(4)独裁国家民主化の方策
ファシスト国家の侵略戦争を抑止し、その民主化を支える場合、ファシストが国民弾圧に使う各種の口実を挫く必要がある。もっぱらその口実を根拠づけるのは、ファシストが信奉する民族主義や原理主義宗教の妄言である。ファシストはそれらの理念を通じて、自らを民族的中核、または宗教的真理と喧伝する。そしてそれにより彼らは、自らに対抗する他者を一掃し、国家を支配する。ところがもともと民族主義の目標は、地域住民の自由と人権の実現に集約される。またそうであるからこそ、地域住民の自由と人権が阻害されたときに、迫害された地域住民の中から民族主義が立ち現れる。このような民族主義の意義は、宗教の意義においても変わらない。宗教は地域住民の純化した生活習慣であり、その形式だからである。この点で言えば、ファシストが民族主義や宗教を根拠にして国民を弾圧するのは、それらの本来の目標に反する。しかし民族主義や宗教は、自由と人権から切り離れて現れることもできる。もともとそれらが地域住民の自由と人権の実現を目指す理由は、該当地域住民が迫害される下位の生活集団であることに従う。しかし該当地域住民が下位集団を収奪し、支配する上位の生活集団であるなら、その支配地域における自由と人権の実現は、自らの生活に不利益をもたらす。それゆえに支配集団の民族主義と宗教は、容易に自由と人権の対極へと移行する。またそれらが実現しようとするのは、もっぱら該当地域における平均的多数者の伝統的生活にすぎない。このような民族主義と宗教は、単に多数者であると言う権利に従い、多数者から外れた個人や馴染めない個人、あるいは別形式の生活習慣を持つ集団、またはもともとの異国人を追い詰め、滅ぼす。それゆえに迫害される下位の生活集団においても、往々にして民族主義と宗教は、自由と人権の実現に対立する。そしてファシストが信奉するのは、結局その程度の民族主義や宗教である。それゆえに民族主義と宗教が自由と人権の実現を目指すなら、その目標のために自らの無根拠な形式性を離脱する必要を持つ。ここで求められているのは、多数者による少数者の暴力的抑圧ではなく、そして自由と人権の暴力的抑圧ではなく、話し合いにより地域住民の対立を調整する作業である。そしてその調整作業は、民族主義や宗教を根拠づける思い込みや迷信ではなく、現実世界の物理的事実を根拠にする。
ちなみに民族主義や宗教が根拠にする思い込みや迷信は、可能であるなら、民族定義の変更、宗教の廃絶、または全宗教の癒合のような空想的手法により一掃できる。全世界的に国境線を均等サイズに細分化できれば、侵略戦争が口実を失なうので、民主主義がそれらの不満を吸収できるかもしれない。また大規模封印列車を実施すれば、独裁体制に抵抗する人材を独裁国家内部に移植できる。ほかにも難民の発生に対応して、ロシアのやり方を真似る形で、独裁国家の国境沿いの一部地域を難民キャンプ専用地に確保し、国際的に該当居住地域を支援して、民主化を局地的に確立させる新型植民地などの非現実な方策を考えられる。しかし民族的妄信や迷信の一掃は時間がかかるし、そもそもその一掃を実現できるなら、おそらく同時に独裁国家の民主化も完了する。また全世界的な国境線の均等分割は、それ自身が武力を背景にするか、全世界的な民主化の完了を必要とする。そして大規模封印列車を実施すれば、封印列車で送り込まれた反体制派や民主化知識人は、独裁国家に全員収容所送りにされるか処刑されてしまう。一方で前述の新型植民地は、ファシズム国家にとって侵略である。またファシズム国家において自国領土内に真理が出現することは、ファシストの虚偽にとって脅威でしかない。ファシストは自国領土内の難民キャンプを容赦なく爆撃することになり、戦火はファシストと難民の間で二つの相反する愛国の武力対決に発展する。しかしどれだけ資本投下して難民地区を近代化させても、駐留外国勢力が敗退すれば、日本の朝鮮併合と同様に単なる侵略の事実だけが残る。もしかすると30年後のアフガニスタンでは、現在の閉塞した国内状態も、タリバーンが残虐な外国勢力を駆逐した愛国武勇伝の世界として描かれているかもしれない。また二つの相反する愛国の武力対決が、停戦を通じて国内国境線を残すのであれば、それは第二次世界大戦後のドイツや朝鮮半島、またはベトナム分断の再来を招く。それは分断を残すことにより、双方の側の国内近代化を阻害する。そのように考えると、独裁国家の外部から武力を通じて民主化を実現させるのは、やはり無理があるように見える。もともと民主主義は暴力の対極である。民主主義を暴力で実現するのは、どのようにしても矛盾を残す。むしろ暴力で実現した民主主義は、容易にその反対物に転化する。そもそも民主主義は、正しい対象認識を実現するための道具に過ぎない。その基本は、自然科学における正しい対象認識の実現方法に準拠する。それは世代をまたがる研究者の間における批判と検証が実現するものである。そしてその批判と検証の手法こそが民主主義を構成する。つまりその学術的真理は、研究者が暴力的に確定するものではない。もちろんその学術研究でさえ、異なる認識主体の階級利害において捻じ曲げられて承認される。しかしその承認された真理も、最終的に物理的自然それ自体がその真を確定する。そしてその真が、自己利害において真理を捻じ曲げた者たちの虚偽を暴く。それゆえに民主主義をその基本から即して実現するのであれば、事実認識の流通から始める必要がある。
(4a)事実報道の整備
独裁国家の内政に対する影響力は、文化芸術を通じた人権理念の提示、および独裁の現実を伝える事実報道として可能である。その行使が的確であるなら、その行使は民主化の必要を、支配層を含めた独裁国家の全国民に自覚させる。独裁国家への長期的な対応を言えば、この非軍事的方策は、前者の軍事的方策より重要である。その重要性は、その方策自体が非暴力であることに従う。それゆえに理想を言えば、諸外国は軍事的方策を一切取らずに、人権理念と事実報道を独裁国家に提示することで、その独裁を改悛させたい。例えばロシアによるウクライナ侵略において求められているのは、ロシア国民におけるウクライナで起きた惨劇の加害者としての自覚である。ここで必要なのは、ウクライナをロシアの下僕に扱うロシア意識、およびその非人間性を愛国と偽る民族主義の虚妄を暴き出し、それら虚偽意識がウクライナにもたらした地獄の惨劇をロシアに直視させることである。それがもし成功するなら、その事実系列の羅列は、犯罪加害者としての自覚をロシアにもたらす。またそれらの露呈と事実認識なしにロシアは、自らを犯罪加害者として自覚できない。もちろんその自覚に立ちはだかるのは、他国の所有物を奪い取ることを誇るような虚偽的な民族主義である。あるいはそのような行為を恥ずべきことと思わない国民気質である。しかしそのような民族主義と国民性も、民主主義にとって自らが一掃すべき対象にすぎない。ロシアや中国、北朝鮮のような独裁国家において他国の情報を制限するのは、その支配層がそれらの事実の拡散を怖れているからであり、自らの虚偽の露呈を危惧するからである。彼らが示す恐怖は、独裁の現実を伝える事実報道の威力をそのまま表現する。一方で物理媒体を伴う情報整備は、その媒体の進歩により規定される。過去の多くの時代においてその媒体は、もっぱら印刷文書であった。そこでの情報は、その真偽内容を別にして、何かについての伝承や研究や表現である。その情報は記号や形で表現されるので、情報の形状と内容の差異によって分類と体系を可能にする。その情報は、一方で現実世界の存在者の真を表現し、他方で現実世界の存在者の偽を表現する。さしあたり事実記録は真の現実世界の真を表現し、創作物は偽の現実世界を表現する。ただしその真偽区分は、対応する事実の有無に留まる。しかし事実記録もまた、一方で真の現実世界を表現し、他方で偽の現実世界を表現する。そしてその真偽は、情報の現実世界における実在の有無に対応する。もしその事実記録が実在しなければ、その事実記録はただの虚偽記録となる。虚偽記録の多くは、過去における事実記録であり、あるいは迷信となった過去の伝承である。そしてこのように情報の真偽も、情報についての分類と体系の一画を成す。もし情報の真偽が一覧検索可能であれば、情報捏造者が数多く発する虚偽も、瞬時に真偽判定において否定可能になる。ただしここで重要なのは個々の虚偽情報の捨象ではない。虚偽情報は、それ自身が虚偽の事実記録を成す。そこで必要なのは、その虚偽情報の出所と背景の特定であり、虚偽判定の根拠の明示となる。その地道な作業は、法廷における立件ならびに裁定の手順に準拠し、肯定と否定、弁護と検察の双方の主張の全てを記録したものとなる必要がある。
(4b)事物と観念
事実報道の真偽は、さしあたり該当情報の有無に従う。単純に言えばそれはその意識の起源が、物理か観念かの差異である。ただし観念論に従えば、物理が現れるのは意識の場であり、意識の起源は常に観念である。その理屈に従えば、意識は直接に物理を知り得ない。この場合にせいぜい可能な物理は、異なる意識が共有する共同観念に留まる。この理屈は、物理を意識の他者として前提する。そしてその前提のゆえに意識は物理を知り得ない。しかし自己意識にとって、他人の意識も意識の他者である。そうであるなら、自己意識は他人の意識を知り得ない。したがって異なる意識によって共有される共同観念も成立し得ない。ただしこの観念論は、この不都合な事情には目をつむる。要するにこの観念論は、意識の蓋然を物理に扱う経験論である。一方で意識の蓋然は意識の不整合を多く含み、その補正を必要とする。その不整合の背景には意識の偶然があり、さらにその背後に物理の偶然を隠している。しかしいずれの偶然を規定するのも、物理的真である。その物理的真は、さしあたり同一律や矛盾律として現れ、現象の不整合を補正し、最終的に物理法則を実現する。もちろん観念論はこの物理的真を認めない。もっぱら観念論はそれらの物理規定を唯物論の信仰に扱い、それを意識の真に置き換える。その物理的真の否定は、ときに同一律や矛盾律の否定にまで至る。しかしその物理的真の否定は、物理的真に対立する意識の不都合に従う。あるいはむしろその不都合により、意識は物理的真に対して反発する。その葛藤が表現するのは、その意識の成立基盤と物理的真との対立である。ただし物理的真に対して反発する意識もあれば、それを受け入れる意識もある。むしろ現実世界に対応する意識は、物理的真を受容する。また唯物論から言えば、その物理的真に反発する意識の自己都合を規定するのも、やはり物理的真である。そして真理一般を自己都合で否定する意識の在り方は、既に虚偽である。それゆえに観念論による物理的真の暴力的排除は、放っておいてもそのうちに物理的真が否定する。すなわち現実の物理が、その自己欺瞞を打ち倒す。しかしその冷戦を通じた観念論の自己崩壊を待てないのであれば、観念論の側に物理的真をより早く流通させる必要がある。そして実際に80年代の衛星放送に始まる独裁体制下の事実報道の流通は、続々と独裁体制の崩壊を実現してきた。おそらく今必要なのは、その情報革命の加速であり、事実報道の整備である。一方で事実報道は物理の偶然と意識の偶然を含む。それに乗じて意識の自己都合は、その相反する事実を組み合わせて虚偽事実を捏造する。しかし捏造者は、既に自らの捏造の虚偽を知っている。当然ながらその知は、捏造者に嘘つきの自覚をもたらす。その自覚が捏造者に与える良心の呵責は、捏造者にその呵責を許す上位者を必要とさせる。そしてその必要に応じて物理の対極に宗教が現れる。しかしその宗教も自己都合で事実を捏造するなら、自ずと自己を捏造者として自覚する。いずれにおいても捏造者は、自らの一瞬の快楽のために、神の足元から離れて行く。宗教が真理の加護者であるなら、宗教は捏造者としての自己を許せない。結局その自覚が醸成するのは、一連の捏造者における敗北の自覚である。
(4c)ファシズム認定
ファシズムは愛国の美名のもとで自らに不都合な真理を暴力的に弾圧する。このときにそれは個々の国民に保身の甘言を弄し、最終的に国民全員を暴力の共犯者に仕立てる。それは民意の全体から抵抗者を排除するので、必然的にファシストが多数決で国家を支配する。それゆえに民主国家とファシスト国家は、その民主的体裁だけでは区別され得ない。その区別は、その国家における物理的事実の正当な流通、および対等な話し合いの実現の有無に従う。すなわちそれは、該当国家における言論の自由と人権尊重の現実性に従う。そしてその現実性の欠如は、言論の自由と人権尊重を訴える人々が抑留され、国外に逃亡する現実により判定できる。この点で現状のロシアは、このファシスト独裁にあり、その頂点にプーチンがいると断言できる。一方で国家の近代化と科学技術の発展は一体の関係にある。そして話し合いの無い世界で、科学技術は進歩しない。つまり科学技術の発展と民主主義の実現も、一体の関係にある。それゆえに民主主義の欠如は、そのまま国家の近代化を阻害する。ファシスト国家では捏造された原理的イデオロギーが国民を支配し、それが国民の話し合いの上位に立つ。ただしそれでもその国家は、その批判的国民の暴力的排除を隠匿し、民主的体裁を保とうとする。そこにファシスト国家における次の必要が生まれる。それは、独裁支持と愛国を一体のものとして現す必要である。もちろんそれは、前述したとおり、実際には愛国ではない。第二次大戦後の世界において、ファシズムの不人気は確定的であり、ロシアでさえ自らのファシズム認定を避けるために、ウクライナをファシスト扱いする。周知のようにロシアが利用しているのは、ウクライナ民族独立運動がナチズムと野合した第二次大戦時の経緯である。ただしそれは、ウクライナが毒蛇と人食い熊の選択を迫られて、熊ではなく蛇を選んだことを非難する程度の話である。しかしそれをもってロシアは、ウクライナの民族運動にファシズムのレッテルを貼りつける。もちろんその目的は、ロシアにとって不都合なウクライナの民族的自立を貶めることにある。そしてロシア支配層の目論見から言えば、ウクライナの民族的自立は、ロシアに対する民族浄化を伴う侵略的民族主義に等しい。もちろんそのレッテル貼りは、自己都合のファシズム認定に留まる。少なくとも国家としてのウクライナは、民族浄化をしていなかったし、侵略もしていない。しかもそのロシアの不都合は、ロシア民衆にとっての不都合ではなく、ロシア特権階級にとっての不都合でしかない。民族浄化を伴う侵略的民族主義をファシズムに扱うこの一般的定義に、さしあたり問題は無い。注意すべきなのは、このファシズム認定が対象国家について民主主義の有無を問わないことである。また実際にファシズムは、民主主義の単なる対極ではない。過去のファシズムは、民主主義におけるポピュリズムとして登場した。それゆえにむしろファシズムは、言論の自由と人権尊重の対極として限定される必要がある。ファシズムは、国民の支持を得て政権を奪取した後、反対者の暴力的排除に移行する。結局それは、民族浄化を伴う侵略的民族主義が、言論弾圧と人権無視を常に必要とすることに起因する。そしてこの言論弾圧と人権無視は、既存秩序の枠内で体制の物理的事実から抽出可能な事象である。その物理的事実を通じたファシズム認定は、ウクライナに対するファシズム認定を不可能にし、逆にロシアによる自己のファシズム認定を可能にする。その認定基準の確立は、ロシアだけに留まらず、現存する他の独裁体制の評価にも有効であり、さらに今後現れる全てのファシズムにも有効である。当然ながら、表現の適正使用に対する或る程度の良心、および世界的なファシズムの不人気は、このファシズム認定基準の国際的通用により、ファシズムの抑制に作用する。ただしその認定基準の擁立は、物理事実に対する意識の変化に過ぎず、観念的操作を超えない。したがって認定基準の変更は、おそらく意識の一過的な対応に留まる。とは言えそれでも、現在および将来のファシズムの抑制を試みる上で、この認定基準の変更は十分に有意義である。
(5)ロシアン・ファシズム
プーチン独裁政権の確立には、ナチスドイツにおけるヒットラー独裁政権の確立との類似点が多い。両者とも民主的選挙を通じた民族主義的ポビュリズムで人気を博し、低迷する国内経済の復興時期に政権を担当している。ただしプーチンの場合、ヒットラーほどの天才的な経済施策の実施をしたわけでない。彼の経済施策は、ロシアの潤沢な資源を自由主義経済の供給路線に乗せ、西側の支援においてロシア経済を復興するものである。それは経済の自然回復を早期実現しただけであり、せいぜい鄧小平の中国近代化を模倣した水準に留まる。ただし翻って見るとそれは、回復した国力によってロシアの帝国的復権を目指す北朝鮮式方策だったと見るべきかもしれない。一方でヒットラーとプーチンは、謀略事件による政敵の壊滅、治安組織によるテロと情報統制、他民族に対する武力制圧と対外侵攻などの諸点で共通項を持つ。結果的にいずれの体制も、その戦時体制において国民に支持を強要し、また戦時体制に持ち込むことで国民の支持を受ける。いずれにおいても体制批判者は投獄されるか抹殺されるか、石のように黙るしかなく、そのことが国内世論の発言者を体制賛同者に純化する。そしてその体制賛同者への国内純化を、独裁政権は自らの圧倒的支持と錯覚する。しかし批判の封殺と情報統制で実現した国内世論と政権支持は、民主主義が前提する対立意見の公開と事実検証を踏襲していない。要するにそれは単なる多数者による少数者の圧殺と支配であり、民主主義ではない。そのプーチン・ロシアが昨年2月から本格化したウクライナ侵略で目指したのは、簡単に言えば民主化潰しである。プーチンを筆頭にするロシア支配層が恐れるのは、民主化のロシアへの波及であり、民主化の進展による自分たちの悪事の露呈である。もちろんそのような心配が、そのまま悪事露呈への危機感として表明されることは無い。その口実は、旧ソ連の場合だと共産主義の防衛であり、プーチンロシアの場合では民族的権利の防衛である。この民族的権利の防衛は、もっぱら侵略を正当化する虚言として現れる一般的口実であり、ナチスドイツや帝国日本も使っている。ただプーチンの場合はその民族的権利の防衛について謀略性が高く、しかもその規模が最初から大きい。例えばプーチンは、大統領選を優位に進めるために連邦保安局(FSB)と結託して5件の集合住宅爆破事件を起こしたとの疑惑を抱えている。そしてその疑惑の追及に対して、まず亡命した証人を毒殺し、次に真相を追及するジャーナリズムへのテロルとその権力的排除を実施した。もちろんその処刑と権力的排除が表現するのは、自ら犯した謀略の誇示であり、要するに犯行の自白である。同様に昨年2月からのウクライナ侵略でもプーチンは、ウクライナにおいて迫害されるロシア系住民の保護を侵攻の口実にしている。ここでもウクライナにおけるロシア系住民の迫害の事実追及を、ロシアはウクライナ東部の接収を通じて排除している。これらの事実隠蔽に必要なのは、報道と表現に対する権力的抑圧であり、話し合いを基本にした民主主義の否定である。逆に言えば報道と表現に対する権力的抑圧を排除し、話し合いを基本にした民主主義を実現するなら、プーチンロシアの数々の虚偽が暴かれ、現在のウクライナ戦争も終焉する。これに対してプーチンロシアは、報道と表現の自由、および民主主義をアメリカ一極の世界秩序と捉え、民主主義に敵対する独裁国家を仲間に引き入れた世界の多極支配を訴える。もちろんロシアが考えるその多極の一つの極にウクライナ政権は含まれていない。ここにあるプーチンの危機感は、第二次大戦後のハンガリーやポーランド、さらにチェコスロバキアに登場した人間の顔をした社会主義に対し、ソ連が持った危機感と変わらない。もちろんロシアが欧米以上に自由で民主的であったら、ロシアはそのような危機感と無縁だったはずである。その場合だとウクライナは、逆に欧米を離れてロシア寄りになっていたであろう。しかしロシアの民族主義者は、ウクライナにおけるロシア支配の離脱事態をそのように捉えず、むしろロシアを自由と民主主義に対立させる。そして昔も今もロシアの独裁者は、その誤った民族主義を自らの延命に利用する。現在のロシアでは、ロシアの誇りと権威を失墜させる行為が愛国とみなされ、ロシアの誇りと権威を守ろうとする行為が売国と非難される。本来ならその愛国判定を行うのは、物理的事実に基づく話し合いである。すなわち科学と民主主義が、愛国の真を決定する。そして愛国の真は、自由で民主的なロシアを目指し、ウクライナの民主化を支持する。当然ながらそれは、今回のロシア自身によるウクライナ侵略を全面的に拒否する。しかし独裁者は、この決定を許容できない。そこで支配者は、自らの独断により愛国の真を決定する。ここで彼が依拠するのは、ウクライナの民主化に対立する偽りの愛国である。それが目指すのは、自由の対極にある独裁国家である。それゆえにロシアの独裁者は、物理的事実と話し合いを拒否する。結果的に独裁国家における事実報道と民主主義は、権力の統制下で自由を奪われる。それどころか独裁者は、その不自由な報道と制約された民主主義を、さらに事実報道と民主主義の対立物に転化させる。ファシズムは物理的事実と話し合いをそれぞれ虚偽と暴力に代置し、国家を人間に対立する腐臭の漂う化け物に変える。
(2024/01/22)前の記事⇒ロシアン・ファシズムの現在(2)
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