けにーやじま (旧無礼講ロッカーズ)

信濃三十三観音札所NOW!
令和以降は長野県内外の札所めぐり、古刹名刹訪問記が主です。

令和6年西国三十三所巡礼(3) 播州路~北摂 24番紫雲山中山寺

2024年12月07日 | 西国三十三所巡礼

・書写駐車場から中山寺へ、まずは姫路東ICに向かおうとしたら夢前川を渡ってすぐに子供神輿の交通規制に引っ掛かった。街中は混雑と判断、これ幸いとUターンして夢前川沿いの県道R67夢前川姫路神河線を北上した。
・県道は自転車で走りたくなるいい雰囲気の平地。県道80号宍粟香寺(しそうこうでら)線に入り山を超え、JR播但線香呂駅、そして播但連絡道船津IC、福崎ICからE2Aに入った。
途中、もう一度加東市のR372沿いにある東経135度「日本中央標準時子午線標柱」に寄って記念撮影をしたいと思っていた。(※360°/24時間=15°/1時間なので、東経135度に設定すれば経度0度のグリニッジ子午線との時差は135/15=9時間ちょうどになる。)
・加東市に立ち寄るかおおいに迷ったが、高速に降りて乗っては金がかかるし、下道が渋滞したら播州清水寺で授かったご利益が無になるおそれもあり、そのまま宝塚ICへ向かった。
・昼飯はSAでパンを買い運転しながら食う。SAのお土産物では丹波黒豆甘納豆が当たり。
・予定では札所から札所への道すがら、下道に点在するカフェで種類沢山のおかずのランチをゆっくりと思っていたが、まったく時間が足りない。昼飯は補給程度に、札所に茶屋があればそこで済ませるが良い。
・西宮に入ると山の上まで容赦なく開発された激坂の住宅地に、特徴的な外観の住宅が並ぶ日本のニュータウンの代表的な光景が見られる。
・順調に走り15:00に阪急中山観音寺駅南側の駐車場に到着。納経受付終了まで一時間半あり、余裕はある。
・阪急線の横断地下道口に中山寺参道と銘板がある。反対側に出ると参道の趣。たこ焼き屋、お好み焼き屋もあり関西らしい。

24番紫雲山中山寺(真言宗中山寺派 本尊:十一面観世音菩薩)
圧倒的存在を誇る紺碧の五重塔。
大胆・華美・近代的・和洋折衷の新建築。


・安産祈願に良いというされる戌の日で、夫婦だけでなく家族総出の参拝者も多く、たいへん賑やか。屋台も多い。本堂へ向かう石段にエスカレーターが並び、身重の方、お年寄りの方にはよろし。
・山門をくぐると、奥に紺碧の地中海を思わせる五重塔がひときわ輝きを放つ。「青龍塔」しょうりゅうとうと読み、平成29年建立。
・「北摂の地に紫雲たなびく中山寺」と言われた当地を囲んでしまったニュータウン風情を圧倒し存在感は充分。400年前に戦乱で失われてしまった五重塔と多宝塔(大願塔)の再建は中山寺の長年の悲願だったと案内にある。
・山門、境内の建物の木材小口は全て白塗りで、建物に明るさを与える。これに手すりの赤、五重塔の紺碧、所々に金色が交わって境内はきらびやか。今回訪れた播磨の天台三寺とはまったく雰囲気が違う。
・平成19年に建立された大願塔は一見どこでも見られる朱塗りの多宝塔であるが、1階にステンドグラスがはめられていた。よく見ると観音像があしらわれているのだが、「仏教寺院なのにどうしてステンドグラスが?」と違和感が先立つ。
・鎮守社から大願塔を一周してみると、エレベーターがあった。寺宝の重量物を運ぶなら当然の設備であろう。扉はツヤあり朱塗りに金の菊の御門があしらわれた大胆なデザイン。見る度に気が引き締まって、これでいいのかも。
・五百羅漢堂の下階にある千体仏が奉納されている涅槃堂も和洋折衷というのか、朱と金色でまとめられ、近づき難い雰囲気があった。天井も一色で塗られ木材の存在が薄い。
・五百羅漢堂は納経所、寺務所でもある紫雲閣と併せ創建1400年の事業で多宝塔より一足先に再建された。
・耐火のため木造でないのは仕方ないが、新建築物内部のつやのある色調とステンドグラスなど洋風の材質の質感は、高額なブランデーを出すナイトクラブの佇まいを連想させるのであった。極楽で飲むなら、私はシングルモルトを楽しめるバーの雰囲気の方が好きだ。

華美和洋折衷と正反対な存在感、石の櫃(からと)

・納経所が閉まる頃に御朱印をいただき、中山寺を出た。
・阪急線をくぐり何気なく目にした「駅周辺案内図」で、中山寺の起源を伝える重大な古墳と「石棺」を見落としたことに気付いて引き返す。拝観料がなくて幸いであった。
・入山前に山門の横にある境内全体の見取り図をよく見ておくべし。
・石室に入り、飛鳥時代のままに残る石棺と時を超えての対面は、畏れ多く気持ちが昂る。


中山寺時系列メモ 創建以前の古事を今に伝える。


古墳時代
・古墳は古墳時代後期6世紀頃の横穴式石室で、第14代天皇の仲哀天皇(391~400)の最初の妃、大中津比売(おおなかつひめ)の奥城(おくつき)と言われる。
◇仲哀天皇は後に息長足姫(後の神功皇后、新羅人の血を引く丹波主家の末裔)と、朝鮮半島動乱中の新羅に攻め入るため、政略結婚をする。
◇仲哀天皇に仕えながら神功皇后とともに仲哀天皇を暗殺し、神罰に偽装した武内宿禰(たけしウチノすくね)は、蘇我氏の祖先。
飛鳥時代 創建
・聖徳太子の子孫(中大兄皇子と中臣鎌足)が7世紀に大中津比売と物部守屋の冥福を祈り、中山寺を建立。
◇聖徳太子は蘇我馬子と組んで物部守屋を討ったが、聖徳太子の子孫と蘇我馬子の子孫(蝦夷、入鹿)は敵対し、蘇我入鹿は討たれた。
奈良時代
※大和国長谷寺の開祖徳道上人が病で仮死状態になった際に冥土で閻魔大王にお会いになり、「生前の悪行によって地獄へ送られる者が多い。観音霊場へ参り功徳を得られるよう、人々に観音菩薩の慈悲の心を説け。」とのお告げを受けました。閻魔大王の御宝印と起請文を授かり現世へ戻り、観音信仰の流布に努められました。しかしながら当時は世に浸透せず、巡礼は発展しませんでした。
※西国三十三所の御朱印は、謂わば閻魔大王のお墨付きを頂戴した極楽浄土への通行手形となり得ます。
・養老2年(718)徳道上人は巡礼の機が熟するのを待つため、閻魔大王から授かった御宝印を中山寺の石の櫃(からと)に納める。
平安時代
・平安時代10世紀のはじめ第59代宇多天皇の頃に真言宗寺院となり、十一面観音の信仰が盛んになり現在に至る。
・第六十五代花山天皇(968-1008)が退位後仏門に入られ、石の櫃から御宝印を取り出し西国三十三所を再興された際、中山寺を第一番としたという。中山寺はいつの頃からか二十四番札所に定められた。
※これらから中山寺は極楽の中心と呼ばれ、毎年8月9日には西国三十三観音が星にのって一堂に中山寺に集まる「星下りの大会式」が盛大に行われるという。
・摂津国多田の地に武士団を形成した源満仲(多田満仲)が、中山寺を祈願所とする。八代目当主行綱(1180頃)「鐘の緒」安産信仰の始まり。
安土桃山時代
・天正6年(1578)に始まった、荒木村重(1535-1586)と織田信長との有岡城の戦いの戦火を受けて多宝塔や五重塔を含む全山が焼失。
・豊臣秀吉の安産祈願。
・慶長8年(1603)豊臣秀吉の安産祈願の後に出生した子、豊臣秀頼が中山寺を復興。二年後に完成。
江戸幕末
・嘉永5年(1852)中山一位局が明治天皇を出産する時に安産祈願し平産したことから、日本唯一の明治天皇勅願所となる。
平成
・五百羅漢堂、寺務所など創建1400年の再築/新築事業。平成19年(2007)多宝塔、29年(2017)五重塔の建立は秀頼の復興ではなし得ず、400年に及ぶ悲願を達成。

調べたところ以上が中山寺の時系列のあらましです。※印は中山寺の歴史より


令和6年西国三十三所巡礼 おわり。

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令和6年西国三十三所巡礼(2) 播州路 27番書写山圓教寺

2024年11月24日 | 西国三十三所巡礼

巡礼二日目(その1)27番書写山圓教寺(天台宗 本尊:如意輪観世音菩薩)

・6:30に朝食、7:30過ぎに出発。朝食開始+1時間で出発、これが妥当なペース。まず27番圓教寺、午後は24番中山寺に向かう。
・宿を出てから続く四車線の広大な一方通行路、十二所前線が素晴らしい。
・書写山への街道は秋祭りの幟と大きな青や黄色の、大きいヒマワリのような「シデ」が飾られ賑やか。(御立住吉神社秋祭りだったか?失念)後で播磨は褌一丁の勇壮な祭りが盛んな地方だと知った。

書写山 東坂登山道

・その昔書写山にスサノオノミコトが山頂に降り立って1泊したという伝説があり、その名の「スサ」が「書写」の由来という。またこの辺りの地名は夢前(ゆめさき)と言う。なんと良い響きではないか。
・ロープウエイ駅の近隣、この朝っぱらに山陽道高架下の山ぎわで、一人の外国人旅行者がスマホ片手に右往左往。登山道は六方にあり、チャレンジ精神旺盛な海外からの旅行者も書写山を登っての圓教寺巡礼に興味深々のようだ。
・8:00に駐車場を東坂登山道口へ出発。散歩の方が道順を教えて下さり迷わず登山口に到着。標高40m。
・麓の集落からこだまする祭り囃子を聞きながら歩く。かつて書写山は女人禁制で、女人巡礼が納札した如意輪寺からの道と合流した後に岩肌の山となり、徐々に瀬戸内への眺望が開ける。
・淡路島、小豆島方面が良く見え、朝の出発で良かった。当初予定の午後からの登山では逆光で眺望が得られるか懸念だった。
・登山口から1.8㎞、歩行時間実質30分で標高250mのロープウェイ駅到着。眺望よろし。ここで折り返す散歩の人も多い。いいコースである!
・ロープウェイ駅と志納所の間には、圓教寺開祖性空上人と縁のある和泉式部の生立ちを追った大きな絵看板が並ぶ。これはよく読むべし。個人から寄贈されたものである。
・志納所で入山料500円を支払い、案内図をもらう。ここで本堂摩尼殿まで行くバス道と登山道が分かれる。バス道はかつて馬車道といい、平成12年まで観光馬車が通っていた。

とにかく広い!一山が境内、西の叡山と呼ばれる所以。
・登山道を行くと仁王門をくぐることができる。28番成相寺と同じである。足の悪い方はバスで。
・登山道で最初に見られる札所本尊の如意輪観音像を模した銅像は、秘仏開帳の際に感銘を受けた企業主が普段拝観できない人のために制作され奉納したもの。
・次に慈悲の鐘をつく。その後は高さ二尺の三十三所の観音像が間隔を置いて順番に並ぶ。途中、瀬戸内の眺望が開ける場所がある。土地勘か望遠レンズがあれば姫路城もわかるらしい。スマホでは何だかわからん。
・仁王門をくぐると、予約すれば精進料理が出される壽量院がある。日陰にひっそりとした佇まい。
・沐浴場があった湯屋橋を渡り、摩尼殿への石段に着いた。志納所から摩尼殿まで1.5㎞、歩くだけなら25分と散歩の方は言っていたが、ところどころ足を留める分だけ時間はかかった。
・ひたすら仏法修行のため、俗世間とも女人とも隔絶し、山中に別世界を造る。その財力と労働力ははどこに?
・主材の材木と燃料の薪の調達は早かったにしろ、完全人力の時代。風呂の鉄や、積み石材の運搬の知恵が知りたくなった。

寺額にずっしり金色で著された「摩尼殿」の文字が境内全域に光を放つ
・札所本尊の如意輪観音がおわす摩尼殿は、一乗寺同様、懸造りで山からせり出し、石段は摩尼殿の東側に向かって伸びている。

・堂内はロープウェイとバスを乗り継いだ大勢の参拝客で混雑し、線香の煙は展望回廊にも立ちこめている。いかに心を静め読経するか。内陣に入った。

■圓教寺境内案内図。下赤線は回らなかった場所。



山奥に広々とした庭、写経ができる食堂(じきどう)

・納経を終え、「三つの堂」へ歩く。「三つの堂」とは「大講堂」=僧侶学びの場、「食堂」=僧侶寝起き生活の場、「常行堂」=僧侶修行の場、とのことで、三棟はコの字に庭を囲む。
・圓教寺をインターネット検索すると、関連して「2003年の米映画、ラストサムライ」「大河ドラマ軍師官兵衛」と出てくる。そのロケ地を提供した「三つの堂」は境内随一シンボリックな場所とされているのだった。
・前夜ここで行われたコンサートの撤収作業中でパイプ椅子がガチャガチャと騒々しく、不安になったが、
10時きっかりに作業が完了し、静かで広々清々した空間になった。本来の佇まいが戻ったと感じホッとした。
・派手さと無縁、清々とした境内にキリっと漂う真面目さと厳しさ。播州清水寺、一乗寺そしてこの圓教寺と天台宗の三所に共通した空気を感じ取った。
・食堂(じきどう)の一階では庭を正面にして、写経体験が出来るのであった。体験料は用紙に筆ペン貸与で二千円。当然般若心経と思いきや、四十二文字の十句観音経は500円で写経できるとある。
おお、これを持って中山寺への道すがら、花山院に納経すれば良いではないか!そう閃くと、この後の予定を変更せねばと、またも忙しなく案じ始めるのだった。><
・だが、写経の際の注意書きをよく読むと、写経は門外不出だと!そういうものなのかと知って、平常心に戻った。
・本来の仏果菩提の為書きのものは持参し摩尼殿に納経したので、ここでは家族の安全を願い納めた。良いロケーションで良い体験ができる。
食堂で写経。左に大講堂、右手に常行堂。

・令和4年善光寺御開帳で開設された信濃三十三所のコーナーでの十句観音経の写経も思い出し、「いざとなったら筆ペンと写経用紙に十句観音経」の心構えが備わった次第。
・食堂二階には寺伝や宝物の写真が展示され、これが面白い。弁慶のやりたい放題伝説の数々、怒りに碁石をめり込ませた碁盤など良く見るべし。
・???食堂なのに写経道場に展示館ということは、僧侶の生活の場ではなくなったのか?実は食堂は数百年間放置されており、昭和38年に解体修理して現在の形に完成されたとのこと。修理以前の様子が記録された資料があれば見てみたい。
・奥の院へ。梵字が刻まれた和泉式部の歌塚をお参りして、ロープウェイ駅へ戻る。圓教寺歩きは和泉式部に始まり和泉式部で終わるのだった。
・現在は映画ロケやコンサートを催すだけあって、バスルートと「三つの堂」をつなぐ車道もある。
この広い境内を、用事を言い使っては堂から堂へ院から院へと、雨が降ろうが雪が降ろうが下駄履き雪駄履きで駆けずり回る古の若い僧侶の姿を想像しながらの帰路となった
・ロープウエイで下る。下界の田んぼは稲刈りの盛り。コンバインで刈った藁束が、花びら型に広げて置かれていたのが見えた。粋なことをしなさる。
・駐車場着13時。出発からあっという間の5時間、歩いた距離は7㎞を超えた。回れなかった院坊も多く、やはり一日一所が妥当であろう。

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令和6年西国三十三所巡礼(1) 播州路 花山院、25番播州清水寺、26番法華山一乗寺

2024年11月22日 | 西国三十三所巡礼

自宅から最も遠い西国札所27番へ~
令和6年西国巡礼播州路 計画の要諦

・10/12~14日の三連休に24~27番と番外花山院へ。西国巡礼は例年紅葉の時期を見計らい11月半ばだったが、日没が早く行動時間が短すぎた。
・今回、27番圓教寺書写駐車場までは片道530㎞。なんと昨年の1番青岸渡寺巡礼(片道510㎞)よりも遠い。自宅から最も遠い西国札所である。
・同様前日の夕方に出発し、夜間を長距離移動に充てる。
・札所に近く、かつ朝食が早い宿に泊まる。
・山門近くに駐車場がある山寺でも、参道があれば山歩きする。
・開門時間前に参道の山歩きを終え参拝時間を確保。すなわち朝一番は、長い山歩きがある播州清水寺か圓教寺。花山院と中山寺は開門が9:00からなので収まりの良い時間帯に。
・最終日4日目は短距離移動でAM中の帰宅を目指す。3日目に中山寺を立った後は長野県境の岐阜県恵那、中津川で一泊休息したかったが空き宿はなく、土岐市に泊まった。
・時間に余裕があったら国宝のある加東市の朝光寺、小野市の浄土寺や、加西市の五百羅漢寺、鶉野飛行場の紫電改、立杭焼などなど...に立ち寄りたいと思っていた。

巡礼二日間の計画と実際↓


巡礼1日目 中国道(E2A)宝塚付近の大自然渋滞に予定変更を迫られる><。
・前日は長野市を16:00に出て、大阪伊丹空港近隣の宿に23:00に到着した。
・翌朝は6:30に朝食。予定していた7:00の出発は忙しすぎて無理だった。準備万端整え7:30に宿を立ち、中国道池田ICに入ると即大渋滞に巻き込まれた。
・三田西ICまで行くはずだったが、このままでは巡礼が不可能になると判断し、宝塚ICで、たった1区間で下りた。
・下道も含め渋滞を抜けたのは9:00近く。宿を出て1時間30分弱の走行距離がたったの13㎞。予定を大きく変更し、翌日訪れるはずだった花山院から巡礼する。

番外:花山院菩提寺 札所巡礼の心得を知る

・参道は急勾配の舗装路。道中眺望がなく、山門まで車で行けたことを幸いとした。
・花山法皇殿に上がり読経。別世界のような、落ち着いた良い雰囲気の境内である。
・だが渋滞の時間ロストが気になり余裕がない。境内を一回りしたつもりが、有名な幸せの七地蔵尊も花山法皇御廟所も、見ず終い。「十二尼妃の墓」の存在も失念。
・納経所に御朱印をいただきに行くと、横の写経道場に「写経納経してこその巡礼、札所巡りは御朱印集めのスタンプラリーではない」旨の心得が目に留まる。
・今の世にも西国巡礼が伝わるのは、平安時代にこの花山法皇の三十三所巡礼再興があったからこそ、の心得掲示であり、番外だからいいか...と、花山院の分の写経を持参しなかったことを恥じ入り、後悔した。
・ここにいつまた来られるかも知れず、かと言って今時間があるわけでもない。それでも道場で写経できるかたずねてみたが、写経教室開催時のみとのことで、今はどうにもならない。
・展望所から有間富士や小豆島を眺めてみても気はそぞろ。後で道具を買い宿で写経して、帰り道に納経できれば良いが...と忙しなく思いを巡らせた。
(時間と場所さえあれば境内での写経もおかしくないと思う。)

25番:播州清水寺(天台宗 本尊:十一面千手観世音菩薩(秘仏)) 

・田んぼの中の県道を播州清水寺へ急ぐ。車で山門駐車場まで行ってしまえば渋滞の時間ロストが挽回できる。
・しかしこれは巡礼であり、山の参道を行くことが、古人の心意気と今の自分を重ね合わせられるただ一つの体験なのだ。
・山門駐車場までバスもあり登山口にも停車するが、1日2便1台の運行ゆえにどうしても前後の行動と時間が合わない。よって予定どおり、帰りも歩く覚悟でいた。
・今回予定の24番中山寺は電車駅にも近くだし、次回の巡礼で!と決心し登山道を進む。
・登山道は1.8㎞、実際の歩行時間は40分だった。杉林に囲まれた緩い坂道で、S字カーブは上の道へガッツンガッツンよじ登りショートカット。参道の眺望は時折、わずかに三田の町が覗く程度。
・最後に昔の山門があった大きな階段を上り終えると、城壁のように立派な石垣白塀が目に飛び込んでくる。この山中にこの巨大な施設をどう拵えたのか想像がつかない。
・その先の階段の上で清々堂々と扉を開いている大講堂を見上げると、おおらかに迎え入れられるようであった。

薬師堂と地蔵堂
・薬師堂の「十二神将」、地蔵堂のお地蔵さんはそれぞれ著名な東京芸術大学出身者の作品で、ひときわ目を引く。精緻で格調高く、いつまでも鑑賞していられる。
・昭和50年に登山口から現山門駐車場まで車道が開通し、山門、薬師堂、地蔵堂などの再建工事が続々と進んだようである。(昭和48年刊のガイド本では台風などで荒廃したままの播州清水寺をよそに、田畑を売り払いニュータウン化とゴルフ場造成に舞い上がる近隣地域を嘆く記述がある。)
・境内は広い。根本中堂への階段は、張り切って参道を登った疲れが一気に出て、腹が減った。
・清水茶屋に下り、昆布うどん、ぜんざいをすすりながらタクシーを呼んで下るか思案していたら、登山口まで車で送っていただける御利益に授かった。
・一乗寺を参拝できる目途が立ったことが大変にありがたく、朝の渋滞で失われた時間を嘆く忙しなさは心から消え去った。

26番:法華山一乗寺(天台宗 本尊:聖観音(秘仏))

・播州清水寺登山口と一乗寺の間は35㎞。歩くと丸1日かかるではないか。
・国道372号線に入ると間もなく加東市の東経135度=日本標準時子午線の標柱を見つけた。交通量が多く停車できず残念。
・国道372号は旧街道から発展した道で水田地帯をひた走る。巡礼はさぞ過酷な平野歩きだったか...と思っていたが、この国道は巡礼者が体を休めた旅籠や茶屋があった旧街道の町中を迂回しているわけで、事前に調べて町中を通ってみたかった(イ)。この道で21番穴太寺に行くのも趣がある旅となろう。
・一乗寺は境内から離れたところに知る人ぞ知る山門がある。最寄りの坂本集落に山門までの旧道の碑があり、駐車できれば参道を歩きたかったが、見つかりそうになく一乗寺駐車場へ。(ロ)
※(イ)加東市の道標(ロ)加西市の道標 
「旧街道に残る道標」(とても詳しい。)

いにしえの粋を伝える、天井へ風車の羽根のように打ち付けられた納札

・境内に入ると「孝徳天皇勅願創建 西国二十六番 天台宗別格本山 法華山一乗寺」と彫られたぶっとくでかい、堂々たる寺標(寺の名が刻まれた石柱)がある。
・本堂は長い階段の正面になくZ字に配置され、三重塔に見え隠れ全体が独特な立体感がある。
・平成12年から20年にかけて、平成11年の台風災害で被災した本堂の大規模な解体再築、基礎から改修した大工事があったとのこと。開山堂への道脇には砂防水路があり災害時に沢が暴れた事を偲ばせた。
・国宝三重塔(平安時代承安元年:1171年に建立)を見ていて思い出した。本堂の天井を見なければ。
・納札本堂の天井へ風車の羽根のように打ち付けられた納札は、ここだけでしか見られないという。・・・たいへんに粋でおつなものである。
・いにしえ巡礼者は33枚の札を持ち歩いていたのか?同じ形のものだから、ここだけで頒布/販売していたのかも。
・今は紙の納札に願い事を書き、納札箱にはらりと入れる。目に見える証を残すことは難しい。
・このお寺も坂道階段移動が多く清水寺登山の疲労が出た。
・前立の観音像が拝観できる宝物館は要予約ということだったが、見るべきだった。巡礼は一日一所が理想であろう。
・一乗寺は周りを囲む山々を蓮の葉に見立て、その中心に建立されたとのこと。山に囲まれているせいで、うす暗くなるのが早い。
・再び帰りも同じ道をたどり、山門で車を降りてみる。参道は落ち葉に延々と埋もれていた。
・県道372号を姫路市内へ。このカンカンの夕陽を浴びながら田んぼ道を宿へ急ぐ、いにしえ巡礼者もいただろう。
・姫路駅近くの宿に着き、ライトアップされた白鷺城へ散歩。アーケードは人通りが多く、姫路は大都会。(巡礼2日目につづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

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