唯物論者

唯物論の再構築

ロシアン・ファシズムの現在(2)

2024-01-23 06:52:14 | 政治時評

(3)ウクライナ戦争の理想的解決とその阻害事情

 ロシアのクリミア侵略から始まった現在のウクライナ戦争は、ロシアとウクライナの双方に甚大な死傷者をもたらしており、ウクライナの生活再建のためにも早急な終焉を期待されている。しかし侵略者に対する道義的責任から言うと、このウクライナ戦争の終わりを決められるのは、侵略を始めたロシアだけである。もちろんウクライナが抗戦を諦めて領土の多くをロシアに譲るなら、ウクライナ戦争も終わる。しかし自国領土を脅し取られて終わるような戦争の解決は、ウクライナはもちろんとして、ウクライナ以外の国も許容できない。またその先にロシアによる再侵攻が始まる不安も残る。それゆえに期待されるのは、やはり侵略者自身による侵略の拒否だけとなる。また基本的に人間は自らの行為の誤りを自覚するなら、その誤った行為をやめる。同様にロシア国民が自らの侵略の誤りを自覚するなら、彼らもまたその侵略をやめるはずである。ただしそのためには、ロシアにおいて民主主義が実現する必要がある。その民主主義の内実は、まず第一にロシアがウクライナで何をしたのかの事実報道の実現であり、ウクライナ侵略に至る経緯の事実報道の実現である。当然ながらその事実報道の実現は、事実報道を暴力的に阻止する言論弾圧者の排除を必要とする。その排除が目指すのは、発言者に対する暴力の全面禁止である。そして発言者の生存保証の実現によって、ようやく物理的事実を元にした話し合いも可能となる。つまりその民主主義の内実は、第二に言論と表現の自由の実現である。そもそもロシア支配層が事実報道と民主主義を怖れるのは、事実報道と民主主義がウクライナ侵略を拒否するだけに留まらず、さらにロシア支配層の悪事を露呈させると彼らが確信していることに従う。このロシア支配層の確信は、公正なロシアによるウクライナ侵略の拒否可能性を十分に表現する。一方でその確信は、ロシア支配層における自らの悪の自覚でもある。ロシア支配層はその自覚を自ら払拭する必要があり、その自己欺瞞を完成させるためにも、ロシア支配層は事実報道と民主主義の抑圧を必要とする。いずれにおいてもそれらのロシア支配層が自ら吐露する恐怖は、物理的事実を元にした話し合いにおける自らの敗北の確信を表現する。したがってロシアにおいて民主主義が実現するなら、ロシアは自らウクライナ侵略を終焉させる。この非軍事的解決は、欧米とロシアの軍事的緊張を不要とし、無駄な経済封鎖による経済混乱や国民負担が無い理想的方策である。そこで次に、この理想的解決を実現できない事情について確認する。ただ簡単に言うと、独裁体制において民主化を阻害するのは、独裁体制それ自身である。しかしこの説明は、単なる同語反復である。それゆえに独裁体制を個々の民主化の阻害事情に分解すると次のようになる。
  ・批判者の暴力的排除
  ・事実認識の遮断
  ・支配層による根幹産業の私有
  ・国家の歴史的特異性


(3a)批判者の暴力的排除

 独裁国家における批判者の暴力的排除は、批判者を肉体的に死滅させ、他方で批判者を国外に逃亡させる。国家機関における批判者の不在は、国家の意思決定を一つの支配層、極端な場合には一人の支配者に委ねる。それゆえにその政治体制は独裁と称される。独裁は民主主義の対極にあり、民主主義が真理を実現する正しい方法である限り、独裁は実現すべき真理に対立する虚偽である。もちろん独裁の目的が真理に即応するなら、独裁はその方法的虚偽に関わらず、真理を実現するかもしれない。そして独裁者がもっぱら想定するのは、この目的の真を通じた自らの独裁の浄化である。しかし目的の真偽は検証される必要があり、その検証は話し合いを必要とする。独裁はこの話し合いの対極であり、目的の真偽を不定にする。やはり独裁は、手段の偽を浄化しない。目的の真が自らの浄化を必要とするなら、既にその必要が目的の偽を露呈する。一方で批判者の排除は、最終的に独裁者とその仲間だけを、国家意志を決定する国家構成員として残す。そこでの話し合いは形だけであり、内実として話し合いにならない。また彼らが意見対立を排除するなら、そもそも話し合う必要も無い。そこでの話し合いは、決定事項の調整に留まる。しかし彼らがその調整を真剣に行うと、そもそもの決定事項の誤謬に辿り着く。それゆえに決定事項の調整でさえ、独裁国家の下ではまともに実施できない。独裁国家ではこの話し合いの実質的な壊滅が、行政や経営の各局面に蔓延する。しかしそれがもたらす困難に対応するためには、やはり話し合いが必要である。ところが実質的な話し合いができないなら、困難は解決されず、そもそもその実態さえ覆い隠される。そこで流通するのは、支配層に都合の良い経済と虚偽情報だけとなる。そして社会全体に非現実な意思決定や虚偽報告が蔓延すると、独裁体制下における社会から慈愛と良識も消えてゆく。そこでは、支配層が夢想する幸福な理想社会と不幸な現実社会の間に修復不能なギャップが生じる。この場合に国民の前に明らかになるのは、不幸な現実社会を幸福な理想社会と喧伝する支配層の嘘である。それゆえに独裁国家においても、この困難への対処に言論封殺の解除が必要となる。ところが言論封殺を解除しても、独裁国家に残っているのが独裁の共犯者だけでは、民主化が進展しない。その民主化の推進者は、独裁に封殺された批判者が担当すべきである。そのことから独裁国家の民主化は、独裁者が拘束した批判者の解放、および国外に逃亡した批判者の帰還を必要とする。ところが独裁者が批判者を肉体的に死滅させていたなら、解放すべき批判者は既に物理的に存在しないか、あるいはその生存数も限られている。また危険を感じて国外に逃亡した批判者も、危険を顧みずに自国に戻ったりしない。特に発展途上国から先進国に亡命した批判者は、先進国で得た自由で豊かな市民生活を手放せない。彼らが自国に安心して戻るためには、その恐怖の源である独裁支配層が権力から一掃される必要がある。現代世界ではこの政治難民と経済難民の大量移動が壮大な規模で進行し、難民の帰還の目途も立たない。またおそらく彼らは帰還しない。これらの事態は、独裁国家の民主化を主導すべき人材を、独裁国家から枯渇させる。この独裁国家民主化のジレンマは、世界中の独裁国家で起きており、現状のプーチン支配にあるロシアにも該当する。このために仮に独裁国家が体制崩壊を起こしても、その後の民主化の実現も怪しい。さしあたり独裁国家の体制崩壊は、独裁者が拘束した批判者を解放させる。しかしそれらの批判的意見も雑多であり、そこには暴力を思想で隠蔽する反民主主義者も混ざっている。それらの暴力的主張の解放は、解放後の自由な社会に新たな緊張と混乱を生む。その社会不安は新体制下にある国民に、強力な国家秩序の回復を希求させる。そして往々にしてその結末は、独裁者を再興させる。もちろん国民が古い独裁者の復活を忌避するなら、そこで再興する独裁者にも新たな独裁者が選ばれる。いずれにしても独裁者が再興する限り、独裁国家の民主化も頓挫する。


(3b)事実認識の遮断

 独裁者が批判者を死滅させる必要は、批判的言論も死滅させる。独裁者にとって批判的言論と批判者の間に差異は無い。独裁における言論弾圧は、上記の批判者の暴力的排除と一体になっている。しかし批判的言論は一つの意識であり、それは現実世界の反映である。ただし意識の真は現実世界であり、意識の虚偽は現実世界の誤認識である。その虚偽は、現実世界の反映誤りに基礎を持つ。それゆえに独裁が喧伝する真が実は虚偽であるなら、その意識の虚偽を現実世界が反駁する。そこで独裁における言論弾圧は、現実世界の真を暴力的に排除する。その暴力的排除は、独裁体制による事実認識の遮断として現れる。それは国内における現在または過去の事実報道を阻害し、国民にその事実報道を見えなくさせる。一方で独裁者も現実世界による反駁を嫌うので、できるだけ彼自身も事実報道を見たくない。そこで極端な場合、国民だけでなく独裁者にもその事実報道が見えなくなる。しかし現代社会は国際報道が発達しており、国民にも独裁者にも国際報道を媒介にして或る程度の事実報道が届く。それゆえに事実認識の遮断は、もっぱら現在または過去の事実を編集し、別の事実に捏造する形に進行する。これによりロシア国内では、ウクライナにおいてロシアが行った集合住宅や民間インフラの爆撃は、ウクライナ人の仕業にされることになる。同様にロシア国内では、ブチャ虐殺や児童誘拐などのロシアの戦争犯罪も、ウクライナと欧米による捏造とされる。他国から見ると、ウクライナ人が自国を爆撃すると言う報道は奇妙であり、明らかに捏造を疑われる。同様にロシア人であっても、そのような報道の捏造を疑うだろうと我々は予想する。しかし批判的言論が死滅した社会では、国民はうかつにその疑問を口にすることもできない。それどころか独裁体制下で国民が平穏に暮らそうとするなら、その疑問を封印するだけでは足りない。それだとその国民は、嘘を信じるフリをしているだけなので、その不熱心な挙動が自らの生命を危険に晒す。このときにその国民は自らの生活を守るために、独裁体制が喧伝する嘘を率先して信じるようになる。言い方を変えると国民は、ファシストに都合の良い愛国者となる。もちろんその愛国の正体は亡国であり、愛国でも何でもない。しかし愛国者であると自分を含めて、周囲の全てを納得させれば、国民は独裁体制下で平穏な暮らしを保証される。そしてその平穏な暮らしを守るために、国民は周囲の他の国民を蹴落とし始める。そうすれば国民は、蹴落とした他人との比較で愛国者となる。このような独裁体制における国民一般の生活事情が、その国内において嘘と虚偽を無批判に流通させる。そこでは正当な論理判断が排除され、激しく愛国を語る偽の愛国により、国家理性の崩壊と国民の総痴呆化が進行する。一方で民主世界における言論の保証は、各方面の正反対の言論を保証する。端的に言うとそれは、嘘と虚偽に対する生存保証である。そのことをさらに端的に言うと、民主世界の言論の自由とは、嘘と虚偽を発する自由である。当然ながら民主世界で喧伝される事実報道も、嘘と虚偽を含む。しかしその嘘と虚偽を各方面の正反対の言論が否定するので、それらは現実世界との不整合により淘汰されて消滅する。どのみち自らの嘘と虚偽を自覚する言論は、自らの真を目指す限りその命脈も短くなる。おそらくそのようなプロパガンダは、別種の虚偽、すなわち間違った信念や確信に基づいて発せられる。しかしその間違った信念だか確信も、現実世界と整合できない。それらの間違った言論は、自らが含む現実世界との矛盾により、最終的に自滅する。他方で民主世界の多様な言論は、その外部にいる独裁者にとって都合の良い言論を含む。独裁体制は積極的にそれらの言論を自国に取り込み、自国に言論の自由を粉飾する。ところがその取捨選択と編纂は、それを行う担当者を現実世界の真に晒す。この場合に彼は自らの嘘と虚偽を自覚せざるを得ず、その嘘と虚偽を正当化するために、より一層に間違った信念や信仰に完全にはまり込む。その過程は、独裁体制下の国民が行う自己洗脳過程と同じである。ところがどの事実が体制にとって都合の良い事実で、どの事実が体制にとって都合の悪い事実なのかを知るためには、やはり事実を知る必要がある。ここで事実認識に対する遮蔽が起きると、国民はもうその真実を自己決定できずに不可知論に入り込む。ここでの不可知論は、独裁国家における事実認識の遮蔽の最後の砦である。もしそこで独裁体制下の事実が壊死するなら、事実に基づく批判も壊死する。そしてその批判の不可能により、独裁国家の民主化も頓挫する。


(3c)支配層による根幹産業の私有

 批判者の排除、および事実認識の遮断は、いずれも暴力を必要とする。その暴力の基本は、批判者に対する生活基盤の破壊である。もちろんその破壊は、批判者に対する肉体的破壊を含む。一方で支配層は、被支配層全員の生活基盤の全てを破壊できない。それでは支配層が支配する相手がいなくなり、支配層の生活もおぼつかない。支配層は自らに従順な被支配層の生活を保障し、それ以外の批判者の生活基盤を破壊する。このことは支配層に、被支配層全員の生活管理を必要とさせる。その生活管理の基本は、自らに従順な被支配層の職を守り、批判者の生活を奪うものとなる。旧時代においてその生殺与奪は身分制度を形成し、被支配層を世襲的な複数の階層に分断した。そこでの生産物の所有者は支配層であり、被支配層の内実はそのおこぼれを受ける身分である。しかし生産者が自らの生産物を私有できないのは、あからさまに不合理である。それゆえに支配層と生産者の関係において、生産者が支配層に生産物を奉納する形式が取られる。ここでの生産物の所有者は、土地や家屋などの生産手段の所有者として現れる。彼らは中間支配層として上位支配層の支配を補完する。したがって生産手段所有者に雇用される労働者と貧農、および無産者は、生産物の僅かなおこぼれを受ける身分へとさらに極限される。ただし人数から言えば、一番多いのは無産者であり、次に中間支配層であり、そして上位の最終支配層が一番少ない。最終支配層に期待されるのは、中間支配層を含む支配層全体の支配権の維持である。それゆえに最終支配層は、自らを治安と軍事の専門機関へと特化する。これにより被支配層全員の生活管理も中間支配層が代行し、支配の分業が完成する。しかしその分業は、生産手段所有者を含む生産者が、自らの生産物を私有できない不合理を完全に露呈させる。それゆえに戦国期から王政の廃止を経た後の近代の歴史は、中間支配層が新たな王位に君臨する歴史に転じる。その歴史では中間支配層が伝統的な最終支配層を駆逐し、立場を入れ替える。ここでは王政の廃止後にナポレオンが皇帝になったり、スターリンや毛沢東が実質的王座に就いたりなど、詳細を無視すると大同小異の王政復古が起きる。そしてその王政復古の一パターンに、現代ロシアのプーチン独裁も含まれる。加えて言うなら、イスラム原理主義国家やミャンマー軍事政権、北朝鮮王朝など、独裁国家のいずれもが被支配層全員の生活を支配層が牛耳ることで成立している。なお中東における王族支配は近代以前の王政であるが、同様に王族が被支配層全員の生活を支配層が牛耳ることで成立している。いずれにおいてもその独裁体制の根源に現れるのは、支配層による被支配層の生活基盤の私有である。ただしその私有は、形式的に私有を宣言する必要も無い。したがってその私有をもっと別の表現にして、支配層による生活基盤の私物化と言い表して良い。そのような独裁体制では、生産手段の公有は建前であり、生産手段は特権階層の私物になっている。一方でその生活基盤の多くは、近代において次々に無産者に対して私有を認められている。またそうでなければ無産者の生活は、極限の貧困を脱せない。また産業の育成においても、特定個人による生産手段の占有は阻害要因として現れ、国家全体の富の増大を阻害する。そしてその阻害の実情のゆえに旧共産圏の多くは、貧困の中で瓦解した。ベトナムや中国における市場経済の導入は、国家による生産手段の占有を廃することで、体制崩壊の危機を脱している。それゆえに現代の独裁体制も、支配層による生活基盤全ての私有ではなく、もっぱら国家の根幹産業の私物化として現れる。また根幹産業が限られた国家なら、根幹産業の私物化を実現することで、その独裁体制も維持できる。一方で産業には、生産物及び生産手段の私物化への適性がある。実現生産価値の多くに技能に要する産業では、労働者がその技能を占有する。それゆえに生産物私有の決定も、労働者の技能水準に応じざるを得ない。それに対して実現生産価値の多くが天然資源に帰属する場合、その産業における生産物私有は、土地などの生産手段所有者により多く配分される。例えば石油を筆頭にした天然資源の採掘産業は、生産手段所有者による生産物私有に最適となる。そしてその産業適性が、該当産業に従事する無産者の生活支配を、生産手段所有者に対して可能にする。他方でその天然資源が持つ価値の内実は、土地などの生産手段の独占がもたらす特別剰余価値である。その独占は暴力を必要とし、暴力なしに独占を維持できない。そこで天然資源の採掘を根幹産業とする国家は独裁体制に傾斜し、独裁体制はその根幹産業を通じて国民の暴力支配を可能にする。天然資源が豊富で他の産業の発展が困難なロシアは、このような独裁体制の成立に有利な土地柄であり、またそのような土地柄が独裁体制の成立を促す。そしてその根幹産業の私有が、中東王制国家の場合と同様に、ロシアにおける民主化を困難にしている。


(3d)国家の歴史的特異性

 ロシアにおける民主主義の実現は、国家としてのロシアの歴史的特異性によっても阻まれている。その歴史的特異性は、ロシアの多くの地域が侵略と略奪の成果であることに従う。そしてそのロシアの特異性が、他国への侵略と略奪に対する無反省に転じる。もともと歴史的にロシアは、欧州帝国主義と対抗する必要とモンゴル帝国の復活阻止のために、東方への国土拡張を優先してきた。それらの地域にもともとロシア人は住んでおらず、それらの地域においてロシア人は入植者であり、さらに言えば侵略者であった。そのロシアの歴史的必要は、ロシア人に自らの侵略を美化し、略奪を正当化する旧時代の帝国主義式権利意識を植え付けた。ただしこの旧時代の権利意識は、ロシア固有のものではない。旧時代において侵略と殺戮は全世界で行われており、そこでの侵略者は、自らの悪徳に無反省である必要を持つ。そしてその無反省が植民地と奴隷制を可能にした。さらに大航海時代から現代に続く先進国による発展途上国の侵略でも、侵略者は自らの侵略行為を誇る必要があった。そこでの美徳は、相手の権利を踏みにじることであり、より多くの略奪を祖国への忠誠と愛国の印として扱う。そしてこの権利意識が、支配地域の先住民に対する無慈悲な略奪を正当化してきた。それらが人道に反した非道行為に扱われるためには、さしあたり18世紀末のフランス革命が発した人権宣言を待つ必要があった。しかもその人権意識がまともに機能するようになったのも、20世紀以後である。その旧時代の権利意識は戦国武将における殺戮数の競争意識と同水準にあり、その延長上で20世紀初頭に世界的な帝国主義戦争が勃発した。一方で近年の先進国において旧時代の権利意識は、もっぱら先住民や奴隷、さらには旧植民地に対する贖罪意識にとって代わられた。この置き換えは人権意識の浸透と同じものであり、その物理的内実は国民資産の非差別的分配の実現にある。すなわち国民における極度の貧困の一掃が、人権意識の浸透を可能にした。さらに言うとそれを可能にしたのは、産業革命による生産技術の飛躍的発展である。結局このことは、人間が自らを単なる動物から区別するために、最低限の生活保障が必要なのを示す。逆に言うと、国民における極度の貧困が一掃されなければ、人権意識は浸透せず、侵略と略奪も美徳と愛国の虚飾を得る。端的に言うとそこでの人間は、いまだ人間ではなく、単なる動物である。一方でロシアは20世紀初頭の革命で民主主義の実現に失敗し、その対極の独裁体制に移行した。その独裁体制は、共産主義の肩書にも関わらず、国民資産の非差別的分配にも失敗し、侵略と略奪を美徳とする旧時代の権利意識を復活させる。その点で言えば共産主義の看板は、当時の独裁体制にとって自らの足枷である。しかしむしろその金看板こそが、独裁体制が持つ権利意識の虚偽を粉飾した。ところがロシアにおける共産主義体制の崩壊は、共産主義の金看板をロシア支配層から奪い取る。それはロシアにとって、自らの侵略と略奪の非道を粉飾する口実の喪失である。ところが相変わらずロシア支配層は、他国への侵略と略奪を自らの権利だと信じて疑わない。しかも不思議なことにその特異な権利意識を、多くのロシア国民が共有している。さしあたりプーチンに従うとその権利意識は、ロシアとウクライナにおいて自己と他者の区別を持たず、その区別の欠如のゆえにロシアはウクライナからの略奪を自らの権利とする。しかし自己と他者に区別が無ければ、略奪の必要も無い。したがって実際にはその権利意識は自己と他者を区別し、その区別に従ってロシアもウクライナから略奪している。しかし他者からの略奪を自らの権利とするなら、相手による自己の略奪も相手の権利となる。結局その理屈が侵犯するのは、私有財産を含めた個人の私的権利一般である。つまりその権利意識が否定するのは、基本的人権である。またその矛盾と理不尽のゆえに、第二次大戦後の帝国先進国は、かつて自らが非道を働いた相手の先住民や奴隷、および旧植民地に対し、贖罪意識を持つに至った。逆にそのことが露呈させるのは、旧時代の権利意識が国民を支配する場合、そのような国において基本的人権を保証する困難である。それはそのままロシアにおける民主主義の困難を表現する。さらに言えばそのことは、プーチン亡き後においてさえ、ウクライナ侵略の終焉させるに足る民主主義の実現が、ロシアにおいて困難であるのを予想させる。


(3e)独裁国家民主化の失敗

 実際には上記の阻害事情の内、3a)と3b)を克服しても、3c)と3d)を克服するのは困難である。それは独裁国家の民主化失敗の経験が示している。しかもその失敗経験が独裁体制民主化の阻害事情として付け加わる。ロシアに限らず世界には独裁国家がいまだ多く存在し、その国内で非道な暴力が横行している。そしてその独裁体制に対抗する内戦で多くの難民が生まれ、近年ではその難民が大挙して先進国に流入するようになった。これに対して欧米は独裁体制の非人道性を非難し、ときに空爆などの軍事行使も行っている。イラクとアフガニスタンに至っては、欧米が軍事介入でその独裁体制を崩壊させた。その後に国際社会がアフガン近代化のために試みたのは、民主化に必要な事実報道の浸透と国民の民主的教育の充実、さらに自由選挙の実施などの民主国家の基盤整備である。そのアフガン近代化の努力は20年にも及んだ。ところがそのアフガニスタンの民主化実験は、多大な労力と資金を投入した挙句に失敗した。その民主化失敗の多くは、アフガン新支配層による欧米支援の着服に起因し、それが経済の自律的発展を阻害した。それに対して、民主化により零落した旧イスラム秩序の中間支配層の不満が、タリバーンの復活を呼び寄せた。そしてその独裁体制の復活が、一時期的な民主化において国際支援により自由を知った多くの国民を国外に難民として流出させた。20年におよぶアフガン近代化は灰塵に帰し、再び事実報道の遮断と批判的国民の暴力的排除が、アフガニスタンの日常に舞い戻った。ここでもアフガン近代化を阻むのは、独裁国家における民主化の困難である。しかしそれは20年の努力で解決できなかった以上、相応の有利な条件が無い限り、以前と同じ要領で民主化を実現する道も既に封じられている。それゆえにその失敗は、他国における独裁後の国家民主化の試みを絶望させる十分な力を持つ。その絶望が予想させるのは、紛争地で発生する難民が今後もさらに数を増し、彼らが先進国に流入する未来図である。そこに現れる最初のジレンマは、難民の発生を阻止するために独裁体制の崩壊が必要な一方で、独裁体制の崩壊に必要な人材が難民となるジレンマである。そしてそのジレンマは、他のジレンマと癒合している。そこでは独裁を崩壊させる試みが社会不安を呼び、その社会不安が独裁を強固にする。そのジレンマの根源には国民の貧困があり、貧困が暴力的秩序の必要と結びついている。一方で独裁体制における良心の目覚めを、独裁国家の富裕化により実現させる期待も封じられている。北朝鮮における独裁国家の富裕化は、単に支配層を富裕にして独裁を強化させただけであり、国民福利は改善せず、民主化も進まなかった。またもし独裁国家で国民福利が改善しても、中東産油国における民主化と同様に、その富裕化が支配層に忠誠を誓うだけの近代化だけに終わる可能性も高い。結局それは独裁国家に力を与えるだけの結末であり、諸外国が独裁国家に抱く不安をさらに高める。そしてこの難民事情は、プーチン独裁が生んだロシア人難民にも該当する。このジレンマだらけの現状において、さしあたり諸外国が取り得る対処法は、よりましな独裁体制への反復移行、および独裁国家の弱体化の二つに限定される。ただしよりましな独裁体制への反復移行は、上記のアフガニスタンや北朝鮮の例でも失敗している。そしてロシアにおけるプーチン独裁の復活も、この同じ失敗に含まれる。それゆえに現状の諸外国が独裁国家に取り得る対処法として残るのは、独裁国家の弱体化だけとなる。しかしその対処法は、その独裁体制化の国民から反逆の余力を奪うだけであり、その独裁体制を終焉させるだけの効力を持たない。


(3f)弱体化した独裁体制の持続可能性

 独裁が既定路線の経済発展を実現する場合、独裁体制は無駄な迂回と各部門の調整を必要とせず、最短経路で最先端の生産工程を実現する。それゆえに東欧共産主義は、第二次大戦後の復興期に諸外国を驚かせるような経済成長を遂げた。それと似た事情は、ベトナムと中国の改革開放による経済成長に見て取ることができる。しかし科学技術の発展には話し合いと事実情報が必要であり、そのいずれもが民主主義に直結する。そしてその民主主義は、独裁体制と対立する。単純に言えば、独裁体制下で科学技術は発展しない。それゆえに独裁体制の経済成長は、奇跡的な発展を遂げた後に失速し、そのまま低迷期に突入する。もちろん独裁体制も科学技術の発展に対し、限定された話し合いと事実情報を許容する。しかし限定がある限り、その限定はやはり科学技術の発展にとって足枷である。それは他の民主国家との技術競争において、独裁体制の科学技術の発展を遅らせる。また科学技術の発展以上に、経済運営における独裁体制の官僚主義が、独裁体制の経済発展を阻害する。当然ながらその経済低迷の第一の処方箋は、民主主義の実現である。しかし独裁体制は、それを許容しない。その国家近代化における最大の障害は、独裁体制それ自体である。その支配層は愛国を叫ぶ売国奴であり、口から出る美言と反対方向に、国家を時代遅れの老害にする。このことは、諸外国が独裁体制と距離を取るなら、独裁体制は経済の低迷を脱せずにそのまま弱体化するのを示す。独裁国家の危険が他国への侵略にある場合、独裁国家の弱体化はその侵略の危険性を減じる。第二次大戦後の冷戦は、結果的にそのような民主国家と独裁国家との我慢比べの戦いであった。ただしそれは結果的に我慢比べになっただけであり、冷戦の始まりにおいてどちらが最終的に独裁体制になるかはまだ不確定であった。しかし既に独裁体制にあった共産主義陣営は、フルシチョフの雪解けを不徹底に終わらせる。そしてその不徹底が、ロシアを冷戦の敗者にさせた。翻って見ると、ゴルバチョフの決断が有効となり得たのは、ナジとゴムルカのハンガリー・ポーランド動乱以前のフルシチョフ時代だけである。その後にどのロシア指導者がペレストロイカを発動しても、おそらくロシア共産主義体制は崩壊している。ただロシアは資源に恵まれた自給自足可能な国家なので、その弱体化の効果が出るのに半世紀を要した。当然ながらプーチンロシアの弱体化にも、同程度の期間が必要となる。ただしプーチンの余命は、そこまで長くない。それゆえに西側によるロシア弱体化は、さしあたりプーチンの死を待つまでの短い期間の効果確認で良い。一方でプーチン独裁は、上記で述べた民主化阻害事情を背景として持つ。そのことが十分に示すのは、ロシアファシズムがプーチンの死と無関係に持続する可能性である。結果的にロシアファシズムの終焉は、民主化の進展における冷戦の終焉、および独裁化の進展における冷戦の再開を反復させることで、徐々に実現させる道しか残らない。そうだとしても、既に述べたように民族主義ファシズムは、民主主義におけるポピュリズムとして始まる。それは経済的に復活した旧独裁国家において、ファシストをより強力で危険な水準で回復させ、最終的に民主主義を滅ぼすかもしれない。かつてロシア議会についてレーニンは、ブルジョア独裁を彩るためのイチジクの葉と評した。そして彼はそのロシア議会に対抗して、ロシアソヴィエトを代置した。ところがロシア革命時の議会は、それ以前の帝国議会と違って十分に民主的であり、レーニンの議会評価は虚言であった。つまりその議会評価は、そのままレーニンが持つ民主主義軽視の欠陥を表現した。結末から言えば、むしろロシアソヴィエトの方が、虚言の民主主義を飾るイチジクの葉に転じている。一方で現ロシアファシズムによる批判者の暴力的排除は、ロシア議会を本物のイチジクの葉に変えた。この現状から言えば、ロシアをソヴィエト崩壊にまで持ち込んだ西側の冷戦対応は、回り道をして新たなファシズムを迎えただけに留まる。そのロシア国民の総意はファシズムを希求しており、ファシズムがロシア民意を体現する。ファシズムを抑止するための民主化は、独裁体制の弱体化においても、やはりジレンマの中にある。


(2024/01/22)
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