・書写駐車場から中山寺へ、まずは姫路東ICに向かおうとしたら夢前川を渡ってすぐに子供神輿の交通規制に引っ掛かった。街中は混雑と判断、これ幸いとUターンして夢前川沿いの県道R67夢前川姫路神河線を北上した。
・県道は自転車で走りたくなるいい雰囲気の平地。県道80号宍粟香寺(しそうこうでら)線に入り山を超え、JR播但線香呂駅、そして播但連絡道船津IC、福崎ICからE2Aに入った。
・途中、もう一度加東市のR372沿いにある東経135度「日本中央標準時子午線標柱」に寄って記念撮影をしたいと思っていた。(※360°/24時間=15°/1時間なので、東経135度に設定すれば経度0度のグリニッジ子午線との時差は135/15=9時間ちょうどになる。)
・加東市に立ち寄るかおおいに迷ったが、高速に降りて乗っては金がかかるし、下道が渋滞したら播州清水寺で授かったご利益が無になるおそれもあり、そのまま宝塚ICへ向かった。
・昼飯はSAでパンを買い運転しながら食う。SAのお土産物では丹波黒豆甘納豆が当たり。
・予定では札所から札所への道すがら、下道に点在するカフェで種類沢山のおかずのランチをゆっくりと思っていたが、まったく時間が足りない。昼飯は補給程度に、札所に茶屋があればそこで済ませるが良い。
・西宮に入ると山の上まで容赦なく開発された激坂の住宅地に、特徴的な外観の住宅が並ぶ日本のニュータウンの代表的な光景が見られる。
・順調に走り15:00に阪急中山観音寺駅南側の駐車場に到着。納経受付終了まで一時間半あり、余裕はある。
・阪急線の横断地下道口に中山寺参道と銘板がある。反対側に出ると参道の趣。たこ焼き屋、お好み焼き屋もあり関西らしい。
24番紫雲山中山寺(真言宗中山寺派 本尊:十一面観世音菩薩)
圧倒的存在、地中海を思わせる紺碧の五重塔。
大胆・華美・近代的・和洋折衷の新建築。
・安産祈願に良いというされる戌の日で、夫婦だけでなく家族総出の参拝者も多く、たいへん賑やか。屋台も多い。本堂へ向かう石段にエスカレーターが並び、身重の方、お年寄りの方にはよろし。
・山門をくぐると、奥に紺碧の地中海を思わせる五重塔がひときわ輝きを放つ。「青龍塔」しょうりゅうとうと読み、平成29年建立。
・「北摂の地に紫雲たなびく中山寺」と言われた当地を囲んでしまったニュータウン風情を圧倒し存在感は充分。400年前に戦乱で失われてしまった五重塔と多宝塔(大願塔)の再建は中山寺の長年の悲願だったと案内にある。
・山門、境内の建物の木材小口は全て白塗りで、建物に明るさを与える。これに手すりの赤、五重塔の紺碧、所々に金色が交わって境内はきらびやか。今回訪れた播磨の天台三寺とはまったく雰囲気が違う。
・平成19年に建立された大願塔は一見どこでも見られる朱塗りの多宝塔であるが、1階にステンドグラスがはめられていた。「仏教寺院なのにどうして?」と大いに違和感が。よく見ると観音像があしらわれていた。
・鎮守社から大願塔を一周してみると、エレベーターがあった。寺宝の重量物を運ぶなら当然の設備であろう。扉はツヤあり朱塗りに金の菊の御門があしらわれた大胆なデザイン。見る度に気が引き締まって、これでいいのかも。
・五百羅漢堂の下階にある千体仏が奉納されている涅槃堂も和洋折衷というのか、朱と金色でまとめられ、近づき難い雰囲気があった。天井も一色で塗られ木材の存在が薄い。
・五百羅漢堂は納経所、寺務所でもある紫雲閣と併せ創建1400年の事業で多宝塔より一足先に再建された。
・耐火のため木造でないのは仕方ないが、新建築物内部のつやのある色調とステンドグラスなど洋風の材質の質感は、私にはホストクラブやナイトクラブを連想させるのであった。
華美和洋折衷と正反対な存在感、石の櫃(からと)
・納経所が閉まる頃に御朱印をいただき、中山寺を出た。
・阪急線をくぐり何気なく目にした「駅周辺案内図」で、中山寺の起源を伝える重大な古墳と「石棺」を見落としたことに気付いて引き返す。拝観料がなくて幸いであった。
・入山前に山門の横にある境内全体の見取り図をよく見ておくべし。
・石室に入り、飛鳥時代のままに残る石棺と時を超えての対面は、畏れ多く気持ちが昂る。
中山寺時系列メモ 創建以前の古事を今に伝える。
古墳時代
・古墳は古墳時代後期6世紀頃の横穴式石室で、第14代天皇の仲哀天皇(391~400)の最初の妃、大中津比売(おおなかつひめ)の奥城(おくつき)と言われる。
◇仲哀天皇は後に息長足姫(後の神功皇后、新羅人の血を引く丹波主家の末裔)と、朝鮮半島動乱中の新羅に攻め入るため、政略結婚をする。
◇仲哀天皇に仕えながら神功皇后とともに仲哀天皇を暗殺し、神罰に偽装した武内宿禰(たけしウチノすくね)は、蘇我氏の祖先。
飛鳥時代 創建
・聖徳太子の子孫(中大兄皇子と中臣鎌足)が7世紀に大中津比売と物部守屋の冥福を祈り、中山寺を建立。
◇聖徳太子は蘇我馬子と組んで物部守屋を討ったが、聖徳太子の子孫と蘇我馬子の子孫(蝦夷、入鹿)は敵対し、蘇我入鹿は討たれた。
奈良時代
※大和国長谷寺の開祖徳道上人が病で仮死状態になった際に冥土で閻魔大王にお会いになり、「生前の悪行によって地獄へ送られる者が多い。観音霊場へ参り功徳を得られるよう、人々に観音菩薩の慈悲の心を説け。」とのお告げを受けました。閻魔大王の御宝印と起請文を授かり現世へ戻り、観音信仰の流布に努められました。しかしながら当時は世に浸透せず、巡礼は発展しませんでした。
※西国三十三所の御朱印は、謂わば閻魔大王のお墨付きを頂戴した極楽浄土への通行手形となり得ます。
・養老2年(718)徳道上人は巡礼の機が熟するのを待つため、閻魔大王から授かった御宝印を中山寺の石の櫃(からと)に納める。
平安時代
・平安時代10世紀のはじめ第59代宇多天皇の頃に真言宗寺院となり、十一面観音の信仰が盛んになり現在に至る。
・第六十五代花山天皇(968-1008)が退位後仏門に入られ、石の櫃から御宝印を取り出し西国三十三所を再興された際、中山寺を第一番としたという。中山寺はいつの頃からか二十四番札所に定められた。
※これらから中山寺は極楽の中心と呼ばれ、毎年8月9日には西国三十三観音が星にのって一堂に中山寺に集まる「星下りの大会式」が盛大に行われるという。
・摂津国多田の地に武士団を形成した源満仲(多田満仲)が、中山寺を祈願所とする。八代目当主行綱(1180頃)「鐘の緒」安産信仰の始まり。
安土桃山時代
・天正6年(1578)に始まった、荒木村重(1535-1586)と織田信長との有岡城の戦いの戦火を受けて多宝塔や五重塔を含む全山が焼失。
・豊臣秀吉の安産祈願。
・慶長8年(1603)豊臣秀吉の安産祈願の後に出生した子、豊臣秀頼が中山寺を復興。二年後に完成。
江戸幕末
・嘉永5年(1852)中山一位局が明治天皇を出産する時に安産祈願し平産したことから、日本唯一の明治天皇勅願所となる。
平成
・五百羅漢堂、寺務所など創建1400年の再築/新築事業。平成19年(2007)多宝塔、29年(2017)五重塔の建立は秀頼の復興ではなし得ず、400年に及ぶ悲願を達成。
調べたところ以上が中山寺の時系列のあらましです。※印は中山寺の歴史より
令和6年西国三十三所巡礼 おわり。
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