昨日から取り上げている長野県伊那の旧三澤家住宅その2です。
日本の庶民の住宅・民家では、その「生業」が住宅のありようを
強く規定していて人々の必死な生き様が立ち上ってくる。
民家を見つめることはそのまま「民俗」の姿を具体的に捉えることに繋がる。
わたしは住宅雑誌を創刊して以来、ずっとそういう住宅の「息づかい」に触れてきた。
住宅建築とは結局、その建て主の生き方暮らし方の表現されたもの。
「いい家」とは、その人の暮らし方と似合い支えていると感じられる家なのだと思う。
そんなことから、全国各地に残る民家探訪はライフワークとも思える次第。
そういういわば「生業探究」みたいなテーマでは
この三澤家住宅はきわめて特徴的だと思います。
基本は地域を代表する大農家であり、小作200家を擁している。
しかし、その基本の生業に加えて薬製造販売業と旅籠まで営んでいる。
旅籠ではかなりの有力者も宿泊する「格式」も持っていた。
それらの複層的な生業が、それぞれの「玄関」として3つの機能に分かれている。
写真一番上では、高級旅宿として立派な「門構え」、なかには式台玄関も備えている。
旅客のなかの賓客については、この玄関奥の上座敷や座敷に通して接遇していた。
儒教的格式的な「身分格差」の建築的表現が端的に表される。
庭も造作されて「結構」がしつらえられている。
下の写真は「上座敷き」の様子。簡易ですが床の間・書院もある。
その左手は、薬の製造販売に関わる商家の「ミセ」構え。
三澤家では材料を木曽の薬種商から仕入れ、敷地内にあった「薬倉」で
薬研などを使って調合していたとされる。こちらでは製造すると同時に
小売もされていたし、さらに柳行李を背負って行商して歩く富山の薬売りの
商法まで行っていたということ。販売範囲は広く長野・名古屋・東京・栃木と広範囲。
東京銀座の有名薬店には「養血圓」というブランド薬も卸していた。
さらに下の写真では、所有土地6万坪という大農家の経済を仕切る入口が開口する。
きのう書いたように小作たちの生産米が牛車でそのまま通り土間を通って
奥の倉に収納されていたということ。
そういった収納管理のために入口付近の「ミセ」で管理事務が執り行われた。
日本の庶民がいかに「士農工商」などという身分制に縛られていなかったか、
経済活動に邁進していたかが、まざまざと活写されている。
アジアでもっとも発達した「封建制度」のなかで、
各地域が経済発展し、活発な生産流通が旺盛に繰り広げられていた。
武家権力によって「平和」が実現したことで可能になったことですが、
同時にこの発展ぶりが武家政権の限界をさらけ出していったことも事実。
まことに旺盛な江戸期の民の経済実態が見えてくる。・・・