが、建築でもっともデリケートに進化する部分。
建築としての主役は「土」であります。
真壁構造で柱梁がオモテに表れているけれど、その柱間には下地の木舞が
組み上げられて、そこに重厚な「土塗り壁」が作られている。
こういった土壁は、戦国期くらいから建築に使われるようになったとされます。
相次ぐ戦乱火災で木材が枯渇して材料不足をまねき、
それまで木材で壁を作っていたのが難しくなって土壁が増えたとされる。
木材不足はハンパでなくて、京都北山では対策として大規模植林も行われ、
それが「北山杉」のブランドの発祥起源になったとされている。
京都での戦乱復興として住宅再建が活発化していったとき、
同時に大工職人が圧倒的に不足していたことも、
よりDIY的に施工可能な「土塗り壁」が隆盛したきっかけとも言われる。
当時の社会では建築木材は不足していたけれど、人手はたくさんあった。
戦乱で焼け出された大量の労働力が市中にあふれていたので、
大工に比べて深い技術を必要としない建築職・土塗り左官職人は豊富だった。
このように建てられた都市住宅・京町家は薄い土塗り壁だったけれど、
その土塗り壁技術のマザーになったのが、土倉建築。
なんといっても、火災に強く中の重要物資を保護するのに適していた。
ということから、米蔵などに工法採用されるケースが多かったのでしょう。


この写真をご覧いただければ、その壁厚の重厚さは一目瞭然。
見た感じ、30cmオーバーは確実そうであります。
通常であれば4寸角構造材でも12cmが上限の壁厚に対して倍以上。
入口の観音開きの扉も同程度の厚みがあると見える。
木骨構造で重厚に土塗り仕上げが施されている。
防犯性からも重みのあるもので、開閉には相当の重量感。
扉は開閉の利便性を考えてか、壁面に対して「外付け」仕様になっている。
なので、窓の外観写真でも錠前は扉の外側でかけるようになっている。
蝶番も手前の扉は上下2箇所ですが、奥の扉は3箇所になっている。
土倉なので、保存性能として「断熱性」が高いものになっている。
土は自然に存在し入手しやすい素材として比類のない性能を建物にもたらす。
日本の蒸暑の夏にも、寒冷な冬にもなかの食品をしっかり保存し続けられる。
一方、下の写真は窓の様子であります。
入口の内側には、扉を開けた状態での出入りに引き戸の建具がありますが、
壁に開けられた「窓」は現代住宅と類似した開口部仕様。
入口と同時解放して基本的には「通気」として機能させたモノでしょう。
外側では土塗りの観音開き扉があり内側の開口部仕様は写真の通りです。
木舞の木組みの代わりに金属とおぼしき格子組が目に付く。
これが構造の柱に緊結されていると思われます。
そして、外付けの扉と同じように、ウチ側に張り出す形で窓建具が付いている。
その引き戸建具には繊維製の面材が張られている。
外側の土塗り扉の開閉・内側の室内建具の開閉という4段階の通気調整機能。
とくに繊維面材による微妙な温湿度コントロールなど、工夫が細かい。
こういう建具面材はあんまりお目に掛かったことがない。

入口扉もそうだけれど、これらの造作は地元建具職人が腕をふるったのでしょう。
福島地域で土蔵建築が年に何棟も建てられたとは思われないし、
このような建具仕事は、一世一代ではないまでもかなり稀有な技術仕事。
みごとに納まり、245年の風雪にビクともしなかった職人仕事が
凜とした風合いとしてつたわってくるモノがある。
こういう仕事ぶりを見ているのは、なかなか気持ちが良いですね。


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