三木奎吾の住宅探訪記

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。

【江戸期に「不毛の地」だった森林緑地】

2020-06-25 08:16:18 | 日記

関東を走っていると、突然そこそこの緑地を発見することができる。
北海道のような広大な大自然の中では意識することはないけれど、
一円住宅やビル群が密集している地域では、こういった「自然林」のありがたさが
突然響き渡る「自然の呼び声」として印象に残る。
そういうオドロキを感じさせられた森のひとつが神奈川県相模原市の
「こもれびの森」、正式には相模原中央緑地です。
たまたま用事があって周辺を訪れたのですが、迷宮のような緑地に
思わず吸引されてしまった。別に北海道にはたっくさんあるっしょ、ですが(笑)。

周辺は住宅地や大学病院などがあるのですが、
市街地の中に忽然と出現する様は、なんともミステリーゾーン。
で、思わず周辺の駐車場を探して、クルマから降りて歩いてみた次第。
わたしは札幌にいるときには円山自然林を毎朝散歩しているので
どうもこういうのに出会うと、身体的に反応してしまう。
歩いてみると、クヌギとかコナラなどの広葉樹主体の森。
まことに多様な樹種があって、北海道札幌の森とはまったく違う森林。
また足下には多様な微生物や虫たちの存在感が感じられる。
下草の類も多種多様密生という感じで、「武蔵野」という一般地名は、
こういう樹林のことを言っているのだろうかと、頓悟させられる。
しかし、あまりにも迷宮的で駐車場に戻ってくることは難しそうだったので
あんまり深入りせずに、じっと深呼吸しておりました。

WEBで調べてみると、この森は「水利」が悪くて、江戸期までは
農耕作地に適さない「ヤマ」、周辺農民の「入会地」として
炭焼きに利用されるような場所だったようなのです。
たぶん農地に適していないのだろうなという直感的判断をしていたのですが
正解だった。
司馬遼太郎さんの著作では、日本はなんとか台とか、丘陵地などの
なんとかが丘というような土地は無価値としてきたとされる。
幕末明治になって、西洋人が横浜や神戸などに住むようになって
かれらが好んで「高台」に住む様子を見て奇異の念を抱いていたとされる。
日本人がそれまで好んでいた「土地」とは、なんとかが谷とか、なんとか田という
水利の良い河川周辺地域、多くは低地だったとされている。
米作農業、田んぼが最高の定住地域である生活文化からは
高台とか、水利の良くない土地などは、どんなに人口集積地でも
歴史的にそれほど利用されなかったと言うわけです。
そういうことの結果、現代に至るまでこのような森林緑地が保全されてきた。
そういえば先日も千葉県印西市に行ってきたのですが、
あちらもつい最近都市計画が始められた地域だそうですが、
地形的に丘陵地で、江戸期までは「狩り場」として軍事演習林だった。
水利がなく井戸を掘ってもなかなか水が出なかったようなのですね。

そういった緑地が現代に至るまで保全されてきて
今度はエコロジー循環環境のような場所として子どもたちの環境教育に
大いに利用されてきているということです。
人間社会と自然環境の有為転変、輪廻転生を思うとオモシロい。

【コロナ以後、住宅「間取り」は変化するか?】

2020-06-24 05:33:12 | 日記

先日のブログで住宅デザインの「国風化」はいつ始まるか、みたいなことを
書いたら、知人の方からお知らせをいただいた。
そもそも北海道はそういう問題意識とはどうも少し違うというご意見。以下要旨。
〜「国風化」というと、「外国文化」対「日本文化」のように見えたりもしますが、
実は「西洋の輸入品の仕組を理解し改良・改造しようとする気風が生まれる」ことかと。
とすれば、北海道の住宅史では大正時代なのかも。
改良・改造に関する気風として、北海道特有の注目点は、対外国だけでなく
日本の風習まで「実用本位、合理化、簡素化」を追求するところ。
良く知られている会員制の結婚式。ヴァーチャル門松の門松カードに抵抗がなく、
葬式ではヴァーチャル供花の供花紙を使い市役所で購入できてしまう。
アフターコロナの「新しい生活様式」にもかぶって見えます。〜というご意見。
まぁ北海道では住宅デザイン変化よりも「暮らし方」の「課題の先進性」が強く
もっとも合理的に対応する結果、変化が劇的に早いのではということ。
写真は伝統的な和風の「続き間」ですが、
こういった「格式化」された間取りの日本住宅は厳しい気候風土で
ただちに存立意義を喪失し居間中心・暖房全室一体化の「間取り」に変わった。
高断熱高気密という当然の「いごこち進化」が達成されて、
全館暖房に進化し、間取りは伝統を無造作に捨てたのですね。
むしろ日本人は合理精神の方が伝統よりもはるかに優越しているのではないか。
その合理主義がもっとも激烈に発揮されるのが北海道なのかも知れません。

そういう流れの中で、今回の新型コロナ禍。
圧倒的な感染経路としては「接触と飛沫」ということから、
抱擁握手という欧米的コミュニケーションよりも非接触型お辞儀文化的な
「ソーシャルディスタンス」が行動変容と推奨されている。
それ自体はむしろ世界が日本化に舵を切ってきているともみえる。
「空気感染」はエアロゾル感染が危惧されるけれど、
それは3密条件が揃う空間でスプレッダーが存在する環境で
限定的に発生するとされている。
対応としては「換気」の必要性が指摘されているけれど、
だからといって、家の中に感染者家族がいて共生することを前提にしての
「間取りでの個室化」「換気経路での下手側への隔離」などは、
今後の住宅建築で「一般化」するかどうか、きわめて疑わしい。
まずは「寒さと暑さ」からの防御性能が基本。人間の健康環境では最優先。
コロナ禍の「接触と飛沫」への対応に相当するとも思える。
隈研吾さんの先日のNHKでの発信を意図的に曲解して、
気密を敵視しスカスカの「通風性重視」型住宅のほうがいいなどと
吹聴する傾向には、大いに注意すべきだと思います。
新型コロナ対応で、「接触と飛沫」防止を最優先して、
3密空間では換気に十分に配慮すべきことをアナロジーすれば、
今後の住宅づくりに当たって、高断熱「高気密」は絶対の条件だと思います。
その上で計画的に換気していくことが基本。
人間の健康を守る基本に忠実に、合理的に対応すべきでしょう。

その上で、一方ではテレワークへの住宅側での対応は不可欠でしょう。
テレワーク可能な「個室」は必要性が高まるけれど、
さりとて完全な個室というよりは防音性の高い「書斎」的空間が求められる。
増え続けている夫婦共働きの場合、それが複数必要になる。
さらにその全体間取りの中での空間配置も要検討要素。
メリハリの効いた空間作りが求められるので、
全体の空間規模は大きくなることが予測できると思われる。
さらにそういうテレワーク空間を取り込んだ上で、住宅全体のデザインも
再度、大きく変容していくことが考えられますね。
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【ポケットWifi残データ量とにらめっこ出張ライフ】

2020-06-23 09:46:15 | 日記


さてようやく「他都府県との往来フリー化」で出張に出ております。
出張というと欠かせないのがポケットWifiであります。
とくに長期の出張になってくると、面談先でパソコンをWEB接続したり
常時、データ通信やり取りがあるし、なんといっても自社車両移動では
最近はGoogleMapでのスマホカーナビ利用が多用される。
とにかく地図道路情報更新がすごいので設置型のカーナビよりわたし的にはいい。
ただし、先般首都高の「山手トンネル」ではあっけなく討ち死に(笑)。
だいたいあの異常な地下トンネルの長さではムリもないとは思うのですが、
とくに首都高のような場所では、ほぼカーナビに頼り切りになるので
思わず絶望させられた(泣)。
でもまぁ、弱点はそれくらいなので長大トンネルでは気をつけて、
おおむねの降り口ポイントを把握しておくように考えをシフトチェンジ。
ということで、それほどの問題はないと思っていたのですが、
・・・その分、データ通信量はうなぎ上りにならざるを得ない。

最近auさんと契約内容の見直しを行いまして
各端末ごとのデータ通信量をさまざまに設定変更することにしました。
で、わたしの契約しているiPhoneとポケットWifiの契約で悩んでいます。
新型コロナでの行動抑制前後では非常に出張が増えている。
行動抑制期間では低レベル量だったのが、
現在は激しく悩ましい状況になっております。
とくにiPhoneはまったく契約量が不足して、月の20日前にほぼ残量ゼロ。
来月には大幅増量するのですが、一方のポケットWifiがもっと考えどころ。
事実上10GBか20GBかの2択で悩んでおります。
まぁ「最適化」というのはさっさと諦めて、余裕を持ったギガ数で
なにも考えずに使いまくるしかないのかも知れませんが、
人生の年数が長くなってくると、最適化のフレーズに惹かれるようになる(笑)。
なにごとも過ぎたるは及ばざるがごとし、とか「足るを知る」みたいな
人生警句が日々アタマのなかにコダマするようになるのですね。
でも警句を残した先人さんはデータ通信という概念もなかった時代を生きたわけで
われわれはまぁあまり深く考えても仕方ないかと思う一方、
しかしこういう時代に中高年齢者としてまだ現役でビジネス参加しているのだから
少しでも若い人の役に立つには、年の功痕跡も残してみたいと思う。

先日テスト的にギガ数を計ったら、1日で通常使いで1.44GB使った。
で、その使いようを慎重に考え適度にオフにしたりしてみたけれど
どういう状況で減り方が激しいのかわからない、まだ検証プロセス中。
auの方にも悩み相談に付き合ってもらっていますが、
こういう行動データ検証って、各人で違いすぎるので一般化しにくい。
ただ、いろいろ検証してきてわかったことは各キャリア会社の
「契約内容」って、相当なビッグデータに基づいた料金体系であることはわかった。
まるで最初期の「生命保険」考案者たちのように精緻な「計算」をしている。
なので、ギリギリのところでは非常に悩ましい料金体系になっている。
・・・まぁビジネスですから当たり前ですね(笑)。
ユーザーとしては少なくとも賢く対応したいと頭を捻り続けております。
ムダな抵抗かなぁ?

【神社建築 唐破風と注連縄のぎょろ目デザイン】

2020-06-22 08:10:02 | 日記



わたしは札幌にいるときにはなるべく北海道神宮に朝、参詣します。
イマドキですと「コロナ退散」が願に加わるのですが、
ふつうは一般的な願い、家内安全・商売繁盛と大盛りのお願いで
たぶん全国の神さまから、欲の深いヤツとブラック認定されているかも(笑)。
ということなのですが、あちこち出没して近隣の神社を参詣する。
上の写真は東京町田、というかJR駅町田は神奈川県相模原市近接で
この「鹿島神社」はそこに鎮座している神さま。境目の神さま。
名前が鹿島神宮と同様で、分霊されている「末社」と思われます。
こちらは建築の創建は江戸期とされているようです。
日本の建築は「屋根」の組み合わせが基本のデザイン要素。
入母屋・平入りでそこに唐破風が顔を覗かせている。
で、その下に注連縄が「好一対」という感じで「ぎょろ目」を構成している。
私のこのブログではちょうど1年ちょっと前に山形市中心部の日枝神社で
その下の写真のような外観デザインと遭遇したことを書いた。
どうも建築デザインとしての「狙い」は同じようだと知れる。
きっと社寺建築の基本パターンとして定式化されているのでしょう。

唐破風という名前から、てっきり中国からの伝来の工法かと思いきや
これはまったくのジャパンデザインとされています。
そうすると注連縄という文化もジャパンオリジナルと言ってもいいので
この視覚的デザイン取り合わせは、世界にまったく存在しない
建築デザインとしての日本独特と言えるのでしょう。
わたしは寡聞にして他の国でこういう建築デザインを見たことはありません。
注連縄は建築的装置とは言い切れないけれど、
基盤的な農耕文化を表象する結界的精神装置だとはいえる。
さらに日本の伝統的家屋では屋根材として萱が使われてきたことを
考え合わせてみると、同じ繊維系素材である注連縄が
かくも存在感強くあり得るのは、民族的自己主張アイコンとも思える。
逆に考えると、注連縄の形状を逆転させているのが唐破風とも見られる。
普通の建築常識からすれば、重たい屋根瓦をわざわざ重力に逆らって
形状化させる道理は考えにくいのではないか。
注連縄との対称的デザインマインドが先に存在して唐破風が産まれたのかも。
こういった取り合わせが神社建築で合一していることはオモシロい。
日本が自らを「和の国」と呼んできたことも類推が働く。

きのう、ある建築デザインの方と話し合っていて、
明治以来の「欧風化」基調が、いったいどの時点で
「国風化」が開始していくのか、という論議になって
どうもわたし的には、この神社建築群のことが無性に思い出された次第。

【市場パラドクス:工業化へ自然素材の反抗】

2020-06-21 05:36:41 | 日記


既報の「自然木の《防火》外壁」について、そこそこの反響のようです。
北総研でもかなり広く反響があると聞いております。
即座に出てきた反応は「ツーバイフォー工法、枠組み工法でも可能に!」の声。
北海道ではこの工法の普及率が非常に高いので大いに期待したいところですが、
大臣認定審査には申請者側の費用負担問題があり、
その費用負担と予想される「市場規模」を重ね合わせると
「とりあえず在来工法での認定取得を」となる趨勢は避けられない。
北総研側としても、「大いに声を上げて市場を動かして欲しい」というスタンス。
基本的には付加断熱の標準的施工で使用する断熱材メーカー団体が
申請主体となって「壁構造工法認定」を取得する流れなので、
市場側、作り手側からの「声の大きさ」が成否を左右することになる。

で、この「自然木の《防火》外壁」というパラドックスとも思える「革新」、
わたしとしては、市場マーケティングの問題としても非常に興味深い。
というのは、人間の衣食住の社会発展は基本は自然由来ではあるけれど、
「進歩発展」は規格大量生産、工業化が「すじみち」であるという
近代・現代「文明」社会への刷り込みにも似た思いがある。
そういう「常識」からは、むしろ逆回転のような自然回帰型の「進歩」と思える。
防火性能という独自性を手にし、それこそワンイッシューで市場をほぼ独占した
「サイディング外壁材」という化学素材に対して、ルネッサンス的に
自然素材・木材が素手で反抗的に立ち向かう、という感覚を持ってしまう。
市場独占がサイディングに可能だったその「根拠」は
はたして本当に「防火性能」だけであったのか、
その「市場の結論」を再度、検証せねばならないというようにも思える。
ユーザーは合理的選択として自然木からサイディングに移行したのではないのか?
そうではなく建築の法的規制に素直に従っただけで、
「好み・嗜好」で選択したものではないと言えるのか、試される局面。
サイディングはその進化の過程で激烈な「競争」を経てきており、
その結果としての「市場独占」でユーザー「愛着」のようなモノがあるかどうか、
いわば住宅の「外壁市場」そのものが問い直されるのではないかと
そういった強い興味が湧き上がってきております。

建材価格的には、いまサイディングと自然木とで大きな価格差はないとされる。
建築側が「価格的に、どちらでも選べますよ」とユーザーに問いかけたとき、
はたしてユーザーはどのように選択するのか、興味深い。
「メンテナンスは?」
「長期的安定性は?」
「デザイン性は?」など、さまざまなマーケティング的条件変化が起こる。
どうも市場・マーケティング的な変化の方が深く根源的なのかも。
いま感じている「作り手側」の反応では「木外壁」に非常に肯定的だけれど、
はたしてどのように推移するのでしょうか?