けにーやじま (旧無礼講ロッカーズ)

信濃三十三観音札所NOW!
令和以降は長野県内外の札所めぐり、古刹名刹訪問記が主です。

信濃三十三番札所 歩行巡礼:北国西往還(善光寺街道)

2024年05月06日 | 信濃三十三番札所霊場

江戸時代の「善光寺街道」北国西往還を歩いて猿ヶ番場峠を越えてみる。
・早朝に長野市を出発し、メインは千曲市八幡中原にある13番札所開眼寺(標高490m)から猿ヶ番場峠(955m)、聖高原駅(622m)の約10㎞の山中行。
・お昼時に帰宅したいので、聖高原駅に着いたらJR篠ノ井線で帰る。
・千曲市や麻績・筑北の衆は猿ヶ馬場峠を昔から単に「番場(バンバ)」「聖を通る」と言う。

歩行開始はJR篠ノ井線今井駅。今井駅から聖高原駅まで北国西往還で23.3㎞。
・長野市の自宅から聖高原駅までざっと35㎞。歩行速度は5㎞/h、移動のみで7時間。暗いうちに出発しないと昼時に帰宅できない。
・先日、自宅から10㎞先の「西友川中島店」まで旧北国街道(旧丹波島宿経由)を歩いた。この区間は既に移動済み(チャージ分)として、「西友川中島店」最寄りのJR篠ノ井線今井駅まで電車を使えば昼には自宅に戻ることができる。
・三十三所を一度に歩いて廻るには20日以上かかると思う。まとまった休みが無いので、自宅をベースに歩行チャージして細切れの歩行巡礼をして試みる。
・実行行程↓下表(令和6年5月5日 最高気温32℃)

開眼寺から峠まで、車はR403で9㎞、旧街道は歩いて4㎞弱。最短距離で目的地を目指す人間の脚力の高さを実感すべし。
・旧街道は依然未舗装のままと思って、足元が繁茂していない時期を狙った。
・だが開眼寺近くの分岐から、聖湖間近の国道403号に合流するまで全てコンクリート舗装路なのには驚いた。とは言え、所詮は山中の細道。幅一間、平均縦断13%の急勾配という、軽トラで道端の世話をする程度の造作で普通車が通る道ではない。
・舗装路は概ね旧街道をトレースし、クルマが登坂不可能な旧街道区間はヘアピンカーブで迂回している。
・このヘアピンをショートカットするように、かつて人馬がガッツンガッツン上り下りしていた街道が未舗装で残っている。ここを歩かないと、ここまで来た意味がない。舗装路に歩みを任せてはならぬ。また、荷を積む馬の通行を考えてか、階段はない。

♪番場は良いとこヨ~イヨイ♪番場節が生まれた道。
・道中に整備された案内板には、学校で番場節を習った私も初めて知るトピックが満載。
・麻績側の「お仙の茶屋」以外に、八幡側に火打石茶屋(名月屋寅蔵)、松葉茶屋、日の出茶屋と3軒の茶屋があったのは知らなかった。それぞれ程よい間隔で配置され、急病人が出ても何とかなる。かように山中を行く旅人の安全のための「番場」が当地名の由来と知る。
・通行人あるところ水場あり、水場に茶屋あり。茶屋跡の井戸、水場は今も残る。お仙の茶屋の「弘法清水」も実に頼りない量ではあるが、湧水が見られる。
・現在の街道は杉の木に囲まれ、木漏れ日がわずかに差すのみ。衛星もキャッチできない。善光寺が見えたという「のぞき」からの眺望もない。
・明治35年に篠ノ井線が開通し通行人が激減し、大正10年に最後まで営業していた松葉茶屋が下山したと案内板にある。茶屋営業は田畑、桑畑仕事の傍らだったというから、杉が植林されたのはその後のはず。
・現在のような薄暗い道だったらば、冬場に雪は溶けない、山賊の巣になる、それでは人が近寄らないし、通らないではないか。杉の木を伐採すれば、明るい調子の番場節のような往時の街道風景が甦ることだろう。
・明治二年、八幡の武水別神社神宮寺住職は2/25に麻績宿を立ち、3/4に京都に入ったという記録がある。麻績から歩いて8日で京都に着いたのも想像できないが、まだ雪がある2月24日以前にこの峠を越えたのである。

ここで案内板にない謎が。積雪、冷え込みが厳しい番場の峠越え。江戸時代の真冬に、どんな足元装備(つま先の保温、透水防止と凍傷対策)をして歩いていたのでしょうか…?🤔?カンジキのつま先にトウガラシを仕込むくらいしか想像できない。



余談「
番場は酔うとこ酔い酔い」
凍る、冷える、降る。車時代も難所中の難所、冬場の猿ヶ番場峠実録

・猿ヶ番場峠は、昭和18年(1943)に「稲荷山麻績線」として長野県道に認定され、以後、「稲荷山明科線」(S22:1947)、「松本埴生線」(S30:1955)「県道28号 更埴明科線」(S41:1966)と区間名称を変え、平成5年(1993)国道403号線に編入された。

・昭和50年代、中学生になるまで、日曜になると更埴にある母親の実家へクルマで行ったもんだが、番場越えの度に必ず車酔いに襲われ、、着いてもグッタリ寝たきりになるだけで、行くのがイヤだった。小6の頃から酔ったらトマトジュースをイッキ飲みすると即、回復するようになった。
・雪に弱いFR車でタイヤチェーンを巻いていた昭和60年頃まで、冬場の聖湖手前の八幡側は「登らない・止まらない・ハマる」という難所中の難所。日曜の朝に麻績から峠を越えると、対向車線にはスタックしたり、滑って坂を上らない車が必ずいた。「ドシタイ?」道の脇には脱出を手伝う道すがらの人の車が列をなしていた。
・大人数で車体を押して、だめならタイヤに毛布を噛ませて、脱出した車は勢いのまま、さようなら。(いちいち礼を言ってたらまた止まる)。時には運転を代わって微妙なアクセルとクラッチワークで脱出をしたもんです。
・この頃の聖湖はガチガチ・カキンカキンに全面結氷し、400mリンクを備えたスケートファンの聖地だった。リンク脇でわかさぎの穴釣りを楽しむ人もいました。
・FF車、4WD車、スパイクタイヤの時代に最大の難所が線形改良され、スタック車両は見かけなくなった。聖湖も全面結氷しなくなって40年以上経つ。積雪もだいぶ少なくなったが、千曲CC下のヘアピン2本など緊張を伴う箇所の大半は残存しており、運転は慎重にならざるを得ない。
・もし今、昭和の頃の積雪量があったら、あの制御不能の修羅場が確実に再現されるであろう。電気自動車?ムリムリ。
・平成5年3月25日、豊科IC - 更埴JCT間が開通。麻績IC-更埴JCT間は10分という大幅な時間短縮となり、筑北の平は陰鬱な真冬の峠道運転から解放されたのだった。


信濃三十三番札所 第九番蓑堂:蓑堂山観音堂の今・その2(須坂市米子)

2024年04月15日 | 信濃三十三番札所霊場

信濃三十三観音札所めぐり 公式サイト

令和6年4月現在の蓑堂観音堂参道

・みのどうトンネル脇からの本来の参道であろう一帯は、身の丈の笹薮にミッシリ覆われて歩行できない。一旦藪に入ったら最後、身動きがとれなくなる。
・この笹薮エリアは延長100mほどだろうか。それを抜けるとはっきり道とわかる広葉樹林の遊歩道的な山道となり、尾根に出ると大正天皇「御即位記念碑」がある。
・尾根は幅広く、山道は尾根向こうの標高627mのピーク、米子城址に通じる。
・尾根が岩場に差しかかったところに三界萬霊の石塔、その奥の
岩上に石仏(念仏供養塔)がある。いよいよ岩登りのはじまりである。
・参道の標識は無く、歩けそうなところを歩いていく。ところどころ岩塊が階段状に削られ、観音堂への道標となるが、鎖やロープもなく、捕まる樹木も少ない。
・よそ見したら落ちる。とても「べべ出し」などと呑気に妄想する状況でない。


観音堂は当然「もぬけの殻」。でも、これが歴史を物語る。
・お堂は基礎部分が地震の揺れに耐えられず崩壊し、傾いた模様。
・崩れた基礎コンクリートに、施工時に混入された多量の瓦の欠片が見られる。人力施工は大変だったでしょうが、脆過ぎた。
・落下物、倒壊物で頭部を無くした石仏が哀れなり。下の集落に落石被害が及ぶのを食い止めたのだと思いたい。
・完全倒壊でなく幸いでしたが、余震の中での本尊十一面観音の救出は、大きな緊張が走ったことでありましょう。



・修験場の雰囲気を醸し出す岩尾根の先には米子不動。加えて断崖絶壁上から見る下界に、いにしえの人はここに補陀落浄土を重ねたか。

・参道にある石碑、石仏


(上左)みのどうトンネル脇、参道入り口「蓑堂山九番 観世音 寛政三年四月米子村」(1790)
(上右)尾根鞍部:「御即位記念碑 大正四年十一月十日 米子青年會」(1915)
(下左)尾根が岩場に差しかかったところに灯篭型の三界萬霊円柱。左奥の岩上に石仏(念仏供養塔)
※三界とは、「仏教でいう過去・現在・未来を示す」とのこと。
(下右)念佛供養塔「下米子村 明和三年 念佛供養塔 二月吉日」(1766)

・3月にチャレンジした東尾根を塩野地区から眺めたら、明らかな凹部が。(写真右が観音堂方向。)
こりゃ橋かけるか、梯子かけるか、本格的なクライミング装備でないと絶対に超えられないね。




信濃三十三番札所 第九番蓑堂:蓑堂山観音堂の今(須坂市米子)

2024年03月05日 | 信濃三十三番札所霊場

信濃三十三観音札所めぐり 公式サイト

・信濃三十三観音札所霊場 第九番蓑堂(べべ出し観音)
・御詠歌「井の上や よなよなた来る みのんどう 雨は降るとも 身をばぬらさじ」
・本尊:十一面観音菩薩坐像
・蓑堂山の傾いた観音堂が無事存在しているか、10年振りに様子をうかがいに行った。(令和6年3月2日)
・位置図(国土地理院)


・第九番の蓑堂山観音堂は、須坂市米子の蓑堂山の岩尾根にある。観音堂は昭和40年の松代群発地震で傾いてしまい、以来、本尊の十一面観音坐像はふもとの納札所(樋口さん宅)に安置されるようになったという。
・群発地震以来、荒れたままと言われる観音堂参道。現在は蓑堂山の山裾一帯に張り巡らされた電柵の向こうに閉ざされ、遥拝するのみ。
・柱状節理の露頭に松が連なる蓑堂山の尾根は、米子の集落から一目に収めると結構な壮観。スペインカタルーニャ州、モンセラットを彷彿させる。お堂は姿を留めており、よく見える。
・今も菅笠に白装束で観音堂への岩尾根を伝う巡礼者が見られたなら、更に絵になる景色なのに・・・。
・令和6年3月2日現在の蓑堂山観音堂。「地学で巡る信濃三十三番札所」(しなのき書房刊.R2)に、より鮮明な観音堂の拡大写真があります。


・お堂は傾いた時には築10年を経過していたという。昭和30年頃に建てられたものと推測する。コンクリート製のようである。
・ぶっとい柱状節理をも揺るがした群発地震。
「この地方において松代地震の影響はまことに大きかったようである・・・その辺を見ると、2mほどの大きな石が畑の中に九つも並んでいた。これも地震の置き土産だと言って、そこにいた農婦が笑いながら説明してくれた」(「こころの旅路信濃三十三番札所」藤木勇三著:コロニー印刷刊.S49)
・地理院地図に参道が記されている。蓑堂山の尾根に出てから、標高差30mの急峻な登りの先に観音堂がある。参道は石を削った階段状で、鎖場もあるという。

「ベベ出し観音」と呼ばれた由縁「下着を穿く概念が無い」着物の時代の参道風景を想像。
・モンペもパンツもない着物の時代、女衆はどうやってゴツゴツの岩だらけの険しい参道を往復したのか。頑丈な手すりが付いているなら、それにしがみついて往復できたかもしれないが…。
・着物の時代、女性は着物の下には腰巻を巻いていただけという。田植えの時期には田の神様が喜んだ、という昔話は日本中にある。
(安曇野の例:大正時代まで野良着も長着に腰巻だった。安曇野市豊科郷土博物館「私の野良着」PDF3ページ参照)
・観音様まであと少しのところで、思いもよらぬ険しい岩場を前にした女性は、覚悟を決めて着物と赤い腰巻をひょいと捲り上げ、田植えの姿よろしく岩場を這いつくばったのである。・同行の男性は尻端折の褌姿。女性が岩場を登る時には尻を支えてやり、降りる時には体勢を崩しても受け止められるよう、下で構える。その時!男性の視界にちらついたものは何だったであろうか。・着物の時代には「見えた」のである。これが、この札所が「ベベ出し観音」と伝わる由縁だ。この素晴らしいいわれをもたらした参道が、今は電柵に閉ざされている事が本当に惜しい。

東の尾根から観音堂を目指すが、崖に突き当たりあきらめる。
・写真②のとおり、観音堂の東側に伸びる岩尾根はアップダウンの連続である。

・幅が狭く、切り立った岩尾根(※ナイフリッジ)の周囲には掴まるものがない。樹木も、ロープや鎖もない。迂回路もない。岩場はよじ登る時より、降りる時の方がはるかに緊張する。掴まるものがなければ立往生するか、滑落するかしかない。
・用心して進むも、深く切り落ちた崖(※キレット)につき当たって万事休す。これ以上前進する術なく、引き返した。
・登攀(※)に熟練し、クライミングの本格装備一式が用意できる人以外は、東の尾根からお堂に辿り着くのは絶対に不可能。(登攀※とうはん:岩壁や氷壁の登り降り)
・観音堂に立って着物の時代に想いを馳せたかったが叶わず。再び蓑堂山を調べているうちに、米子城址の存在を知った。
尾根岩頭部の風化防止のモルタル吹付はいつごろ行われたのでしょうか、蓑堂トンネルの改修と同時期かもとの説を見たことがありますが・・・。
(令和6年3月5日 記)

 

信濃三十三番札所 第八番西明寺、その周辺:長野市小田切「馬神の七つ石」

2024年02月27日 | 信濃三十三番札所霊場





信濃三十三観音札所霊場 公式サイト

小田切八景 七つ石の落雁(らくがん)

「秋風に吹きおくられて遠つ人 常世のかりの声ぞ落ち来る」

馬神の七つ石~小田切の人達が大切にしているスポット

令和6年2月18日(日曜日)最高気温18℃ 半袖
・2/5に大雪があった後に降水なし、一週間以上気温15℃超え(2/13~2/19)という、温すぎる気候。
・国道19号~平和観音~七ツ石までの地図上の激坂(市道小田切39号線)が、自転車で上るに相応しい道なのか確認に行った。
・家から平和観音(新橋平和観音)の間は自転車、平和観音からはTシャツで山歩き。西明寺の裏の名無し山登頂も予定し、冬用トレッキングシューズをリュックに背負う。
・山は下界の視通が最良の時期。平和観音までは根子岳をバックに、犀川と小市橋の眺望がある。それより上は木々に遮られ、閉ざされた空間。裾花凝灰岩の白土斜面の山中となる。
・道はコンクリート舗装の激坂で、どうしてもこの山道を自転車で行きたければ行きなさい、てな道。
・25分歩くと道の分岐があり、この地で馴染みのタイル貼りの洗面台「小田切八景の歌碑」に気付く。歌碑を囲む7つの巨石があり、これが「七ツ石」であった。
・「秋風に 吹きおくられて 遠つ人 常世のかりの 声ぞ落ち来る」(秋風に 吹き送られて 遠つ人 とこよの雁の 声ぞ落ち来る)
・雁には「遠つ人」という枕詞があり、雁を「遠く旅する人」に喩えている。
・古の人は、秋空に隊列を組む雁の姿に常世の国(古代日本の理想郷)から飛来する神の使者を見ていたという。
・私は「遠つ人」と知らず、「遠い人」と読み、常世とは仮の世、無常の現世でないところ、ならば死別した人を思い起こす歌か、と現地で考えたが、調べたらやや違っていた。
・「小田切八景」の全ての歌は、明治32年(1899)に長野県歌「信濃の国」を作詞した、浅井洌(あさいきよし:長野県師範学校教諭)先生が詠んだものである。何が書いてあるか、どういう情景を詠んでいるのか、わからなくてもじっくり考えるが良い。
・七ツ石から市街地方面を写真に収めようとしたが、うまくいかない。上の「小田切の人達が大切にしているスポット」リンクのPDFにある開けた風景は見られない。
・七ツ石から左へ折れ、市道小田切33号線を10分歩くと吉窪古墳群(3号、4号)がある。立札がありすぐわかる。
・吉窪古墳群から10分。吉窪城址へ折れる道を過ぎると、西明寺が見えて来る。平和観音からここまで3.5㎞、45分。
・吉窪城址には三角点があるが木が茂り、開けた眺望ではない。城跡への陽当たりのない道中に江戸時代の墓石が並ぶ。(今回立寄りなし)
・西明寺にて本尊千手観音拝観。陽だまりの境内で冬用トレッキングシューズに履き替え、裏の名無し山へ。道らしきものは途中で消え、山頂の方角を確認しながら強引に斜面を登る。斜面は一面に落ち葉が積もり滑る。
・15分で登頂。北方向の鞍部に、小屋が見える。そこには「秋葉山正一位大権現」の石碑と、空になった木製の祠が並んでいた。
・尾根づたいに進むと七二会・陣馬平山への眺望が開けて、再び小田切39号に出る。平和観音に戻るまで徒歩で2時間だった。
・小田切や七二会の坂は自転車で上ると厳しいのだが、歩いてみたらそうでもない。西明寺、塩生の巡礼桜(エドヒガン)などは、車がなくともR19小市上町バス停からポイっと歩いて行ける。


信濃三十三観音霊場 妙音寺(千曲市倉科)

2012年10月30日 | 信濃三十三番札所霊場

秋も深まり気温も下がり、自転車シーズンも終盤となってきた。
お天道さまの機嫌が良い時は自転車で外に出掛けることにしたい。

5番札所妙音寺
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親戚が近所にあり、3年ぶりに訪れた。
参道が整備され、境内には舞台というかあずまやも新築されていた。
道中、案内看板も新設され、札所巡礼を盛り上げる整備がなされている。

無住職となって長く、地元の方々が御守りされているお寺らしいが、本堂内の荒れっぷりがひどい。

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サッシ越しに本堂を覗くと観音様の前に広がるタタミ(ゴザ)には積年の埃が。
一体この木魚が最後に叩かれたのはいつだったのだろう?当然、バチもある。

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相当の間、掃除がなされていない。
観音様には申し訳ないが、やぶれかぶれな札所だ。

周辺整備もいいが、本堂内の荒れっぷりをなんとかしないとまずいのではないか!