三木奎吾の住宅探訪記

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。

【テレワークが生み出す人間と仕事の新環境】

2020-05-26 05:16:52 | 日記
昨日安倍首相の会見で日本の「非常事態宣言」は解除されました。
世界からもとくにトランプ政権から積極的評価の声が発出された。
「あらたな常識」という行動変容を土台にして、
しっかりと経済を回して、人々の生活基盤を再構築していくというアナウンスは
待望久しいモノであり、率直に前向きにとらえていきたいと思います。
とくに自由主義、法の支配という価値感を共有する世界にとって、
日本の非常事態宣言解除は、その最先行国であり、
今後の世界の政治経済動向にも大きな影響を与えて行くと思います。
国益という観点からは、まことに重要な節目を越えることができた。
きびしい環境の中でも社会の自由を確保して、出口を見据えられた。
北海道札幌は結果として、きびしい状況の中で迎えたワケですが、
今後もこの課題からまっすぐに向き合って、地域として克服する努力を傾けたい。

さて今回の実質的社会封鎖、行動抑制のなかで
とくに「テレワーク」が「行動変容」の最たるものとして受け入れられた。
わたしどもでも国の非常事態宣言以降、社員スタッフの働き方として
積極的に導入し、おおむね8割や5割といった「分散率」をメドにして
「密」を避ける仕事スタイルとして緊急避難的に導入した次第。
これまでも中小零細企業ながら拠点2箇所間ではテレビ会議などを行っていた。
さらにちょうどWEBビジネスがより深化してきて、
顧客企業先ともテレビ打合せなどが常態化もしていたベースがあった。
しかしこれまでは顧客先企業に「これこれこうで・・・」と説明することに
いわば「ムダな努力」を強いられてきた側面があった。
今回のこの全国民的体験から、緊急避難的に企業顧客先にもこのスタイルが
受容されたことで、一気に「環境整備」が進んだと思う。
当社の場合、複数スタッフによるソフト創造業とでもいえる業態なので
企業顧客先との打合せも一気に加速してきていると実感している。
Zoomというプラットフォームが一気にいわば「常識化」したことで、
まったくストレスなくコミュニケーションを計ることが出来るようになった。
そのような新常識の拡散に今回の事態は、大きな契機を与えた。
たぶん今後、ビジネスの世界ではこちらが常識化して、
そのベースの中でいろいろな進化発展が起こっていくことは間違いない。

このような「行動変容」からどんな業態変換が巻き起こっていくか、
非常に興味深いとワクワクしてきております。
さらに進化していくなかで「恐竜に変わる哺乳動物が出現」するか?

【コロナ後の世界 香港情勢沸騰が「起点」か】

2020-05-25 05:47:36 | 日記
いまの時代、寝起きにスマホをなにげなく操作するのが一般的。
昔だったら朝刊を取りに行く、あるいはテレビのスイッチをつける、だったのが、
いまは世界の動きがTwitterから情報拡散されてくる時代。
けさ一番で開いた世界情勢が上の写真だった。<スクショ元は以下の動画です>
https://twitter.com/i/status/1264436610415816705
香港で大規模な反政府集会が活発化してきている。Google翻訳では以下。
<まず、警備員が今天国(たぶん地名)に参加する巨大な人々に驚かされ、他の警官は
さらに多くの警戒力を導入しませんでした。>という内容。

言うまでもなく香港情勢はコロナ以前、世界の最沸騰点だった。
香港民主派は、中国共産党による人民の自由圧殺と最前線で戦い続けてきた。
中国共産党は世界に情報の窓を開ける香港市民の反抗に手を焼き続けていた。
陰に陽に弾圧の策動が繰り返されてきたけれど、
世界の耳目が集中し、天安門のような強権的弾圧までは踏み切れない状況が続いた。
そしてコロナ禍を奇貨として習近平政権は、弾圧政策を強化してきていた。
最近のコロナ禍での中国の世界への異常な対応ぶりは、
この香港情勢、武漢などでの強権支配体制への中国内部の情勢緊迫化が
大きくかれらにプレッシャーを加え、強権的方法に出るしかないことの自白だと思う。
対外的な異常発信から国内政治的なかなりの危機進行が透けて見えてくる。
そのような情勢の中、全人代が開かれるタイミングで香港情勢が緊迫化。
デモ隊への強権的弾圧の様子が世界に情報拡散されてきている。
「香港は中国の内政、いかなる干渉も受けない」…王毅外相が統制強化を正当化
というような読売新聞報道があった。
一方で、アメリカ側からは反トランプ政権のバイデン民主党大統領候補からも
香港民主派への弾圧正当化法案強行への非難声明が発せられたりもしている。
党派を超えて、アメリカ世論は香港民主派を支持してきている。
<たぶんバイデンは直近の黒人差別発言の沈静化も狙っているだろうけれど・・・>
この全人代開催という局面で、コロナ後の世界情勢が一気に露わになった。
アメリカは一枚岩になりつつある情勢。
中国共産党がヘタをうてば、世界情勢は急速に緊迫化することは免れない。

さて、そういう世界情勢の中、きょう非常事態宣言「解除」が注目される。
残念ながら北海道とくに札幌の猖獗の勢いが収まりきらない。むしろ悪化。
ことここに至れば、事態がまったくコントロールできていない、
地域統治の問題さえも指摘されかねないと危惧が高まってくる・・・。
しかし座して経済窒息を待ち続けるのも、この3ヶ月で限界を突破している。
ただでさえ全国有数の脆弱性である北海道地域経済・・・。
まさに内憂外患の局面ですが、政府対応決定を待ちたいと思います。

【飛沫感染防止透明バリアに注目病(笑)】

2020-05-24 05:39:50 | 日記
先日、DIYした「飛沫感染防止透明バリア」ですが、
みなさん創意と工夫でさまざまに取り組まれているようで、
いろんな場所で目にする「立てさせ方」にいつも目が行ってしょうがない。
こういう「人に頼むほどでもないし、お金をかける気はしない」みたいなことって、
けっこう多いものですが、日本人は比較的これまでは関心が少なかったように思う。
っていうか、普通の人はとにかく仕事に忙しく追われて、
そういった身の回りのことに興味を持つ「時間もなかった」。
欧米人はこういう手仕事であるとか、ちょっとしたインテリアの課題解決に
お金を使わないで取り組むDIY文化が旺盛だと思う。

しかし今回の2ヶ月(北海道は3ヶ月超)近い自粛的「非常事態宣言」下では、
外出、移動の抑制が社会的にやむを得なかったので、
そういう意味では身の回りのことに自分で取り組む気分が盛り上がったと思う。
テレビは本来こういう身の回りで役立つ知恵みたいな情報を流すべきだ。
(今回の件でテレビはヒステリー拡散装置だと広く一般に理解が深まった・・・。)
ソーシャルディスタンスの必要性は全世界で叫ばれている。
しかしどうしても「対面」して会話が必要な局面はある。
そういうときに、透明のアクリルなり塩ビボードなどを
透明衝立として自立させるやり方について、情報交換機会を提供すべきだ。
わたしの工夫はコスト最小限でスタッフ数18人の環境で
総額22,000円、一人あたり1000円ちょっとで相互距離確保できたけれど、
みんなはいったいどうやっているのか、強い興味を持っている。
写真はある公的機関の対人接触窓口で見た自立方法。
脚部に使っているのはツーバイフォーの木材のカット品であります。
断面の状況を見ると、プロっぽいので公的機関と言うこともあり
ひょっとしてプロの大工さんに「外注」されたものかも知れません。
わたしの場合、この脚部木材に溝を回転ノコギリでDIYショップで入れてもらった。
それが一番コスパのいい作戦と思われた次第。
こちらの写真では自立させるのに別途金物で「挟み込んで」自立させている。
こういうやり方の場合、安定性も高くまことに立派だけれど、
金物も結構高いはずだし、それと塩ビであればまだしも、
アクリルだと、金物を介してビスの貫通作業がなんか難しそう。
たぶん貫通させるには電動機械を使っているに相違ないし、
その場合、台座など全体の固定が必須になる。
それが左右2つの脚部なので、大型の「作業台」が不可欠だったのでは・・・
などなどと、自分の体験と比較検討して類推するクセが付いてしまった(笑)。
よく自粛ポリス、みたいなことが話題になりますが、
わたしの場合には主要な興味分野はこちらです。いわばDIY鑑定団。
今回の自粛期間、みなさんはどういう興味発展があったでしょうか?

【アフターコロナ 現代の「死生観」を考える】

2020-05-23 05:12:02 | 日記
現代社会は西欧発祥の思想が全地球的に普及した価値感世界。
その基本に「人権意識」というものがあり、個の命を相当の優先性で考える。
由来的にはキリスト教的な人道・倫理観があるのだと思う。
個人が直に神と向き合っているというような価値感。
いわゆる「個人主義」が基底に根深く存在する思想体系。
西欧発祥のこの「個人主義」思想は政治社会システムにも貫徹され
「いのちは地球よりも重い」というような人権主義が共有されている。
今回の新型コロナウィルスは未知で危険な病原菌という恐怖感が大きいが、
しかしそれ以上にこれまで人類社会が経験した疫病とは一段違う様相を呈した。
重篤化すれば高齢者を中心に肺炎を発症して死に至る。
しかし、大多数にとっては軽症、あるいは無症状で軽快するとされる。
このような発現をみせる疫病に対しては、過去の人類社会史常識で考えれば、
「軽度」な危機認識で対処された可能性が高い。
しかしそうならなかったのは、情報の世界一体化、共有の局限までの進展と
その基底に、個人の命を絶対価値とする「死生観」が大きく与っていると思う。

ちょうど北海道札幌ではいまの「非常事態」最終局面で「老健施設」クラスターが
猛威をふるって、連日感染者増加の勢いが留まることがなかった。
経済発展による食生活栄養向上と併せ、日本の優れた医療は、
高齢者の延命を相当に可能にし、世界最先端の「高齢化社会」が実現した。
自らの体動作で通常起居生活も難しく、さらに多く認知症も発症の高齢者が
大人数でこうした「老健施設」で共同生活していた。
「生き甲斐」方針として「密」な相互接触環境で運営されていたともされる。
その通常起居をサポートするべき健常な介護要員にも感染が広がってしまい、
新型コロナ陽性者の医療施設への入院収容も困難を極め
結果としてクラスターが異常拡大して入所の大多数感染という悲劇が起こった。
たしかに通常起居、食事入浴すべてに介護が必要な新型コロナ陽性者を
患者として受け入れる側の病院には、たいへんな困難が伴うのは自明。
2次感染防止対策と要介護という重責のなか、他の患者への影響なども考えれば
結果、この老健施設に留まらせ続けざるを得なかったことも了解できる。

欧米や初期の中国武漢では、命を救える可能性のある救命器具装着について
その数に限りがあって、医者が「いのちの選別」を強いられたとされる。
救命装置が1台で、複数の必要性の高い患者がいるとき、
だれにその装置をつけるのか、究極の選択をしなければならず、
現実にそれは行われて、いま現在に至っているのだとされる。よそ事ではない。
現代医学は、神のみが果たしうる権能を迫られたともいえる。
幸いにしてそこまでの「医療崩壊」に至る前に日本は留まったとされるけれど、
今後の第3波第4波で、そうならない保証はないと思う。
そのようなとき、われわれ社会はどんな死生観を持つべきなのか、
わたし的には、このことが深くこころに刺さり続けている。

現代世界の普遍的な個人主義・人権論のままで本当にいいのか、
いやむしろ、死なない人間はいないという当然の公理に目覚め、より積極的に
個人の生きざま、尊厳に十分に配慮した死生観哲学を再構築すべきではないか。
わたしも遠からず、このような年齢に到達すると考えたとき、
自分自身の問題として、尊厳を持って自分の命との対話を持ちたい。
個人主義の「個の生命絶対」という呪縛は永久に実現不能であることは自明。
死ぬ寸前まで社会の中で働き続け、ある日忽然と姿を消し去る、
そんな「ピンピンコロリ」な自分自身の死生観について思索を始めている。
世界的な大量死の進行の中で、そういうあらたな死生観の必要性を、
みんなで考えるべきではないのだろうか?