けにーやじま (旧無礼講ロッカーズ)

信濃三十三観音札所NOW!
令和以降は長野県内外の札所めぐり、古刹名刹訪問記が主です。

上州三十三観音札所霊場第7番 曹洞宗祥寿山 曹源寺(日本三堂さざえ堂)

2024年01月26日 | 上州三十三観音霊場


令和6年1月14日(日)
万徳寺発(波志江SIC)10:15----曹源寺着(太田桐生IC)10:45
国指定の重要文化財、さざえ堂・三匝堂(さんそうどう)の上州三十三観音札所霊場第7番、曹源寺へ。


上州三十三観音霊場の一覧

当札所の概要 曹源寺さざえ堂 ウエブサイト
曹洞宗 祥寿山 曹源寺:文治3年(1187)開基
場所:
群馬県太田市東今泉町165

本尊:魚藍観世音菩薩
御詠歌:そうげんの一滴湧いて今いずみ こころの赤をあろう池哉

※禅語「曹源の一滴水」にかけている。
(東上州)新田秩父三十四所 第24番(宝暦3年:1753年)
上州三十三観音札所霊場 第7番(平成11年:1999年)

西国・坂東・秩父の百観音札所巡礼が叶わぬ庶民のために造られた右繞三匝さざえ堂
・右繞三匝(うにょうさんしょう)という、仏に対して右回りに3回まわる礼式により、堂内に配した西国・坂東・秩父の百観音の写し木造仏を巡る。
・螺(さざえ)堂は螺旋階段で堂内を昇降することからつけられた呼び名。

現存最古(級)のさざえ堂

・曹源寺は、新田氏の祖、義重が京都から迎えたという養姫である祥寿姫の菩提を弔うため、文治3年(1187)に開基との伝承。
・源氏の嫡流と言われる新田氏との縁が深く、大名、幕府の庇護もあり、この地方の名刹となる。
・天明元年(1781)から13年かけて、それ以前のいつかの火災ですべて焼失された堂舎の再建が行われた。この時にさざえ堂も造立された。(「上州のお寺とお宮」寺院編:上毛新聞社出版局(S53)より)※曹源寺火災焼失=さざえ堂着工=寛政5年(1793)説も見られるが、わからない。札所開創以降に被災のはずである。
・さざえ堂の完成時期は寛政10年(1978)といわれ、堂内の説明板は堂内最古である寛政12年(1800)の参詣者の墨書跡が「建物が存在した確実な証」と語る。
・さざえ堂は現在、嘉永3年(1852)に焼失した本堂の代わりとなっている。


曹源寺の他に現存するさざえ堂(計6堂)
・円通三匝堂(福島県会津)
・身院百体観音堂(埼玉県本庄市)
・蘭庭院六角堂(青森県弘前市)
・長禅寺三世堂(茨木県県取手市)
・西新井大師(総持寺)(東京都足立区)

最古のさざえ堂は、江戸・本所五ツ目にあった五百羅漢寺。寛保元年(1741)造立。廃仏毀釈で取壊しに。
・五百羅漢寺のさざえ堂は、葛飾北斎『富嶽三十六景』、江戸名所図絵に登場する人気の場所であったが、弘化年間(1844-48)の暴風雨や安政の大地震(1855)等で大破荒廃し、修繕されぬまま廃仏毀釈で取壊されてしまう。
・仏師・高村光雲氏の回想録「幕末維新懐古談」は、幕末期の五百羅漢寺のさざえ堂の様子を知り得る貴重な史料であります。
(これを読むと、五百羅漢寺のさざえ堂内に配されていたのは西国・坂東・秩父札所の百観音ではなかったようですが、なんと悲しい話でありましょうか。)

幕末維新懐古談 本所五ツ目の羅漢寺のこと/高村光雲
以下抜粋
「・・・堂の中には百観音が祭ってあった。上り下りに五十体ずつ並んで、それはまこと美事なもので・・・この百観音は、羅漢寺建立当時から、多くの信仰者が、親の冥福を祈るためとか、愛児の死の追善のためとか、いろいろ仏匠をもっての関係から寄進したものであって、いずれも中流以上の生活をしている人々の手から信仰的に成り立ったものであります。」「・・・その寄進された観音には京都の仏師もある。奈良の仏師もある。江戸の仏師が多分を占めてはおりますが、いずれも腕揃いであって、凡作は稀で、なかなか結構でありました。」「羅漢寺は名刹でありましたが、多年の風霜のために、大破損を致している。さりながら、時代は前に述べた通り、仏さまに対しては手酷しくやられたものであるから、さながらに仏法地に堕つるという感がありました。で、このお寺を維持保存するなどは容易のことではない。部分的にちょっとした修繕をするということさえむずかしい。」「彼の百観音を納めてある蠑螺堂のある場所を、神葬祭場にするという評判さえあって、この霊場の運命も段々心細くなるばかり……その中、とうとう蠑螺堂は取り毀すことになって、壊し屋に売ってしまいました」「その建築物の骨をば商売人が買ったが、その中に百観音が納まっている、さあ、この観音様の処分をどうしましたか。これが涙の出るようなことでありました。」(青空文庫作成ファイルより)

曹源寺は宝暦3年(1753)に開創された「東上州新田秩父三十四所の第24番である。
・「東上州新田秩父三十四所」の開創について、『強戸村(=太田市強戸)大沢山瑞光寺薫動が「近所の男女武州の秩父まで参詣なりがたき老若これあり」宝暦3年(1753)に金山(かなやま=太田市金山)の四方に秩父三十四を勧請した。』とある。(「上州の観音札所」みやま文庫:平成3年より)
・この札所霊場は平成20年(2008)に廃寺の整理や再編復興がなされ、現在は「新田秩父三十四所」となっている。

東上州新田秩父三十四所が開創された当時、曹源寺にさざえ堂はなかった。
・曹源寺の江戸期の年表(◆■は江戸本所五百羅漢寺のさざえ堂関係。)
①火災で堂宇全焼:元和年間(1596-1624)
②徳川幕府からの御朱印で復興:慶安2年(1649)
◆江戸本所五百羅漢寺のさざえ堂造立:寛保元年(1741)
③東上州新田秩父三十四所の開創:宝暦3年(1753)(◆から12年)
④曹源寺各堂舎火災・すべて焼失:不明(1753~1780?)
⑤曹源寺各堂舎再建(さざえ堂着工):天明元年(1781)
(◆から40年、③から28年)
⑥曹源寺各堂舎及びさざえ堂竣工:寛政10年(1798)
■「冨嶽三十六景」版行:天保2~5年(1831~34)
■「江戸名所図会」版行:天保5~7年(1834~36)
⑦曹源寺本堂焼失:嘉永5年(1852)。以降、さざえ堂が本堂に。
■江戸本所五百羅漢寺のさざえ堂取壊し(廃仏毀釈のピーク):明治元~4年(1868~
1871)

百観音巡礼の御利益を得たい民衆の欲求を、一ヶ所で叶える究極の集約施設造立
・時は五百羅漢寺さざえ堂の噂が華やかなりし頃。地元での観音霊場開創が叶った次は、西国・坂東・秩父・百観音霊場巡礼への憧れが募ったか。
・その時期、曹源寺の再建が重なった。百観音巡礼など生涯不可能と知っていた大多数の庶民との需要と供給という言葉もよぎる。

見学:巡礼開始は本尊の前。見逃さないように。

・太田桐生ICを降り、国道122号から曹源寺への枝道は幅員が狭く、すれ違い困難。
・清々とした快晴の日曜日ながら、参拝人は少ない。仁王門も、御砂踏参道の踏み石も鐘楼も気に留めず、国の重文建築の本堂へ。鰐口を仰ぐと、さつまいも色の梁に掲げられた新田一つ引(大中黒)の紋、合掌した観音さまの彫刻額とご詠歌に目が留まる。
・本堂に入るには外で靴を脱ぎ、中でスリッパに履き替える。見学料は大人1名300円。
受付の横に4種類の御朱印見本が並んでいたが、札所の印が入ったものはなかった気がする。見学は我々だけで、戻るまでに御朱印に日付を入れて下さった。
・受付を済ませたら一旦本尊の間まで引き返し、巡礼を始める。お堂入り口正面に本尊魚藍観音像がおわす間があり、そこから秩父一番が始まる。私は入堂し即、受付に気を取られ通り過ぎてしまい、秩父の途中からのスタートとなってしまった。(戻ってくるのだが)

巡礼の 憧れ癒す堂内に 今も息づく 江戸時代哉。

・平成27年~29年の「平成大規模保存修理事業」で、なるたけ本来の姿のままに復元したという堂内は、江戸時代でしかない。髷と和装で巡るが良い。
・1階に秩父34観音、2階に坂東33観音、3階に西国33観音。仏像は各霊場毎に統一された作風か。秩父の34体は同一製造者と一目でわかり、江戸時代のテーマパーク的な雰囲気を放つ。
・百観音巡礼が限られた人だけのものではなくなった今、古の人々の如く御利益を得たい一心で今ここを訪れる人は、果たしているのだろうか。江戸時代の空間に居ながら、なんとも場違い、バチあたりなことを考えてしまう。廃仏毀釈を逃れたのは神社とのゆかりがなかったためか?
・それぞれ仏像の上に御詠歌と風景画を描いた板がはめ込まれている。文や絵はすでに鮮明でなく、陽が届かぬところの判読は一層困難。それでも実際に訪れた札所の前では、参拝時の記憶が呼び起こされる。
・通路は螺旋・さざえ=曲線とスロープの組み合わせと想像していたが、屈曲は全て直角。太鼓橋や階段で高さをかせぎ、スロープは折り返してからしばらくの間だったか。構造を気に留めていなければ、なんなく歩いてしまう造りである。
・さざえ堂には屋根があり、仏像が傷まず、雨でも拝観できる。順路に迷いがない。太鼓橋が巡礼気分に花を添え、壁に筆で書かれた落書きも今や貴重な民俗資料である。堂内はほぼ空洞で、話し声はよく響くので気遣いされたし。

本尊はなぜ魚籃観音なのか。
・一巡し最後の階段を終えると、左に大黒様がおり、お堂入り口正面に本尊魚藍観音像がおわすではないか。入堂時、受付に気をとられ気付かなかった。線香を上げ、魚藍観世音の真言は何であったか...咄嗟に南無大慈大悲観世音菩薩を唱える。お顔は幕がかかり、拝見できなかった。
・さすが国重文指定の建築物、お堂内が段々賑やかになってきた。Youtuberなど目的が違う訪問者もおるので外に出て読経し、境内を後にした。
・今回は万徳寺、曹源寺とも読経のみだったので、両方のお寺の納札箱、納経所がどこかにあるか気付かなかった。

見学のアドバイス~堂内は江戸時代であることを忘れずに。

・暦は小寒、江戸時代のまま、しんとした堂内は、時間が経つうちに足元がかなり冷えました。冬季は分厚い靴下、つま先カイロなどで防寒しての見学をおすすめします。この辺りは真夏は日本の最高気温を記録する地域、お堂は窓を開けての拝観となるのか。

「武州の秩父まで参詣なりがたき時代」の庶民の巡礼事情を想像~甘くない・気軽でない・相当厳しい巡礼の旅
・太田市と秩父市の現在の中心地までおよそ55㎞。時速4㎞/hで休まず歩き続けて14時間かかります。また、県境の利根川を渡らなければなりません。川幅が広く水量の多い平坦地の利根川には橋は架けられず、舟で渡ったようです。
・歩くだけが移動方法だった昔の人は、現代人より健脚だったと思いますが、今とは路面状態も、履物も全然違います。当然、全て平坦な道ではありません。日の出に出発し、場所の見当がつくうちに秩父の宿にたどり着けたでしょうか。夜道には外灯もありません。
・歩く以外の移動手段は馬よりも断然、駕籠なんだそうです。馬は人を乗せて10㎞くらいは歩けたそうですが、馬子が引いて歩くので時間短縮どころか、のんびり長閑な旅になったでしょう。馬は旅の手段より、荷物の運搬の方が主な役割だったと思います。
・ちなみに馬は常歩(なみあし)で時速6.6㎞だそうです。成人男性を乗せた馬を、常歩以上のスピードで一日中走らせるとしたら、短い距離で馬を乗り継いでいくしかありません。また時代劇に出てくるサラブレッドは、江戸時代いませんでした。
・太田と秩父の往復に3日、三十四所巡拝に一週間とすれば10日間の行程です。その間、飯代はしっかりかかる。擦り切れた草鞋の替えを買う金も必要です。泊りはお寺の堂内に持参のムシロ敷きか、野宿。洗濯は小川で、寝ている間に乾けば良し。札所でのんびり時間を過ごすことは...なかったでしょう。わずか10日ですが、むさくるしく、決して気軽な旅ではないですね。これが関東一円を歩く坂東三十三札所だと道のりは1300㎞と言われ、西国はそれ以上と、所要日数と生活費は秩父三十四所巡礼の何十倍にも膨れあがる。季節と天候、日照時間から、西国・坂東・秩父の百観音巡拝が可能なのは一年のうち良くて半年。農繁期と完全に重なります。
・一生のうちに百観音霊場の巡礼資金を捻出できる農民は、いたのでしょうか。巡礼の間、田畑の面倒は誰が見るのでしょう。そこで村や講で経費を集め、代表者を選び巡礼に出す方法が生まれたのでしょう。覚悟が必要です。
・それにしても想像がつかないことばかりです。ミノを通して肌までずぶ濡れの土砂降りに、リュック代わりの箱笈(おい)や着替えが、濡れないように覆っておくビニール袋の代わりってあったんでしょうかねェ?風邪ひきますよ。江戸時代の巡礼の旅は、いつでもどこにでも行きたい放題の現代人の楽観的な想像の範疇から、大きく逸脱したものだったと思います。自分が半日、または一日ではたしてどれくらい歩けるのか試したい。水飲み場も調べておかないといけない。



 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上州三十三観音札所霊場第12番(その2) 観音山北野院 万徳寺(石山観音) 令和六年縁日

2024年01月22日 | 上州三十三観音霊場


当札所の概要 石山霊園(石山観音)のウェブサイト
石山観音のX(Twitter)アカウント
場所:群馬県伊勢崎市 赤堀町下触町(しもふれいちょう)4

真言宗豊山派 本尊:馬頭観世音菩薩

・年に一度、毎年1月第3週に行われる観音縁日。本尊、北関東随一の馬頭観音で一名「師子無畏観音」と、弘法大師作と伝わる秘仏、石山観音像の拝観へ。

令和6年1月20日(土曜日)
7:15 長野市内出発 長野真田線 地蔵峠~上田菅平IC
8:50 松井田妙義IC下車~下道
10:25 万徳寺(石山観音)着

・駐車場は満車、参拝客の多くはお焚上げの達磨を持参。境内は飲食屋台も出て賑わっている。
・今日は沢山お客さんが来るから、ネコチャン達は別の場所へ隔離!だそーです。(どうやって集められたのかは?知りません)

縁日法要(9:00~15:00)
10:00、11:00 観音堂(馬頭観音、秘仏聖観音石像) 
12:00 観空苑(本堂):(阿弥陀如来)
13:00、14:00 観音堂(馬頭観音、秘仏聖観音石像)

・観音堂内にて護摩焚き読経。南無家内安全・無病息災・交通安全・学業成就。
・堂内には馬頭観音像の他、如意輪観音、十一面千手観音、聖観音の像がおわす。
・観音堂の裏へ回り、正に「石山観音」の所以たる、嵯峨天皇代(大同四年(809)~弘仁十四年(823))、弘法大師がこの地を巡錫した折に岩頭に刻まれた「秘仏」聖観音石像を拝観。岩頭の聖観音像は堂の内部に突き出す形で、扉で保護されている。線香を上げ、御真言を唱える。

法要の合間、参詣者からの問いに住職が丁寧に答えてくださいました。

・「秘仏」聖観音石像の写真撮影はご遠慮ください。
元来の馬頭観音像はいつかの昔に盗難されてしまい、代わりの像となって久しいとのこと。
・かつての万徳寺は、この地の西(現地ではペヤング工場の方角)の農地の中にあり「下のお寺」と呼ばれ、石山観音は下触の住民がお守りしていた。
・万徳寺は江戸時代に焼失してしまい、その後ここ石山観音に移る。(「仁王門に安永五年1776年の棟札があった」ブログを拝読)。歴代住職は現在の竹藪の辺りに庫裏を建て暮らしていた。
・先代万徳寺住職の逝去後、親戚筋である現住職の兼務体制となり8年がたつ。縁日は以前より盛んである。
・現在の万徳寺には本堂が無いので、観空苑(石山霊園納骨堂)を本堂代わりとして阿弥陀如来をまつり、法事を行っている。
・「蒋総統 謹謝重恩の碑」(昭和55年建碑)は霊園の頂上、八海山大神石像の元にある。


札所としての歴史は?(書籍「上州の観音札所」を読んで)

・群馬県内に江戸時代から記録がある観音札所霊場を詳しく調べた「上州の観音札所(みやま文庫:平成3年)」に、嵯峨天皇代と伝わる石像観音がおわす万徳寺(石山観音)の名がないのは意外であった。万徳寺と石山観音が昔は別個であったからかも知れない。ここが札所となったのは、平成11年に新上州三十三観音霊場(現在の上州三十三観音霊場)が発足してからのようである。



 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上州三十三観音観音霊場第12番(その1) 観音山北野院 万徳寺(石山観音)

2024年01月16日 | 上州三十三観音霊場

観音堂と最年長の猫。

見守り観音とおびんずる猫 令和5年12月建立
上州三十三観音霊場の一覧

当札所の概要 石山霊園(石山観音)のウェブサイト
場所:群馬県伊勢崎市 赤堀町下触町(しもふれいちょう)4

真言宗豊山派 本尊:馬頭観世音菩薩
ご詠歌:玉とむすび 蓮葉におきたる 露の一雫 ながきは人の願いにて 短きものは命なり
(「玉とむすびてはちすばに おきたる露の一雫 ながきは人の願いにて 短きものは命なり」
とは、曹洞宗でお唱えする御詠歌・御和讃である梅花流詠讃歌「追善供養御和讃」の一節だそうです(昭和35年作)。曹洞宗ネットより。)

・この日、群馬県玉村町で三遊亭白鳥・蝶花楼桃花両師匠が出演する落語会があり、併せて群馬県内の札所見学を思いついた。万徳寺は境内に猫がいるお寺と知り、弟家族と、共に暮らすネコチャン3匹の平穏を願い、読経奉納に訪れるに至る。


令和6年1月14日(日曜日)
7:00 長野市発
9:00 万徳寺(石山観音)着
・北関東道 波志江SIC下車、県道103号深津伊勢崎線を北上5分。左に「観空苑 石山霊園万徳寺」の看板と駐車場がある。万徳寺を境に北は前橋市となる。
・入り口に鳥居がある。「本山の鳥居は本地垂迹(すいじゃく)の説、神仏混合によるもの」と山門裏に説明がある。入口標高104m、墓地斜面を上り境内へ。境内標高121m。

無住
・万徳寺は無住。石山霊園(石山観音)Webに併記のある前橋市の同宗派の阿弥陀山寶珠院 観昌寺の住職が、玉村山吉祥院 観照寺とともに兼務されている。
・訪問日には霊園の納骨堂「観空苑」(境内山門の東側)の管理人さんが、お守り・お札販売所の清掃に出入りしていたが、万徳寺に関する知識は無く、普段は霊園経営が主なのだと感じられた。

猫が住んでいるお寺、御朱印にも猫が

・山門入口は降雪の心配がないのか、割石を敷詰めた斜面。左の手水舎は流水なし。
・山門をくぐり、群馬県重文指定・直径日本一の鰐口を鳴らす。正面に観音堂。建築物は全て朱色で統一されている。
・山門阿形像の裏手に「上州 石山観音沿革 平成4年壬申睦月十八日 石山観音第42世 聖賢代 寄贈 品田松太郎」と記された2枚の説明額あり。嵯峨天皇の時代に、弘法大師がここに立ち寄り、巨石群の岩頭に観音像を彫刻した。以来、観音霊場として伝承されているとのこと。
淀みなく、ずばりとした文体で簡潔に当霊場の概要が説明されている。文章は石山霊園(石山観音)Webにそのまま転用されている。(※なお、第二次世界大戦後、蒋介石が日本が4つに分断されることを阻止したとの話は、ここで初めて知った。)
・その説明額の下に、ネコチャン達のねぐらであろう段ボール箱と毛布が置いてある。観音様に猫が遊ぶ「見守り観音」と「おびんずる猫」の石像が令和5年12月に建立された。
・観音堂の扉は施錠され、格子から堂内を覗くと本尊厨子は閉められており、その右側に十一面千手観音が見えた。
・御朱印は観音堂横のお守り・お札販売所にある書き置きのみ。通常と猫絵入りの二種類があり、本尊馬頭観音の御影も付いていた。御朱印代は賽銭箱に奉納。
・観音堂の裏には「石山観音」と呼ばれる所以の巨大岩塊群(塁岩)が唐突に存在しており、周囲に石塔・石神仏像が配されている。
・観音堂西面に「願主 品田松太郎」書による帝釈天、インドラ、婆羅門教の説明額。東面の壁半分に「交通安全守り本山 石山観音」として昭和50年代前半に作成された「かるた風の標語集」がある。

年号整理
・開山:奈良時代末期、延暦3年(784)・・・1240年前
・聖観音石像「弘法大師がこの地を巡錫した折に聖観音像を一夜で厳頭に刻し二十一日間この石上で修法さる。」:嵯峨天皇代=平安前期(大同四年(809)~弘仁十四年(823)・・・1200年前
・鐘楼(鐘はない。戦時供出のためという。):室町時代末、元亀年間(1570~1573)・・・450年前
・山門:江戸後期、安永5年(1776)・・・248年前
・石の大鳥居:天明4年(1784)・・・240年前 馬喰により寄進。
・群馬県重文指定、直径日本一の鰐口:江戸後期、天明7年(1787)・・・237年前
・「蒋総統 謹謝重恩の碑」:昭和55年(1980)建碑
・「見守り観音」と「おびんずる猫」の石像:令和5年12月(2024)建立

猫の餌やりに来ていた地元の方から最近のお寺の話を伺うことが出来た。
「この先、猫を飼えない年寄りはここで猫の世話に来るのが楽しみ。動物遺棄が厳罰となる以前に、ここに捨てられた猫が住み着いて一番多い時に8匹、今は5匹がいる。一番長いので10年いる。動物遺棄がないように「見守り観音」さまと、具合が悪い猫の病気治癒を願う「おびんずる猫」が先日できたところ。」

訪れた感想
・今回一時間の滞在だったが、多彩な見どころを理解し、周辺の眺望を楽しむには半日要る。本尊拝観の機会に再訪してみたい。
・観音堂裏は木が茂り昼でも薄暗く、石塔石像の形状、文字を明らかにするにはライト必携。
・蒋総統の顕彰碑、石塔石像群の配置と説明を記したものがあれば大変に助かります。(※蒋総統の顕彰碑は霊園頂上のクスノキの北側にある。1/20確認。)
・万徳寺のいわれ、建物や石像、岩塊群、猫など、詳しい視点で書かれたブログは多々あり。

訪問後に本尊の拝観は可能であるか、その他未確認事項を、兼務されている住職に電話で確認しました。
・本尊は年に一度だけ、1月第三週の初縁日に開帳。併せて石山にある阿弥陀如来石像も公開される。
・令和6年初縁日は1月20日の土曜日、9時より。「ぜひお越しください」とのことです。
・「無住」に書いた通り、住職は3つのお寺を兼務され、石山観音ウエブサイトに記載のある電話番号で通じるとのことです。
・「無住で御朱印は書き置きですが、普段お参りの際はできれば般若心経と、お堂に書いてある本尊馬頭観世音の真言をお唱えください。」とのこと。

石山観音のX(Twitter)アカウント

周囲は田畑、関東平野のど真ん中に、なぜ唐突に岩石群が?
15万年前の赤城山噴火で飛んできた「流れ山」とのことです。



   






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする