唯物論者

唯物論の再構築

自己欺瞞な理屈

2011-01-08 00:53:54 | 思想断片

 合理化反対と言えば、非合理主義者に扱い、治安維持法反対と言えば、秩序破壊者に扱うという古典的デマゴギーがある。このようなくだらない理屈は、言葉の目指すものの真偽を別にして、発言者の品格を落とすものである。それを承知でデマゴギーを発信するのは、逆に目的の真性に対し周囲の疑念を抱かせ、さらには目的を崩壊させる可能性まである。目的は手段を浄化しないのである。

 この種の妄言に、複数真理論がある。簡単に言えば真理は複数存在するという内容である。ここで言う真理とは、仮説を指すのではない。仮説が複数あるのは、当たり前の話である。また仮象、つまり見え方が複数あるというのでもない。例えば月の見え方に、半月や満月がある。大雑把になら、どちらを月に指摘しても正しい。とくに半月状態で初めて月を見た人にとって、半月こそが月である。しかし月とは、半月や満月を含むその他全ての形状の包括カテゴリーである。したがって半月も満月も月の一面にすぎず、どちらも厳密には月ではない。したがってそれらの部分的な見方を並べても、真理の複数存在の説明にならない。とくにそれらが部分的な見え方だと自ら理解している場合、その説明には自己欺瞞を必要とする。
 また複数存在可能な真理として複数真理論が掲げる真理は、並存可能な論調を指すのでもない。例えば食事して散歩する意見と、散歩して食事する意見は、行動結果に問題のある差異が無い限り、並存可能である。ここでは複数真理論が掲げるような複数存在可能な真理として、論調の選択結果に問題をもたらすような排他的論調を念頭にしている。引き起こす問題の軽い排他的論調で例えを出せば、天動説と地動説のようなものを指す。天動説と地動説は、太陽系の惑星の動きを説明だけで考えると、どちらも正しく見える。しかし質量の小さいものが大きいものに引き寄せられるという説明を維持するためには、天動説は否定されなければいけない。すなわち天動説と地動説は、並存不可能である。
 なお並存可能な論調は、均等な不確定についても含んでいる。例えばサイコロの出た目のようなものである。サイコロの出目によって、結果に甚大な差異が出るかもしれない。しかし出目の不確定は、確率に従うだけである。いずれの出目を選ぶにせよ、結果の甚大な差異も確率的に均等である。均等に可能な結果をもって複数真理の説明を行うには、自己欺瞞が必要となる。説明者はすでに均等に不確定なのを理解しており、いずれの選択にも差異が無いのを知っているためである。出目の確率に不均等がある場合に限り、おのずとこの予測も並存可能な論調から外れる。
 警戒すべきは、不均等な確率なのを理解していながら、それを均等な不確定に扱う輩である。均等な不確定を複数真理の説明に使用するのは、ただの自己欺瞞であり、説明者はそれに気づいていないだけの間抜けである。しかし不均等な不確定を複数真理の説明に使用するのは、単なる詐欺だからである。

 天動説の否定を多様な意見の否定とみなし、否定者を言論弾圧者や独裁者に扱う事態は、一般に発生しない。しかし引き起こす問題の重い排他的論調の場合、論調の疑問点を突いたり、論調の否定をすると、指摘者や否定者を言論弾圧者や独裁者に扱う事態は、頻繁に発生する。中には指摘者や否定者を、民主主義の敵に扱う者までが見受けられる。
 そもそも異なった論調の発信者は、それぞれ自説の真性を信じており、自説と異なる論調を偽とみなしている。つまり論調の発信者の全員が、真理が一つであるのを前提に話をしている。しかも異なる論調の存在は、論調の数だけの真理の複数存在を意味しない。そのような形で真理の複数存在を許容するなら、真偽判断そのものの必要までが無くなってしまう。実際のところ、全てが終わって振り返ると常に、真理は一つだけなのである。

 ちなみに真理の単一性は、複数真理論者には許しがたい真理である。したがって複数真理論者は、真理の単一性を複数真理の一つに含めようともしない。これは自己欺瞞である。つまり、真理が複数存在する、という真理が一つだけ存在する、という矛盾承知のデマゴギーである。
 複数真理論の背景には、常に単一な事実の存在に対する拒否がある。つまり複数真理論とは、不可知論と同じものである。簡単に言えば、複数真理論は観念論である。
(2011/01/08)

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